All Chapters of 知らないまま、愛してた: Chapter 51 - Chapter 60

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2-44

背中をそっと押され、私はつい立ての陰に身を滑り込ませるようにして着替え始めた。布が指先に触れた瞬間、ひんやりとした質感とともに目に入ったのは、深く静かな紫色―――偶然とは思えないほど、私の名前に重なる桔梗の色だった。桔梗はお母様の好きだった花で、庭に咲くそれを見つめながら穏やかに笑っていた姿が、今でも鮮やかに思い出される。だからだろうか、お母様はよくこの色の服を身にまとっていた。幼い頃の私はそれに憧れて、「私も着たい」と無邪気に言ったことがある。そのときお母様は、優しく首を振り、「まだ早いわ。大人になったらね」と微笑んだ。その意味を、私はずっと分からずにいた。けれど今、この布を身にまとう瞬間になって、ようやく理解する。凛として気高く、静けさの奥に芯の強さを宿すこの紫は、確かに少女のものではない。無邪気さや軽やかさでは支えきれない重みが、この色にはある。では、今の私はどうなのだろうか。袖を通しながら、鏡に映る自分の輪郭をぼんやりと見つめる。お母様の姿を思い浮かべれば思い浮かべるほど、まだ届いていない気がしてしまう。それでも、もう“早い”と言われる立場ではないのだとも感じていた。胸の下で切り替えられたエンパイアラインは、妊娠中の体を優しく包み込むように設計されているのだから。締め付けはないのに自然と姿勢が整う。初めて着る形なのに、どこかしっくりと馴染む感覚があった。ほんの数分前までエプロン姿で台所に立っていた自分が、こうして別人のように装いを変えることに戸惑いもあるが、それ以上に、内側から何かが引き上げられるような感覚がある。桔梗色の深みが、私の動きや立ち姿に静かな輪郭を与え、ただ立っているだけなのに所作までも整って見える気がした。これを見たら―――ふと、ある人の顔が頭に浮かびかける。「美香ちゃん、サイズはどうかしら?」米沢さんの声に、思考ははじかれるように途切れた。胸の奥で芽生えかけていた何かを慌てて押し込める。「あ、だ、大丈夫です」自分でも少し上ずった声だと思いながら、つい立ての陰から出ると、米沢さんはぱっと表情を輝かせ、まるで自分のことのように嬉しそうに拍手をしてくれた。「あらあら、まあまあ。とても似合うわ。次はこっちね」手招きされ、促されるまま化粧台の前に座る。鏡の中の自分は、まだどこか戸惑いを残した表情をしていたが、米沢さんの手
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2-45

「美香さん!」振り向くと、和美様に頼まれたのだと朋美様が軽やかな足取りで迎えに来てくださった。会場に向かうことを私がためらっているだろうと見越しての行動だったのだろう。その気遣いがありがたくもあり、同時に見透かされていたことへの気恥ずかしさが胸の奥に広がる。「うわあお」感嘆の声とともに、朋美様の視線が上から下へ、そしてまた下から上へと私をなぞる。キラキラとしたその目に見つめられると、背中のあたりがむずがゆくなり、逃げ出したくなるような、でも逃げたくないような不思議な感覚に包まれる。「すっごくキレイ。米沢さん、グッジョブ!」「ありがとうございます、朋美様」二人が揃って親指を立てる様子に、思わず小さく笑いそうになる。「私がエスコート役なんて、すっごい役得! 男共のうらやま視線を独り占め、くうう、快感!」冗談めかした言い方なのに、その声音にはどこか本気の楽しさが滲んでいる。「ほほほ、そうでございますね。武美様、雅美様と武司様はご到着なさったのですか?」「さっきね。武司兄さんはお兄まっしぐら。ぶんぶん揺れる尻尾が見えたよ」朋美様が肩をすくめる。「半年も離れていらっしゃいましたものね」米沢さんが穏やかに頷く。そのやり取りから、家族の距離の近さと温度の高さが伝わってきて、胸の奥がほんのりと温かくなる。「お母さんはひたすら騒いでる。美香さんに会いたい、和食美味しい、ビールはやっぱり日本よねって、なんかすごく情緒不安定なんだ」そう言いながらも、朋美様の表情には喜びがはっきりと浮かんでいた。久しぶりの再会がどれほど嬉しいものか、その一端が垣間見える。羨ましい、と思ってしまったのは、つい先ほどお母様のことを思い出したばかりだからだろうか。「私もご挨拶したいです……あ、私です、すみません」畳んで置いていたエプロンの上で震えていたスマートフォンを手に取る。表示された名前に、胸が少しだけざわつく――華乃だった。「電話なら席を外すね。適当なときに、また来るよ。米沢さん、行こう」二人が部屋を出ていくのを見届けてから、通話ボタンを押した。.『桔梗、面倒なことになったわ』第一声。落ち着いた声なのに、その一言で空気が変わる。「……面倒?」『うちに花嶺辰治が来たの』一瞬、意味が理解できず、思考が止まる。「父が? なんで?」嫌な予感が、じわじわと広が
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【第三章:あの夜の女】

