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7-29

「……何が、悪いのよ」玲子さんが、ぽつりと呟いた。その声は怒鳴り声でも泣き声でもなく、静まり返った室内に、重たい雫が落ちるみたいに響いた。あまりにも小さい声だったのに誰もが聞き逃せなかった。でも誰もすぐには口を開かなかった。“悪いこと”なら、いくらでもある。あれが悪かった。これが間違っていた。あの夜のことも。そもそも父と不倫していたことも。私を利用し続けたことも。言おうと思えばいくらでも責められる、積もり積もった恨みなんて吐き出せばきっと止まらない。でも――言えなかった。ううん、違う。もう言う必要がなかった。私は最初からこの人に理解してほしかったわけではないから。「可哀想だったのね」と同情されたかったわけでもない。後悔して謝ってほしかったわけでもない。そんなもの今さら要らない。私はただ玲子さんの“幸せ”を私の手で壊したかった。玲子さんが自分の幸せのために私の人生を壊したから。だからこれはただの仕返し。正義みたいな綺麗な理由なんてない。私はただこの人が積み上げてきたものを壊してやりたかっただけ。だから――。「何か、言いなさいよ」玲子さんが掠れた声で言うけれど、私は何も言わない。何を言ったところで過去は変わらない、失ったものも戻らない。「桔梗」不意に肩へ温かい重みが落ちた。蓮司さんの手だった。そのまま引き寄せられる力はいつもより少しだけ強い。まるで無理をするなと、自分がここにいると言われているみたいだった。疲れたな、とは思う。胸の奥がずっと張り詰めていたから。でも守ってほしいとは思っていない。私は自分でここに立って自分の意思で言葉をぶつけている。誰かに代わってほしいわけじゃない。……それでも、 甘えておこうかなと思った。華乃もきっと「こういうときくらい甘えちゃいなさいよ」って言うだろうし。蓮司さんの体温は静かで落ち着く。一人じゃないと思える。.「私の……何が、悪いの?」玲子さんの声はもう怒りの色を失っていた。泣いているわけでもない。ただ長い間押し込めてきたものがどろりと滲み出てきたような声音だった。「……私が、自分を守って、何が悪いの」玲子さんは私を見ていなかった。父も見ていない。ただどこでもない空間を見つめている。まるで過去でも見ているみたいだった。「誰だってみん
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7-30

「花嶺辰治との結婚は、成功の証だったのよ」玲子さんが乾いた声で言った。その視線はまっすぐで、もう誰かに取り繕うことをやめたみたいだった。「花嶺辰治は理想の夫。もっと成功する男。花嶺辰治の隣にいれば私の価値も保証されると思った」その言葉を聞いた瞬間、隣に立つ父の肩がぴくりと揺れた。傷ついたのだろう。だって玲子さんの言葉では、自分が愛されていなかったことを理解せざるをえない。でも玲子さんは気づいていない。……いや、 気づいていても気にしていないだけかもしれない。私と同じで、いまさら相手の感情を慮る気力なんてもう残っていないようだった。「でも全然違った」玲子さんは深く息を吐いた。長年胸に溜め込んできた澱を吐き出すみたいに。「何もできない男だった」父の顔が歪むけれど玲子さんは止まらない。「時代の寵児どころか、息をするだけで会社を傾けそうな無能。社交も下手。決断力もない。誰かが支えないと立っていられない木偶の坊」……言うわね。まるで長年の鬱憤を晴らすみたいに、次々と悪口が飛び出してくる。その理由は、何となく分かる。玲子さんはずっと“理想”に縋っていたのだ。花嶺辰治が優秀な男だと思い込みたかった。そうでなければ自分が選んだ人生が間違いだったことになるから。愛人という立場から正妻になってまで手に入れた男が実は空っぽだったことを認めることは自分自身の価値まで崩れることだったのだろう。だから無理やり持ち上げ続けた。支えて、整えて、周囲を誤魔化して、“理想の男”を演出し続けた。