All Chapters of 知らないまま、愛してた: Chapter 71 - Chapter 80

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71

「桔梗」!「蓮司さん、どうしました? お仕事は?」子ども部屋に飛び込むようにやってきた蓮司さんに驚いた。大好きなパパの登場に誠司は嬉しそうだ。「錦野柾が桔梗に接触したと聞いて……大丈夫か?」大丈夫って……。朋美さんも錦野柾さんを見たときに顔色を変えたけれど、そんなに危ない人なの?「足元がふらついたと聞いている。いまの気分は? 気持ち悪かったり……頭が痛かったりしないか?」お医者さんを呼びそうな蓮司さんの姿に胸がキュンッとする。「ふふっ」夜ではないし、誠司もいるからそういう雰囲気ではない。でも、キュンッとした私の体は蓮司を求めてしまった。ラグの上で寝転がる誠司を抱き上げて蓮司さんの胸に飛び込む。硬い胸板。ミント系の爽やかな香り。蓮司さんってウッド系も似合いそう。 「桔梗?」突然の行動に不思議がっている蓮司さん。でも、蓮司さんの腕は私たちを閉じ込めるように私の後ろで交差する。感じる愛情にまたキュンッとする。「心配してくれてありがとうございます。大丈夫でしたけれど、蓮司さんが来てくださってもっと大丈夫になりました」私の大丈夫を確かめるように蓮司さんは私をジッと見る。「……よかったよ」肺から空気が全部抜けきったような、心の底から安心したような声。蓮司さんがここまで心配するなんて、錦野柾さんはよほどの危険人物?結婚がなくなってよかった気がする。もしかしたら『私』は錦野柾さんと結婚したくないから蓮司さんと関係を持ったのかもしれない。そう思うのは花嶺家と錦野家には桐谷家との交流はない。蓮司さんとの出会ったのは和美お祖母様の家政婦になったから。誠司が生まれた日を考えると、出会って
last updateLast Updated : 2026-01-16
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錦野柾に姫川綾乃。 なんでトラブルが次々とやってくるんだと武司に愚痴った。 「蓮司の人生が恋愛小説だからじゃないか?」 ……。 「俺はお前と違って恋愛お花畑の住民じゃないんだぞ」 「俺もそう思っていたけれど、今のお前は恋愛お花畑への移住民だ。桔梗さんといるときの蓮司は背景にハート模様で花が咲き乱れているからな」 ……少々、自覚はある。 「恋愛小説の男主人公の宿命だよ」 武司が慰めるように俺の肩を叩いた。 「新キャラ出ないと飽きるからな」 ……俺の人生は誰かの娯楽ではない。 「有名税だと思っておけよ。それに実害は出ていないんだろ?」 「まあ……」 桔梗の立ち眩みは疲れのせいであって錦野柾のせいではなかったようだし、あのあとも様子を見ていたが特に心配になるものはなかった。 「とりあえず、姫川綾乃のことは放っておけば? いろいろ桔梗さんにちょっかい出しているみたいだけど、桔梗さんは気にしてないから」 「一応、元恋人とは仲良くするなと言われた」 「一応、しかも楽しそうに笑いながらだろう? おい、まかさ、嫉妬されたいのか? 武美のときで懲りたんじゃないのか?」 懲りはした。 俺と武美の関係を桔梗が誤解していたと知り、反省すると同時に俺のもとには紙版・電子版問わず大量の恋愛小説が届いた。 反省していた俺は、それまで一片たりとも興味のない分野だったにも関わらず一生懸命、頑張って読んだ。 受験でもあんなに頑張らなかった。 駄作も沢山あった。 珠玉の一冊とか、おすすめ五選とか、厳選してから勧めてほしかったとホットタオルを目に当てながら何度も思った。 その影響で俺の電子書籍のトップページに表示されるAIが薦める本は恋愛小説。 「いいじゃないか。今のお前はどこに出しても恥ずかしくないスパダリだ」 ……今までの俺は出すのは恥ずかしい男だったのか? 「冗談はさておき、錦野柾が桔梗さんに会いにきたと報告を受けたときは焦ったが、何もなくてよかったな」 確かに。 錦野柾が俺に会いにきたのは、俺を脅すためだった。 錦野柾は凛花から盗んだ音声データを所有しており、これを公表されたくなければ自分の要求を聞けというありきたりな脅し文句だった。 ただ、錦野柾が考えてたことは俺と武司の予想から外れた。 あの音声を聞かれて桔梗があの日のことを思い出す
