Semua Bab 知らないまま、愛してた: Bab 191 - Bab 200

224 Bab

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 美術館は、いつもより華やいでいた。あまり広くないエントランスには所狭しと、上方向まで使って花が飾られている。その脇を、招待客が行き交うのだが、その豪華な顔ぶれに館長を始めとしたスタッフの顔が蒼褪めている。招待客のほうは、慣れたもので穏やかに歓談をする。騒めきは穏やかで、フラッシュの光が時折瞬いていた。「誠司、一人で歩く」胸を張った誠司の言葉に、蓮司さんが笑いながらその手を離す。その手が寂しそうだったから、私は抱いていた茉白を蓮司さんに渡した。「あー」「そうだ、パパだぞ」パパって感じではなかった気がするけれど、茉白の言葉は私と蓮司さんでは違って聞こえるらしい。「この柱、すごい」誠司が歓声を上げて、入口横の柱に走っていってしまった。子どもがいると目的地までが遠いけれど、大人にはない発見をするから面白い。いまは大理石の柱に夢中だ。「つるつる。ママ、見て、オジーサマさんの頭みたいに光ってる」「くふっ」……苦しい。ここは耐えなければいけないのに、笑いを耐えるのが苦しい。蓮司さん……も、必死に顔を背けて笑うのを堪えている。 .誠司の言う「オジーサマさん」は、私の実父である花嶺辰治さんのこと。私にとってはとっくに縁が切れた人だけれど、あちらは生活の支援を求めてときどき私の前に姿を現す。私は彼を誠司に会わせる気は一切なかったのだけれど、誠司と出先から帰ってきたとき、蓮司さんとのときみたいに家の前で待ち伏せしていて、門が開くまでの隙を突かれて窓ガラスのあのときみたいに叩かれた。私は誠司を守るように抱き寄せたけれど、誠司も私を守ろうとしてくれて、常に携帯している防犯ブザーを訓練通りに鳴らした。慌てたのは防犯ブザーを鳴らされた彼のほうで、必死に「おじい様」だと外から叫んだ。しかし、防犯ブザー
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桔梗は、基本的には完璧だ。美人で、スタイルがよくて、老若男女に人気の人誑し。家事は職人クラスで、料理を中心としたライフハックの動画配信で人気。字もきれいだし、裁縫だってパパッと仕上げる。子育てだって、文句を言えるポイントがどこにもない。ただ……。「……また、です」桔梗はかれこれ三十分、リビングのソファで可愛い顔に眉を寄せ続けている。手にしているのはタブレット。五分ほど前にスマートフォンの調子が悪いからタブレットを貸してほしいと言われ、そして貸したのだが、手つきが危なっかしくて気になって堪らない。こんなに躍起に……真剣に何をしているのかと言えば、自動車教習所のプライベートレッスンの申し込み。「どうして、こんなにエラー……」向かいでずっと仕事をしていたが、桔梗が気になって一枚も書類が進んでいない。このままでは埒が明かないので、いま気になったという振りをして顔を上げる。「どうした?」「あの……」そう言って桔梗が見せたのは、ずーっと見ている最初のページ。内容は……。「入力内容に問題はないな」「はい。確認画面までは……進めるんですが……」うん、進めた。「問題がなければ【送信】を押してくださいというので、押すと……」【通信に失敗しました】。ふむ……。「……なんでだ?」「分かりません。通信って、このマークがついていれば問題ないはずですよね」桔梗が指さすのはWi-Fiアイコン。「桔梗、俺より年下だよな?」「はい。え? 生年月日の入力を
