All Chapters of 知らないまま、愛してた: Chapter 71 - Chapter 80

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4-6

「桔梗、大丈夫か? 何か手伝うか?」台所で忙しなく動く背中に声をかける。包丁のリズム、火加減の調整、同時にいくつもの工程を進める手際―――どれを取っても、俺が入り込む余地はないと分かっている。それでも何もせずに見ているだけというのは、どうにも落ち着かなかった。「大丈夫です。それよりも誠司の様子はどうですか?」振り返りもせずに返ってくる声は柔らかい。「ぐっすり寝ているよ」と答えると、桔梗はようやくこちらを向き、ほっとしたように微笑んだ。その表情は、あまりにも無防備で、あまりにも穏やかで、見ているだけで胸の奥がじんわりと温かくなる。そして―――彼女の顔から陰りが消えていることは喜ばしいはずなのに、その笑顔を引き出したのが朋美や母であるという事実に、どうしようもない悔しさが混じる。「お兄、すっごくいい匂いがするんだけど」背後からひょいと顔を出した朋美が、鼻をひくつかせながら言う。「食いたいならお前も参加しろ」「今日の参加者の前で食事をする勇気なんてないよ」朋美は肩をすくめた。なんなら首も竦めて、「ラスボスから始めず村人Aとの会話から始めなよ」とぼやくその言葉に苦笑しながらも、内心では深く同意する。今回の客は、それほどに“濃い”。 『少しずつ桔梗さんという人を知ってもらいましょう』お客様を選んでうちのお茶会に招待し、桔梗の知名度を上げるという母さんの提案は、一見穏やかでありながら、実際には極めて計算された戦略だった。桔梗には根拠の曖昧な悪評がつきまとっている。素行が悪いだの、婚約者から俺を寝取っただの―――事実とは歪められた噂が、半ば既成事実のように広がっている。この状況で彼女を表に出せば、その悪意に無防備にさらされてしまう。表に出す前に彼女の話題の流れを制御し、余計な干渉を遮断し、それでいて自然に彼女の印象を上書きする必要がある。そのための布石が、この桐谷邸での茶会だった。参加者は厳選され、招待状は祖父・桐谷勝司の名で送られる。場の格と圧で不用意な振る舞いを封じた上で、桔梗の人柄を“見せる”。桐谷家の威圧と親族一同の視線が張り巡らされた空間で無礼を働ける者はまずいない。その安全圏の中で桔梗がもてなせば、自然と評価は塗り替わる―――それが母の見立てだった。.社交界には大きく三つの流れがある。財界・企業・投資家が中心となる経済界、政治家や官
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4-7

「そうなんですね」桔梗の声が、柔らかく場に落ちる。その響きは、たとえるなら七割ほど完成したジグソーパズルに、ぴたりと合うピースが見つかった瞬間のような、『やった』という達成感が混じった声音だ。俺なら「知らなかった」と自分を下げて相手を立てるところを、桔梗は「教えてくれてありがとう」とでも言うように、自分を引き上げてくれたことへの喜びと感謝を滲ませる。その違いは小さいようで決定的だと―――俺は理解した。桔梗と話しをした相手は満足し、さらに話したくなっている。そうして気づけば桔梗の周りには人が集まっているのに、押し寄せるような圧はない。それぞれが順番を待ちながら、少しずつ距離を詰めてくるような様子。最初は興味本位だったはずの視線が、いつの間にか惹きつけられて離れなくなっている。桔梗のやり方は、母さんのように力で押さえつける支配ではない。だが確実に、この場は桔梗を中心に回っている。  『男は母親に似た女性を選ぶって本当なんだね』あのときは全力で否定した朋美のその言葉が、今になって妙に引っかかる。確かに桔梗は母さんとは違う。だが、“場を掌握する”という一点においては、成果を見れば驚くほど似ているのかもしれない。ただしその方法が違うから…うん、桔梗は母さんとは違う。母さんが威圧で空気を制御するのに対し、桔梗は受容と共感で流れを作る。支配の形は異なるが、桔梗のほうが場や人間のほうが進んで彼女の色に染まっていっている気がする。考えてみれば、俺はずっと「守る」という言葉に縛られていた。桔梗を外に出さないこと、危険から遠ざけること、それが正しいと信じていた。だが今、目の前で人の輪の中心に立つ彼女を見ていると、その考えが揺らぐ。彼女は守られるだけの存在ではない。むしろ、適切な場さえ用意されれば、自分の力で状況を切り開いていける人間だ。俺がしていたのは、守ることではなく、可能性を狭めることだったのではないか。そう考えたとき、胸の奥にわずかな後悔が生まれるけれど、後悔から何も生まれないことは痛い思いをしながら学んでいる。だから同時に感じている誇らしさを前面に、彼女がここにいるという事実を、それを支えているという態度で示す。愛とは何かを考えるなら、それはきっと「閉じ込めること」ではなく、「広げること」なのだろう。彼女が自分の力で立てる場所を増やしていくこと
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4-8

