《知らないまま、愛してた》全部章節:第 51 章 - 第 60 章

274 章節

2-44

衝立の陰に身を滑り込ませるようにして着替える。布が指先に触れた瞬間、ひんやりとした質感。目に入ったのは、深く静かな紫色――私の名前、桔梗の色だった。.桔梗はお母様の好きだった花だ。庭に咲く桔梗の花を見つめながら穏やかに笑っていた母の姿が、今でも鮮やかに思い出される。母はよくこの色の服を身にまとっていた。幼い頃の私はそれに憧れた。「私も着たい」と無邪気に言ったことがある。そのとき母は優しく首を振り、「まだ早いわ。大人になったらね」と微笑んだ。その意味を、私はずっと分からずにいた。今、この布を身にまとう瞬間になって、ようやく理解する。凛として気高く、静けさの奥に芯の強さを宿すこの紫は、確かに少女のものではない。無邪気さや軽やかさでは支えきれない重みがある。今の私はどうなのだろうか。まだ早い?もう大丈夫?袖を通しながら、鏡に映る自分の輪郭をぼんやりと見つめる。母の姿を思い浮かべれば思い浮かべるほど、まだ届いていない気がしてしまう。それでも、「まだ早い」と言われていてはいけない立場なのだ。もう少しで母親になるのだから。胸の下で切り替えられたエンパイアライン。妊娠中の体を優しく包み込むように仕立てられた服。締め付けはないのに自然と姿勢が整う。初めて着る形なのに、どこかしっくりと馴染む感覚があった。ほんの数分前までエプロン姿で台所に立っていた自分が、こうして別人のように装いを変えることに戸惑いもある。でも、それ以上に内側から何かが引き上げられるような感覚がある。桔梗色の深みが、私の動きや立ち姿に静かな輪郭を与える。ただ立っているだけなのに、所作までも整って見える気がした。これを見たら――ふと、ある人の顔が頭に浮かびかける。.「美香ちゃん、サイズはどうかしら?」米沢さんの声に、思考が弾かれるように途切れた。胸の奥で芽生えかけていた何かを慌てて押し込める。「あ、だ、大丈夫です」自分でも少し上ずった声だと思いながら、つい立ての陰から出る。米沢さんはぱっと表情を輝かせ、まるで自分のことのように嬉しそうに拍手をしてくれた。「あらあら、まあまあ。とても似合うわ。次はこっちね」手招きされ、促されるまま化粧台の前に座る。鏡の中の自分は、まだどこか戸惑いを残した表情をしていた。米沢さんの手が動き始める。無駄のない動
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2-45

「美香さん!」振り向くと、朋美様が軽やかな足取りで部屋に入ってきた。和美様に頼まれて迎えに来てくださったらしい。会場に向かうことを私がためらっているだろうと見越しての行動だったのだろう。その気遣いがありがたくもあり、同時に見透かされていたことへの気恥ずかしさが胸の奥に広がる。「うわあお」感嘆の声。朋美様の視線が頭の天辺から足元へ、そして、足元から頭の天辺へと私をなぞる。キラキラとしたその目に見つめられると、背中のあたりがむず痒くなった。逃げ出したくなるような、でも逃げたくないような、不思議な感覚に包まれる。「すっごくキレイ。米沢さん、グッジョブ!」「ありがとうございます、朋美様」二人が揃って親指を立てる様子に、思わず小さく笑いそうになる。「私がエスコート役なんて、すっごい役得! 男共のうらやま視線を独り占め、くうう、快感!」冗談めかした言い方なのに、その声音にはどこか本気の楽しさが滲んでいる。「ほほほ、そうでございますね。武美様、雅美様と武司様はご到着なさったのですか?」「さっきね。武司兄さんはお兄まっしぐら。ぶんぶん揺れる尻尾が見えたよ」朋美様が肩をすくめる。「ながく離れていらっしゃいましたものね」米沢さんが穏やかに頷く。そのやり取りから、家族の距離の近さと温度の高さが伝わってきて、胸の奥がほんのりと温かくなる。「お母さんはひたすら騒いでる。美香さんに会いたい、和食美味しい、ビールはやっぱり日本よねって、なんかすごく情緒不安定なんだ」そう言いながらも、朋美様の表情には喜びがはっきりと浮かんでいた。久しぶりの再会がどれほど嬉しいものか、その一端が垣間見える。羨ましい、と思ってしまったのは母のことを思い出したばかりだからだろうか。「私もご挨拶したいです……あ、私です、すみません」畳んで置いていたエプロンの上で震えていたスマートフォンを手に取る。表示された名前に、胸が少しだけざわつく――華乃だった。「電話なら席を外すね。適当なときに、また来るよ。米沢さん、行こう」二人が部屋を出ていくのを見届けてから、通話ボタンを押した。.『桔梗、面倒なことになったわ』第一声。落ち着いた声なのに、その一言で空気が変わる。「……面倒?」『うちに花嶺辰治が来たの』一瞬、意味が理解できず、思考が止まった。「父が? なんで?
last update最後更新 : 2025-12-28
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3-1

