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8-3

「ママ、いつ家に帰ってくるの?」誠司が眠たそうな目で俺を見上げる。風呂上がりで頬が赤い。今日は病院でずっとはしゃいでいたせいか、もう限界が近そうだ。「誠司があと四回寝たらだな」「……おひるねは?」強請るような目。少しでも早く桔梗に会いたいのだろう。その顔が可愛くて思わず口元が緩む。「分かっているだろう? お昼寝はノーカウントだ」「えぇー……」誠司が不満そうに頬を膨らませた。本人は真剣なのだろうが、丸く膨れた頬が小動物みたいで笑ってしまいそうになる。「ずるい」「ずるくない」「だれが決めたの?」「パパだ」「むぅ……」納得していない顔だが、もう瞼が半分閉じかけている。限界だな。俺は誠司を抱き上げて立ち上がった。小さな体が自然と俺の胸に寄りかかってくる。眠くなって桔梗に甘えたくなったのだろう。 最近は“お兄ちゃんになる”と頑張っているが、まだまだ甘えたい年頃だ。「おやすみ」「おやすみなさい」誠司は素直に返事をしたあと、俺の肩に頬を押しつけた。そのまま数歩歩いただけで腕の中の重みが変わる。力が抜けた……寝たな。今日は朝から病院へ行って、桔梗にも茉白にも会って、ずっと興奮していた。病室では“お兄ちゃん”らしくしようと頑張っていたし、桔梗がいない一日で気疲れもしたのだろう。.「蓮司様」廊下の途中で長谷川が静かに現れた。俺の腕の中の誠司を見ると、ぴたりと動きを止める……なるほど。誠司には聞かせたくない話らしい。「部屋で寝かせてくる」「承知しました」俺は足音を抑えながら誠司の部屋へ向かった。ベッドにそっと寝かせる。誠司は一度眠るとあまり起きないから普段なら心配しない。だが今日は桔梗がいない。眠るときに桔梗が家にいないこと自体は今までも何度かあった。 仕事や付き合いで遅くなることもあったが、誠司は『ママはあとで帰ってくる』と理解していた。でも桔梗はしばらく帰ってこられない。しかも、いま桔梗がいる場所は病院だ。子どもにとって病院は“怖い場所”だ。妊娠も出産も病気ではない、そんなことは大人なら分かっている。けれど子どもには違う、同じ病院。病院は痛いことをされる場所、苦しいって人が行く場所―――そこにママがいる。その事実だけで不安になるには十分だった。「……ママ」眠ったまま誠司が小さく呟いた
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「蓮司さん」凛花は応接室のソファに腰を下ろしていた。足を組み、背筋を伸ばし、いかにも余裕があるという態度だけれど、その余裕は以前とは違う。昔の凛花には家や男に庇護されている女特有の甘さがあった。自分は愛される側だと疑わない、そんな鈍い自信なのだが、いま目の前にいる女にはそれがない。代わりにあるのは剥き出しの険。人を値踏みするような鋭さを持つ、生き残るために牙を研いだ女の目だった。.凛花はあのあと、吉川家の新当主となった吉川隆史によって父親である吉川英二と共に吉川家から追い出された。吉川英二はその後失踪。 愛人を囲い、金を使い、好き放題生きてきた男の末路としてはいかにもらしい終わり方だ。そして凛花は投資ファンド会長の愛人になった。そこまでは調べてある。その男には凛花以外にも三人の愛人がいたとあったが、この険は男によって生まれたものか、それとも愛人同士の寵争いで育ったものか。……どちらでも驚きはしない。どうでもいい。.「お久しぶりです」凛花が口元だけで笑う。「そうだな」久しぶりであることへの同意というより、“よくこの家に来られたな”という気持ちのほうが強い。俺を騙しておきながら堂々と俺の前に現れる。この図太さにはある意味感心する。「美香さん……いえ、本当のお名前は桔梗さん、でしたっけ」わざとらしい言い直し。俺の眉間に皺が寄るのを見て、凛花は楽しそうにした。その顔は歪んでいる。「ご出産、おめでとうございます」「……ああ」本当に、何をしにきた?