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こんなことだろうと思った。そう言ったら怒って引っ叩かれそうだから言わないが、こんなことになるだろうと思った。桔梗は車のエンジンがかからないというミラクルを起こした。厳冬の真っただ中でもないのに、教習車がバッテリー上がりを起こすとは。「蓮司さん……」「まあ、こういうこともあるさ」普通はないが。気落ちしている桔梗に、さらに追い打ちをかけても意味はない。「私、何もしていません」「わかってる」機械のほうが勝手にリスク回避しただけだ。 . 「あの、大変申しわけありませんが、よろしければ旦那様も一緒に乗っていただけますか?」「構いませんよ」そうなると思った。このままでは教習そのものが不成立となりそうで、そうなった場合に教習所としても「何も問題なかった」という証明をしたいのだろう。気持ちはよく分かるし、夫としては申し訳ない気持ちにもなる。「それでは、後部座席に」言われるままに後部座席に乗る。運転席に座る桔梗を見るという新鮮さ。おそらく……これが最初で最後になるだろう。なにしろ、不安しかない。「それでは、エンジンをかけてください」「はい」桔梗が気合いを入れて、プッシュスタートボタンを押す。へえ、よく分かったな。あの回すやつはどこだくらい言うと思っていた。「「あっ」」エンジンがかかった。「エンジンがかかりましたねっ」「はいっ」はじめの一歩中の一歩でこの感激……この教官、相当切羽詰まっていたな。「それでは、ゆっくり発進してください」教官の言葉に桔梗は頷き、教本そのままの手順で全体を確認した後に車を発進させた。車が動いた。なんだろう、拍手したい気持ち
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夜中に目が覚めた。やっぱり、気になる……。そっと体を起こしたのだけど、ベッドを揺らしてしまい、蓮司さんが小さく呻いた。「……桔梗?」「ごめんなさい、起こしてしまって」蓮司さんが「いや」と言ってくれたことにホッとして、私はベッドから降りる。「どうした?」「誠司の様子が気になって……」「誠司? 誠司がどうかしたのか?」「寝る前の誠司の顔の赤みが気になって……風邪もはやる時期ですし……」杞憂ならいい。なんでもなかったと笑って、また眠ればいいだけ。でも……多分、あっている。「誰かに、車をお願いできますか?」「俺が出そうか?」「いえ、蓮司さんは茉白についていてあげてください。インフルエンザとかだったら、うつってしまうので」その場合、幼い茉白のほうが重症化する可能性は高い。同じ可能性に気がついたのだろう。蓮司さんの眉間にしわが寄る。「桔梗、誠司は俺が……」そう、言ってくれると思った。誠司がインフルエンザならば、看病する私もうつる可能性が高い。私が罹るなら、自分が罹ったほうがいいと思う人だ。「食事の世話とか、いつものリズムではできなくなると思うので、誠司のほうは私が看ます」「……分かった。それなら、誰かを茉白につけたら、俺は必要なものを買ってくる。タイミングのいいときに何が必要かリストにして送ってくれ」「お願いします」 .多少でも予防できればとマスクをつけて誠司の部屋に行くと、部屋の中は妙に熱気が籠り、誠司は荒い呼吸をしていた。額に触れただけで、はっきりと発熱が分かる。部屋の電気をつけると、眩しかったのか誠司の目が薄っすら開いた。目が潤んでいる。「……ママ……」「お熱がでているから、ママと一緒に病院に行きましょう?」私がそう言うと、間をおいて誠司は頷く。
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桔梗と誠司を乗せた武司の車を見送ったあと、俺は茉白のもとに向かった。非常事態に多くの者が起きてきているが、まだ寝ている茉白の部屋周辺は静かだった。扉を静かに開け、部屋に入って子ども用ベッドを覗き込む。「……ふっ」万歳して気持ちよさそうに寝ている茉白の姿に、俺の鼻から笑い声が抜けた。起こさないように気をつけつつも、首筋に触れて熱を測る。高温には感じない茉白の体温にホッとしたものの、落ち着かなかった。ベビーモニターのスイッチを入れて、部屋を出る。やはり、落ち着かない。誠司が気になるのだろうか。「蓮司」呼ばれてそちらを見ると、母さんがいた。そしてここは、キッチン。俺と母さんは顔を見合わせて、同時に苦笑する。料理の腕が壊滅的な俺たちが、キッチンに二人でいることには違和感しかない。落ち着かない気持ちで冷蔵庫を開け、アイスコーヒーを取り出す。アイスコーヒーをマグカップに注いで、電子レンジで温めてホットコーヒーにする。アイスコーヒーで作られた商品のコンセプトを台無しにするようで申しわけなさもあるが、料理の腕が祟られている俺にコーヒーを淹れるなんて、それが例えインスタントコーヒーでもできない。 