「それで、観察に精を出していたら家政婦を辞めることを言い出せなかった、と?」華乃――いまは会社用の顔である乃蒼が、半ば呆れたような視線を向けてくる。その視線から逃れるように、私はカップの中のコーヒーへと目を落とした。ここは会社の近くにあるカフェで、昼休みの時間帯を少し外しているとはいえ、周囲にはスーツ姿の人々が絶えない。そんな場所で“家政婦”としての話題をしていること自体が少し不思議で、同時にどこか現実感が薄い。「楽しくって言い出しにくいのもあるのよ」と言い訳がましく答えると、「おいおい」と乃蒼は肩をすくめた。.「まだ働けるって気持ちもあるの。妊娠していると言っても、生理がないくらいで、よく言われるつわりみたいな症状もないんだもの」「そんなもんか?」「妊娠しているってこともうっかり忘れそうよ」「おいおい、自分の体のことなんだからしっかりとしろよ」呆れ声に押されるように、私はバッグから午前中に区役所で受け取ったばかりの母子手帳を取り出してテーブルの上に置いた。「おお、これが……」乃蒼は興味深そうに身を乗り出す。「その反応、分かるわ。私も受け取ったときは『これは!』って思ったもの。でも窓口の人は淡々としていて、『はい、次の方』ってアッサリしていたわ」「その人にとっては日常茶飯事だろう。他人事なんだろうし。なあ、見てもいいか?」「もちろん。でも中はまだ何も書いてないよ。名前とか住所は自分で書いて、あとは病院でいろいろ記録されるんだって」「そういうものなのか」「知らなかった世界の話だよね。……そうだ、緊急連絡先なんだけど乃蒼を書いてもいい?」「俺以外に誰が……」「花岡さん!」乃蒼の言葉を遮るように、聞き覚えのある声が響いた。反射的に振り向くと、そこに立っていたのは吉川様だった。思わず目を瞠る。「東国さん?」吉川様も目を見開き、私たちは同時に言葉を失う。「なんでここに?」……いや、それはこちらの台詞。このあたりはビジネス街ではあるが、蓮司様の職場はここではないし、吉川様の関係する会社も近くにはなかったはずだ。会わないようにと調べていたから確かなこと場所でもある。そこで、ひとつの違和感に気づく。吉川様は乃蒼の名を呼んだ。つまり―――ここにいる理由は乃蒼?「どうしてあなたがここで花岡さんといらっしゃるの?」問い詰めるような声に、
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