All Chapters of 知らないまま、愛してた: Chapter 61 - Chapter 70

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3-9

花嶺桔梗。それが私の名前だと教えられた。年齢は二十八歳だとも告げられた。本来なら、そんな基本的なことは誰かに教えられるまでもなく、自分の口で自然に言えるはずのものだ。それなのに、いざ「あなたは誰ですか」と問われれば、私は何一つ答えられない。空白のまま、喉の奥で止まる言葉すらも出てこない。免許証や保険証といった公的な証明書を見せられ、それらの情報が正しいのだと頭では理解できた。私はそれらが何のためのものか知っているし、社会の仕組みも分かる。二十八年間で積み重ねてきた知識は、確かに私の中に残っている。それなのに、その知識を積み上げてきたはずの『私』という存在だけが、きれいに抜け落ちている。知識の器だけが残っていて、中身の記憶がごっそり失われているような、奇妙で不安定な感覚だった。お医者さんによると、私は解離性健忘という病気らしい。耐え難い何かから心を守るために、心が自分自身を切り離してしまった―――そう説明された。そんな仕組みが人間に備わっていることを、私はそれまで知らなかった。きっと、これまでの人生では必要のなかった知識なのだろう。あるいは、知る必要がないほど穏やかに生きてきたのかもしれないし、逆に、知る余裕すらないほど追い詰められていたのかもしれない。どちらにせよ、今の私には確かめようがない。―――人生のすべてを忘れるなんて、『私』は心が耐えきれないほどの不幸だったのか。それを尋ねたとき、心療内科医の先生は静かに首を振った。物事は単純ではなく、複雑に絡み合うものだから、原因が一つでも記憶が丸ごと抜け落ちることはあるのだと。長い文章を書き続けているうちに誤りに気づき、修正し、修正を重ねるたびに新たな矛盾が生まれ、どこが正しいのか分からなくなって、最後には「もう全部消してしまえ」とすべてを消去する―――それが今の私の状態に近いのだと説明された。その比喩は妙に腑に落ちた。私は何かを消したのではなく、消さざるを得なかったのだ。そんな私のお腹には、新しい命が宿っている。母子手帳には花嶺桔梗の名前が記され、妊娠の経過が丁寧に書き込まれている。鏡に映る自分の体を見れば、否応なしに現実を突きつけられる。膨らんだ腹部は、私がただの「空白の人間」ではないことを証明していた。母子手帳の間には、妊娠中絶手術に関する資料が挟まれていた。それを受け取ったにもかかわ
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3-10

「今日は健康診断だったんですよね?」私が尋ねると、彼は短く「武美に注射を打たれた」と答えた。どこか不満げな声音に、思わず苦笑する。「それは……勢いよさそうですね」そう返すと、彼はほんの少しだけ口角を上げた。その控えめな笑みを見た瞬間、胸の奥に小さな温かさが灯った。この表情が―――私は好きだと思う。言葉に対して無関心なようでいて、どこか受け入れてくれているような、不思議な余白のある表情。私が何を言っても許されるような空気があって、自然と「あのね」と言葉を続けたくなる。そして、彼が少しでも笑ってくれれば、それだけで「言ってよかった」と思える。そんな感覚が、確かにここにある。『私』が彼をどう思っていたのかは分からない。それでも、今の私はこの人のこういうところが好きだと感じている―――だから、いい。心療内科医の先生は、記憶を失っても好き嫌いの感覚そのものが消えるわけではないと言っていた。だとすれば、この感情は偽物ではないのだろう。過去の積み重ねがなくても、人は今この瞬間のやり取りの中で、誰かを好ましいと思うことができるのだから。考えてみれば、記憶とは連続性を保証するものではあっても、感情のすべてを規定するものではないのかもしれない。私は過去を失ったことで、自分がどんな人間だったのか分からなくなった。しかし同時に、過去に縛られずに「今」の感覚だけで人と向き合うことができるようにもなったとも言える。もちろん、それは不安定で、危うい自由だ。過去の自分が築いてきた関係や選択を引き受けなければならない現実は重く、逃げ場はない。それでも、空白の中で感じる小さな「好き」や「安心」は、確かに私のものだ。記憶がなくても、人はゼロから関係を築き直すことができるのかもしれない。そして、この子どもが生まれてくることで、私はさらに新しい「私」を形作っていくのだろう。過去を取り戻すことができるかは分からない。それでも、これから先の時間をどう生きるかは、今の私が決めていい。空白があることは恐ろしいが、同時に、そこにはまだ何も書かれていない余白が広がっている。その余白に何を描くのか―――それこそが、これからの私に与えられた選択なのだと思う。. * .「困ります!」廊下の向こうから看護師の女性の慌てた声が響き、私は思わず顔を上げた。何かトラブルでも起きたのだろうか
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3-11