last updateLast Updated : 2026-01-16
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錦野柾が考えたことは、自分の愛人を共有することだった。 男を集め、愛人を自慢し、オークション。最も高額を提示した男に愛人を抱かせてやる。 満足した男たちの賞賛が愛人の価値を高め、価値の高い愛人は錦野柾に金と、そんな愛人を持っていることを羨ましがる男たちの嫉妬混じりの称賛を浴びる。 全て己の欲のための愛人共有。潔癖症のくせをして、錦野柾自身がクソみたいな野郎だ。錦野柾は悦に入って「紳士的な同盟」と言っていたが、ただ性的な“兄弟”を持つだけの下種な行為。 これは他にもメリットがあるやり方だと、錦野柾は俺に   言った。 完璧な愛人を一人作るのにかなり金がかかるが、愛人を共有すれば錦野柾の負担は大幅に減り、錦野柾はまた違うタイプの愛人を育てて同盟の規模を大きくしていく。やがて日本経済は同盟を軸に成長していく。 錦野柾はまるで高尚な行い、神聖な使命のように語っていたが、要は男たちに買春という犯罪行為をさせて、それをネタに脅して逃げられなくし、金を搾り取って己の欲を満たそうとしているだけだ。 錦野柾はこのために浅草・千束エリアの物件を欲しがった。 浅草・千束エリアと限定したのは、あの辺りに江戸で最も有名な花街・吉原遊郭があった土地だったから。 遊郭文化を蘇らせるのだと、歪んだ笑みを浮かべていた。 あの辺りは観光資源とインバウンドが見込まれて土地の価格は急騰、錦野柾には買えない。 でも俺には買える。 錦野柾の要求は俺にとって多少負担だが無理な要求ではない。 あの音声の脅威を考えればもっと無茶な要求でも応えようと思う。 でもここで要求を叶えたら、錦野柾はさらに要求してくるに違いない。 だから応えるわけにはいかない。 でもそうするとあの音声データを錦野柾がどうするかが分からない。 ああ、もう、いっそ――。 「どこかにクズを捨てる場所はないか?」 桔梗の目に入らない場所。 桔梗の耳に届かない遠い場所。 今回みたいに不意打ちができないように監視しやすい場所。 そんな便利な場所――。 「ああ、ある。いいところがあるぞ」 しばらくして返ってきた武司の言葉に俺は驚き目を見張った。 「どこだ?」 そんな都合のいい場所。 「ちょうどいいクズ箱があるじゃないか」 「あ……」 忘れたかったから忘れていた。 ……確かにちょうどいいクズ箱だ。
last updateLast Updated : 2026-01-16
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錦野柾と花嶺桜子は、周りにいろいろ言われている今でも、二人で一緒にあちこちに顔を出している。その様子に絆された者らは「婚約しては?」と言っているようだが、錦野柾は「一族に反対されているからできない」と答えている。しかし、実際のところ、錦野柾には花嶺桜子と結婚する気などない。花嶺桜子を錦野柾の理想とする愛人にするため、錦野柾はあちこちに花嶺桜子を連れていっているだけだ。妻を持たずに先に愛人というのが変な図式で、そんな愛人いる男のもとに妻として完璧な女が嫁ぐとは思えないが、錦野柾本人は真剣だ。すでに、花嶺桜子の愛人化は始まっている。 錦野柾は、都内のホテルのスイートで定期的にパーティーを催している。