「桔梗、大丈夫か? 何か手伝うか?」台所で忙しなく動く背中に声をかける。包丁のリズム、火加減の調整、同時にいくつもの工程を進める手際―――どれを取っても、俺が入り込む余地はないと分かっている。それでも何もせずに見ているだけというのは、どうにも落ち着かなかった。「大丈夫です。それよりも誠司の様子はどうですか?」振り返りもせずに返ってくる声は柔らかい。「ぐっすり寝ているよ」と答えると、桔梗はようやくこちらを向き、ほっとしたように微笑んだ。その表情は、あまりにも無防備で、あまりにも穏やかで、見ているだけで胸の奥がじんわりと温かくなる。そして―――彼女の顔から陰りが消えていることは喜ばしいはずなのに、その笑顔を引き出したのが朋美や母であるという事実に、どうしようもない悔しさが混じる。「お兄、すっごくいい匂いがするんだけど」背後からひょいと顔を出した朋美が、鼻をひくつかせながら言う。「食いたいならお前も参加しろ」「今日の参加者の前で食事をする勇気なんてないよ」朋美は肩をすくめた。なんなら首も竦めて、「ラスボスから始めず村人Aとの会話から始めなよ」とぼやくその言葉に苦笑しながらも、内心では深く同意する。今回の客は、それほどに“濃い”。 『少しずつ桔梗さんという人を知ってもらいましょう』お客様を選んでうちのお茶会に招待し、桔梗の知名度を上げるという母さんの提案は、一見穏やかでありながら、実際には極めて計算された戦略だった。桔梗には根拠の曖昧な悪評がつきまとっている。素行が悪いだの、婚約者から俺を寝取っただの―――事実とは歪められた噂が、半ば既成事実のように広がっている。この状況で彼女を表に出せば、その悪意に無防備にさらされてしまう。表に出す前に彼女の話題の流れを制御し、余計な干渉を遮断し、それでいて自然に彼女の印象を上書きする必要がある。そのための布石が、この桐谷邸での茶会だった。参加者は厳選され、招待状は祖父・桐谷勝司の名で送られる。場の格と圧で不用意な振る舞いを封じた上で、桔梗の人柄を“見せる”。桐谷家の威圧と親族一同の視線が張り巡らされた空間で無礼を働ける者はまずいない。その安全圏の中で桔梗がもてなせば、自然と評価は塗り替わる―――それが母の見立てだった。.社交界には大きく三つの流れがある。財界・企業・投資家が中心となる経済界、政治家や官
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