All Chapters of 知らないまま、愛してた: Chapter 41 - Chapter 50

224 Chapters

2-34

「それで、観察に精を出していたら家政婦を辞めることを言い出せなかった、と?」華乃――いまは会社用の顔である乃蒼が、半ば呆れたような視線を向けてくる。その視線から逃れるように、私はカップの中のコーヒーへと目を落とした。ここは会社の近くにあるカフェで、昼休みの時間帯を少し外しているとはいえ、周囲にはスーツ姿の人々が絶えない。そんな場所で“家政婦”としての話題をしていること自体が少し不思議で、同時にどこか現実感が薄い。「楽しくって言い出しにくいのもあるのよ」と言い訳がましく答えると、「おいおい」と乃蒼は肩をすくめた。.「まだ働けるって気持ちもあるの。妊娠していると言っても、生理がないくらいで、よく言われるつわりみたいな症状もないんだもの」「そんなもんか?」「妊娠しているってこともうっかり忘れそうよ」「おいおい、自分の体のことなんだからしっかりとしろよ」呆れ声に押されるように、私はバッグから午前中に区役所で受け取ったばかりの母子手帳を取り出してテーブルの上に置いた。「おお、これが……」乃蒼は興味深そうに身を乗り出す。「その反応、分かるわ。私も受け取ったときは『これは!』って思ったもの。でも窓口の人は淡々としていて、『はい、次の方』ってアッサリしていたわ」「その人にとっては日常茶飯事だろう。他人事なんだろうし。なあ、見てもいいか?」「もちろん。でも中はまだ何も書いてないよ。名前とか住所は自分で書いて、あとは病院でいろいろ記録されるんだって」「そういうものなのか」「知らなかった世界の話だよね。……そうだ、緊急連絡先なんだけど乃蒼を書いてもいい?」「俺以外に誰が……」「花岡さん!」乃蒼の言葉を遮るように、聞き覚えのある声が響いた。反射的に振り向くと、そこに立っていたのは吉川様だった。思わず目を瞠る。「東国さん?」吉川様も目を見開き、私たちは同時に言葉を失う。「なんでここに?」……いや、それはこちらの台詞。このあたりはビジネス街ではあるが、蓮司様の職場はここではないし、吉川様の関係する会社も近くにはなかったはずだ。会わないようにと調べていたから確かなこと場所でもある。そこで、ひとつの違和感に気づく。吉川様は乃蒼の名を呼んだ。つまり―――ここにいる理由は乃蒼?「どうしてあなたがここで花岡さんといらっしゃるの?」問い詰めるような声に、
Read more

2-35

「乃蒼、ちょっと歩くの早い……」人混みを抜けるようにして足早に進む乃蒼の背中を追いながら、ようやく声をかけると乃蒼はぴたりと足を止め、「……ごめん」と短く謝った。しばらく無言のまま歩き続けていたせいか、店からはだいぶ離れている。人通りも落ち着き、先ほどまでのざわめきが嘘のように静かだった。乃蒼は私の手を離し、少しだけ視線を逸らす。その仕草に、彼があの場でどんな判断をしたのかが自然と伝わってきた。「ありがとう。あの夜が蓮司様の誕生日だと知っていて、心配してくれたんでしょう?」そう言うと、乃蒼はわずかに目を細めた。「……知っていたのか。まあ、暗記は得意だもんな」いつもの調子で返してくる。「計算は苦手だけどね」だから、私もいつもの調子で返す。「計算は電卓も表計算ソフトもあるだろう……あれ、いま、妊娠五ヶ月?」「うん」頷くと、乃蒼は納得しきれない様子で首を傾げた。「計算、ミスってるだろ。その日なら四ヶ月前じゃないか。吉川凛花も妊娠四ヶ月って言っていたし、同じ日に妊娠したなら桔梗も四ヶ月だろう? 大事なことなんだからちゃんと覚えてろよ」ああ、それは当然の疑問だ。「間違いじゃないよ。いまはもう妊娠五ヶ月。ちょっと計算が複雑なの。簡単に言うと、妊娠した日から約二週プラスして計算するの」「へえ」「あと、実際の一ヶ月は三十日とか三十一日だけど、妊娠の一ヶ月は二十八日の四週間で区切ることもあって、数え方が少し違うのよ。詳しくはWebで」最後に冗談を交えれば、乃蒼の表情からこわばりが完全に消えた。「分かった、Webな。それじゃあ、吉川凛花が間違っているのか?」その問いには、すぐに答えが出なかった。「表現の違いじゃない? 三日間と四日目みたいな感じ。五ヶ月“目”に入っているのが私で、吉川様は四ヶ月“経過”している、みたいな」「なるほどね」乃蒼は一応納得したように頷いたが、その表情の奥にはまだ何か考えている色が残っていた。だが、それ以上は追及してこなかった。彼なりに、今はそこを深く掘るべきではないと判断したのだろう。. * .私たちは改めて話し合い、和美様に妊娠のことを伝える決心をした。一身上の都合として退職を申し出ることもできるが、住み込みという特殊な働き方である以上、引き継ぎの期間が必要になる。その間に万が一の事態が起き、妊婦である
Read more