錦野柾の遊郭の夢を知るまでは、錦野柾をただのパーティー好きだと思っていた。錦野柾を見誤っていた。一見すると、錦野柾が友人を招いているパーティー。しかし、実際は高額の参加費を払って彼らは錦野柾のパーティーに参加していた。パーティーの招待状は過去に参加した者に送られ、参加したいならばまだ招待されたことのない男を連れてこなければいけない。俺は知り合いに頼み、錦野柾の紳士的な同盟から助けるという条件で、調査員を潜入させた。調査員の証言によると、最初はごく普通のパーティーだったという。ほどよく酒がまわったところで初参加者は自分をこのパーティーに誘った男からこれから花嶺桜子のオークションが始まることを知らされる。参加するなら、女を同伴してきた場合は先に帰らせること。参加しないなら、帰れと言われる。このパーティーの初参加者は、誘ってきた者に家や仕事の都合で逆らえずにきた男たちが多い。抵抗感があっても参加せざるを得ないため、男たちのほとんどがオークションに参加するという。女たちが全員帰り、花嶺桜子だけが残る異様な雰囲気の中で、オークションが始まる。そして、その中で最も高値を提示した男は花嶺桜子と共に別室に消える。そのあとは、その場に残ってもいいし、帰ってもいい。ただ、オークションに参加したという事実をネタに口留めされている。 ここまで、分かった。花嶺桜子という、具体的な被害者もいる。それでも錦野柾をどうやって追い払うかのほうが重要で、「止めさせなければ」とは思えない。桔梗のほうが花嶺桜子よりも大切だからだ。正義のヒーローになどなること
last updateLast Updated : 2026-01-17
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「蓮司、何しているの?」 今日も俺の出かけた先に綾乃がいた。毎回目的地にいたり、来たりで、俺は盗聴器の存在を疑い、専門業者に調査を依頼した。その結果、盗聴器はなかった。それなのに、綾乃はここにいる。 「妻とデート」女物の服を扱う店で、それ以外の理由があるか。しかも、桔梗に似合う華奢な靴が置いてある試着室、その真正面のソファに座って“待っている”のだ。それしかない。「やっだあ、蓮司って女性の買い物に付き合うタイプじゃないじゃない」「桔梗の買い物には喜んで付き合っている」付き合うどころか、むしろ率先している。桔梗は物欲があまりない。だから、こうやって店に連れてこないといけない。ここだけ切り取れば俺が面倒がっているように聞こえるかもしれない。しかし、俺は楽しんでいる。俺が連れてくれば、連れてきてもらったのだからと桔梗は服を手にし、好みを把握して好きそうなものを勧めてみれば、俺が見立ててくれたからと言って、嬉しそうに試着室にいく。桔梗に似合い、なおかつ俺の好みの服を着て、それを一番に見られるのだから、楽しくないわけがない。しかし、それを綾乃にいう義理はない。綾乃は俺の話など、聞いていない。いつだって自分の話。 「このあとどこに行くの? 食事?」「合羽橋」「“カッパ”? あの妖怪のカッパを見にいくの?」妖怪のはずなのに、綾乃はその辺にいそうな言い方をする。カッパ……。カッパ、どこにいるんだ?川か?池か?いや、そのカッパではないのだから、いまそれは考えることではない。 「ああ、そうだ」説明する義理はないし、面倒なので適当に流すことにした。カッパうんぬんを肯定するのは回答としていい加減過ぎるが、構わない。どうせ、綾乃は話を聞いていない。 「せっかくだし、一緒にご飯に行きましょうよ。もちろん桔梗さんも一緒にね」やはりな。妻とのデート中だというのに、なぜ食事に誘う。しかも、桔梗がおまけ扱い。図々しい、非常識だ。でも、綾乃はそんなことを気にしていない。綾乃の問題はいつも「自分がどうしたいのか」で、こちらの都合はお構いなし。だから、いまここにいる。 「いま、この店は俺が貸し切りにしている。どうやって入った?」綾乃の後ろ、恐らく綾乃を店に入れたであろう女性スタッフを睨むと、女性スタッフは体を小さ