【蓮司視点】……どうして?頭の奥でその問いだけが反響する。答えのない疑問が、形を持たないまま何度も何度も跳ね返り、思考の輪郭を曖昧にしていく。◇◇◇「いやあああああああっ!!」――蓮司様。彼女に名前を呼ばれるたび、胸の奥に静かな波が広がっていった。女性としてはやや低めで、落ち着いた響きのある声。決して強くはないのに、不思議と耳に残る声だった。.その声が紡ぐ言葉は、朝食に何を食べるかといった他愛のない話題ばかりだったのに、なぜかそれを聞いていると周囲の空気が柔らかくほどけていく。肩に入っていた無意識の力が抜け、気づけば自分でも意外なほど自然に口元が緩んでいた。彼女の声は、何かを変えようとするのではなく、ただそこに寄り添うように届く。だからこそ心地よかった。その声が、好きだった。その声で。今、彼女は悲鳴をあげている。.「こっち来ないで!」拒絶の言葉が、同じ声で放たれる。その事実が理解できず、思考が一瞬止まる。「どうし……」「いやあああああああっ!!」問いかけるよりも早く、彼女の叫びがそれをかき消した。涙に濡れた瞳は明確な恐怖を宿し、身体は本能的に距離を取ろうと後ずさる。まるで捕食者から逃げる小動物のような反応だった。どうして?――どうして俺に怯える?.「退いて!」横からぶつかってきた衝撃で、ようやく意識が現実に引き戻される。「朋美!」武美の鋭い声が空気を切り裂いた。「そこの馬鹿とこっちの馬鹿を早く外に出して! あと、誰か私の鞄を持ってきて!」武美の目が苛立ちに染まる。「早くしなさいっ!」叩きつけるような指示に、止まっていた時間が一斉に動き出す。戸口にいた者たちも、彼女の悲鳴に凍りついていたのだろう。武美の声がそれを溶かし、ぎこちないながらも一斉に動き始めるのが見えた。見ているだけだった。「お兄、こっち!」朋美に腕を強く引かれた。流れる人波に押されるようにして、俺は朋美に部屋の外へと連れ出された。その途中で、彼女を見る。視界の奥に映ったのは、なおも俺を見て怯える彼女の姿だった。部屋を出ても、足はその場から動かなかった。正確には、どこへ行けばいいのか分からなかった。ただ閉ざされたドアを見つめて立ち尽くした。◇◇◇ カチャリドアが開く音がして、反射的に腕時計に目を落とす――俺
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3-2