「少し失礼します」そう告げたのは桔梗のほうが先だった。俺が気づくよりも早く、彼女は視線の端で何かを捉え、自然な動きで一歩引く。俺から離れると、少しだけ歩調を速めて一人の女性のもとへ向かっていった。視線で追うと、彼女の唇がわずかに動く。読み取れた言葉は「大丈夫ですか?」。声をかけられた女性は、それまで浮かべていた困惑をすっと緩め、安堵の色をにじませた。助けが来て安心する表情だった。桔梗が向かうのが見えていたのだろう。母や祖母はその様子に気づいていながらも動かず、あくまで自分たちの位置を守り、談笑を続けている。その判断もまた、この場を崩さないためのものだと分かる。同じ光景は、ここ三十分ほどの間に何度も繰り返されていた。誰かの視線が泳ぐ、会話が途切れる、わずかな違和感が空気に滲む―――そうした“異変”を、桔梗は誰よりも早く察知する。そして自然な流れでその場に入り込み、問題を解きほぐし、何事もなかったかのように収めてしまう。大げさな介入ではない。あくまで、そこに最初から存在していたかのように振る舞い、気づけば状況が整っている。しばらく待てば、桔梗はまた俺のもとへ戻ってくる。やり遂げた誇らしさを見せるでもなく、ただ「大事にならなくてよかった」と安堵するような顔をしているだろう。その姿が、どうしようもなく愛おしく、同時に誇らしく思うのだろう。桔梗がさらに愛おしくなるのは、当たり前のように俺のところへ真っ直ぐ戻ってくるその瞬間―――その事実が、俺の胸の奥を静かに満たしていく。.「さっきからよく動き回って」「よく気がつくお嬢さんね」「気遣いも細やかで、蓮司さんもいいお嫁さんをもらいましたね」周囲の声が重なり、評価が自然と形になっていく。「はい、私には勿体ない女性です」と答えると、そのやり取りを聞いていたのだろう、少し離れた位置にいた夫婦がわずかに表情を歪めた。かつて自分たちの娘を俺の相手にと勧めてきた奴らだ。今日この場で桔梗を貶めることはできないと理解しながらも、どこかに隙がないかと目を光らせていたに違いない。その視線の意図が透けて見えて、内心で小さく鼻を鳴らす。探せば見つかるとでも思っているのだろうか。.「花嶺家のご長女の桔梗さんといえば、あまりいい噂を聞かなくて」「あの明美さんのお嬢さんが、と思っていましたけれど」「どうしてこんないい
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4-9

