All Chapters of 知らないまま、愛してた: Chapter 81 - Chapter 90

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4-16 side桔梗

「蓮司さん?」夜の静けさの中で自分の声がやけに大きく響いた気がして、思わず周囲を見回した。誠司が久しぶりに夜泣きをして、しばらく抱いてあやしていたらすっかり目が冴えてしまった。寝直すには意識がはっきりしすぎていて、温かいものでも飲めば少し落ち着くかもしれないと思い、キッチンに足を運んだ。冷蔵庫の中を見ていた蓮司さんがこちらに顔を向ける。暗がりの中、冷蔵庫の白い光だけを浴びているせいか、蓮司さんの整いすぎた顔立ちがかえって非現実的で、少しだけ怖い。けれど、その存在に安心している自分もいるのが不思議だった。「桔梗、ただいま」振り向いた蓮司さんが挨拶をするのには、わずかに動きの間があった。今日は酒席があると言っていたから、おそらく軽く酔っているのだろう。顔にはほとんど出ていないけれど、いつもよりほんの少しだけ反応が遅い。それでも彼は必ず「ただいま」と先に言ってくれる。「お帰りなさい」と返しながら、胸の奥がじんわりと温かくなる。どちらが先でも同じはずなのに、この順番にこだわる自分の気持ちは、きっと他人には理解されにくいだろう。でも、蓮司さんには教えてある―――説明させられたのほうが正しいかもしれない。以前、「ただいま」を先に聞きたくて、わざと「おかえり」を遅らせてしまったことがあった。どうしたのかと不思議そうに尋ねられて、体調不良ではないかと心配され、慌てて説明した。屁理屈みたいで恥ずかしかったけれど、話して良かったと思えるのは、それ以来、蓮司さんは必ず先に言ってくれるから。でも、このことで言っていないことが一つだけある。「ただいま」は“あなたのところに帰ってきた”という意味で、あなたのいる場所が自分の帰る場所なのだということを示す言葉だと―――私に実感させてくれたのが蓮司さんだ。蓮司さんの「ただいま」を聞くと、誠司と一緒に退院した日のことを思い出す。.その日は、天気が良かった。病院の入口には蓮司さんだけでなく、お義父様やお義母様、そして朋美さんまで来てくれていた。担当の先生が「素敵なご家族ですね」と微笑んだとき、私は曖昧に笑うことしかできなかった。家族―――その言葉を自分が使っていいのか分からなかったからだ。入院中に入籍は済ませていたけれど、それは書類上の変化でしかなく、結婚したという実感はほとんどなかった。大きな家だから迎えの車は二台用
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4-17

前の私と今の私は、同じ人間であるはずなのに、どうしても同一の存在だとは思えない。頭では理解している。記録として与えられた情報も、周囲の人たちが語る過去も、すべてが「私」に起きたことだと分かっている。それでも感覚の上では、前の私はまるで本の中の登場人物のような存在だ。出来事は淡々と並べられているのに、そのとき何を感じたのかが抜け落ちている。だから私は、国語の問題を解くように「このときの気持ちは何か」と推測するしかない。けれど恋愛のように感情がすべてであるものについては、その推測すら空回りする。前の私が蓮司さんを好きだったのではないか、という仮定までは辿り着ける。けれど、その先が続かない。どのようにして想いが育ち、どのような経緯で誠司を授かるに至ったのか、その物語は白紙のままだ。答えを知っているはずの人は目の前にいる。手を伸ばせば届く距離にいる。それなのに、その問いを口にすることができない。それは単なる過去の確認ではなく、いまの私に向けられている感情を問いただすことと同義だからだ。いまの蓮司さんの態度や空気から、少なくとも好意は感じられる。優しさもあるし、気遣いもある。けれど、それが恋情なのかと問われれば、自信が持てない。知りたい気持ちは確かにあるのに、同じだけ怖さもある。「私を好きですか」と問うことができる人は、きっと強い人なのだろう。猛者というに違いない。私はまだ、その強さを持てずにいる。.「冷蔵庫を覗いて、どうしたのです?」声をかけると、蓮司さんは少し肩をすくめて答えた。「話の相手をしていたら飯を食いっぱぐれた。何かないか探していたんだが……ないな」冷蔵庫の中にはいくつものタッパーが整然と並んでいるが、それぞれに名前が書かれている。蓮司さんの名前のものはない。つまり、彼の取り分は残っていないということだ。桐谷家は食い意地が張って……食に対して非常に几帳面で、分配は徹底されている。余ったものはタッパーに入れられ、日付と名前が記される。期限内は所有者のもの、それを過ぎれば共有財産となる。このルールを知らない人が見れば、少し引いてしまうかもしれない。だから表向きの冷蔵庫とは別に、もう一台を棚に偽装してその冷蔵庫を設置しているという徹底ぶりだ。いま蓮司さんが漁っているのは、その偽装されたほうの冷蔵庫だった。「朋美のやつ、きっちり食っている
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4-18