チンッあたため終了の合図にマグカップを取り出したら、取っ手が熱い。温めすぎたか。ここまで呪われているのか。俺はため息を押し殺して、鍋掴みをとり、マグカップの取っ手を掴む。温めすぎたなら、冷めるのを待てばいい。やることができて、よかったではないかと自分を慰めていたら……。「母さん?」「私のは温めが足りなかったの。何分温めたの?」「三分」「じゃあ、一分半にしておくわ」ブンッと音がして、電子レンジが温めを開始する。母さんはそれをジッと見ているが……なんとなくだけど、失敗すると思う。しかし、コーヒーってこんなに熱くなるものなのか? チンッ「やっぱり、二人ともここにいた」あたため終了の合図と同時に、父さんがキッチンに顔を出した。三人揃って顔を見合わせ、苦笑する。父さんが冷蔵庫に向かうのを何となく見送り、電子レンジの中のマグカップに手を伸ばした母さんを観察する。……手、ひっこめた。温めすぎたか。俺は右手につけていた鍋掴みを、母さんに渡した。母さんは自分の呪われた体質に嘆くようなため息を吐いたあと、礼を言って鍋掴みを受け取り、
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『いま診察が終わり、インフルエンザだと確認取れました。重症化はしていませんし、抗生物質を飲めば比較的すぐに熱は下がるようです。茉白は大丈夫ですか?』「まだ寝ているよ」―― やっぱり自分がいないと駄目なんだなって思いたかったりするわけよ。不意に、母さんの言葉が浮かぶ。「桔梗から電話がもらえてよかった。さっきまで、俺一人で大丈夫かと思っていたからな」『蓮司さんも、そんなことがあるんですね』「当たり前だ。いかにいつも桔梗に頼っていたのかを思い出したよ」『急いで、帰りますね』「ああ、待ってる」電話を切って、大きく息を吐く。顔が熱い……もしかして、誠司のインフルエンザがうつったか? .「マ、マ」茉白の声にベッドを覗き込めば、茉白が目を覚ましていた。ドクンッと心臓が大きく鳴る。「パ、パ」茉白がにこっと笑い、手を伸ばすから、俺も手を伸ばして自分の指を握らせる。最初は俺の手を振り回して楽しそうだったが、次第に茉白の顔から笑みが消える。「ママ?」その問いに、一瞬だけ言葉を探す。しかし、うまいこと子ども向けの理由が出てこない。「今日は誠司が体調が悪いから、ママは誠司のところにいる」茉白が首を傾げる。違う、この説明ではない。理由は要らない。もっと、分かりやすく、茉白に合わせた言葉で……。「ママは、お兄ちゃんと一緒にいる」「にに」「ああ、お兄ちゃんのところにいる」「にに?」今度は、なんだろう。誠司がどこにいるか、か?「お兄ちゃんは病院にいる」茉白の動きが止まる。顔がぐしゃりと歪む。まずい、泣く。「やー」「茉白、大丈夫だ。お兄ちゃんはすぐに帰ってくるから」「にに、やー。まま」言っている言葉は聞き取れるのに、茉白の要望が分からない。「ごめん、茉白」抱き上げると、泣き止まないものの、泣く声は小さくなる。茉白を腕の中に引き寄せる。小さな体は、思っていたよりも軽く、温かい。桔梗は、これを毎晩やってきたのか。俺が仕事で遅くなった夜も。出張でいなかった夜も。―― 大丈夫です。桔梗は、大丈夫だと思っていた。でも、桔梗だって母親をやるのは初めてだ。こうやって、大丈夫になっていったんだ。「ママ……」茉白は桔梗を呼ぶ。どうすればいい?分からない。解決策がないことに、焦る。桔梗ならどうする?桔梗なら
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第152話 ―第4章―