けれど限界が来た。「玲子っ、お前っ!」父が怒鳴った瞬間だった。パァンッ――と、乾いた音が響く。思い切り頬を叩かれた玲子さんの顔が横へ弾かれた。「おいっ!」蓮司さんが反射的に動こうとする。その瞬間、私は蓮司さんの手を強く掴んだ。行かせない。蓮司さんは女性が暴力を振るわれたから止めようとしている。分かっている。蓮司さんは目の前の暴力を見過ごせない人だ。でも―― 助けてほしくなかった。私は叩かれた玲子さんを見つめる。頬を押さえ呆然としている。……怖かったんだ。……痛かったんだ。私も、怖かったのは、痛かったのはあの日だけじゃない。物を投げられたこともある。腕を掴まれて痣になったこともある。怒鳴り声に身体を震わせた夜もある。理不尽に
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7-31

「ま、待ってくれっ!」父が扉の枠にしがみつくようにして叫んだ。必死の形相で指先に力を込め、まるでそこが最後の命綱みたいに食らいついている。長谷川さんならその手を剥がすことくらい簡単だろうけれど、無理に力を使えば怪我をさせる可能性があるからか慎重に対応しているようだった。「頼む、話を聞いてくれ! 少しの間でいい!」私に向けるその声はさっきまでの尊大さを完全に失っていた。追い詰められた人間の声―――でも、だからといって同情は湧かない。「……どの面を下げて」蓮司さんが呆れたように低い声で吐き捨てる。冷え切った怒気が滲んでいる。私は蓮司さんに抱え込まれるような形になっていた。支えるような抱き方だけど、少し痛いくらいに抱え込まれている。「厚かましいにも程がある」蓮司さんの声はさらに冷える。「桔梗があなたたちに何をされたか知って、それでも“お願い”なんて言葉が出るのか」「それでも、本当に大変なんです!」父が縋るように言った瞬間、蓮司さんが深くため息を吐いた。本当に心底うんざりしたときのため息だった。「会社の件、か?」「あと、家のことです」……全部じゃない。会社も、家も、世間体も、金も、使用人も。何もかも維持できなくなっているのだろう。それなのに未だに“助けてもらえる”前提で話している。「お願いします。週に一日……いえ、二日。桔梗を花嶺家に……」「……なぜ増える?」即座に蓮司さんが突っ込む。私も思わず頷きそうになった。そうよね、交渉って普通は条件を下げていくものだもの。一日で断られそうになったから二日に増やすって……意味が分からない。父は交渉をした経験がないのだろう。自分が交渉だと思っているものはきっと、全てが整えられたあとの出来レースだったに違いない。「そ、それなら、せめて一千万円……!」「“せめて”の繋がりが理解できない」蓮司さんの声が冷静すぎて逆に怖い。「その一千万円の用途は?」「それは……」父が視線を彷徨わせる様子に、すぐに察した。この時期に一千万、急ぎで必要。「税金の支払いですね」私が言うと父の肩が跳ねた。「督促状が届いている?」「……そうだ」「それが払えない、と」「ああ……一千万円あれば、とりあえず払って……」思いきりため息が出た。本当に、この人は。「今回それで凌げたとして、次回の
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7-32

「あ、あの家は花嶺家が代々受け継いできた遺産です」父が縋るような声で言った。その言葉には焦りが滲んでいるのは、これが最後の手だから。“遺産”という言葉を使えば情にほだされるとでも思っているみたいだ。「遺産……それなら、ちょうどいいですね」蓮司さんがさらりと言った言葉に理解が遅れた。あまりにも自然な口調だったから、一瞬意味が分からなかった。「え?」父が間の抜けた声を出したが、父が出さなかったら私が出していただろう。「屋敷は俺が買おう」「……は?」「そして桔梗か、桔梗が嫌なら俺たちの子どもの名義にする」思考が止まる。私は反射的に蓮司さんを見上げた。「……蓮司さん?」蓮司さんは少しだけ気まずそうな顔をしていた。