「アレを使えば俺でもインスタントラーメンを作れるから桔梗は寝て……」「多分、無理ですよ」思わず被せ気味に否定してしまい、言った直後に自分でも少し反省する。落ち着こう、まずは蓮司さんの空腹を満たさないと、この先のことも何も進まない。それに、実際問題として無理なのだ。タッパーに名前を書いて管理する文化といい、インスタントラーメンの存在といい、名家と呼ばれる桐谷家の実態は一般的なイメージとは少し違う。しかしそれにはきちんと理由がある。桐谷家とその一族には、冗談では済まされないレベルで「まずい料理しかできない」という、ほとんど呪いと呼んで差し支えない特性があるのだ。.蓮司さんが言っている“アレ”とは、朋美さんが最近購入した、電子レンジでインスタントラーメンを調理できる便利グッズのことだ。今日の午前中、まさに今の蓮司さんと同じように意気込んだ朋美さんが、きっちりと材料を揃え、説明書を熟読し、手順通りに準備を進めていたのを私は見ていた。水の量も時間も正確、工程にミスは一つもなかった。それなのに。「温めてスープの粉を入れようとしたのですが、そのスープの袋が調理台の上から消えていたんです」「どうして?」「分からないんです。あのときキッチンにいたのは私と朋美さんだけでしたし、捨てたのかと思ってゴミ箱も確認しましたが、ありませんでした」蓮司さんが「ホラーじゃないか」と呟くのも無理はない。確かにこれはもはや日常的なトラブルの域を超えている。呪いという言葉が冗談に聞こえない程度には、不可解で再現性があるのだから。そして、その呪いは例外なく、桐谷家の人間に等しく降りかかる。誠司の離乳食を作ろうとしていたときのことを思い出す。材料をブレンダーで滑らかにしていたら、お義母様が「手伝いたい」と声をかけてくださった。スイッチを押すだけの単純な作業だから問題ないだろうとお任せした、その直後だった。「ブレンダーが壊れたんです」「予兆は?」「ありません。最初の数秒は普通に動いていたのですが……」そこまで言って、私はある言葉を思い出す。   『ばあばが美味しいものを作ってあげる』お義母様は、確かにそう言っていた。そして朋美さんも、電子レンジを覗き込みながら「美味しくできるかな」と口にしていた。「もしかして……“美味しくしよう”とした瞬間に呪いが発動するのでは?」
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4-19