ポケットの中でスマホが震えた。取り出して画面を見ると、そこに表示されていたのは【錦野柾】の名前だった。無意識に顔が歪む。「どうした?」「錦野だ」俺の答えに、武司が納得した表情になった。あのお茶会からしばらくして、規則的とも言えるほどの頻度で錦野から着信が入る。無視していたら、共通の友人から連絡が入り、錦野が連絡を欲しがっていると伝えられる。妻の元婚約者であり、妻に対してよい感情をもっていない相手だから距離を置いていると言えば友人たちは納得するが、そうまでして連絡を取りたがる執拗さには辟易している。一度くらい出てやるかとも思って出たが、すぐに後悔した。友人たちに言った通り、錦野には桔梗の元婚約者であり、俺に対して桔梗を悪く言っていたことを覚えているため、互いに不快な思いをしないために交流は避けたいと言ってある。それでも連絡を寄越すのは……最終的な目的が見えない以上、軽率に応じるのは得策ではない。ましてや、内容によっては俺一人の問題では済まなくなる可能性もある。花岡乃蒼からは、桔梗の錦野の婚約破棄は、錦野と花嶺辰治との間で決まったことだったとかつての桔梗が言っていたと聞いている。桔梗の代わりに錦野が彼女の異母妹の桜子を新たに婚約者にしたいと願い出たことも含めて、花岡乃蒼の言ったことは筋が通っている。実際に調べてみると、確かに花嶺家は「桔梗との婚約は白紙になり、その後、花嶺桜子と柾が婚約した」と主張している。しかし一方で錦野家は「婚約は継続しており、桔梗と柾の関係は途切れていない」と真っ向から反論していた。どちらが事実か―――状況証拠だけを見れば、桔梗が花嶺家を出たあとに錦野と交流していた様子もなかったこともあり、花岡乃蒼の言葉が現実に近いと感じる。問題は、桔梗と柾の婚約が正式に解消されたと証明する決定的なものが存在しないこと。つまり、俺が桔梗と入籍すれば「桐谷蓮司が錦野柾の婚約者を奪った」という周囲の邪推は避けられず、さらに誠司が生まれれば時間軸に対する疑念、「いつから関係があったのか」という疑問が興味本位と悪意の両方を含んで広がっていく可能性があった。だから俺は、先手を打った。本来なら必要ないものかもしれないが、リスク管理と割り切って錦野家に対して『精神的慰謝料』という名目で相応の金額を支払った。表向きは婚約者を奪った件に対する謝罪と補償。
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4-10

桔梗と錦野の婚約は、最初から錦野側の思惑に沿う形で成立していた。表向きは名家同士の釣り合いの取れた縁談。しかし実態は、錦野家にとって極めて都合のいい“投資”に近いものだった。錦野家は確かに資産家だが、その財の築き方には黒い影がつきまとい、特に国外からの評価は芳しくない。一方で花嶺家は貿易で名を上げ、諸外国とのパイプも太い。さらに当時の花嶺家には、年齢的にも条件的にも申し分ない娘―――桔梗がいた。錦野家にとっては、失われた信用を補い、外向きの顔を整えるための理想的な相手だったのである。錦野家当主の祖父、錦野政一は、その手法こそ褒められたものではないが、商機を嗅ぎ取る嗅覚だけは確かだったのだろう。何しろ桔梗がまだ幼いうちに目をつけ、孫の婚約者として囲い込もうとしたのだから。錦野政一は鬼籍にあるため問い質すことはできないが、彼は桔梗本人のもつ本質的な価値、鬼才ともいえる能力に目をつけていたのではないだろうか。その根拠となるのが、桔梗の母親――花嶺明美だ。.花嶺明美の評価は、生前と死後で大きく異なる。西園寺明美は名家・西園寺家の出身。西園寺家は慈善事業で名を知られ、国際的な信頼も厚い。その血筋と背景は花嶺家にとって大きな魅力であり、跡取りの花嶺辰治との政略結婚が成立した。どのような女性であったのかを直接知ることはできないが、彼女を知る母さんの一言――「桔梗さんの母親よ」――という表現で、ある程度の輪郭は浮かび上がる。生前の彼女の評価は、一言で言えば「地味」。「あの花嶺辰治の妻なのに」という彼女を嘲笑する評価が多い。「あの花嶺辰治」という表現にこそ俺は驚く。俺の知る花嶺辰治は「あの」と評されるような人物ではないからで、これこそが花嶺明美の評価を大きく変えた理由だ。花嶺明美の内助の功―――これこそ、親世代で伝説となっている語り草。その伝説の片鱗を、俺自身がいま体験していると思う―――他ならぬ、彼女の娘の桔梗によって。桔梗が家にいると、家の空気が整う。安心という目に見えないものが、確かにそこに満ちる。家事ができる、気が利く、そういった表面的な能力ではない。場に秩序をもたらし、人を無意識のうちに正しい位置へと導く力。それは単なる“家政”ではなく、“統べる力”に近い。桔梗がいる家に帰ると、俺は何も求めなくなる。求める必要がないなん
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4-11