last updateLast Updated : 2026-01-17
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「これに決めました」桔梗が選んだものは、深い緑色のワンピース。これも似合うとは思ったが、ここにきて最初に目に留めたのは違うワンピースのはずだが?もちろん、俺はそれを勧めたを「それだけでいいのか?」桔梗の目が一瞬だけ、その生成りのワンピースに留まる。うん、あのワンピースだ。俺は桔梗が選んだワンピース、そして生成りのワンピースの二着をスタッフに預け、会計を頼んだ。  「えー、その二つしか買わないの? 桔梗さんに似合う服、いっぱいあると思うのに」似合う服があることには同意するが……泣き真似はどうした?「蓮司もケチケチしないの。私のときは沢山買ってくれたじゃない」あのな……。「私には私の買い物の仕方があるので」俺が反論しようとしたのを、桔梗が自然に前に出る形で遮った。「私はきちんと選んだ服を買うのが好きなので、お気遣いは結構です」「まあ……あなたは、そうかもね」綾乃の目が、いま桔梗がきている服に留まる。その目は、何度か着てるものだと言っている。何度かこの服を着た桔梗を見ているから綾乃のそれは間違っているが、綺麗にアイロン掛けはれた服は、周りの服と比べて違いはよく分からない。「まあ、何度か着ないと勿体ないものね」可哀そうなものでも見るような綾乃の目と言葉に怒りがこみ上げたが、その怒りは桔梗の笑顔で霧散した。「この服で蓮司さんとデートをするのは二回目です。蓮司さんと思い出を作って、きれいに洗濯をして、上手にアイロンを掛けて、私の技術もなかなかだなって悦に入りながら服をしまうことが私は好きなのです」そのときを思い出したのか、桔梗がふわっと笑う。その笑顔はきれいで、俺も、店のオーナーも、綾乃でさえ見惚れた。「またこの服を取り出したときは、今日のことを思い出しながら着ます。そしてまた、思い出が増える。私はそうやって、楽しむのが性に合っていますの」ね、と微笑みかける桔梗に愛おしさが増す。「俺もこのネクタイには思い出が沢山あるからな」桔梗が作ってくれたネクタイ。俺の渡した金で俺へのプレゼントを買うのはなにか変だからと、桔梗が手ずから作ってくれた、これは世界で一つだけのネクタイ。「俺もこのネクタイみたいに、君に手作りの物が贈れればよかったのだがな」俺の言葉に店のオーナーが笑う。「私たちの存在意義を奪わないでくださいませ」オー
last updateLast Updated : 2026-01-18
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「蓮司さん。合羽橋にきましたが、川に行きますか? それとも池に行きますか?」「隅田川のほうに向かって歩くか」移動しながらカッパは川にいるのか池にいるのかという話をしていて、カッパの川流れということわざがあるのだから流れのない池にいるのではないかという結論になったところで合羽橋に到着。俺の提案に地図アプリを見ていた桔梗が“あ”という顔をして、スマホの画面を見せて【曹源寺】という寺を指さした。ここに来るまでに見かけた合羽橋の河童伝説の場所。この寺にはかっぱ大明神がいるらしい。合羽橋道具街の近くにあるということで、立ち寄ることにした。 「蓮司さんはこの辺りにきたことはあるんですか?」「この辺りはないな。浅草や上野ならビジネスや視察で行くこともあるけれど」「落ち着いた隠れ家的雰囲気のお店も多いですね」そう言って門から店を見る桔梗の姿が一枚の絵のようで、俺はスマホを取り出して写真を撮る。写真を確認して、キレイに撮れたことに満足する。 「蓮司さんって写真を撮るのが好きですよね」桔梗のその言葉に少しだけ躊躇する。