凛花は昔から人を苛立たせることに長けていた。相手の感情を揺らし、その揺れを見て楽しむところがあった。……嫌がらせ?幸せに浸らせないように?いや……長谷川の言う通り、何か嫌な目的がある気がする。.「桜子さん」不意に出てきた名前に一瞬だけ思考が止まった。桜子……桔梗の異母妹の花嶺桜子。なぜ花嶺桜子と思いながら、すぐに凛花と花嶺桜子が“友人”だったことを思い出す。動揺は一瞬のつもりだったが、思ったより長かったらしい。凛花の口元が満足そうに歪む。「やっぱり。桜子さんを『猫の店』に売ったのは、蓮司さんでしたのね」……なるほど、そう来たか。猫の店は白洲典正が運営する合法運営の売春サロン。白洲典正は桔梗を襲ったことで俺た
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「これを、どこで?」低く問い返した俺に凛花は満足そうに微笑んだ。人の感情を揺らせたことが嬉しくてたまらない、そんな歪んだ喜悦に満ちた顔だ。「桜子さんによれば、猫の店のオーナー室に飾ってあったそうですよ」「つまり、所有者は白洲典正か」凛花が、にこりと笑う。「桔梗さん、お金に困っていたようだとは思っていましたけれど……まさか、あの白洲典正さんの愛人でしたなんて」「愛人、だって?」「他人のものを盗ることに抵抗がないのは、昔からなのね」……落ち着け。まず考えろ。桔梗が白洲典正の愛人なわけがない―――桔梗は俺に抱かれるまで処女だった。そしてあの夜のあと、時間をおかずに和美祖母さんの家に家政婦として来ている。だが……一夜の関係と言うのなら、あり得るか?いや、その場合、白洲典正があんな形で桔梗を襲うわけがない。おかしい……いや、本当におかしい。「まあ、そんなにじっくりご覧になって……完璧だと言われる桔梗さんが、こんなことをしていたなんて、信じたくないお気持ちは分かりますわ」うるさいな。いや、いま凛花などどうでもいい。問題は、この写真の女だ。この女は桔梗ではない。最初は見たものの衝撃で気づかなかったが、桔梗の右胸にある三つ並んだ特徴的なホクロがこの女にはない。ホクロについては確実だ。何度も触れて、口づけて、愛したのだから、間違えるわけがない。でも桔梗ではないにしろ、桔梗によく似ている……。  『桔梗さんは、本当にお母様の明美さんにそっくりで……』不意に、どこかのパーティーでそんなことを言っていた誰かの言葉を思い出す。そうだ、桔梗も「よく言われます」と笑っていた。花嶺明美!「……っ」俺は慌てて視線を逸らした。見てはいけないものを見てしまったような感覚に襲われる。写真とはいえ、義母にあたる女性の裸体を凝視していたという事実に妙な罪悪感が込み上げる。「アハハハハッ!」そんな俺の頭に、凛花の甲高い笑い声があたった。その笑い声で逆に冷静になった。「やっぱり嫌ですわよね! こんな穢らわしい、いやらしい女が、蓮司さんの妻だなんて!」……とりあえず、まずは凛花を片づけたほうがいいな。こんな大きな声をあげられたら、誰かが凛花の存在に気づくかもしれない。「それで?」淡々と返すと凛花の笑い声がひ
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「……ねえ、蓮司さん」桔梗との縁を切る気が一切ないことに気づいたのか、凛花の声の湿度が変わった。「もし、これが世間に出たら、どうなるかしら?」凛花は俺の手の中の写真を指さす。「SNSって便利ですよね。一瞬でどこまでも広がる」「吉川様、それ以上はおやめください」長谷川の纏う空気が警告に変わったが、凛花はやめない。この程度でやめるならここまで来ないということか。「【名家の若奥様の過去のヌード】――とても面白い話題になりますわ。桔梗さんは動画配信でも人気ですもの。面白いくらいに拡散されると思いますわよ」俺は写真を机の上に伏せて置いた。凛花の眉がぴくりと動く。気分がいいのだろう、俺が動揺していると思っている。だが違う、俺がいま感じているのは動揺ではなく苛立ちだ。