「誰、ですか?」何となく目の前の人に聞く気にならなくて、蓮司さんに聞いてみた。「花嶺辰治だ」説明は短い。蓮司さんは説明する気はない、という表情をしている。「……ああ」曖昧に頷きながら、私はその名前を頭の中で転がす。花嶺辰治――それは花嶺桔梗の父親、つまり私の父親ということになる。頭では理解できた。けれど、それだけだった。胸の奥に何かが動くことも、懐かしさが込み上げることもない。ただ、「そういう関係なのか」という情報として処理されるだけだ。「父親に向かってなんだその目は」不機嫌そうな声音が落ちてきて、私はようやく自分が無遠慮に彼を見つめていたことに気づいた。「……申しわけありません」口では謝る。けれど、その言葉に感情は伴っていない。謝罪という行為を知っているから、形式として口にしただけだ。本来なら、父親に対して抱くべき感情があるのだろう。尊敬や親しみ、あるいは反発やわだかまりですら、何かしらの「関係」があるはずなのに、今の私にはそのどれもが存在しない―――ただ空白があるだけだ。それでも一つ、はっきりと分かることがあった。心療内科医の先生は、好き嫌いという感覚は記憶を失っても変わらないと言っていた。人間の本質はそう簡単には揺らがないのだと。その言葉を思い出しながら、私は目の前の男性を観察する。ノックもせずに病室へ入り、私の顔を見るよりも前から、スマートフォンへ視線を落としながら歩く姿。そこにあるのは配慮の欠如であり、相手を尊重しようとする意思の薄さだ。だからだ―――この人を好きになれないと、直感的に思った。理由を一つひとつ並べるまでもなく、感情が先に拒否している―――ということは、おそらく『私』も同じようにこの人を嫌っていたのだろう。「相変わらず生意気だな」吐き捨てるように言われて、その確信はさらに強まる。相変わらず、という言葉の中で、過去の私と今の私は同一のものとして扱われている。ならば、今私が抱いているこの感情は、過去から連続しているものなのかもしれない。そう考えると、少しだけ奇妙な安心感があった。記憶はなくても、感情の輪郭は途切れていないのだと知ることができたからだ。.「ノックくらいしたらどうですか?」そのとき、私たちの間に割って入るように蓮司さんの声が響いた。穏やかにも聞こえるが、その実、温度の低い声音だった。
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3-12