2-36

「「「妊娠……」」」三人の視線が一斉に私の腹部へと向けられる。まだ外見ではほとんど分からない。それでも、服を脱げば確かに変化はあって、自分の体が少しずつ別の存在を内包していることを実感する。最近は着替えのたびにその膨らみを見つめ、不思議な感覚に包まれていた。喜びとも違う、戸惑いとも違う、ただ確かにそこに“ある”という実感。朋美様の視線はその一点に留まっていたが、和美様と武美様は違った。腹部だけでなく、顔色や立ち姿、呼吸の様子まで観察するように見ている。出産経験者として、そして医師として、それぞれの視点があるのだろう。言葉を発する前に、情報を拾い上げている―――そんな静かな緊張が場に満ちていた。.「全然気づかなかったわ、武美は?」「私も。いま何週目なの?」和美様と武美様の問いかけに、「十九週です」と答えると、お二人はほっとしたように表情を緩めた。安定期に入っていると分かった安心感なのだろう。一方で、週数という具体的な数字が出たことで現実味が増したのか、朋美様は急にそわそわと落ち着かなくなり、勢いよく立ち上がると私に椅子を勧めてくださった。「と、とりあえず座って! ほら、転んだら大変だし!」その慌てぶりに、和美様が呆れたように息をつく。「朋美、落ち着きなさい。妊娠は病気じゃないのだから、特別な問題がなければ普段通りに生活して大丈夫なの」「そ、そうなの?」「とはいえ、美香さんを立たせている理由もないわね。美香さん、座ってちょうだい。それから……少し立ち入ったことまで聞いてもいいかしら」「はい、答えられる範囲ででしたら」頷いて椅子に腰を下ろすと、三人とも自然と聞く姿勢に入った。和美様は穏やかに、武美様は観察するように、そして朋美様は好奇心と不安が混ざったような目でこちらを見ている。「あなたたち……」和美様が軽くたしなめるように言いかけるが、私は首を振った。「構いません。この状況でいろいろお聞きになりたいのは当然だと思いますし、それに……あとで個別に聞かれるより、一度で済ませたほうが私も助かりますから」自分でも少し現実的すぎる物言いだと思ったが、事実だった。何度も同じ説明を繰り返すのは、きっと想像以上に負担になる。「あ、お兄も呼ぶ?」朋美様のその一言に、空気が一瞬止まった。「朋美、あなたね……」「あんた、鬼なの?」和美様は呆れ
Read more