……どうして?頭の奥でその問いだけが反響する。答えのない疑問が、形を持たないまま何度も何度も跳ね返り、思考の輪郭を曖昧にしていく。.「いやあああああああっ!!」  『蓮司様』彼女に名前を呼ばれるたび、胸の奥に静かな波が広がっていった。女性にしてはわずかに低く、落ち着いた響きのある声。決して強くはないのに、不思議と耳に残る声だった。その声が紡ぐ言葉は、朝食に何を食べるかといった他愛のない話題ばかりだったのに、なぜかそれを聞いていると周囲の空気が柔らかくほどけていく。肩に入っていた無意識の力が抜け、気づけば自分でも意外なほど自然に口元が緩んでいた。彼女の声は、何かを変えようとするのではなく、ただそこに寄り添うように届く。だからこそ心地よかった。その声が、好きだった。―――その声で、今、彼女は悲鳴をあげている。「こっち来ないで!」拒絶の言葉が、同じ声で放たれる。その事実が理解できず、思考が一瞬止まる。「どうし……」「いやあああああああっ!!」問いかけるよりも早く、彼女の叫びがそれをかき消した。涙に濡れた瞳は明確な恐怖を宿し、身体は本能的に距離を取ろうと後ずさる。まるで捕食者から逃げる小動物のような反応だった。どうして―――どうして俺に怯える?.「退いて!」横からぶつかってきた衝撃で、ようやく意識が現実に引き戻される。「朋美!」武美の鋭い声が空気を切り裂いた。「そこの馬鹿とこっちの馬鹿を早く外に出して! あと、誰か私の鞄を持ってきて!」武美の目が苛立ちに染まる。「早くしなさいっ!」叩きつけるような指示に、止まっていた時間が一斉に動き出す。戸口にいた者たちも、彼女の悲鳴に凍りついていたのだろう。武美の声がそれを溶かし、ぎこちないながらも一斉に動き始めるのが見えた。見ているだけだった。「お兄、こっち!」朋美に腕を強く引かれ、流れる人波に押されるようにして部屋の外へと連れ出される。その途中で、思わず振り返った。視界の奥に映ったのは、なおも俺を見て怯える彼女の姿だった。部屋を出ても、足はその場から動かなかった。いや、正確には、どこへ行けばいいのか分からなかった。ただ閉ざされたドアを見つめて立ち尽くした。.カチャリとドアが開く音がして、反射的に腕時計に目を落とす―――俺の癖だ。彼女の悲鳴を聞いたときも、同じように無意識に
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3-2