この人の第一印象は―――最悪だった。『私』を勘当しているのだとしても、入院すると連絡を入れたときに「大丈夫か?」と一言でも気に掛ける言葉をかけてくれていたなら、そのあとにどんな態度を取られたとしても、「父親だから」という感情がほんのわずかでも芽生えていたかもしれない。血の繋がりというものは、理屈ではなく、そうした些細なやり取りの中で実感として立ち上がるものなのだろう。だが現実は違った。電話をかけたときの第一声は「勘当した娘が何の用だ」であり、入院に必要な家族の署名を頼んだときには「知らん」と一言だけ返され、そのまま通話は切られた。そこには躊躇も、迷いも、わずかな情も感じられなかった。乾いた拒絶だけが残り、その響きが耳の奥にこびりついて離れない。私の中で、この人に対する第一印象は決定的なものとなった。いや、父親という事実があるからこそ、感情はゼロではなく、むしろ大きくマイナスへと振り切れた。もし他人であれば、ただの無関係として受け流せたかもしれない。けれど「父親」という関係性が、その冷たさをより強く、鋭く感じさせた。母親がすでに亡くなっていることは聞いていた。そして、唯一残っているはずの父親もこの有様だと知ったとき、本来なら胸にぽっかりと穴が空くような喪失感を覚えてもおかしくはなかった。家族という拠り所が完全に消えてしまったのだと理解すれば、心細さや不安に押し潰されても不思議ではない。それなのに、私はそれほど強い喪失感を感じなかった。その理由を考えたとき、思い浮かんだのはあのときの周囲の反応だった。  『なんて親なの!?』スマートフォンのスピーカー越しに会話を聞いていた人たちが、まるで自分のことのように憤ってくれた。その怒りは私に向けられたものではなく、私を守るためのものだった。だからこそ、私は一人ではないのだと感じることができたのだと思う。仮に心の中に空洞が生まれかけていたとしても、それはすぐに別のもので満たされていった。  『うちの養子においでよ』軽やかに、しかし本気の優しさを込めて差し出された言葉。その提案は冗談のようでいて、決して軽いものではなく、確かな温もりを持っていた。空いたはずの場所に、別の形の繋がりが流れ込んでくる感覚。失うことと同時に、得るものもあるのだと、ぼんやりと理解した。  『ちょっと待て。彼女と家族になるなら
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3-13

この病室は個室だが、ここは産婦人科だ。父の目は私を見て、そのまま腹部に移動する。汚らわしいものを見るような目に、嫌な気分になる。「そ、そもそも、妊娠なんていつ……」「俺も彼女も成人していますので周りがとやかく言う問題でもないでしょう」言葉を遮るように蓮司さんが返した一言は、冷静でありながら鋭かった。余計な詮索を拒絶する意志が、はっきりと伝わってくる。そのまま蓮司さんは、わずかに眉をひそめながら、父だという人を廊下の外へと押し出した。いつ、か――。その言葉が頭の中に引っかかる。正直に言えば、『私』と蓮司さんの関係がどうであれ、いつ子どもを作る行為に至ったのかは気になっている。断片的に知らされている事実は、むしろ疑問を増やすばかりだった。私が妊娠したという日に、『私』は婚約を破棄され、同じ日に蓮司さんは別の女性に結婚を申し込んでいる。時間軸が重なり合うようで、どこか歪なその状況は、単純な説明では収まらない。『私』が婚約者を裏切ったのか。それとも、『私』が蓮司さんと誰かの関係に割り込んだのか。あるいは―――もっと別の事情があったのか。考えようとすればするほど、答えは遠ざかっていく。それを追いかけるべき……。「痛っ!」次の瞬間、頭の奥を鋭く突き刺すような痛みが走った。まるで何かを無理やり引き剥がされるような感覚。ぐっと、強い力で何かが奪い取られていく。「……っ」息が詰まり、視界が揺れる。怖い。理由の分からない恐怖が、一気に押し寄せてくる。  『耐え難い何かから心を守るために忘れる』心療内科医の先生の言葉が、断片のように浮かんだ。耐え難い何か?それは過去の話ではなかったのか?今、この瞬間にも、それは存在しているのか―――分からない。「うぅ……ああっ!」痛みは増し、視界が霞む。何かを掴みかけ、それはふっと消えていく。あれは、掴んでは良いものか。分からない。もしかしたら、あるいは、もともと触れてはいけなかったものに触れかけているのかもしれない。意識の奥底で、何かが軋む音がした。「桔梗!」呼ばれる声に、かろうじて意識が引き戻される。蓮司さんの声だ。「たす……」助けて、と言おうとして、言葉が途切れる。声にならないまま、意識が沈み込んでいく。考えてみれば、記憶というものは単なる過去の記録ではなく、自分自身を守るための境界
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【第四章:桐谷桔梗】