2-37

「驚いたわ……蓮司はともかく美香さんは全然分からなかったわ」和美様がしみじみと呟く。「……えっと、何がでしょうか?」その問いに答えたのは、突然机を叩いた朋美様だった。「お兄と美香さんが恋人同士だったってこと!」―――思考が止まる。「なるほど、だからこそあの雰囲気だったのか。そうなると釘を刺した意味はなかった?」武美様が納得したように頷く……どこに納得の要素が?「美香さんが元カノかあ……分かるなあ。そう考えると吉川凛花っていい鼻しているよね」「そうね、吉川さんは美香さんにライバル心バチバチだったから」話が、勝手に、しかも勢いよく進んでいく。それに吉川様のあの視線は、ライバルを見るものではなかった。もっとはっきりとした、上下の差を前提とした視線だった。けれど今はそれを説明している場合ではない。「なんで別れたの?」朋美様が身を乗り出す。「あ……」「待って!」その手のポーズ、どこかで見たことがある。完全に探偵のそれだ。「分かるよ。お兄って妹の私から見ても顔はいいけど、顔しかいいところないもんね。美人は三日で飽きるっていうし、美香さんがお兄に飽きるのも分かる。うん、分かる」―――何一つ分かっていらっしゃらない。そして、ここまで誤解が広がると逆に冷静になるものだと、初めて知った。「違うんです。私と蓮司様は恋人同士などではありません」「あ、そういうこと」和美様が頷かれる。だが、その頷きにはどこか含みがある。「一夜の、ってやつね。若い人は情熱的でいいわね」「違います!」なんて誤解を!「いいのよ、理由はなんであれ。美香さんが蓮司のお嫁さんになってくれるなんて……」―――誤解が、さらに加速している。「違います! 子どもの父親は蓮司様ではありません!」ようやく強く言い切ると、部屋の空気が一瞬で静まり返った。先ほどまでの勢いが嘘のように消え、三人の視線が改めて私に集まる。その沈黙は、ようやく話が正しい軌道に戻る予感でもあり、同時に、ここからが本当の説明の始まりであることを示していた。「蓮司様がご存知なのは偶然で……」言葉を継ぐと、三人とも表情を変えずにこちらを見ている。だが、その視線の奥には明らかに「納得していない」という色がある。無理もない。状況だけを切り取れば、どうしても不自然に映るだろう。ご婚約者のいらっしゃる方に、意
Read more

2-38

「美香さんは仕事を続けるの?」和美様の問いは穏やかだったが、その奥にはこれからの生活全体を見据えた真剣さがあった。「保育園が決まり次第復帰するつもりです。家族は……いませんし、花岡ともう一人の友人が子どもの後見人を引き受けてくれて、子育ても手伝ってもらえることになっています」できるだけ簡潔に、しかし誤解が生まれないように言葉を選んで答える。家族がいない事情については、朋美様が明らかに興味を持たれている様子だったが、その視線には気づかないふりをした。ここもまた、踏み込まないことで保たれる距離というものがある。「後任が決まり次第引き継ぎをして、引っ越しもあるので妊娠後期に入る前に……」「ちょっと待って」言葉を遮ったのは武美様だった。その声には先ほどまでの観察的な響きではなく、どこか引っかかりを覚えたような鋭さがあった。「引っ越し? 美香さん、いまの住まいは?」「こちらの仕事を頂いたときにアパートを解約しましたので、新しい住まいを花岡とその友人が住むマンションの近くで探そうと思っているんです」「花岡さんのマンションの場所は?」地名を告げると、和美様が「まあ」と小さく声を上げ、そのまま何かを確認してくると言って席を立たれた。……手持無沙汰だ。「何か、お飲み物を……」「座ってなよ。確認なんてすぐ終わるだろうし」立ち上がろうとした私を武美様が制する。その言い方から、和美様の意図をすでに理解していることが分かった。.ほどなくして和美様は戻ってこられ、私の正面に立つと、柔らかながらも迷いのない声で言った。「美香さん、あなたさえよければ菊乃井の本邸に来てくれない?」思わず瞬きをする。本邸は華乃のマンションと同じ沿線にあり、通勤面で考えれば確かに都合はいい。「当主の和明と千佳さんの許可はいま取れたわ。美香さんなら大歓迎だそうよ」先ほどの“確認”とはこのことだったのかと理解する。菊乃井本邸での仕事―――それは単なる職場の変更ではなく、生活環境そのものの再構築を意味していた。でも、和明様と千佳様には何度かお会いしているし、お二人の人柄もある程度は知っている。厳しさの中に温かさがある方々だという印象だ。だからこそ、この提案が単なる都合ではなく、配慮と善意から来ていることも分かる。「どうかしら?」「そうしていただけるのであれば、是非」そう答え
Read more