  『やめて!』彼女の声が、悲鳴が、どこからともなく浮かび上がってきた。何かが記憶の奥底で揺れた。正確に言えば、触れてはいけない場所に沈んでいる何かを、不意に掬い上げてしまったような感覚だった。だが俺はすぐにそれを否定する。違う、あれは凛花だ。乱暴とも言える性行為を女に強いたことは、確かだ。でも、その相手は凛花だった。そう言ったのは凛花だが、その証拠もある。だから違う。違うはずだ。なのに―――頭の中で響く悲鳴が、まるで根の浅い杭のように、俺の確信をぐらつかせる。あの夜のことを知るのは―――武司だ。「武司、彼女が俺の……相手をしたというのは、いつのことだ?」自分の声がやけに低く、遠くから響いてくるように感じられた。知りたくないという気持ちに、知らなければいけないという義務感を力づくで被せる。「ほら、蓮司の誕生日の夜だよ」その一言で、思い出せることなど何もない。記憶は辛うじて、「やめて」という声の断片だけ。思い出すべきだ。同時に、何かがそれを拒む。記憶に霧のようなものがかかり、像を結びかけたものを曖昧にぼかしていく。思い出してはいけない、とでも言うように記憶の深淵に沈もうとする。  ブッ。身体に響く衝撃。口の中に広がる鉄の味。「蓮司!」近づこうとした武司を制して、俺はあの夜を思い出すことに集中する。. * .誕生日の夜、俺は大学時代の友人たちに誘われ、ホテルで酒を飲んでいた。もう大々的に祝う年齢ではないが、こうした場は利害関係のある人間を集めるには都合がいい。仕事の話、家の事情、そこに昔話を少し混ぜれば、場はそれなりに整う。二、三時間で切り上げる、そんな予定だった。だが酒が回り始めた頃、同席していた一人が同じホテルで開かれているパーティーの話を持ち出した。女が来ているから呼ぼう、と。正直なところ、男だけで飲むほうが気楽でいい。だが場の空気を壊すほどでもないと判断し、特に口を挟まなかった。しばらくすると扉が開き、数人の女たちが部屋に入ってくる。その中に、凛花の姿があった。.吉川凛花。子どもの頃から妙に俺に執着してきた女だ。ここ数年、そのしつこさは露骨になっていた。他の相手ならば、多少強引にでも距離を取れば済む話だが、相手が吉川家となれば話は別だ。桐谷グループの株を巡る問題がある以上、無用な軋轢は避けなけれ
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3-3

武司に事情を伝えると、「あとは任せろ」と短く言われた。嫌な話ではあるが、桐谷家の男はこうした事態への対処を、ある種の“常識”として叩き込まれている。表に出せない問題、表に出してはいけない問題を、いかに波風を立てずに処理するか。媚薬に関しては、対処の手順は楽なもの。合理的で、そしてどこか人間味を削ぎ落としたものだが、仕方がないこと、処置に近いものだと俺は割り切っていた。武司が手配した部屋に女が呼ばれ、武司は部屋に俺とその女を残して部屋を出た。鍵を持っていったのは、鍵は照明と連動しているからだ、鍵がなければ、部屋を明るくすることはできない。花宮の女たちは教育が行き届いており、守秘義務は徹底されている。それでもなお、こちら側の安全のため、顔を見せない形になるように注意することは少なくない。このときは特に、緊急だから武司はそれを徹底した。緊急、つまり薬物を摂取している状態では行為が荒くなる可能性が高い。だからこそ、互いの顔を曖昧にしたまま、暗闇の中で終わらせるという選択が最善だった。.女が部屋に入ってきたときには、すでに薬は体の隅々まで回っていた。思考は鈍り、理性は薄れ、代わりに衝動だけが異様なほどに鮮明だった。非常灯のかすかな光に浮かび上がるのは、輪郭だけの影。顔は見えない。ただ、そこに“誰かがいる”という事実だけを認識していた。記憶として残っているのは、その曖昧なシルエットだけだ。あとは断片的な、途切れ途切れの感覚だけ。拒絶の声、抗う気配―――どれも、誰のものだったと言えるほどはっきりしていない。凛花だったと、これまでは疑いもせずにいた。整合性は取れていたからだが、今その前提が崩れかけている。彼女のあの反応。あれは、初対面の相手に向けるものではない。明確な“記憶”に対する恐怖だ。……だとすれば、あの夜、あの場にいたのは本当に―――。「あれが……彼女、だったっていうのか?」自分でも信じがたい思いで問い返すと、武司はあっさりと頷いた。「緊急時対応で来た女なのに美人で、もったいないと思ったから間違いない。それに俺は美人は忘れない」軽口のようでいて、その言葉には妙な確信があった。確かに武司はそういう男だ。印象に残る女を見誤ることはない。だからこそ、その断言は否定しきれない重みを持っていた。怖に染まった瞳、拒絶の叫び。それらが一気に繋がり
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3-4