低くて心地よい笑い声が、静かなキッチンに柔らかく広がる。その響きが胸の奥にじんわりと染み込んでくるのを感じながら、私は自分でも少し困ったように息を吐いた。恋愛フィルターというものは、本当に厄介だ。ほんの些細な仕草や声色ひとつで世界の見え方が変わる。色褪せていた景色に彩りが戻るのはいいことのはずなのに、その代償のように胸の奥がきゅっと締めつけられる。しかも、その感覚に引きずられるように、これまでどこか遠くにあった“知識”が現実味を帯びて迫ってくるのだから始末が悪い。触れられた記憶のないはずの身体が、勝手に何かを思い出すように奥で疼く感覚。女性としてはしたないのではないかと理性が咎める一方で、すでに子どもを授かるところまで進んだ関係なのだという事実が、その羞恥心を少しずつ削いでいく。そして代わりに、ほんのわずかな勇気を押し出してくる。「ねえ、蓮司さん」「……どうした?」私の声の揺らぎに気づいたのだろうか。返ってきた声は、いつもより少し低く、柔らかく、どこか慎重さを帯びていた。優しさの中に混ざる微かな警戒。それは拒絶ではなく、私が踏み込みすぎないようにするための牽制のように感じられて、かえって私の背中を押した。「近づいてもいいですか?」自分でも不思議なほど素直な言葉だった。その瞬間、蓮司さんの表情がわずかに固まる。驚くのも無理はない。こんなふうに明確な意思を言葉にしたことなど、これまでほとんどなかったのだから。けれど、私は返事を待たなかった。答えを聞くより先に、自分の足が動いていた。気づけば、彼の目の前に立っている。「蓮司さん……」そっと手を伸ばす。触れるか触れないかの距離で一瞬ためらい、それでも指先を重ねた。触れた瞬間、彼の手が小さく震えたのが分かる。その反応に少しだけ胸が高鳴る。逃げられたわけではない。拒まれてはいない。そう思うだけで、指先に力を込める勇気が湧いた。手の甲を撫で、そのまま軽く握る。温かい。これはいつもの体温なのか、それとも今この瞬間の鼓動の速さがそう感じさせているのかは分からない。「私たち、仲はいいですよね」「……え?」戸惑ったような声。それでも視線は逸らされない。「喧嘩もしませんし、ちゃんと話もしています……でも」「……でも?」「私、蓮司さんのことが好きです」言葉にしてしまえば、あっけないほど簡単
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4-20 side華乃

「なんで俺たちが呼び出されるわけ?」佳孝と並んでスタッフに案内された個室に入った瞬間、思わず口から出たのはそんな言葉だった。軽口のつもりだったが、部屋の中にいた男の様子を見て、ほんの少しだけその声音が引き締まる。テーブルの向こう側、静かに顔を上げたのは桐谷蓮司。整った顔立ちも、落ち着いた表情も、普段と変わらないように見える。それなのに、目の前に置かれたボトルの減り具合が、その内側の状態を雄弁に物語っていた。これが今日開けたものだとすれば、かなりの量を一人で飲んでいることになる。「花岡社長、滝田さん。なにを飲む?」質問しておきながら、答える前に手の中の酒を飲む。淡々とした様子に、こちらへの気遣いは感じられない。私と佳孝は一瞬だけ顔を見合わせ、肩をすくめてから、まだ扉の近くに控えていたスタッフにそれぞれ注文を伝えた。場の空気に合わせるでもなく、かといって無視するでもなく、自然体を装うしかない。それにしても―――と、改めて目の前の男を見やる。桔梗の夫となった桐谷蓮司と、こうして酒を酌み交わす関係になるとは、少し前までの自分には想像もつかなかった。皮肉な話だが、この奇妙な縁の始まりには、間違いなく隣にいる男が関わっている。「相変わらずいい男だなあ」ぽつりと呟いた佳孝に、思わずため息が出そうになる。滝田佳孝―――私のパートナーであり、普段は完璧に異性愛者として振る舞っている男だ。立ち居振る舞いも言動も隙がなく、外から見れば疑う余地はほとんどない。だが、その仮面は桔梗と桐谷蓮司の前ではあっさりと剥がれた。桔梗には「性的な目で見られないから」という理由で見抜かれ、逆に桐谷蓮司には「性的な視線を向けられたから」という理由で見抜かれた。そのバレかたに何とも言えない気分になったけど、目の前の男の容姿を見れば納得せざるを得ない部分もある。整いすぎているのだ、あらゆる意味で。男にも女にも“刺さる”タイプというやつだろう。あの日、桔梗のことで話があると呼び出されたとき、佳孝が「心配だから一緒に行く」と言い出したのがそもそもの始まりだった。あのとき一人で行っていれば、隠せたかもしれないけれど。でも、佳孝が一瞬だけ見せた視線は桐谷蓮司に対する興味で、そしてそれに対して私が抱いたのは苛立ち。それは一瞬で小さかったはずだが、その一瞬の揺らぎを、桐谷蓮司は見逃さなかっ
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4-21