写真を撮るようになったきっかけは恐怖だから。いつか桔梗があの日を思い出したらこういう日々はなくなる。せめて思い出だけという気持ちで写真を撮るようになった。それまでは視察のメモ代わりに写真を撮るくらいだったけれど、いまの俺の写真フォルダは桔梗と誠司で溢れている。  「ん?」シャッター音がしたので桔梗を見れば、桔梗は“撮れた”と満足気な顔。俺を撮ったのか……まあ、上手く撮れていないだろうな。桔梗は写真を撮るのが下手だ。オートフォーカスのはずなのに焦点が合っていなかったり、手振れ補正をONにしているのに酷くぶれていたり。手先が器用なのに不思議だなと思うが、こういう苦手があるところは実に可愛
last updateLast Updated : 2026-01-18
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「綾乃さん、しつこいね」……いけない。朋美さんの言葉にうっかり同意しそうになってしまった。でも私の思いは朋美さんと同じ。理由は、この封筒。 姫川綾乃さんから、彼女の開く音楽サロンへの誘いが届いた。もちろん、好意ではない。姫川綾乃さんの「友だちになりましょう」を信じるほど、私はおめでたくない。……友だち。スマホを見ると、『私』の連絡先はとても少ない。桐谷家の親戚を除いた“友人”は花岡乃蒼だけだった。それでも花岡乃蒼とは“恋人”という感じはないから、『私』の友だち関係は不思議でもある。そんな『私』だったけれど、私になってからは近づいてくる人が増えた。私が“桐谷蓮司の妻”だから。でも、大人になっての友人作りのきっかけはそんなこともあると思って、気にしてはいない。いい人もいる。好意的な人もいる。だから全員を拒絶するのは、勿体ない。そう思って人前に出ているけれど、開口一番で「友だちになりましょう」という人とはあまり気が合っていない。距離の詰め方が私とは違って、戸惑ってしまう。いや、違うわ。今のところ、開口一番で「友だちになりましょう」と私に言ってくる方は、蓮司さん狙いの女性たちばかりだから。姫川綾乃さんも、その一人。つまり、私に「友だちになりましょう」と言ってきた方々の中には蓮司さんの元カノもいると思われる。彼女たちの目を見れば、感じる。彼女たち、全く仲良くする気はない。 姫川綾乃さんからのお誘いは、お断りすることはできる。先約があると言えばいい。嘘だと確かめる術はないし、実際にどなたかにお願いして会っていただければ嘘ではなくなる。 「ろくな誘いじゃないと思うよ」そうだと思う。姫川綾乃さんは私に対して好意的な関心はない。だから、音楽サロンに誘われた。私に文化・芸術方面の教養はない。私自身それを自覚しているし、『私』の経歴を調べたならそれが分かる。だから私は見る専門、聞く専門。社交界の女性たちはそういう教養があるから、優劣を競う段階ですらない私の教養のなさは弱点である。でも、分かりやすく晒した弱点は相手に悪意があるのかどうかを測る手段になる。この“音楽”サロンの誘いとか。私に好意的な人は、敢えて苦手には触れない。苦手なことを責めるのではなく、得意なことを褒めてくれる。 「桔梗さん、もしかして
last updateLast Updated : 2026-01-19
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「はあ?」朋美さんの心底驚いた、素っ頓狂な声。とりあえず、「蓮司さんが姫川綾乃さんを待っていた」という姫川綾乃さんの言葉は、この朋美さんの反応で全否定できた。でも、その認識がどこから生まれたのかは知りたい。「蓮司さんは三十歳を過ぎても独身でいらっしゃったので」「三十歳で結婚していなくても珍しくはないと思うけれど……」朋美さんが、困った顔をする。「お兄の立場を思えば桔梗さんがそう考えるのもおかしくはないか」そうなのよね。