「なんだって、こんなご都合主義の出来過ぎた話を信じたわけ?」武美の呆れた声が、静まり返った空気を鋭く裂いた。図星だった。偶然にしてはあまりにも出来過ぎている。だが、そのときの俺には疑うという発想そのものがなかった。凛花によって提示された証拠。そして身に覚えのある状況。この二つが、あまりにも分かりやすく噛み合っていたからだ。「それは……抱いた女は、処女だったんだ」口にした瞬間、場の温度がわずかに下がった気がした。.あの日、目覚めたときの光景は、今でもはっきりと焼き付いている。乱れたシーツに残っていた、赤い血のあとは一つではなく、いくつも散っていた。性行為時の出血。その意味を理解しないほど鈍くはない。しかし、処女の可能性を捨てたのは、花宮に処女がいるわけがない、しかも緊急対応で呼ばれるような状況で呼ばれることはないという思いこみだった。違和感は……あったのだろうか。分からない。あのときの俺は、それ以上考えなかった。考えないほうが、都合がよかったからだ。女に対して特に紳士的というわけではないが、女子どもに優しくするというのは俺の価値観で、乱暴に扱ってしまったということには罪悪感があった。その罪悪感を、俺は花宮に支払う金を増やして拭い、相手も仕事だと自分の中で無理やり納得させた。花宮の女であれば、それで終わりにできた。金銭で精算し、関係を断ち、記憶を閉じる。それが“正しい処理”であり、花宮という場所が提供している機能でもある。誰も責任を追及せず、何も残らない。それで済むはずだった。だが、その前提は凛花の告白によって崩れ去った。彼女が持ち出した録音を聞いた瞬間、血の気が引くという表現がこれほど正確に当てはまる経験はなかった。そこにあったのは、ただの失敗や過ちの記録ではない。明確な暴力の痕跡だった。泣き叫ぶ女の声、制止を無視されて上がる悲鳴。それに重なる獣のような自分の荒い息遣い。言い逃れのできない形で残された“事実”。あの瞬間、自分の中で何かが崩れたのを覚えている。.凛花は語った。あの夜、姿を消した俺を探してホテル内を歩き回り、偶然その部屋の前にたどり着いたのだと。ちょうどそのとき、武司が部屋から出てくるのを見かけ、不審に思って近くにいたところ、突然扉が開き、中から女が飛び出してきた。その女は何も言わず、ただ逃げるように去っていったという
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3-5

凛花を連れてきたのは千佳叔母さんだった。「お義姉さん、凛花さんをお連れしました」静かに告げるその声の直後、「蓮司さんっ!」と弾けるような声が室内に飛び込んでくる。千佳叔母さんの肩を押しのけるようにして凛花が部屋へ入り、そのまま迷いなくこちらへ駆け寄ろうとする。その明るい表情、何も疑っていない無邪気さ―――それが、つい先ほど見た彼女の姿と重なった。恐怖に引きつった顔、逃げるように後ずさる足取り、喉を裂くような悲鳴。二つの像が重なり、ずれる。そのずれが、胸の奥を強く軋ませた。考えたくないのに、最悪の可能性が現実味を帯びていく。.「凛花さん、あなたを呼んだのは私よ」母の声は穏やかだったが、その奥にある緊張は隠しきれていない。「雅美小母様、ごめんなさい。でも変な騒ぎが起きて、蓮司さんは走っていなくなっちゃうし……」批難のこもった目を、凛花は俺に向ける。「蓮司さんが戻ってこないから寂しくって……それで、あの悲鳴は? ゴキブリでも出たんですか?」軽やかに笑う凛花。その言葉の軽さが、かえって場の空気を冷やした。「似たようなものね。座って頂戴、あなたに聞きたいことがあるの」促され、凛花は少し首を傾げながらも椅子に腰を下ろす。その仕草はいつもと変わらない。だが、こちら側はもう同じではいられない。「単刀直入に聞くわ。あなた、本当に蓮司に乱暴されたの?」母の言葉は、躊躇なく核心を突いた。凛花の表情が一瞬で固まる。次いで、ゆっくりとこちらに視線が向けられた。「なんで……あのことを、言うなんて……」その声には戸惑いと、明確な焦りが混じっている。目に浮かんだ動揺は、隠そうとしても隠しきれないものだった。まさか、この場でこの話題が出るとは思っていなかったのだろう。これまで俺は、あの件について一切を語らず、一族の反対を押し切ってまで結婚を主張してきた。説明を求められても曖昧に濁し、理由を明かすことはなかった。それを知っているからこそ、凛花は油断していたはずだ。そして油断とは―――そういうこと、だ。「答えが、出たな」自分でも驚くほど冷静な声だった。だが、その言葉が意味するものは重い。―――答えが、出てしまった。凛花から目を逸らし、足元が揺らぐのを感じながら壁に手をつく。深く息を吸っても、胸の奥のざわめきは収まらない。「あれは、お前じゃなかったんだな
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3-6