「難しいとこだよね〜。俺は桔梗ちゃんの想いを受け入れればいいに一票」軽い口調で佳孝が言った瞬間、個室の空気がわずかに揺れた。桐谷蓮司は苛立っているようだ。余裕なさすぎ……恋愛で苦労したことがなかった奴はこれだから……。桔梗に好意を寄せられ、それを本人から告げられた桐谷蓮司は、自分の過去の行為―――桔梗を暴行したこと、それを黙っていること、とりあえず結婚してしまったこと―――を思い、その告白を断ったという。恋愛小説によくある「資格がない」と落ち込むやつだ……それに対してあっさりと「受け入れればいい」と言ってのけられて苛立った、と。「乃蒼ならどうする?」佳孝の視線が向く。少しの沈黙のあと、私は短く答えた。「佳孝に賛成」その瞬間、桐谷蓮司の表情がわずかに動いた。怪訝というより、裏切られたとでも言いたげな視線だ。私のことを桔梗の絶対的な味方だと思っていたのだろう。その読みは間違っていない。私は桔梗の味方。でもそれは、桔梗の感情と幸福を優先するという意味であって、盲目的に肩入れするということではない。桔梗が幸せであるなら、桐谷蓮司がどうなろうと構わない。冷酷に聞こえるかもしれないけれど、そうなのだから仕方がない。ただし、桐谷蓮司は桔梗の“幸せ”の中心にいる可能性が高い。だから無視はできない。桔梗は誰かに依存して生きるタイプではないけれど、それでも彼といることで幸福の質が良いほうに変わるなら、それを否定する理由はない。それに、桐谷蓮司の説明では、彼は「今の桔梗」とこれまでの「本当の桔梗」を分けて考えてしまっている。忘れたのかしら。記憶が失われても本質は変わらないと医者が言っていたじゃない。好みって、その本質じゃないの?つまり、今の桔梗が彼を好きだという【事実】により、過去の桔梗も同じ感情、つまり好意を持っていたと可能性がある。残念ながら可能性なのだけど……あのとき桐谷蓮司には婚約者がいたこと、さらに桔梗自身が過去の経験によって男やそれに付随する恋愛を“穢れたもの”として忌避していたことを考えれば、その可能性はかなり高めに見積もれる。あ……桔梗の男嫌いの原因、あのクソ従兄を思い出したら腹が立ってきた。顔も知らない者をここまで嫌悪できるのは、その従兄のしでかしたことついて理解できてしまう部分があるから。美しさというものは単なる称賛
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4-22