桐谷グループの後継者である蓮司さんと縁を繋ぎたい家はたくさんあったはずだし、あの容姿ならば親に言われずとも女性のほうが喜んでアプローチしてきたはず。「それはね、お兄は結婚しなかったんじゃなくて結婚できなかっただけだからだよ」「蓮司さんに限ってそんな!」「うん、予想通り。うちの親戚とお兄の推し活をしている桔梗さんなら驚くと思った」蓮司さんの推し活……。「でも、本当のことなの。だって、お兄の傍にはいつも吉川凛花がいたから」吉川、凛花さん。桐谷家と吉川家は元をたどると同じ血筋。各家の初代の兄弟が、「自分の行いが道を外れたらお前が正してくれ」と誓い合い、お互いに自社の株を渡し合った美談がある。だからこそ、桐谷家は吉川家を蔑ろにすることはできない。「桐谷家は基本的に恋愛結婚推奨派だし、和美お祖母様が『いい』と言えば相手が誰でも基本OKであることは桔梗さんも知っているでしょう?」知っている。和美お祖母様には恋愛の神様がついているのか、この五十年間お祖母様が『考え直したほうがいいわ』と言った結婚は漏れなく破綻してきたという。それが分かっていてもなぜ結婚し、離婚する結婚がいまも相次いでいるかと言えば「車と恋は急には止まれない」らしい。「和美お祖母様は吉川凛花はお兄に合わないって言っていたし、なによりお兄が吉川凛花に好意を持たなかった」「それなら……」「うん。お兄が十八歳のとき、桐谷家から正式に吉川凛花とお兄の婚約はないと明確に拒絶の態度を示したわ」「それでも吉川凛花さんは諦めなかった」「ほとんど意地だと思う」「意地……」「お兄と結婚するんだって周りに言って、お兄ともいい関係だと周りに臭わせて外堀を埋めていたから」「蓮司さんは?」「特に気にしてなかったかな。桐谷家としてはちゃんと断ったしね。誰かいい人と適当に
last updateLast Updated : 2026-01-19
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「教えてくれてありがとう、朋美さん。姫川綾乃さんの音楽サロンへの招待はお断りすることにするわ」朋美さんが首を傾げた。「話せば桔梗さんが勝ちの姿勢で行けると思って話したんだけど?」朋美さんの応援には感謝はするけれど、私はそれを武器とする気はない。武器を持つ気もない。姫川綾乃さんがまだ蓮司さんに恋をしていて、それで私が蓮司さんに相応しいか見極めようとするなら、私はそれに答えて、姫川綾乃さんにその恋心を消化してもらいたいと思っていた。蓮司さんへの恋情を減らしたいという、心の狭い妻のヤキモチ。でも、姫川綾乃さんの場合は違う。姫川綾乃さんは、プロのバイオリニストをやめる理由とするために蓮司さんの妻になりたい。つまり、私が蓮司さんの妻である限り姫川綾乃さんは私が気に入らない。姫川綾乃さんにとって大事なことは、「桐谷蓮司の妻」であって私ではない。私は評価されていないし、これからも評価されない。つまり、私が音楽サロンに来ても来なくても、姫川綾乃さんはどちらでもいいということになる。行けば「よく来られたわね」的な反応をして、行かなければ「よくも来なかったわね」的な反応をするだけだろう。それなら行かなくていい。簡単な計算問題。わざわざ時間を作って会いにいかなくても、「よくも来なかったわね」的な反応をするために姫川綾乃さんは私たちの前に出てくる。一昨日、蓮司さんは二度目の盗聴器チェックをしていた。理由は出かける先々で姫川綾乃さんに遭遇するからなのだけど、私としては壁に耳あり障子に目ありだと思う。誰かが姫川綾乃さんに蓮司さんの居場所を教えているだけのこと。面白そうだからという愉快犯なのか。それとも、蓮司さんのスキャンダル狙いの敵なのか。目的は分からないけれど、蓮司さんがピリピリして
last updateLast Updated : 2026-01-20
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