「本当はちゃんと相談してからにしようと思ってたのだが……」「屋敷を、買うって……」あまりにも規模が大きすぎて現実感がない。スーパーで日用品を買うみたいな口調だったけど……いや、でも、蓮司さんってこういうところがある。普段は堅実だ。質素倹約というほどではないけれど、“あるから使う”みたいな感覚でお金を動かさない。高級品を見せびらかしたりもしないし、無駄遣いもしない。けれど、本当に必要だと思ったものに関しては躊躇がない。この前の車だってそうだった。お腹の子が生まれると子どもが二人になるから、安全性の高い車に変えようと言い出した。私は車に詳しくない。 運転はできるけれどほぼペーパードライバーで、車種などに拘りもなかったから全部お任せした。そうしたら蓮司さんはものすごく真剣に悩み始めた。チャイルドシートの取り付けやすさ。衝突安全性能。 車内空間。 後部座席の広さ。誠司が乗り降りしやすい高さ。そういうところは徹底的に比較していたのに―――値段にはほとんど反応しなかった。一千万円近い金額を見ても「安全に問題がなければいい」と真顔で言っていた。そして極めつけに、私が子どもたちを連れて動きやすいように「ついでに桔梗用に小さめの車も買うか?」と言い出した。 車って“ついで”で買うものではないと思う。「蓮司さん……家を買うとなると、かなりの金額が……」花嶺家の屋敷は古いがあの周辺は土地の価値が高い。「そのくらいの金はあるから安心してくれ」……そのくらい。軽い、軽すぎる。しかも……ここで『ある』と言い切るということは
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7-33

「桜子なら、いまは柾さんと一緒に海外にいるわ」私の問いに答えたのは玲子さんだった。その声は怒っているわけでも哀しんでいるわけでもなく、妙にあっさりしていた。全部どうでもよくなった人みたいな声。玲子さんは大きくため息を吐くと、そのまま自分の足でスタスタと扉へ向かって歩き出した。迷いがない。「れ、玲子……」父が戸口にしがみついたまま情けない声を出す。玲子さんはそんな夫をじっと見る。その目を見た瞬間、私は妙な既視感を覚えた。「桔梗が台所でゴキブリを見つけたときと同じ目してる」「……蓮司さん?」思わず低い声が出た。なんでそんな例えをするの……腑に落ちたけど。「いや、本当に。桔梗は虫を見ると急に顔つき変わ。殺意が漲るっていうか……」「あ、それ分かる」華乃まで頷いた。裏切り者!「誠司君が庭で虫集めとか始めたらどうするの?」「……考えたくない」想像しただけで背筋がぞわっとした。小さな掌にダンゴムシ、ポケットから出てくる謎の虫。そして「見て見てー!」と笑顔で近づいてくる誠司。……無理、本当に無理。「そのときは俺が相手するから」“それよりも”とでも言うみたいに蓮司さんが会話へ割り込んできた。. 「玲子……?」蓮司さん曰くゴキブリを見る目でじっと見つめられていることに父が怪訝そうな声を出す。すると玲子さんはふいっと顔を逸らして出口を見た。その横顔を見て私は納得する。「完全に、愛想が尽きてる」私の思っていたことを、後ろで華乃がぽそっと声に出した。本当にその通りだった。怒りも、失望も、もう通り越している――― “どうでもいい”、そんな顔。長年積み重ねてきたものが一瞬で崩れ落ちたあとみたいな顔だった。「私は帰ります。あなたは好きなだけここにいてください」玲子さんが冷たく言い放つ。いえ、できれば連れて帰って。「いっそのこと、泣いて縋ってみせたらどうです?」玲子さんがこちらを振り返って言う。その視線は私へ向いていたけれど、そこにもう憎しみはない。嫌悪も執着もない。私も“どうでもいい”なのだろう。それは別に構わない。構わないけれど……ものすごく後始末を押しつけられる予感がする。「ほら。そこにあなたの孫がいるわけだし」……余計なことを。そう思っていたら父の顔にぱあっと光が差した……本当に余計なことを。「