先日の茶会は、桔梗のお披露目という態で開催されたため桔梗が主役だった。通常あのような会では周りが気を使って主役を立てるが、あの日、あの場で、周りが桔梗を持ちあげる必要など一切なかった。桔梗は声を荒げることも、強く主張することもなく、ただ丁寧に人と向き合い、あの場を整え続け、統べていた。桔梗がいるだけで空気が変わり、人が引き寄せられ―――気づけば桔梗はあの場の中心にいた。誰かを押しのけるわけでもなく、自然と“そこにいるべき人”として認識されていった。そして、武司の言葉を借りれば、あの場の大勢が桔梗に誑された。好かれたなどという表現では足りないことは、俺の手元に届いた招待状を含め、いまのこの状況が言っている。桔梗の人誑しの能力でいま一番被害を被っているのは、彼女の継母である花嶺玲子だろう。あの茶会で桔梗に魅了された文化界の人々が、情け容赦なく過去を掘り起こし始めたからだ。花嶺玲子の出自である水商売の世界は、経済界や政界にとっては利用する場に過ぎないが、文化界にとっては無関係ではいられない領域だ。いわば自分の子どものような存在であり、価値観の交差点とも言える場所。そこに属していた玲子の過去は、彼らにとって格好の調査対象だった。結果として、出どころの確かな情報が次々と浮かび上がる。主に男性関係だが、情報は噂となって連鎖的に拡散していき、花嶺玲子と関りのあった男たちは我先にと彼女との関係を切った。あの茶会で何度も聞いた「さすが明美さんの娘」という言葉は、花嶺玲子と桜子の母子にも波及した。いや、跳弾に被弾したというのかもしれない。「やっぱり玲子さんの娘」という形で、花嶺玲子だけでなく花嶺桜子までもが引きずり下ろされていく様は、まさに“芋づる式”という言葉がふさわしい。―――そしてこれは、他人事ではない。「まさから蓮司が品定めされる日がくるとはな」まさにその通り。会社に届く招待状はどれも俺たち夫婦宛て。桔梗だけではなく俺も来いと言われており、「桔梗ちゃんに相応しいかを見定めてやる」というオーラが全ての招待状から漏れ出ている。これまで俺が相手を選ぶ立場にいた社交とは逆転し、今度は俺が試される側に回る。その中心にいるのは、間違いなく桔梗だ。花嶺辰治のせいかと八つ当たり気味に思わないでもないが、考えてみれば、この流れは必然だったのかもしれない。桔梗
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4-12

「そういえば、錦野からの電話の件なんだけど」武司の何気ない一言で、頭の片隅に追いやっていた問題が浮上した。「……忘れてた」正直な感想だった。あまりにも濃い招待状の束に気を取られ、意図的に後回しにしていたとも言えるし、単純に考えるのが面倒だったとも言える。面倒……本当に面倒だな。「よくある設定だな。婚約破棄した相手が実は――ってやつで、桔梗とよりを戻そうとしているのか?」「……蓮司、そんなジャンルも読むのか?」「いや、先日初めて読んだ。武美の件で桔梗を不安にさせたとき、勉強しろって父さんに渡された」それなりに学びはあった。「女はすごいぞ。愛想尽かしたらそれで終わり、冷徹なほど容赦なく、未練の“み”の字もない」「女がすごいなんて、うちの一族を見渡せば分かるだろ」確かにその通りで、余計な反論は飲み込んだ。「朋美に、男は母親に似た女を選ぶのだと笑われた。もちろん桔梗になら尻に敷かれても足で踏まれても構わないがな」「同じことを和司小父さんが言ってたな。だから結婚したって……まあ話は逸れたが、現実の話に戻そう。桔梗さんはすでに結婚している。相手は桐谷蓮司。桐谷家の後継者。文武両道でオマケに美形。どれだけ口惜しかろうと指をくわえているしかない相手だろう」「……お前、本当に俺のことが好きだな」俺の言葉に、武司は小さく肩をすくめた。「そもそも、婚約者の妹と関係をもっておいて『よりを戻したい』なんて言えるか?」「まあ、そうだな」錦野柾という男を思い浮かべる。俺の知る限り、彼はプライドが高く、潔癖な完璧主義者だ。わずかでも傷がついたものは許容できず、常に『きれいな状態』であることを求めていた。その性質が、ずっと引っかかっている。婚約者を代えるまで、錦野が花嶺桜子をよくイベントに同伴させていたが、彼女との関係を公に認めたことはなかった。あくまでも未来の義兄妹。ただ二人の間に漂う空気はどう見ても男女のそれで、おそらく肉体関係はあっただろう。「どうして錦野柾は花嶺桜子と関係を持ったんだ?」「詳しい理由は分からないが……簡単に英雄になれるからじゃないか?」「ヒーローって、子どもか?」「いや、そういう戦隊ものとかじゃなくて……王子様? さっき言った小説に出てくるような、可哀想な子に手を差し伸べて助ける感じの。あいつもよく言って
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4-13