「凛花」低く名前を呼ぶと凛花は唇の端を吊り上げた。「蓮司さん」まるで恋人に呼ばれたみたいな恍惚とした響きのある返事。昔からそうだ。この女は自分が選ばれることを前提にしている。「お前を名誉棄損で訴える」凛花の笑みがぴたりと止まった。「……どういう意味ですの?」長谷川が静かに目を細め、俺はソファにもたれたまま凛花を見た。「お前はこの写真に写る女性を“桔梗”だ言うつもりらしいが……」「“つもり”って、桜子さんは……」「花嶺桜子が何を言ったかは知らないが」遮るように言う。「この女性は桔梗ではない。調べればすぐに分かる」凛花の言うことが本当なら、この写真のオリジナルは白洲典正の手元にある。調べてみれば、詳細な期間は分からなくても十年以上前に撮られたものだと分かるだろう。「そんなわけがありません!」「桔梗の身体を、俺が知らないとでも思ったのか?」その瞬間、凛花の頬が引き攣る。長谷川が咳払いをした。おそらく、“そういう話を真正面から口にするのか”という注意の込められた咳払いだろう。「この女性には桔梗の身体にある特徴がない」凛花の顔から血の気が引く。「そ、それは、修正かもしれませんわ……!」自分でも苦しい言い訳だと思っている声音だった。「なぜ修正する?」思わず笑う。「お前のご高説によれば、この写真は桔梗だから価値があるのだろう? それなら、なぜ桔梗であるという特徴を消す? なぜその価値を下げる?」凛花が口を閉ざす。「俺はこの女性が誰か分かる
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「蓮司様。思ったのですが、誠司様にさえこのことを知られなければ問題ないのでは?」長谷川のその言葉に、俺は数秒遅れて「ああ」と返した。確かにその通りだ。俺が嫌なのは親族連中が騒ぐことそのものじゃない。その騒ぎが誠司に届き、そこから桔梗に伝わることだった。誠司はまだ幼い。悪気なく見たもの聞いたものをそのまま桔梗に話してしまう。誤解でも、一秒でも桔梗を不安にさせたくない。普段でもそうだし、ましていまは出産直後だ。身体も心も不安定な時期に余計なストレスを与えたくない。……そう考えると、もう結論は出ている。「長谷川、放り出せ」「はい」「蓮司さんっ!」凛花の憤った声が応接室に響く。だが、知るか。俺はもうこの女に割く感情すら惜しい。立ち上がると長谷川がさりげなく進路を塞いできた。……なんだ?「誠司様のところに?」俺は眉を寄せる。「ああ」癒やしが欲しかった。いや、浄化と言ったほうが近いかもしれない。桔梗か誠司か、とにかくどちらかに触れてこの空気を洗い流したかった。「……羨ましいです」長谷川がぼそりと呟く。その声音に思わず笑いそうになった。「お前も浄化されたいか」「切実に」真顔だった。そういえば、長谷川は子ども好きだった。誠司の護衛については、仕事だけでなく個人的な愛着もあるように感じるときがある。今回だって、本来なら桔梗の入院している間に不安定になるかもしれないからと、誠司のそばにつきっきりになる予定だった。それが凛花のせいでこんな深夜に引き剥がされている。そりゃ不満も出るだろう。「そう言えば、お前は独身だったな」「ええ。いいご縁がないので」ご縁。俺は思わず凛花を見ると、長谷川が深々とため息を吐いた。「いいご縁がなく、です」……これは俺が悪い。「すまん」「本当ですよ」長谷川が珍しく即答した。「蓮司様が羨ましいです。一度はハズレくじを引きかけたのに、最終的には超弩級の大当たりを引くのですから」長谷川はさらに深いため息を吐く。「家事全般壊滅的、特に料理に関しては生物兵器生成能力までお持ちの蓮司様に比べて、私は掃除洗濯炊事すべて平均以上です。それなのに、なぜ“いいご縁”がないのでしょう」凛花をちらりと見て、またため息。「世の中は理不尽です」凛花が「ちょっと!」と声を荒げる。だが長谷川は