朝七時半。まだ通学路に制服の波が生まれる前、私は校門をくぐる。吐く息に、桜の花の香りがまとわりつく。匂いの元を辿れば、桜の樹を淡く色づかせたの花が揺れていた。高校二年生。一年生のときに感じた緊張感はなく、勝手知ったるという環境で始まる春。まだ誰もいない昇降口。使い始めてほんの数日の下駄箱は、まだ場所探しからだけれど、上履きに履き替えれば今まで通り。廊下の規則正しく並んだ蛍光灯が私を迎える。人気のない、無機質な校舎。反響する足音。夜を超えて温もりを失っていた廊下はひんやりと冷たく、ほとんどの教室の扉がぴたりと閉まっている。教室の扉を開ける。無人の空間。嫌いじゃない、むしろ好き。三十六個の机と椅子が整然と並び、黒板には昨日の名残のチョークの粉が薄く残っている。窓際の自分の席に鞄を置き、上着を背もたれにかける。持ってきた本を開く。ページをめくる音を聞きながら、物語の中に潜り込む。私の輪郭が曖昧になる。花岡ナターシャという名前。ロシア系の顔立ち。異国の風情を色濃く纏っているくせに、私には日本の記憶しかない。淡い青色の瞳。光の加減で金にも灰にも見える銀色の髪。両親は日本人、でも血の繋がりがない二人と私の容姿は似ていない。書類の上では、私は日本人。血の記録は、どこか別の土地に置き忘れてきてしまっている。 .キーンコーンカーンコーン予鈴が鳴った。私は栞を挟み、本を閉じる。クラスメイトたち駆け込み乗車のように、次々と教室に流れ込んでくる。賑やかな声。椅子を引く音。スマホの通知音。それらが混ざった雑踏の中にいるのに、私にはそれが水の中で聞こえる音のような異音に聞こえる。「花岡さん、おはよう」
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第153話

放課後のチャイムが鳴るより少し前から、指先が落ち着かなくなる。私の心はもう、違う場所へと向かっている。教室ではいつも通り振る舞う。誰とも目を合わせず、静かに教科書を閉じる。机の中に残したものがないかだけを確かめて、鞄を持つ。誰かと帰る約束はない。私は帰宅部で、そして毎日寄り道をする。.ラッシュ前の電車に揺られながら、窓に映る自分の横顔を見る。日本人の両親とは似ていない顔。赤ちゃんのとき紛争地の難民キャンプで保護され、二歳になる頃に日本に来たとは聞かされているけれど、その頃のことは何も覚えてはいない。ただ、ときどき夢に出てくるのは、色のない世界。灰色の空は音がしない。乾ききった淡い色の地面は、街の香りを伝えてこない。吹く風だけが時間の流れを感じさせる、静かな世界。 . パーックラクションの音があちこちからする喧騒を抜け、一本細い路地へ入る。信号の電子音。すり抜けていくバイクの排気音。歩道から聞こえる、誰かの笑い声。そんな東京の音が消える。さっきまで包まれていたのに、ここに来ると一枚の薄い膜を通した遠くに聞こえる。相変わらず、都心にあるは思えない場所。黒塗りの木の門の前に立つと、世界が遠のく。そこにあるのに、手を伸ばそうとさえ思えないほど遠くにあるような感じ。木の門は、威圧的でもないけれど、来る者を選別する厳しさを感じる。威圧感なら、無機質な金属の門を持つ知り合いの屋敷のほうがある。でも、磨き込まれた艶のある欅の扉。ほぼ毎日触れている扉だけれど、ほぼ毎日触れていいのかって躊躇いを感じている。扉が刻んできた長い年月を感じる。そこに、私が刻まれていいのかって思ってしまう。 ギイッまるでそれを知っていたように、引き戸ほうから開く。「いらっしゃい」穏やかな声で迎えるのは、日本画家の巨匠、最近人間国宝になった石川明梗先生。金箔の上に静寂を描き、余白に時間を閉じ込める人。石川先生の作品を初めて見たとき、私は胸の奥の大切な場所をぎゅっと強く掴まれた気がした。「待っていたよ」でも、いま私がここに通っている理由は、彼の日本画そのものではない。 .まだ木の香りがする、築数年の制作室。日本画家のアトリエというのには異質で、武骨な3Dプリンター。黒い筐体は規則的なモーター音を立てながら、透明な樹脂を積層してい
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第154話