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7-34

「全く、阿呆らしいことで時間を無駄にした」蓮司さんが深々とため息を吐いた。その横顔は心底疲れている。 怒っているというより、呆れ果てている感じだった。「そうですね……」私も同じように息を吐く。どっと疲労感が押し寄せてくる。張り詰めていたものが一気に緩んだせいだろう。精神的に削られた気がする。花嶺家の人たちと話すと、どうしてこんなにも体力を持っていかれるのかしら。……“会話”になっていないから?互いに都合のいいことしか見ず、問題を解決するより自分の感情を優先するからだろう。私と蓮司さんが揃ってため息を吐いていると、廊下の向こうからパタパタと足音が聞こえてきた。「お兄、桔梗さん。大変」現れたのは朋美さんだった。少し困ったような、でもどこか面白がっているような顔をしている。「どうした?」蓮司さんが問いかける。「誠ちゃんが、拗ねちゃった」私は思わず額を押さえた。そうなるかな、とは思っていた。「外泊から帰ってきた両親を見て喜んだところで、挨拶もそこそこで“あとでね”って言われたから」華乃が見事なくらい簡潔に状況を説明してくれる。そうだよね、それは拗ねるよね……想像できる。「ママー! パパー!」って駆け寄ってきた誠司に、「ごめんね、あとで」なんて言ってしまったもの。.「あと、お兄の車の助手席のガラスに、大きなひっかき傷ができてるって。枝で擦ったの?」「……花嶺辰治だ」蓮司さんが即答した。ああ、と私も納得する。父の左腕にあった大きな腕時計、扉にしがみついたときに擦ったのだろう。……本当に最後まで迷惑な人。「朋美、請求書を花嶺家に出すように言ってくれ」「慰謝料の上乗せは?」「……任せた。釣りはお前の小遣いにしていいから」「やった」朋美さんが満面の笑みになり、スキップしそうな勢いで去っていく。あの切り替えの早さ、すごいわね。「意外です。桐谷家って小遣い制なんですね」華乃の驚いた声に蓮司さんは普通に頷いた。「一日百円。足りなければ働く」「ひゃ、百円?」華乃の口から思わず変な声が出る。表情が「資産家なのに?」と言っている。「いまは百円からできる少額投資もあるからな。誠司は、たぶん俺より上手く増やすぞ」「教育方針が独特すぎません?」「自分で考えて使う癖をつけるのは大事だ」……最初に聞いたとき、なるほ
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7-35

「ん……っ」息苦しさに耐えきれず、鼻にかかった声が漏れる。蓮司さんがほんの少しだけ唇を離し、わずかにできた隙間から私は必死に息を吸い込む。熱を逃がしたいのに吸い込む空気さえ熱い。二人分の体温が混ざった空気は息苦しいくらい甘くて、頭がぼうっとする。「……少しだけ、って言ったのに……」掠れた声で抗議すると蓮司さんが低く笑った。「まだ、足りない……」その声が近すぎて鼓膜が震える。「……だめ……」このままじゃ、本当に溶かされてしまいそう。蓮司さんの笑う気配が上から降ってくる。「すぐに“ママの顔”ができるくらいにするから……」……恥ずかしい。いまは“女の顔”をしているって認めるみたいじゃない。顔が熱い。「あと、少しだけ……」“かまって”と甘えるみたいに触れてくるだけだった口づけは、あっという間に深いものへ変わっていく。優しいくせに逃がしてくれない。「ま、待っ……んっ……」蓮司さんは貪るみたいにキスをする。私の呼吸を奪って、自分のものにしてしまうみたいに、私を欲しがってくれる。蓮司さんの漏らす吐息がやたら色っぽい。唇が離れるたび細い銀色の糸が二人の間を繋ぐ。それが妙に生々しくてぞくっとした。.「……ここまで、だな」低い声が終わりを告げて、私はほっと息を吐く。安堵した瞬間、脚から力が抜けた。「……っ」膝が震えて立っていられない。「……っと」ぐらりと傾いた身体を蓮司さんの腕がすぐに支えた。その腕の力強さに一瞬ありがとうと思いかけて――いや、違う。そもそも、こうなった原因はこの人だ。