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「失礼します」静かに執務室の扉がノックされ、武司と長谷川が揃って入ってきた。夜も更けているというのに二人とも疲れを顔に出していない。妙に神経を張り詰めているように感じるが、それは俺もだ。俺は机の上の書類から目を上げ、短く問う。「どうだった?」「サイバー犯罪課の知人から回ってきた、吉川凛花に関する第一報です」長谷川が差し出したタブレットを受け取り画面を見る。そこには時系列で整理された調査記録が並んでいた。簡素な報告形式だが、その内容は十分すぎるほど重い。「例の写真の出所は花嶺桜子で間違いないんだな」「はい。花嶺桜子の契約端末およびクラウドアカウントから、吉川凛花のアカウントへ画像が送信された履歴が確認されています。送信日時、IP、端末情報も一致しました」長谷川の指が画面を滑る。「なお、吉川凛花はその画像をクラウド保存しています」「拡散は?」俺の問いに長谷川は首を横に振った。「現時点では未確認です。ただし――」表示が切り替わる。「投稿下書きが三件、保存されていました」武司が低く息を吐く。「準備万端ってわけか」三件とも作成日時は凛花がこの家に来る直前。文面を見た瞬間、思わず鼻で笑いそうになった……いや、感心したと言ったほうが近い。炎上のさせ方をよく理解している。洗練された悪意、とでも言おうか。桔梗の名前は直接出さない。だが、【夫の元妻】や【名家の若奥様】という人の好奇心を擽る単語を巧妙に散りばめ、見た者が勝手に「もしかして」と連想するように誘導している。ハッシュタグの付け方も絶妙で、匿名掲示板やまとめサイトに拾われやすい構成になっている。「蓮司が脅しに屈したら、投稿はしないつもりだったのか?」武司の問いに長谷川は再び首を横に振る。「いえ。投稿内容を見るに、桔梗様を貶める目的そのものは変わっていません。蓮司様がどう出ても拡散するつもりだった可能性が高いかと」……だろうな。凛花はそういう女だ。自分の欲しいものが手に入らないなら、壊してでも誰にも奪われないようにする。「武司、顧問弁護士には?」「連絡済み。明日の午前中に来るらしい。未遂でも十分立件可能だってさ。名誉毀損、脅迫、私的性的画像記録提供未遂――そのあたりで進めるらしい」俺は短く息を吐いた。「そうか」事態は、思った以上に淡々と進んでいる。いや、長
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武司が視線を伏せる。「正直、難しいな。通信履歴を見ても“面白いものを見つけました”程度しか書いてない。桔梗の名前もない。脅迫を示唆する文言もない」直接的な立件材料にはならない。「吉川凛花を厳しく処分することで“花嶺桜子に協力すると危険”と思わせるくらいか」武司の言葉に俺は頷くしかなかった。「すでに罰は受けているようにも見えますけどね」長谷川がぽつりと言った。「花嶺桜子は、錦野柾に本気だったようです。学生時代の友人たちの証言でも一致しています」……本気、か。「打算がなかったとは言いません。ただ、本気で恋をした男に他の男との性行為を強要され、最後には娼婦同然に売られたとなれば……」武司が小さく息を吐いた。「十分地獄だな」俺は目を閉じる。花嶺桜子……あいつは桔梗を傷つけた。許せないと言う気持ちはあるが、罰を与えると言っても今彼女が置かれている状況は確かに罰になっている。自分で選んだとはいえ、花嶺桜子の人生はすでに壊されている。因果応報―――そう呼ぶには、生々しすぎるほどに。「……これ以上は、もういい」ぽつりと呟く。「吉川凛花も、花嶺桜子も、俺の家族に近づけない。だから、終わりにする」長谷川が静かに頷いた。「それが宜しいかと」武司も同意するように肩を竦める。「桔梗さんは、きっとそれ以上望まないだろうしな」……ああ。そうだろう。桔梗は復讐に酔う女じゃない。誰かを徹底的に叩き潰して快感を得るタイプでもない。ただ、自分の大切なものを守りたいと考える女だ。それに―――吉川凛花と花嶺桜子の件が一段落してもまだ問題は残っている。