「迎えがきたようだね」石川先生の声がしたけれど、私は顔をあげなかった。ここでやめることを誰も、迎えにきてくれた人も望んではいない。版から和紙を剥がす瞬間は、いつも緊張する。摺師という職人の長年の経験と感覚が凝縮されているこの行動を、私なんかがと思う気持ちは拭えない。邪道だ。邪道がいい。深呼吸して、和紙の端に手を伸ばす。音が消える。風が止まる。まるで祈りのような静けさに包まれながら、和紙に指で触れる。摺り終えた和紙は、湿り気を帯びたまま、版にぴたりと吸いつくように貼りついている。息をひそめ、両手の指先で和紙の端をそっとつまむ。力を入れすぎてはいけない。繊細な繊維が裂けてしまう。でも、ちゃんと力をいれなければいけない。力が緩ければ、版に残された絵具が滲んでしまう。小学生の時の授業言われたことも、桔梗ママが紹介してくれたプロの摺師も、言ったことは同じ。でも、摺師のプロの言葉は重みが違う。この一瞬に全てを賭ける。絶妙な力加減を心がける。紙の繊維が空気を含むように、ゆっくりと、丁寧に剥がすことだけを考える。紙が版木から離れるにつれ、摺り上がった絵が徐々に姿を現す。色の重なり、線の冴え、紙の白が映える余白——すべてが一瞬で、目の前に立ち上がる。これが、私のつけた色。全体を見渡し、わずかなズレや滲みに思わず眉が寄る。未熟。でも、この未熟ささえも石川先生は望んでいる。完成してほしくないから。私の未熟ささえも未来への余地にしてしまうのだ。 .「ナータ」深く呼吸をし、胸の中の空気がいつも通りになったところで、工房の戸口から声をかけられた。母屋からの光が差し込み、逆光の中にたたずむ姿はすっかり一人の青年。私より一つ年上の幼馴染、桐谷誠司は制服の裾を風に揺らしている。絵になる人だなって思う。あいにくと私に絵を描く才能はないけれど、石川先生は誠司をモデルに何枚か絵を描いている。「ちょっと待って」私は和紙を両手でそっと持ちかえると、乾燥棚にかける。これで、完全にお終い。ふうっと小さく息を吐いた。達成感と、未熟な点への悔しさ。それがわずかな名残惜しさになって胸をよぎる。「終わったか?」その一言に、ふっと笑った。版から紙が離れてしまえば、これ以上もうどうすることもできない。終わり。「うん」誠司は何も言わ
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第155話

廊下の窓から差し込む春の光が白いと感じながら、俺は廊下を歩く。「桐谷先輩」覚えはない子だけれど、先輩というのだから二年生以下。そんなことを考えながらにこりと笑って見せれば、きゃあっと声が上がる。「相変わらずモテるよな」「ありがとう」下手な謙遜は余計な角が立ち、面倒な敵を増やす。父さんからのアドバイスを受け入れて、誉め言葉は馬鹿みたいになんでも素直に受けとる。父さんに言わせると、武司小父さんを目指せばいいらしい。確かに、武司小父さんは俺から見ても“いい人”だ。いい人すぎて意中の女性からは「いいお友だちでいましょう」と言われ続けたらしいが、いまは亡き和美お祖母様の最後の慈悲とやらでいまはいい奥さんがいる。武司小父さんの『いい奥さん』の基準は、父さんに夢中でも文句を言わない人。そんな奇特な人が、いまの奥さんの百花さん。旧姓:水野百花さんは、動画制作会社「折々社」の社長の一人で、母さんが大好きな人。俺の両親を巻き込んで何をやっているんだろうと思うけれど、父さんに言わせると武司さんと百花さんはなんだかんだとベクトルの向きがあっているらしい。.「それにしても、なんでこの階段を上っているんだ?」「運動不足の解消」この春から高三、三年の教室は三階の端。そしてここは二階の中央に向かう階段。下駄箱から自分の教室に行く階段もあるのに、俺はわざわざここを歩いている。わざわざ、だ。でも、何でもない振りをして階段を上る。用事はない。ただ、そこを通るだけだから言い訳は『運動』で十分。.二階の廊下はざわついている。昼休みが始まったばかりの緩い空気。教室の扉は開け放たれ、笑い声が溢れている。その中で――ひときわ光を集めている存在がいる。花岡ナターシャ。金に近い淡いブロンドの髪。透き通るような白い肌。淡青色の瞳。日本の学校の制服は没個性で、誰でも同じ感じに見せるのに、ナターシャは目立つ。だからこそ、浮いている。「モデルみたい」春は“はじめまして”の季節。“はじめまして”って合言葉があるから、普段声をかけられなかった子にも声をかけられるビッグチャンスの季節。俺は笑みを深める。ナターシャの姿に頬を染める奴らに対する苛立ちを必死に隠す。「でもさ、ちょっと近寄りづらくない?」小声のはずの言葉は、廊下ではよく響く。俺は足を止
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