「いや、それなら花岡社長の可能性だって……」武司は食い下がるように言い、どうにかして俺の考えを別の方向へ向けようとしてくれている。その気遣いはありがたいが、その線は薄いと、桔梗と花岡の関係について俺自身が調べたから分かる。花岡を調べたのは―――「男の嫉妬は往々にして見当違いな方向へ向かい、その矛先は相手の女へと向かう」と言われたから。無用な疑念で桔梗を傷つける前に事実を知れと祖母さんに釘を刺されたことがきっかけだ。調査の結果は、俺の想像とは少し違っていた。確かに二人は親しかった。だが、年頃の男女でありながら、そこに性愛の気配はほとんどなかったという。錦野も調べれば、これくらいはすぐに分かっただろう。不思議な関係ではある。桔梗と花岡の関係は「あえて名付けるなら」という前置きありの「友情」。周囲の証言からは、その一言では収まりきらない、濃密で排他的な結びつきがあった分かる。互いに互いしか信用できないような、外界を拒絶する静かな共犯関係。だがそれは恋人未満であり、決して恋人へと転じることのない、奇妙な均衡の上に成り立っていたらしい。大学三年のとき、二人は同居を始めた。花岡はあの容姿だ、女からの人気は高く、当然ながら誤解も生んだ。同居の噂は瞬く間に広がり、多くの者が二人の関係を詮索したが、結論は拍子抜けするほど現実的だった。異性からの過剰なアプローチを避けるため―――それが理由だった。特に桔梗の状況は深刻だった。桔梗は大学二年のときには帰宅途中に同じアパートの男に襲われている。偶然居合わせた花岡が助けたことで最悪の事態は免れたが、それが同居の決定打になったという。同居しても、二人は恋人にはならなかった。互いに踏み込まず、だが確かに寄り添う関係。その特異さゆえに、血の繋がりすら疑われ、「生き別れの兄妹ではないか」という噂まで立ったという。友情―――そう呼ぶには重すぎるが、それ以外の言葉も見当たらない関係。  『あの子を返せ!』桔梗が記憶を失ったあと、花岡にはそう言われた。怒っているというより、まるで泣いているような声だった。いずれにせよ、桔梗にとって花岡は確かに“感情で結ばれた存在”だった。だが桔梗は記憶を失ってその“感情”を忘れ、いまの桔梗にとって花岡は「大学時代に仲が良かったらしい人」に過ぎない。それに耐えきれなかったのだろう、花岡は桔梗と
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4-14