「だめって、言ったのに……」恨めしく見上げると蓮司さんが苦しそうに眉を寄せた。「っ……桔梗、その顔でそんなこと言っても煽るだけだ」何を煽るのか……もう。何を言っても恥ずかしさが倍になって返ってくる気がする。「だめ……」「……分かってる」蓮司さんは長く息を吐き、私を支えたまま距離を取った。精一杯頑張って、自制するみたいに。俯いて呼吸を整えて、それから顔を上げる。さっきまでの男の顔が消えて、“父親”の顔になっていた。優しくて、穏やかな目。その手がそっと私の頬を撫でる。「まだ顔が赤い」「……蓮司さんの、せいですよ」私はふいっと顔を背けた。心臓がうるさい。こんな状態で誠司のところへ行くなんて無理……。でも行か
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7-36

「機嫌は治ったか?」蓮司さんが誠司を挟むようにして隣へ腰を下ろした。大人の体重でベッドがぐっと沈み、誠司の小さな体がぽふっと浮き上がる。それを見越していたのか、蓮司さんは自然な動作で誠司の脇を抱え、ひょいっと膝の上へ乗せた。「わっ!」誠司が歓声を上げる。さっきまで布団にくるまって拗ねていたとは思えない声。子どもの機嫌って、こういうふうに体を使って遊んでもらうだけで一気に上向くから不思議だ。「おこってないよ」誠司がぷくっと頬を膨らませたまま言う。「うん。でも、怒ってもいいんだぞ」「“おきゃくさん”なのに?」「我慢はしてほしい。パパもママも仕事があるからな」「……うん」「でも、我慢したんだって、ちゃんとパパとママに怒ってくれ。そうしたら、パパとママはごめんって言える。パパとママが“ごめん”って言ったら、誠司は“いいよ”って言ってくれ」「なかなおり?」「ああ、そうだ」「わかった!」蓮司さんの声は、とても穏やかだった。子どもに言い聞かせるみたいでいて、ちゃんと一人の人間として向き合っている声音。 誠司もそれを感じ取っているのだろう。ふざけず、真面目に話を聞いている。少し間を置いてから、蓮司さんは誠司と視線を合わせた。「誠司、怒っているか?」真っ直ぐな問い。誠司は一瞬だけ目を逸らしかけたけど、ちゃんと堪えて蓮司さんを見る。よく似た顔が、互いを見つめ合う。「うん」誠司の顔がくしゃっと歪む。「だって、ずっと、まってた」その語尾の震えに、胸がじんっと熱くなった。……朋美さんに修理代を倍額請求してもらうよう頼もうかしら。精神的慰謝料込みで。「悪かったな」蓮司さんが静かに言う。子ども扱いする口調じゃない、誠司を一人の相手として謝っている。「お前を後回しにした。ごめんな、誠司」「ごめんね、誠司」私も頭を撫でながら謝る。数秒の沈黙。「いーよ!」そして、にぱっと音が聞こえそうなくらい明るい笑顔。私たちが謝ったこと以上に、“仲直りできた”ことが嬉しいのだろう。その笑顔を見ているだけで、私のほうが泣きたくなるくらい幸せになった。「よし。じゃあ遊ぶか」蓮司さんまで嬉しそうに言う。「なにして遊ぶ?」「虫取り!」 !「虫あつめ、いく!」……なんで?誰がそんな遊びを教えたの?「……誠司、お前、虫集めなんてや
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【第八章】

「家族会議を始める」俺がそう宣言すると、誠司が「はいっ!」と元気よく手を挙げた。勢いが良すぎて俺の膝からずり落ちそうになり、慌てて体勢を直そうとしている姿が可愛くて思わず口元が緩んだ。……いや、違う。和んでいる場合じゃない。「なぜ、こんなに参加者がいる?」俺はリビングを見回しながら深々とため息を吐いた。今日の議題は昨日生まれた娘の名前について、だ。  『誠司と話し合って、蓮司さんが決めてください』昨夜、出産を終えたばかりの桔梗は少し疲れた顔をしつつも、そう言って笑っていた。だから決めようとしているのだが……この事態。本当なら俺と誠司だけで決めるつもりだった。それなのに。「だって、気になるじゃないか。ねえ、雅美さん」父さんが平然と言う。