桔梗の母親―――花嶺明美と白洲典正の関係だ。あのヌード写真は、おそらく美術的な何かだろうと俺は思っているが確信は持てていない。なにしろ俺は芸術関係については素人、素養もない。ただあの写真に写るのが本当に花嶺明美で、その写真を白洲典正が持っていたとなれば、二人がただの知人だったとは思えない。男女の関係にあった―――そう考えれば繋がるところもある。ただ白洲典正は芸術畑の人間だ。あの写真を自分の部屋に飾っていた理由が、芸術作品として気に入っていた可能性もある。だが、それだけではないって気持ちのほうが大きい。なぜなら、白洲典正は桔梗に異様な執着をみせたから。その理由が桔梗が花嶺明美に瓜二つだか
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「だがな、桔梗さんが知ったらショックじゃないか?」「その可能性は高い」「それでも話すのか?」俺は少し黙った。隠すという選択肢も、もちろん考えた。だが、隠すことは悪手だということは痛い思いをして学んだ。桔梗に対して隠し事をして、取り返しのつかないことになったあの経験は繰り返したくない。「話す」短く答える。「桔梗に隠し事はしない。……懲りたからな」俺の言葉に武司が苦笑する。「そうなると、あの写真のことも……まさか見せるのか?」「仕方ない。それに、対策としても必要だ」「対策?」俺は指先で机を軽く叩いた。「俺たちが消せたのは花嶺桜子から吉川凛花へ送られたデータだけだ。だが、花嶺桜子の手元にはまだ残っている可能性が高い。そして何より、白洲典正の手元には現物がある」紙焼きの写真……ある意味でデータより厄介だ。アニメに出てくる怪盗や泥棒のように盗む術が俺にはない。「それに、花嶺桜子がその写真を見られたってことは、錦野柾も存在を知っている可能性が高い。桔梗の周囲に“写真の存在を知る人間”がいる以上、桔梗本人も知っておくべきだと思う」武司が「うわぁ……」と嫌そうな顔をした。「キツいな……。俺でも母親の裸とか想像したくない」「俺もだ」心からそう思う。義母とはいえ、いや義母だからこそ、あれは見ていいものではなかった。しかも一度は“桔梗の裸”だと思わされて見せられている―――精神的ダメージが酷い。「そうだ、朋美を同席させるか?」武司の提案に俺は顔を上げた。「朋美?」「お前、言ってただろ。あの写真は芸術的でヌードモデルみたいだったって。俺たちだと、どうしても“裸”に引っ張られる。でも朋美なら美術的な視点で説明できるかもしれない」なるほど。確かに、俺が冷静になれたのも以前朋美たちが話していた“ヌードモデルは理科室の標本くんと一緒”という言葉を思い出したからだ。朋美は芸術方面の感覚が独特すぎるが、今回は役に立つかもしれない。ただ、問題もある。「朋美が冷静でいられるかどうかだな。あいつ、桔梗絡みだと情緒が不安定になる」「あー……」武司が納得したように頷く。「誰か他に―――」あっ!俺と武司は同時に口を開いた。「「石川先生」」声が綺麗にハモり、俺たちは顔を見合わせた。「……だよな」「だな」石川先生なら芸術面にも理解があ
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石川先生とは彼の自宅兼アトリエで会うことになった。一度行ったことがあるという和美祖母さんに事前情報として尋ねたら、「都心にあるとは思えないところよ」と教えてくれた。場所は幹線道路からわずか一本入っただけのところ。近くに駐車場はないということで武司に送ってもらう。信号の電子音。すり抜けていくバイクの排気音。歩道から聞こえる誰かの笑い声。車を降りる瞬間まで俺は東京の音に包まれていた。それなのに―――。「確かに……ここが都心とは思えない」黒塗りの木の門の前に立つと、これまであったもの全てが失われた。存在はあるのだが遠くにあるような感覚だ。.目の前の木の門は高くもなく、威圧的でもない。むしろ古びており、門だけを見れば桐谷邸のほうが威圧的だ。でも磨き込まれた艶のある欅の扉を押すのに少しだけ躊躇いを感じる。