「あっ、あー」抱っこしながらゆっくりと体を揺らすと、腕の中の赤子が機嫌よく声をあげた。その柔らかい響きは、意味を持たないはずなのに、どこか確かに誰かを呼んでいるようにも聞こえる。桐谷誠司――生後六ヶ月の我が息子。この家は、いまや完全に彼を中心に回っていると言っていい。ほんの少し前まで静かだった時間も、今では彼の呼吸や泣き声、そしてこの「あっ、あー」によって色を持つようになった。特にこの得意の発声については、毎回のように議論が巻き起こる。蓮司さんは「パパだ」と譲らず、お義母様は「バーバに決まっているでしょう」と笑いながらも真剣だ。そのやり取りを横で見ながら、私は内心で「ママじゃないかな」と思っているのだけれど、あえて口には出さない。その曖昧さが、この穏やかな時間を保っている気がするからだ。「何か楽しいことがあったのか?」ふいにかけられた声に顔を上げると、戸口に立つ蓮司さんと目が合った。わずかに口角が上がっていて、その表情には柔らかい余韻が残っている。仕事の合間に見せる顔とは違う、どこか私的な柔らかさのある笑みだった。「ミーティングは終わりですか?」尋ねると、「ああ」と短く頷きながら、彼は自然な仕草で手を差し出す。その動きにすぐさま反応したのは誠司で、私の腕の中で身をよじり、お義父様譲りのヘーゼル色の目を煌かせ、そちらへ行きたいと全身で訴える。誠司はかなりのパパっ子だ。その様子に蓮司さんは隠しきれない嬉しさを滲ませ、私は苦笑しながら誠司を彼の腕へと預けた。相思相愛という言葉が、これほど分かりやすく当てはまる光景も珍しい。.「今週の金曜日、帰りが遅くなる。取引先のセレモニーに呼ばれた」その一言に、私の表情はわずかに強張った。「どうした?」問う声はいつも通りで、そこに探るような色はない。だからこそ、自分の中に生まれた違和感が、ひどく浮いて感じられた。これはただの予定の報告で、特別な意味はないのだと分かっている。それでも、胸の奥がざわつく。「あの……っ」言いかけたところで、蓮司さんのスマートフォンが鳴った。「すまない、ちょっと待っててくれ……なんだ、武美?」その名前を聞いた瞬間、言葉が喉の奥で止まる。「ああ、読んでくれたか? そう、今週の金曜日……うん」やはり、という思いが浮かぶ。セレモニーには武美さんを誘っ
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4-2

「話の途中ですまなかった」そう言って戻ってきた蓮司さんの言葉に、私は小さな違和感を覚える。武美さんには「ごめん」と言い、私には「すまない」と言う。意味は同じでも、響きは違う。「ごめん」のほうが近く、「すまない」は一歩引いた距離にあるように感じる。たったそれだけの違いなのに、胸の奥に薄く引っかかる棘のように残ってしまう。もし理由を尋ねれば、きっと彼は「幼馴染だから」と答えるのだろう。長い時間を共有してきた相手だからこその気安さが、自然と言葉に滲むのだと。理屈としては理解できる。むしろ納得すらできるはずなのに、それでもどこか腑に落ちない自分がいる。同じ幼馴染がもう一人いるのに、その距離の取り方が違うのはなぜなのか―――そんなことを考えてしまう私は、きっと狭量なのだろうと自分を嗜める。「どうした?」再び問われ、私は咄嗟に誤魔化す。「珈琲を飲むか聞こうとしただけです。私も飲みたいので、淹れてきますね」あまりにも取ってつけた理由で、自分でも不自然だと分かる。それでも他に言葉が見つからなかった。蓮司さんはわずかに眉を寄せ、「桔梗?」と名前を呼ぶ。その声音には疑問が含まれているのに、追及する強さはない。その優しさが、かえって逃げ場をなくす。「何を……」言いかけた彼の言葉を遮るように、「あっ、あー」と誠司が声を上げた。絶妙なタイミングだった。救われた、と思った。私はその隙に視線を外し、その場を離れる理由を得る。何があったのかと問われても、うまく説明できない。ただ―――私も一緒に行ってはだめですか、と聞いてしまいたいだけ。それが、聞けないだけ。答えは分かっているから。蓮司さんは決して「だめだ」とは言わない。けれど「無理はするな」と言う。その言葉は柔らかく、相手を思いやる形をしているけれど、結局は線を引くための言葉でもある。一年にも満たない、今の私の記憶の中で、彼に何度「無理はするな」と言われただろう。妊娠中や出産直後、その言葉は確かに優しさだった。体が思うように動かないことも、少しのことで疲れてしまうことも、自分自身でよく分かっていたからだ。だから、「無理はするな」と言われれば、素直に頷くことができた。何が無理なのか、どこまでが限界なのか、自分の中で明確だったから。当時の私は、その言葉は私を守るためのものとして、何の疑いもなく受け入れられた。け
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4-3