2-39

「美香さん、桐谷と吉川が元は同じ家なのはご存知かしら?」和美様の問いかけは、どこか試すようでもあり、同時に覚悟を確かめるようでもあった。私は小さく頷きながらも、その先に続く話の重さを直感する。.財閥解体という時代の大きなうねりの中で、当時のご当主は双子の息子以外の家族を戦争や病で失い、残された二人だけは争わせまいと願った。その結果として資産は等分され、兄である桐弥様は桐谷商会を、弟である吉弥様は吉川商会を興すことになる。だが本質は単なる分割ではない。二人は互いに相手の会社の株を三五パーセントずつ持ち合い、「もし自分が道を誤れば、お前が正してくれ」と誓い合った。その姿は美談として語り継がれているが、同時にそれは互いを縛る鎖でもあったのだと、今なら分かる。「株は子や孫へと引き継がれ、個々の持ち分は薄くなっているけれど、家として見れば桐谷は今も吉川の株の三五パーセントを持っているわ」つまり、数字以上に重い“関係性の支配力”が残っているということだ。逆に言えば、吉川側も桐谷に対して一定の影響力を維持している。桐谷グループの株であれば五パーセントでも大株主、その文脈においての三五パーセントという数字がどれほど異質かは言うまでもない。「ただし吉川側は違うわ。株を手放した者がいて、今では一族全体で一五パーセントほどしか所持していないでしょうね」理想からの逸脱は、静かに、しかし確実に進行していた。事業の不振、個人の判断、短期的な利益。それらが積み重なり、いつしか“守るべき象徴”だった株は“売れる資産”へと変質していた。「気づいた時にはかなりの量が市場に流れていたの。海外資本も絡んで、桐谷側は総力をあげて買い戻したわ」和美様の吐息は深く、その一言に当時の緊張と苦闘が凝縮されているようだった。そこにはもう美談の温度はなく、ただ現実としての戦いがあったのだろう。「二十年ほど前、桐谷は吉川に利益度外視の援助を行ったわ。吉川の当主はこれ以上の醜聞を避けたかったし、事業も厳しかったから受け入れた。そして感謝を大々的に表明した」その出来事が、再び“兄弟愛の物語”を世間に印象づけた契機となった。しかし、それは過去を美しく見せる演出であって、現在の歪みを解消するものではなかった。そして今―――その歪みはついに表面化しているという。.「吉川家ではお家騒動が起きているの
Read more

2-40

「後継者争いで甥に勝つため、英二様が採れる手段はお金。まとまった資金を得るため、ご自分がお持ちの桐谷グループの株を売りたい―――そういうことになりますね」自分の中で繋がった線をなぞるように言葉にすると、部屋の空気がわずかに張り詰めた。思考としては単純な帰結であっても、それが意味するところは決して軽くない。株を売るという行為は単なる資金調達ではなく、力の均衡そのものを揺るがす行為だからだ。おそらく、既に買い手は存在している。しかもその相手は、桐谷グループにとって歓迎できるどころか、むしろ持たれては困る類の人物、あるいは勢力。そうでなければ、ここまで話が複雑に絡み合うはずがない。桐谷側としては、何としてもその売却を阻止したい。しかし、正当な理由なく個人の資産処分に介入することは難しい。だからこそ、そこに“理由”が必要になる……いや、違う。根底には桐谷と吉川の関係がある。二家の間にある美談は有名な話で、英二様が『桐谷グループの望まない相手』に株を売ったことが知られれば、落ちるのは英二様の評判にもうある。「英二様は二つの策を考えたのですね。一つは、娘との結婚を蓮司様に強要する策。もう一つは、蓮司様が結婚話を蹴ったとき、その報復として英二様が敵対勢力に桐谷グループの株を売っても仕方がないという理由を作る策」和美様の顔を見る。「それら策の鍵となるのが―――蓮司様の弱み、ですね」私の言葉に、和美様はゆっくりと微笑まれた。その表情は、正解を示す教師のようでもあり、同時にそれ以上を語らない抑制でもあった。「蓮司に弱点がないとは言わないわ。苦手なこともあるし、できないことだってある。好き嫌いも、もちろんね」穏やかな声音の中に、祖母としての確信がある。私は思わず、日常の中で見た些細な姿を思い浮かべる。蓮司様の弱みといえば……料理。けれど、それは弱みと呼ぶにはあまりに平和なものだ。「でも、あの子は気を許していない相手に、そういうものを見せる子ではないの」和美様が私をジッと見る……何か言いたげに……何かしら。私が首を傾げると、和美様の表情は微妙なものに……何かしら?「とにかく、吉川さんたちでは蓮司の弱みも苦手も探り出すこともできないはずよ」それは、前提が覆る。見せないはずの弱みが握られているということは、それは自然に露見したものではない。「それは、蓮司様は弱
Read more