扉が刻んできた長い年月に俺自身が刻まれる気がした。石川先生がここに居を構えてまだ三十年も経っていないが、この屋敷は人間国宝だった石川先生の祖父が石川先生に譲ったものらしい。表札も小さく、「石川」と書かれた文字の墨の掠れが味になっている。  『呼び鈴を押されても出るのが面倒だから、勝手に入っておいで』事前に言われたこと。そのセキュリティのガバガバさが気になるものの、俺はインターホンを押さずに引き戸に手をかけて横へ滑らせた。一歩、足を踏み入れる。敷石の小径がまっすぐ伸びている。案内がなくても分かるとはこういう意味かと、納得しながら石を踏む。石の間隔がわずかに広い気がして、俺の歩幅は自然とゆっくりなものへ変わっていた。急げない。でも、それでいい気がする。急ぐ気は失せている。小径の両側には背の高い塀ではなく低い竹垣。遮断ではなく視線を柔らかく遮るようなものだ。竹の節の影が午後の光を受け、地面に細い縞を落としていた。どこからか水の音がした。視線を巡らせて、傍に小さな手水鉢があると気づく。筧から落ちる一滴が石に当たり、間をおいて次が落ちる。規則的でも不規則でもない間。時計では測れない時間の刻み方だった。「あれは……」手水鉢の中で紫色が揺れていた。目を凝らしてみると、そこにあったのは桔梗の花。思わず手を鎮めると、つるりとした花弁の感触に驚く。「……造花」花手水ということだろうか。でも、一輪で?.ゆっく
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8-12

石川先生は回れ右をすると俺を見ることなく歩きはじめた。ついてこい、ということだろう。黙ってついて行くと建物が見えた。平屋の建物だが、妙に奥行きがあるように見える。庇のある木の引き戸のある玄関を石川先生は通り過ぎる。あとを続きながら俺は横目で建物を観察する。曇りガラスで内側は見えないが、なんとなく生活感が漂ってくる。建物の裏に回るような形になると渡り廊下が見えた。細い屋根が隣の建物に繋がっている。あそこがアトリエだろうか。壁は白漆喰。窓は小さく、外から中の気配は分からない。ただ窓ガラスは透明で、障子越しに中の光が透けて見える。渡り廊下を歩いていくと、また木の扉があった。先ほどの玄関の扉に比べて新しく、角には警備会社のステッカーが貼ってある。石川先生は先ほどここからきたのだろうか。鍵のかかっていない扉。石川先生は無造作に開けて、中に入る。石川先生は後ろを振り返らない。俺も黙って後に続く。.中に入った室内は、静かだった。ただ、なにかが変わった。引き戸を越えた瞬間、空気の質が変わった。外の静寂が「音がない」静けさだとすれば、ここは「管理された静けさ」だった。生活の匂いがない。木の床は艶を持ちながら乾ききっており、全てが管理されているようだった。「ここから先は……ここで、靴を脱いでくれるかな」久し振りに言葉を発したような、石川先生のかすれた声。それに促されるまま俺は靴を脱ぐ。足裏が板に触れた瞬間、ひやりとした感触が走った。「ここは、準アトリエと言えばいいかな。マネージャーとの打ち合わせとかは、ここでしている……申しわけないね、黙ってここまできてしまって」「いえ……」「言い訳になるけれど、緊張しているようだ」「緊張、ですか?」「アトリエに人を入れるのは、とても久し振りだから……」それは……。「最後に入ったのは、明美さんですか?」「そうだよ」そう言うと、石川先生はまた歩きはじめた。石川先生が花嶺明美と会っていた、いわば秘密の場所とも言える場所に入る。「俺で、いいんですか?」本当は、桔梗のほうが良いのではないか。「桔梗さんに話す、その練習のつもりなんだ……それに、勝手だけれど、君は理解してくれる気がする」「桔梗は、理解しないとでも?」「さあ、どうだろう。母親の浮気話だからね、生理的に受け付けな
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