「ねえ」不意にかけられた、聞き覚えのない声に振り返ると、そこには見知らぬ若い女性が立っていた。戸惑いを隠さないまま一瞬だけ視線を巡らせて、すぐに思い当たる。そういえば朋美さんが、今日は友だちと一緒に家で課題をやると言っていた。この子はその友人の一人なのだろう。「どうかしましたか?」声をかけると、彼女は少し困ったように笑って、「朋美の部屋が分からなくなったのだけれど、どこかしら?」と尋ねてきた。やはり朋美さんの友だちらしい。見慣れない広い家の中で迷ってしまうのは無理もない。「案内しますね」て廊下を進み、目的の部屋の前でノックをすると、すぐに朋美さんが顔を出した。「桔梗さん?」少し驚いたような声。その隙に、案内してきた彼女が私の脇をすり抜けて部屋の中に入っていく。それで状況を察したのだろう、朋美さんは軽く頭を下げて礼を言った。扉の向こうからは楽しげな声が聞こえてくる。どうやら一人だけではなく、何人か集まっているらしい。賑やかな空気が、廊下まであふれてきていた。「よければ焼き菓子を持ってきましょうか?」ふとそう口にしたのは、午前中の出来事を思い出したからだった。お義父様のリクエストで焼いたお菓子。焼き上がる香りに誘われるように顔を出してきたお義父様が、いかにも食べたそうにしていたので「どうぞ」と勧めたのに、高速で首を横に振られた光景を思い出す。桐谷家は食べ物の管理が驚くほど厳密だ。誰か一人が先に手をつけることは許されず、全員が揃った場で公平に分ける。それぞれに名前や印をつけて取り置きすることさえあるほど徹底している。食い意地が張っている故にルールは真面目に守る。今日はお義母様が外出しているから、全員が揃うのはまだ先だ。それまでに誰かが勝手に食べることはないはずだから、まだ全てが残っているだろう。「いいの?」朋美さんが目を輝かせる。「追加で作るから大丈夫。用意するから待ってて」朋美さんは嬉しそうに声を上げ、その反応に釣られるように部屋の中にいた子たちの視線が一斉にこちらへ向いた。「朋美さん、そちらは?」「私のお義姉さん、お兄の奥さんだよ」あっさり紹介される。「え? てっきり家政婦さんかと……」その言葉が最後まで続く前に、隣にいた子が慌てて遮り、「ちょっと!」と小さくたしなめる。空気が一瞬で凍りついた。全員の顔がみるみる青ざめて
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4-4 side蓮司