2-41

「武司兄さんって、お兄の昔の写真をエサにすれば馬車馬みたいに、嬉々として働くもんね」朋美様の軽やかな一言に、場の空気が少し和らいだ。それまでの重たい話題―――株だの弱みだの家出だの話題から一転して、まるで日常の延長線のような会話に戻る。その落差に、私も心の中で一息をつく。……武司様、か。名前だけは何度も耳にしているけれど、実際にどういう方なのかはよく知らない。けれど今の流れを聞いていると、どうやらただの有能な側近というだけではなさそうだ。そんな疑問は、どうやら顔に出ていたらしい。「武司のこと、気になる?」武美様にそう言われ、私は少しだけ気まずく笑う。好奇心を隠すのは、どうにも苦手だ。「武司は父が橋の下で拾ってきた子だから、家族の誰にも似ていないのよ」さらりと言われたその一言に、一瞬だけ思考が止まる。え、と声に出しかけたところで、「武美ちゃん、嘘はやめなよ」と朋美様のツッコミが入った。やはり冗談らしい。けれど和美様は「そうねえ」と、否定も肯定もせず曖昧に笑う。その曖昧さが、逆に妙な現実味を帯びさせているのだから不思議だ。「英家はね、いろいろな先祖の特徴が混ざって出るのよ。だから親子でも兄弟でも、あまり似ないの」なるほど、と納得しかける自分がいる。遺伝の不思議と言われれば、確かにそういうこともあるのかもしれない。「でも声は似ているよ。骨格も似てるんじゃない?」朋美様が補足するように言うと、「逆に言えば声しか似ていないのよ」と武美様が肩を竦めた。「異性だと声も似ないから、昔は何度も武司と恋人同士に間違えられてね。本当にいい迷惑だったわ」「武司兄さんも同じこと言ってると思うよ」「武司のくせに生意気よね」軽口の応酬。その中に、家族としての距離感と信頼が垣間見える。先ほどまでの張り詰めた話が嘘のように、空気が柔らかい。. * .二週間後、私の新しい住まいが決まった。立地、家賃、環境――どれも希望の範囲内に収まり、驚くほどスムーズに話が進んだ。自分一人ではここまで順調にはいかなかっただろうと思うと、周囲の支えの大きさを改めて感じる。その報告を華乃にすると、「早過ぎる」と目を丸くして驚きながらも、「でも良かった」と笑ってくれた。計画が形になっていくことを、一緒に喜んでくれる人がいる。それだけで、心の奥にあった不安が少し軽くなる。ほどなく
Read more