俺が思考の底に沈み込み、現実からわずかに切り離されたように立ち尽くしている間にも、事実確認は容赦なく進められていった。父さんが花宮に連絡を入れ、情報開示を渋るママをどうにか説得し、ついには決定的な事実が引き出された―――あの日、花宮が俺に寄越した女は、客の相手をしたが、それは俺ではなかった。ママ自身も驚きを隠せない様子で、繰り返し確認したというから……間違いない。逃げた女はいない―――凛花の証言は嘘だ。.「和美様、『コンシェルジュ・ド・ハウス』の花岡様がいらっしゃっております」静かながらも緊張を含んだ声で告げたのは、菊乃井家の家政婦である佐野さんだった。その名前に、反射的に思考が引き戻される。花岡、聞き覚えがあるどころではない。「その、大変慌てていらっしゃいまして。聞いたところ、騒ぎが起きたときに美香さんと電話中だったようなのです」「……そうだったのね。ここにご案内して頂戴」祖母さんの落ち着いた返答の直後、扉が開く。現れた男は、普段の整った印象とはかけ離れていた。髪は乱れ、シャツのボタンはかけ違えられ、息もわずかに荒い。「美香は?」第一声がそれだった。体裁も礼儀もかなぐり捨てて、ただ一人の女性の名を呼ぶ。その声音に込められた切迫は、誰の耳にも明らかだった。.彼と彼女の関係については、すでにある程度の情報が共有されている。彼は彼女の学生時代からの友人であり、恋人ではないし、過去にもそういう関係ではなかった―――そう説明されていた。だが、その説明を裏付けるかのように、朋美が容赦なく問い詰めた結果、花岡には別に大切な相手がいることも分かっている。そこまで聞いたときは、ただ女同士の遠慮のなさに感心した程度だったが今になって思えば、その情報は別の意味を持ち始める。あの夜の相手が本当に彼女であり、そしてそれまで彼女が男と関係を持っていなかったのだとすれば―――その理由は何だったのか。この男の存在が、そこに関係していたのではないか。この男のために……そんな想像が、勝手に頭の中で形を取ってしまう。.「ゴキブリが出て美香さんったら吃驚したみたい」祖母さんがあえて軽く言い繕うように口にする。しかし、それを受けた花岡は乾いた笑みを浮かべただけだった。「嘘は結構ですよ。美香はゴキブリは丸めた新聞紙で瞬殺する肝の持ち主です。滅多なことでは悲鳴などあげ
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3-7