「朋美、今週の金曜日の夜の予定は空いているか?」いつものように切り出したつもりだったが、その一言に対する朋美の反応は思っていたものとは違った。「どうして?」と返してきた朋美は、軽く首を傾げながらもどこか探るような視線を向けてくる。取引先のセレモニーに招かれていること、同伴者が必要なこと、そして武美が外せない勉強会で来られないらしいことを説明すると、朋美は一瞬だけ言葉を失ったように見え、それから奇妙な顔をした。「私?」確認するように問う声には、戸惑いと呆れが半分ずつ混ざっているように聞こえる。「ああ。武美は無理らしくてさ」そう続けると、朋美は小さくため息をついた。「武美ちゃんねえ……武美ちゃんが無理なら秘書を連れていけば?」当然の代替案のように言われて、「そう思ったんだけど、武司にやめとけって言われた」と答える。言葉に出してみて、ようやく自分でも引っかかりを覚える。同じことを武司にも言われたのだ。「武美が無理だから秘書ってか……やめたほうがいいぞ」と、妙に歯切れの悪い言い方で。何が問題なのか、はっきりとは説明されていない。それが余計に気になっていた。「一体なんだ?」問い返すと、朋美はじっとこちらを見て、ゆっくりと口を開いた。「お兄、マジで分かってないの?」「何が? 言いたいことがあるならハッキリ言え」苛立ちを隠さずに促すと、朋美は肩をすくめてから言い放った。「それじゃあ言うけど、桔梗さんと離婚するならお兄がこの家を出ていってね」「はあ?」あまりにも突拍子もない言葉に、思わず声が裏返る。「当たり前でしょう。桔梗さんは食の女神、誠ちゃんは癒しの天使。要らないのはお兄だけじゃん」軽口のようでいて、どこか本気の響きを含んだ言い方だった。「いや、そもそも離婚ってなんだよ」「離婚されるのも時間の問題だって言っているの。武司兄さんだって気づいているのに、なんで気づかないかな」その言葉は、冗談として受け流すには重すぎた。.出社してから、そのやり取りを武司に話すと、彼は露骨に顔をしかめ、「マジで言ってる?」と呆れたように言った。「お前さ、イベントには桔梗さんじゃなくて武美や秘書を同伴しているだろう?」「当たり前だろう」反射的に返した言葉は、自分でも驚くほど迷いがなかった。だが、その“当たり前”が問題なのだと、武司の視線が物語ってい
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4-5

桔梗は、東国美香とは違う。東国美香というあの女性は、桔梗が忘れてしまった二十八年という時間の積み重ねで形作られた存在であり、そのすべてを失った今の桔梗が、同一であるはずがない。記憶という土台が崩れ落ちている以上、同じ選択をし、同じ価値観で物事を捉えるとは限らない。むしろ違っていて当然だとも思える。だが、それでもなお、変わらずそこにあるものがある。性質と呼ぶべきか、人格の核と呼ぶべきか―――そういう、言葉ではうまく定義できない部分が、確かに共通している。東国美香の中にあったものと同じもの。俺が愛おしいと思った柔らかさや、ふとしたときに見せる無防備な表情、誰かを思いやるときの迷いのない優しさ。それらは形を変えながらも、桔梗の中にも息づいている。だから俺は、東国美香に恋をしたのと同じように、桔梗にも恋をした。いや、正確に言えば、今もなお恋をし続けているのだと思う。毎日、桔梗に恋をしている。何気ない仕草や、言葉の選び方、誠司をあやすときの表情、キッチンで何かに集中しているときの背中―――そうした一つ一つを見つけては愛しく思い、昨日よりも今日、今日よりも明日と、少しずつ深く惹かれていく。過去の積み重ねに頼らないぶん、その感情は新鮮で、どこまでも現在進行形だ。だからこそ、昨日の桔梗よりも今日の桔梗を愛していると、迷いなく言える。愛する女に嫌われたくない。その単純で、身勝手で、どうしようもなく人間的な感情が、俺の行動の根底にある。桔梗に思い出してほしくない―――その思いは、理屈ではなく本能に近い。だから俺は、彼女を人に会わせないようにしている。対外的な場から遠ざけ、過去と繋がる可能性のある接点を意図的に減らしている。自分がやっているそれがどれほど歪んだことなのか、その自覚はある。狂気じみていると言われても否定はできない。それでも止められない。だからせめて、せめてもの償いのように、彼女が家の中で、俺の傍で、穏やかに過ごせるようにと願っている。それが本当に彼女の幸せなのかどうか、確信が持てないままに。「桔梗さんを連れていかない理由を俺たちは分かっているし、事情も分かっているからある程度は仕方がないとも思っている」武司の言葉は、責めるというよりも確認するような響きだった。「それなら……」と言いかけたところで、「でもその理由も事情も桔梗さんは知らないだろう
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