【蓮司視点】彼女と関係を持っておいて、覚えていない?何かが記憶の奥底で揺れた。触れてはいけない場所に沈んでいる何かを、不意に掬い上げてしまったような感覚。――やめて!女の悲鳴が、いや、彼女の悲鳴が、どこからともなく浮かび上がってきた。違う。俺は即座に否定する。違う、あれは凛花だ。乱暴な性行為を女に強いたことは、ある。だが、その相手は凛花だった。……そう言ったのは凛花だが、その証拠もあった。だから……違う。……違うはずだ。なのに――。頭の中で響く彼女の悲鳴。まるで打ち込みが浅い杭のように、俺の確信がぐらつく。あの夜のことを知るのは――武司だ。.「武司、彼女が俺の……相手をしたというのは、いつのことだ?」自分の声がやけに低く、遠くから響いてくるように感じられた。知りたくない。でも、知らなければいけない。逃げ出したい気持ちを義務感でねじ伏せる。「蓮司の誕生日の夜だよ」ドクリと心臓が嫌な音を立てる。誕生日。凛花が俺に襲われたと言った日。あの夜のことで、思い出せることなど何もない。思い出すべきだ。同時に、何かがそれを拒む。記憶に霧のようなものがかかり、像を結びかけたものを曖昧にぼかしていく。思い出してはいけない、とでも言うように記憶の深淵に沈もうとする。ガリッ。口の中に鋭い痛みが走った。鉄の味が広がる。「蓮司!」近づこうとした武司を制して、俺はあの夜を思い出すことに集中する。.誕生日の夜は、ホテルで酒を飲んでいた。大学時代の友人たちに誘われて、大々的に祝う年齢ではないが、利害関係のある者たちを一度に集めるのに都合のいい理由になった。仕事の話。家の事情。そこに昔話を少し混ぜれば、場はそれなりに整う。2、3時間で切り上げる予定だった。だが酒が回り始め、一人が同じホテルで開かれているパーティーの話を持ち出した。そのパーティーに女友だちが来ているから呼ぼう。その提案に友人たちは盛り上がった。男だけで飲むほうが気楽で良かったが、場の空気を壊すほどでもないと判断して反対しなかった。しばらくすると、数人の女たちが部屋に来た。その中に、凛花がいた。吉川凛花。子どもの頃から、妙に俺に執着してきた女。ここ数年は露骨に、しつこかった。他の女ならば、多少強引にでも距離を取れば済む話。しかし、
last update最後更新 : 2026-04-28
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3-3

【蓮司視点】俺の異変に気付いた武司は、ホテルに部屋を取った。嫌な話ではあるが、桐谷家の男はこうした事態に慣れている。ほぼ常識として、その対処法を学ばされている。表に出せない問題。表に出してはいけない問題。それらをいかに波風を立てずに処理するか。媚薬の対処は、比較的楽なほうだ。女を抱けばいい。桐谷家が利用する花宮は、そういう女を提供してくれる。合理的で、人間味を削ぎ落とした方法だが、仕方がない処置だと俺は割り切っていた。花宮が提供してくれる女は教育が行き届いている。守秘義務も徹底されている。それでも俺は、後で脅迫されるなどのことがないよう、顔が見えないように部屋を暗くする。薬物を摂取している状態では行為が荒くなる可能性が高い。互いの顔を曖昧にしたまま、暗闇の中で行為を終わらせるという選択が最善だった。.女が部屋に入ってきたときには、すでに薬は体の隅々まで回っていたのだろう。行為の始まりをろくに覚えていない。覚えているのは、非常灯のかすかな光に浮かび上がった影。その曖昧なシルエットだけ。あとは断片的な、途切れ途切れの感覚だけ。――どれも、誰のものだったと言えるほどはっきりしていない。.のちに、凛花がそのときの相手は自分だと言った。それを嘘だと言える記憶が俺にはなかった。反対に凛花には、俺に襲われたという証拠があった。だから、これまでは疑いもせずにいた。だが今は、あれは凛花ではなかったと思っている。証拠はない。直感だが、彼女のあの反応は……。あれは、俺に向けられた、明確な――恐怖。.「あのとき派遣されて来た女が……彼女だった、というのか?」自分でも信じ難いことを言った。でも、武司はあっさりと頷いた。「間違いない。俺は、美人は忘れない」軽口のようでいて、その言葉には妙な確信があった。確かに武司はそういう男だ。印象に残る女を見誤ることはない。それに、彼女のような美人はなかなかいない。だからこそ――。「嘘だろ……」恐怖に染まった瞳。拒絶の叫び。覚えていない夜の記憶が想像できて……。「花宮から来た女は、逃げたと聞いていたのに……」――この部屋から女が逃げるのが見えたから。何事かあったと思って部屋に入った。そうしたら、俺に襲われた。凛花から、そう聞かされていた。薬を盛られた状態での
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3-4