錦野柾が桔梗に会おうとするなら、その理由はやり直しを求めるものだと考えるのが普通だ。かつて婚約関係にあった男女が再び接触を図るなら、それは未練か、あるいは過去の清算か、そのどちらかに収まる。しかし――それならば、なぜその話を桔梗本人ではなく、夫である俺に持ってくるのか。仮に桔梗が錦野の連絡先を遮断していたとしても、方法はいくらでもある。共通の知人、家同士の繋がり、あるいは直接会いに来ることだってできるはずだ。それをせず、あえて俺を経由するという時点で、この接触は常識的なものではない。むしろ、意図的に“こちらに伝えること”そのものに意味があると考えるべきだった。.「一度俺が電話に出たとき、あいつは桔梗と話がしたいと言った。でも、それは口実だ。目的は俺に会うことのほうかもしれない」そう言うと、武司は眉をひそめた。「なぜわざわざ桔梗さんを経由する? 普通に会いに来ればいいだろ」「桔梗を挟むことに意味があるんだ……おそらく目的は脅しだ」「脅しって……まさか、吉川凜花が持っていたあの記録か?」俺は小さく頷く。「ああ。あれを材料にして俺を揺さぶるつもりだろう……桔梗にいつでも聞かせられるという意味を込めて」あのICレコーダーに残されていた音声――それは否定しようのない現実だった。分析の結果、そこに記録されていた声は間違いなく俺と桔梗のものであると断定された。その報告が出る前、武司は女性陣から「どう見たってそんなことをする人じゃないでしょう」と怒られていたが、結果が出たあとは容赦なく女性陣に袋叩きされていた。相変わらず武美の平手はすさまじい音だった。だが、その流れも「蓮司の好みど真ん中だったからママが気を利かせたんだと思ってた」という武司の一言で止まる。場の空気が妙に静まり、誰もが何かを飲み込むような、逆に何かを言いたそうな視線を俺に向けたのを覚えている。最終的には祖母が「今さらの話よ、先を見なさい」と強引に収めた。.凜花がどうやってあの音声を手に入れたのか―――それは彼女自身の口から語られた。企みが破綻し、俺との結婚という目論見が潰えたことで、隠す意味がなくなったのだろう。もちろん、白状したからといって許す理由にはならない。俺は吉川家に対し、盗聴という明確な違法行為と、それによる脅迫被害を正式に訴えた。その裏では、吉川英二が桐谷グループの株を
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4-15

「やはり情報が足りないな」そう呟いたとき、胸の奥に鈍く沈む違和感が、ようやく輪郭を持ちはじめていた。断片的に集めた事実はそれぞれ筋が通っているのに、ひとつの線で結ぼうとするとどこかが歪む。凛花のICレコーダーを手に入れてデータを移すこと自体は、錦野にとって難しいことではなかったはずだ。花嶺桜子は「友人」として凛花の催す会や参加する会に顔を出し、錦野もまたその同伴者として自然に出入りしていた。あの帰国パーティーの日、凛花は疑念を抱かれた瞬間、迷いなくICレコーダーを取り出した。あれは切り札として温存していたというより、むしろ常に見せびらかす準備ができている“お守り”のような扱いだったのだろう。思えば彼女の性格からしても納得がいく。優越感を可視化し、他人の羨望を浴びることで自分を保つ女だ。そんな彼女が、あれほどの“強いカード”を肌身離さず持ち歩いていたとしても不思議ではない。むしろ、落としたり紛失したりしなかったことのほうが奇跡に近い。錦野柾がそのデータに触れる機会があったとしても、なんら不自然ではなかった。だが、手に入れた当初は、その音声データは錦野にとって「使えないもの」だったはずだ。性行為の音声など、いくらでも言い逃れが利く。品のない話題として一時的に騒がれることはあっても、相手と思われていた凛花と俺は婚約をしたため、それで俺の立場が致命的に揺らぐことはない。ましてや錦野家に利益が転がり込む類の情報でもない。だが、状況は一変した。凛花との婚約を俺が破棄、そして突如として桔梗と結婚。しかも桔梗は臨月。これに世間が騒がないはずがない。最初は下卑た憶測が飛び交ったが、桐谷一族の結束を目の当たりにした者たちが空気を読み、騒ぎは収束の方向に向かう。そこへ、巧妙に練り上げられた「物語」が投下。勘当、再起、再会、そして秘められた恋―――嘘と真実を織り交ぜた、桐谷家きっての恋愛お花畑組が作った筋書きは、あまりにも出来が良かった。分かりやすく、没入感もある。人は理解しやすい物語を好み、信じたいものを信じる。そんな流れの中で、俺と桔梗の関係を疑い続けるほうがむしろ不自然になっていったわけだが、錦野がそれを信じるわけがなかった。子どもの誕生時期から逆算すれば、桔梗が身籠ったのは俺の誕生日の頃だとすぐに分かるし、ICレコーダーの録音日時を見れば、あの音声が俺の誕生
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