2-42

「……お手伝いって」玄関先で驚いた。引っ越しを早めてしまったことへの詫びとして人を寄越す、と和司様はおっしゃっていたけれど、まさかそれが蓮司様だとは思っていなかったからだ。もっと事務的な人員か、使用人の誰かが来るのだろうと勝手に想像していた。「迷惑をかけているのは、俺の両親だからな」普段と変わらぬ落ち着いた声音のまま、しかし見慣れない格好をした蓮司様。いつもは隙のないスーツ姿、あるいは整えられた部屋着という印象が強いのに、今日はジーンズにTシャツという軽装で、肩の力が抜けた雰囲気を纏っている。その違和感が妙に新鮮で、視線の置きどころに少しだけ困った。「どうした?」「いえ、今日はよろしくお願いします」「ああ」短く返された声のあと、蓮司様の視線が私の腹部に向けられる。「……前回の一ヶ月はそうでもなかったが、今回は同じ一ヶ月でも“久し振り”という感じだな」言われてみればその通りかもしれない。最後に会ったときよりも明らかにお腹が前に出ている。子宮が急速に大きくなり、胎盤が完成して胎児の成長が加速する時期だと説明は受けていたけれど、こうして改めて他人の視線で指摘されると、実感が一段と濃くなる。「凛花も近いうちにこうなるのだろうか」「そうかもしれませんね」同じ頃に妊娠しているはずなのに、まだそれほど目立たない吉川様の姿を思い浮かべる。少し遅い気もするけれど、分からない。体形や筋肉量、生活習慣―――そういったものの違いが、こうして外見の変化にも現れるのだろう。.「想像したより大分荷物が少なかったな」そう言いながら、蓮司様は使わなかった段ボールを軽々とまとめる。荷物の入った段ボールも、持ち上げては納得した顔で重ねている。「随分軽いけれど、服しかないのか?」私の荷物の中身のほとんどは衣類。趣味の読書も電子書籍に移行している今、物理的な荷物は驚くほど少ない。服も多くはない。結局、三箱で収まってしまい、せっかく用意してくださった資材を無駄にしてしまった。「申しわけありません。たくさん段ボールを用意してくださったのに」「気にすることはない。祖母さんたちの荷物を運ぶのに使えばいい」私の謝罪はあっさりと受け流された。「今日は一日休みか?」「はい。もう少し引っ越しに時間がかかると思っていたのですが」それにしても不思議だ。花嶺家を出たときよりも、ず
Read more

2-43

和司様に言われていた雅美様の帰国を歓迎するパーティーは、私の想像していたものとは大きく違っていた。『家族の集まり』と聞いたとき、私は花嶺家でのそれと同じように、ごく限られた身内が静かに顔を合わせる場面を思い描いていたのだ。けれど、その認識はあまりにも狭かったらしい。この家の人たちがいう『家族』とは、血縁だけにとどまらず、長年の付き合いや信頼で結ばれた人々すべてを含んでいるのだと、会場に足を踏み入れた瞬間に思い知らされた。和美様のもとに集まっていた人の数とは規模が違う。見知った顔の方はそれなりにいるが、それぞれが配偶者や子どもを伴って集えば、知らない人の数は一気に膨れ上がる。広いはずの邸内が、にぎやかな声と笑いで満たされ、どこか別の世界に迷い込んだような感覚すら覚えた。それでも、不思議と居心地の悪さはなかった。私の存在に気づいた人々が「美香ちゃん」と自然に声をかけ、柔らかく笑ってくれるからだ。その空気は、歓迎されているのだと実感させるのに十分だった。.「菊乃井家はパリピなのよ」そう笑いながら教えてくださったのは、勤続三十年になる家政婦の米沢さんだった。さらに菊乃井家には勤続二十八年の佐野さんもいらっしゃり、長年この家を支えてきたお二人の存在感は圧倒的だった。正直なところ、これほど経験豊富な方々がいらっしゃるなら、私のような新参者を雇う必要があったのだろうかと不安になった。だが、家政婦の増員は世代交代を見据えたものだと聞き、ようやく胸をなで下ろす。単なる補充ではなく、未来に向けた準備の一環なのだと分かれば、自分がここにいる意味も少しだけ見えてくる。「さあさあ、これが最後ですね」米沢さんはそう言いながらも、手を止めることなく料理を仕上げていく。その動きは無駄がなく、見ているだけで勉強になるほどだった。電子レンジとコンロが同時に稼働し、複数の鍋やフライパンが次々と使われていくのに、気づけば使い終わった器具はすでに洗われ、元の場所へと戻されている。この一連の流れがまるで一つの完成された動作のようで、私はただ感嘆するしかなかった。これほどの手際を求められるのだと思うと身が引き締まるが、同時に、この環境で学べることへの期待も湧いてくる。「さて、料理の準備は終わったし、次は美香ちゃんのお手伝いをしないとね?」そう言われたとき、思わず自分を指差してしま
Read more
PREV
1
...
34567
...
23
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status