【蓮司視点】「なんで、こんな吉川凛花に都合のいい、出来過ぎた話を信じたわけ?」俺の分かっていることと凛花とのやり取りを離すと、武美が呆れた。確かに出来過ぎているとは思う。しかし、あの夜誰かを抱いたことは確かだ。凛花の証言、音声データ、そして身に覚え。あまりにも分かりやすく噛み合っていたし。「それは……処女だった、から……」処女を奪っておいて疑うということは、流石にできなかった。.乱れたシーツには血がついていた。血の痕はひとつではなく、いくつも付いていた。性行為で出血したかと思ったが、処女を奪ったときの血とは思わなかった。花宮に処女がいるわけがない。しかも、媚薬を盛られた男の相手なのだから、手慣れた女が送られてくると思っていた。手荒く抱いてしまったのかもしれないと軽く反省した。その程度だった。それ以上考えなかった。考えないほうが楽だったからだ。女に対して紳士的というわけではないが、女には丁寧に接すべきというのが俺の価値観で、薬の支配下にあったにせよ、女を乱暴に扱ったことに罪悪感があった。その罪悪感を、俺は花宮に支払う金を増やすことで済ませた。相手も仕事なのだと自分の中で割り切った。花宮の女であれば、それで終わりにできた。金銭で精算し、関係を断ち、記憶を閉じる。それが正しい処置であり、花宮が存在し、機能している理由でもある。誰も責任を追及せず、何も残らない。それで済むはずだった。その罪悪感が、凛花によって蘇った。あの音声を聞いた瞬間、血の気が引いた。そこにあったのは、ただの失敗や過ちの記録ではない。明確な暴力。泣き叫ぶ女の声。制止を無視されて上がる悲鳴。それに重なる獣のような自分の荒い息遣い。言い逃れのできない形で残された“事実”。あの瞬間、自分の中で何かが崩れたのを覚えている。.凛花によれば、あの夜は姿を消した俺を探してホテル内を歩き回っていた。そして偶然、武司が部屋から出てくるのを見た。その部屋に俺がいることが分かったが、どうやって訪ねようか考えている最中に突然部屋の扉が開き、中から女が飛び出してきた。逃げるようだった女の様子が気になったが、部屋の中からは俺のうめき声が聞こえた。心配になって中に入ったところを俺に襲われた――そう語った。理屈だけを並べれば、俺にも言い分はある。薬を盛
last update最後更新 : 2026-04-28
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3-5

「凛花さんを連れてきました」「蓮司さんっ!」凛花が弾けるような声を上げる。ここまで自分を連れて来た千佳叔母さんの肩を押しのけるように、凛花が部屋に入ってくる。迷いなくこちらへ駆け寄ろうとする凛花。その明るい表情。何も疑っていない無邪気さ。彼女の姿が重なる。恐怖に引きつった顔。逃げるように後退る姿。喉を裂くような悲鳴。凛花と彼女の、二つの像が重なり、ずれる。そのずれが、胸の奥を強く軋ませた。考えたくないのに、最悪の可能性が現実味を帯びていく。.「凛花さん、あなたを呼んだのは私よ」母さんの声は穏やかだったが、その奥にある緊張は隠しきれていない。「ごめんなさい。でも変な騒ぎが起きて、蓮司さんは走っていなくなっちゃうし……」会場に一人で残されていたという批難の目を凛花は俺に向ける。「それで、あの悲鳴は? ゴキブリでも出たんですか?」軽やかに笑う凛花。その言葉の軽さが、かえって場の空気を冷やした。「似たようなものね」母さんが自分の正面、俺の隣の椅子を指さす。「座ってちょうだい。あなたに聞きたいことがあるの」凛花は少し首を傾げながらも椅子に腰を下ろす。その仕草はいつもと変わらない。だが、俺はもう同じではいられない。反射的に凛花から体を離した。.「あなた、本当に蓮司に乱暴されたの?」母の言葉は、躊躇なく核心を突いた。凛花の表情が一瞬で固まる。そして、凛花の視線がこちらに向けられた。「なんで……」その声に滲むのは戸惑いと……明確な、焦り。目には動揺が浮かんでいる。ああ、全て嘘だ。「あのことを、言うなんて……」この場でこの話題が出るとは思っていなかったのだろう。これまで俺はあの件について一切を語らず、一族の反対を押し切ってまで凛花との結婚を主張してきた。説明を求められても曖昧に濁し、決して理由を明かすことはなかった。それを凛花は俺の隣で見てきた。だから、自分の嘘が露呈するなど思っていなかったはずだ。油断している。全てが顔に出ている。「答えが、出たな」自分でも驚くほど冷静な声だった。胃がずしりと重い。――答えが、出てしまった。凛花から目を逸らし、揺らぐ頭を支えるために机に肘をつく。組んだ手の上に頭を置いて、深く息を吸う。胸の奥のざわめきは収まらない。「あれは、お前じゃなかったんだな
last update最後更新 : 2025-12-29
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3-6