沈黙が続く中、花岡の表情が次第に硬化していく。「身内だからとそうやって庇うなら結構。菊乃井様、東国との契約はこの場で終了とさせていただきたい」「花岡さん!」制止の声が上がるが、彼は引かない。「信用できない相手に彼女を預けられない。連れて帰ります、美香はどこです?」その言葉は一方的でありながら、同時に揺るぎない意思を感じさせた。彼にとって最優先なのは契約でも立場でもなく、ただ彼女の安全なのだと分かる。「失礼いたします。武美様、美香ちゃんが目を覚ましたのですが……どうなさったのです?」タイミングを悪く入ってきた米沢さんの報告に、場の空気がさらに張り詰める。武美は一瞬だけ苦い笑みを浮かべ、深く息を吐いた。隠し通せる段階ではない―――その判断が共有される。「花岡社長、ご案内いたします」「ありが……」「あ、お待ちください」動き出そうとした花岡を、米沢さんが慌てて制する。「武美様だけでいかれたほうがよろしいかと……」「どういうこと?」戸惑いと苛立ちが混じる武美の声に、米沢さんは言葉を選ぶように続けた。「あの、目は覚まして意識ははっきりしているようなのですが……美香ちゃんの様子がおかしいんです」その一言で、胸の奥が冷たくなる。様子がおかしい―――その曖昧な表現が、かえって不安を増幅させる。何が起きているのか。考えようとするほど、思考はまとまらない。怖い。ただ、俺はそう思った。でも、全ては無になった。.「あなたは、誰ですか?」.――あれから一週間ほどが経ち、ようやく対面が叶った彼女の口から最初に零れた言葉がそれだった。時間がかかったのは、彼女の身体の回復よりも、精神の安定を優先したためだと聞かされていた。だが、いざこうして顔を合わせてみれば、その配慮がどれほど慎重に積み上げられたものだったのかを思い知らされる。目の前にいる彼女は、確かに“彼女”であるはずなのに、こちらを見つめる眼差しには、かつての面影が決定的に欠けていた。見知らぬ他人を見る、何の感情も乗らない視線。その無垢さが、かえって胸の奥を強く締めつけた。
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3-8

解離性健忘。武美の紹介で呼ばれた心療内科医が告げた診断名は、淡々としていながら重かった。彼女は、自分が誰であるかという根幹すら失っている。名前も、過去も、積み重ねてきた時間も、すべてが霧の中に沈んでいる状態だという。俺のことを覚えていないのは当然としても……それ以上に、あの夜の記憶もまた失われているという事実に、安堵と罪悪感が同時に押し寄せた。あの記憶がないことは、誰にとって救いなのかもしれない。だが、それは同時に、俺が背負うべき現実から彼女が切り離されているということでもある。視界の端で、武美がわずかに肩の力を抜いたのが見えた。『俺』に対してこの反応ならば、少なくとも極端な拒絶は起きない―――そう判断したのだろう。.「桐谷蓮司です」自分の名を告げる声が、どこか他人のもののように響く。「花嶺桔梗です」返ってきたその言葉に、一瞬だけ思考が止まる。花嶺桔梗―――それが、東国美香としてここにいた彼女の本来の名だった。花嶺家といえば、欧州との貿易で名を上げた歴史を持つ名家。その現当主である花嶺辰治には二人の娘がいると聞いていた。姉の桔梗と、異母妹の桜子。その姉である桔梗について、俺がこれまで知っていた情報は、彼女に対して好意的なものではなかった。  『夜な夜な男と遊び歩き、異母妹を虐げる奔放な女』―――そう語ったのは、彼女の元婚約者であり、俺の大学時代の同期でもある錦野柾だった。その認識はすでに揺らいでいる。花岡乃蒼は、彼女のこれまでも教えてくれた。彼女は亡き母の生家である西園寺家の縁を活かし、多くの名家を『コンシェルジュ・ド・ハウス』に紹介し、その功績をもって副社長の地位に就いていること。錦野柾に婚約破棄され、父に勘当され、行き場を失った彼女が頼ったのが花岡だったこと。彼の語る『花嶺桔梗』は俺の知っていた花嶺桔梗の像とは一致せず、俺の知る『東国美香』だった。冷静で、現実的で、責任を背負う覚悟を持った人物像が浮かび上がらせる花岡乃蒼の彼女を好意的に語る内容……どちらが真実に近いのか―――答えはまだ出ていない。だが、少なくとも俺は、花岡の語る彼女のほうだと思っている。錦野柾の言動にあった違和感も、俺のその判断に影響している。あの男は婚約者であるはずの花嶺桔梗を差し置き、彼は異母妹の桜子を様々な場に同伴させていた。表向きは『償い』、己の婚
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