「ええ。安心しなさい、私たちはオブザーバーだから」母さんは頷きながらそう言ったが、問題はそこではない。「そのオブザーバーが多すぎると言っているんだが」リビングのソファには俺と誠司、父と母、朋美。さらに、一人掛けソファには武司、窓際には武美。「ケチケチしないの」和美祖母さんが呆れた声を出しながら優雅に紅茶を飲んだ。その横には皿いっぱいのビスケット……どう考えてもめちゃくちゃ食ってる。「それ、桔梗が作り置きしていったビスケットだよな?」「ケチケチしないの。誠ちゃんを見習いなさい」「……誠司?」誠司は俺の膝の上で得意げに胸を張る。「誠ちゃんはね、『和美祖母ちゃん、いらっしゃい』って歓迎してくれて、それから『どーぞ』ってビスケットをくれたのよ」「流石は桔梗さんの子だわ」由美祖母さんが感心したように言い、ビスケットを食べる。桔梗のように優しい子だと認めるが、その言い方だと俺の子ではそんなことをしないみたいだろう。「他人に自分の分の食べ物を分け与えるなんて、奇跡の子だよな」武司がしみじみ言う。「将来が楽しみね」武美は深く頷いた。……いや、本当に、なんで?俺だけ食い意地が張っているようだけど、桐谷家の食欲への執着はここにいる皆同じだろう。「誠ちゃんは違うよ、お兄」そう言うと朋美が真顔で否定した。「誠ちゃんはちゃんと人に分けてあげられる子だもの」「……ああ、確かに」武司が深く頷く。「さすが、桔梗さんに育てられただけはある」「愛情深い子って感じね」なぜか全員が納得した
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8-2

「誠ちゃん、本当に桔梗さんの子って感じよね」武美がしみじみと言った。確かに俺もさっき同じことを思った……だが、武美に言われるとなんか違う。誠司に俺の遺伝子が入っていないみたいに聞こえる。「男の子は女親に似るって言うからな」「最高ね、絶対にモテるわ」「そして女の子は男親に似るって言うぞ」武美が嫌そうに顔をしかめた。「やだ、それ」「そこまで否定するか?」「武司、蓮司に長期出張を組んじゃえば?」武司まで真顔で頷く。「そうだね、姉さん。はじめが肝心だからな」おい! 「馬鹿言っているんじゃないの」母さんが呆れたように二人の会話を切り捨てた。「茉白が三歳を過ぎるまで、蓮司を長期出張に行かせちゃだめよ」 !え、母さん、どうしたんだ?母さんから母親らしい優しさを感じる。桔梗の出産の影響か?流石、桔梗だ。「……母さん」「女の子の好みって三歳くらいまでに決まるらしいの」……ん?「見た目だけなら蓮司はそう簡単に負けないと思うわ」母さんの言葉に、和美祖母さんが同意するように深く頷く。「早くにお嫁に行っちゃうと寂しいしねえ」……和美祖母さん。茉白は昨日生まれたばかりだというのに、もう結婚の話をしている。それよりも、何歳まで生きる気なんだろう。いや、普通に百歳超えそうで怖い。.「桔梗さん二号みたいに育つのは危険よね」武美が腕を組みながら真剣に言った。「長谷川のような護衛をつければいいだろ」俺が言うと武美がふっと笑う。「甘いわね」「そう。甘いわ、お兄」朋美まで乗ってきた。嫌な予感しかしない。「ご令嬢とボディーガードの恋愛なんて、恋愛小説の王道よ」「ボディーガードは女にする」「最近は女同士もあるよ?」「じゃあAI警備」「防げるのはデジタル攻撃だけだよ。物理攻撃をどうやって防ぐのさ」……確かに。いや、なんだって生後一日の赤ん坊の恋愛事情をこんな真剣に議論しているんだ?「パパ、れんあいってなに?」誠司が不思議そうに首を傾げる。恋愛……恋愛、かあ。誠司は嫁をもらうことになるだろうけど……嫁、かあ。桔梗みたいな女が他にいるとは思えないし。そうなるとどんな嫁が来るかな……。「……もう少し大きくなったら教えるよ」「どこまで大きくなったら話すんだよ。お前いまが初恋だろうが」ツッコんだ武司を誠司はジッ
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