【蓮司視点】事実確認は容赦なく進められていった。父さんが花宮に連絡を入れた。情報開示を渋るママをどうにか説得し、俺のもとに派遣されたはずの女性から話を聞き出した。派遣された女性は客の相手をしたが、その相手は俺ではなかったと証言した。いつも通りフロントで花宮と名乗り、告げられた部屋番号は俺のいた部屋ではなかった。それにはママも驚いていた。女性によればフロントでのやり取りはいつも通りで、向かった部屋にいた男も慣れた感じでサービスを受けたから、客を間違えたとは思わなかったらしい。女性は俺のいた部屋にはいかなかったと断言した。フロアまで違うのだから、女の言っていることに嘘はないだろう。.「和美様、『コンシェルジュ・ド・ハウス』の花岡様がいらっしゃっております」緊張の滲む声で、菊乃井家の家政婦である佐野さんが来客を告げた。花岡乃蒼。「その、大変慌てていらっしゃいまして……美香さんを出せ、と」「……どうして花岡さんが?」「どうやら、騒ぎが起きたときに美香さんと電話中だったようなのです」佐野さんの言葉に朋美が声をあげた。「美香さんに電話がかかってきたから席を外したの……花岡社長だったんだ」「……そうだったのね」祖母さんはしばし考えこみ、そして頷いた。「花岡社長をここにご案内してちょうだい」「畏まりました」.佐野さんに案内されてきた花岡乃蒼は、最初に会ったときと印象が違った。髪は乱れ、シャツのボタンはかけ違えられ、息もわずかに荒い。慌ててここに来たことが分かる。「美香は?」第一声がそれだった。体裁も礼儀もかなぐり捨てて、ただ彼女の名前を呼ぶ。彼女のことを心配してここに来たことは、誰の耳にも明らかだった。.花岡乃蒼と彼女の関係については、すでにある程度の情報が共有されている。彼女とは学生時代からの友人だという。恋人ではないし、過去にもそういう関係はなく、当然子どもの父親でもない。そう朋美と武美が、彼女から直接聞いたのだと言った。そのとき朋美は彼女を容赦なく問い詰めたらしい。その結果、花岡乃蒼には別に大切な相手がいることも分かっている。あの夜の相手が本当に彼女の場合、彼女がそれまで一度も男と関係を持っていなかったのだとすれば。――花岡乃蒼が関係していたのか?.「ごめんなさい、花岡社長。美香さんはいま奥の部
last update最後更新 : 2026-04-28
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3-7

【蓮司視点】「身内だからと庇うなら結構。菊乃井様、東国との契約はこの場で終了とさせていただきたい」「花岡さん!」祖母さんが声を上げるが。「信用できない相手に東国を預けられない」花岡乃蒼は引かない。「東国を連れて帰ります……美香はどこです?」一方的な宣言だったが、そこには揺るぎない意思があった。花岡乃蒼にとって最優先なのは契約でも立場でもない。彼女の安全なのだと分かる声だった。.「失礼いたします。武美様、美香ちゃんが目を覚ましたのですが……どうなさったのです?」よりにもよってこのタイミングで入ってきた米沢さんの報告に、場の空気がさらに張り詰める。武美は一瞬だけ苦い笑みを浮かべ、深く息を吐いた。隠し通せるものではない。武美がそう判断したのが分かった。「花岡社長、ご案内いたします」「ありが……」「あ、お待ちください」武美についていこうとした花岡乃蒼を止めたのは米沢さんだった。「あの、先に武美様だけ行かれたほうがよろしいかと……」「どういうこと?」戸惑いと苛立ちが混じる武美の声。米沢さんは言葉を選ぶように答える。「あの、目は覚まして意識ははっきりしているようなのですが……美香ちゃんの様子がおかしいんです」胸の奥が一気に冷たくなる。様子がおかしい。その曖昧な表現に、不安になる。何が起きているのか。考えようとするほど、思考はまとまらない。怖い。ただ、俺はそう思った。だが、その恐怖さえも、取るに足らないものになった。.「あなたは、誰ですか?」.ようやく再会できた彼女が、最初に口にした言葉。対面するまでには時間がかかった。彼女の精神状態が落ち着くまで、面会を控えていたためだった。だが、いざこうして顔を合わせてみれば……。あの武美の配慮がどれほど慎重に積み上げられたものだったのかを思い知らされる。目の前にいる彼女は、確かに彼女であるはずなのに。こちらを見つめる眼差しには、かつての面影が決定的に欠けていた。見知らぬ他人を見る目。何の感情も滲んでいない。その無垢さに胸の奥を強く締めつけられた。
last update最後更新 : 2026-04-28
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3-8

【蓮司視点】武美の紹介で呼ばれた心療内科医は、淡々と診断名を告げた。解離性健忘。その言葉は、ひどく重かった。.彼女は、自分が誰であるかという根幹すら失った。名前も、過去も、積み重ねてきた時間も。今はすべてが霧の中に沈んでいる状態だという。俺のことを覚えていないことはショックだ。だが、それ以上に、あの夜の記憶もまた失われているという事実に、安堵し、そう思う自分に対する嫌悪感が同時に押し寄せる。あの記憶がないことは、彼女にとって救いなのかもしれない。だが、俺が背負うべき罪が宙に浮き、現実から彼女が切り離されているということでもある。視界の端で、武美がわずかに肩の力を抜いたのが見えた。俺に対する反応が、見知らぬ他人に向けるものならば、今後も俺に対して極端な拒絶は起きない――そう判断したのだろう。◇◇◇「桐谷さん」本を読んでいた彼女が顔を上げ、俺の名前を呼ぶ。桐谷さん。俺の名だけれど、どこか他人のもののように響く。「桔梗さん」美香さんと呼び間違えないように気を付ける。桔梗――花嶺桔梗。それが、東国美香だった彼女の本当の名前だった。.花嶺家といえば、欧州との貿易で名を上げた歴史を持つ名家の一つ。現当主である花嶺辰治には二人の娘がいることは知っていた。姉の桔梗と、異母妹の桜子。『花嶺桔梗』について俺が知ることは少ない。『男遊びの激しい奔放な女』『花嶺家に寄り付かず、たまに帰ってきては異母妹を虐めてばかり』どれも『花嶺桔梗』に対して好意的なものではなかった。そして、それを俺に語っていたのは、彼女の婚約者だった錦野柾。錦野柾は俺と同じ大学で、学部は違うがそこそこ面識はあった。それが嘘八百だと教えてくれたのは花岡乃蒼――花岡社長だった。.桔梗さんの母親は西園寺家の出身で、彼女はその縁を活かして『コンシェルジュ・ド・ハウス』に多くの家を紹介し、花岡社長の人脈を広げる手助けをしていた。なぜ桔梗さんが偽名で働いていたのかも説明してくれた。錦野柾に婚約破棄されたあと、桔梗さんは父に勘当されたらしい。仕事を求めて桔梗さんは花岡社長のところに行った。花嶺家との縁を切りたかった彼女は、『東国美香』と名乗ることにした。花岡社長の語る『花嶺桔梗』は俺の知る『東国美香』だった。.桔梗さんがどうしてあそこまで評判を貶められ
last update最後更新 : 2025-12-30
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