あの桐谷蓮司から恋愛相談を受けるという、妙に現実味のない経験をした。帰宅してから佳孝と顔を合わせ、酒を片手に思い切り笑い合い、「ざまあみろ」と半ば冗談のように桐谷蓮司を笑い飛ばした。そのときは確かに愉快だったはずなのに、いま振り返ると少しだけ申しわけない気持ちが胸にぶら下がる。あの日から二週間後の今日、私たちは桐谷家を訪れていた。桔梗に久しぶりに会えるという単純な期待もあった。だがその期待は、微妙に裏切られた。「どうしたの?」目の前で首を傾げる桔梗は、以前と同じ顔をしているはずなのに、どこか決定的に違って見えた。柔らかく揺れる黒髪、華奢な首筋、その動きひとつひとつが妙に目を奪う。同性である私の理性ですら一瞬遅れて反応するほどだ。視線を逸らせば落ち着くと分かっているのに、気づけばまた目で追っている。これはいわゆる百合的な感覚というものに近いのかもしれないが、そんな単純な言葉で片付けるには危うさが混じっている。私の親友が、と叫びたいくらい桔梗は変わった。いや、正確には「解放された」と言うべきかもしれない。.これまでの桔梗は、触れれば壊れそうなほど張り詰めた美しさを纏っていた。他者を拒絶することで自分を保っている、冬に凍った花のような印象だった。それが今は違う。摘まれることを恐れるのではなく、むしろ誰かに見つけられることを待っているような、微かに湿度を帯びた芳しさがある。桔梗の変化は、見る者の本能に直接訴えかけてくる種類のものだ。案の定、隣を見ると佳孝が無言で目だけで訴えてくる。「これ、外に出して大丈夫?」とでも言いたげな顔だ。正直、私も同意見だ。桐谷蓮司、お前のせいだよ。どうするの?……そのくらい、桔梗の変化は彼のせい。彼と関わることで生じたもの以外に説明がつかない。「蓮司さん、珈琲のおかわりは?」これだけで違いは決定的。こんな桔梗の視線は私たちには向かない。私たちに向けるのは「友人」であるから知人よりは温かみがあるかもしれないけれど、こんな甘ったるい目が向かうのは一人だけ。まぶたの落ち方がわずかに長く、開いたときの目は驚くほど柔らかい。声は少し湿り気を帯び、言葉の端が微かに揺れている。媚びているわけではないのが厄介だ。身体を寄せるでも、甘えを露骨に見せるでもない。ただそこに、妻であろうとする意志があるだけ―――つまり、この桔梗
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4-23

「あの夜、あのホテルで桔梗が会うはずだった男が分かった」そう口にした瞬間、自分でも意外なほど声が静かだったことに気づく。もっと怒りや嫌悪が滲むかと思っていたが、実際にはそれらは奥底に沈み、代わりに冷えた思考だけが前面に出ていた。桔梗が男に襲われたと聞いたあのときから、感情は後回しになっている。そして優先されたのは原因究明。桔梗にまたあんなことがないように、と桔梗が呼び出された部屋にいた男を探した。「桐谷の名前を借りられて助かったよ」「こちらこそ。調べるのに人を貸してくれてありがたい」桐谷コーポレーションの名前を使い、あのホテルとパーソナルコンシェルジュ派遣の契約を結んだ。富裕層や著名人、海外の要人が滞在する際に専属で動くパーソナルコンシェルジュ。来客対応や身の回りの世話といった表面的な業務だけでなく、スケジュール管理、買い物代行、子どもの送迎、さらには語学対応や簡易的な警備まで担う、いわば“生活の裏側をすべて支える存在”だ。何でも屋と呼ぶにはあまりにも高度で、依頼主の事情を深く知る立場にあるからこそホテル内の情報の多くが彼らを経由していく。そこに目を付けた。桐谷蓮司ですら「個人情報」の壁にぶつかり探れなかった情報を得られたことに優越感はあるが……。「あなたの名前もありました」あの夜の宿泊者名簿には桐谷蓮司の名前もあった。知っている今だから引っかかったのだと分かっている。桐谷の名前があるから得られた情報だということも分かっている。でも―――もっと早くに動いていれば、そう思ってしまう。桔梗があの夜の男を桐谷蓮司の知る前に家政婦としての派遣契約を終了させておけば記憶の欠落、桔梗は私のことを忘れることはなかったんじゃないかって。……今さらだけど、そんな仮定は何度も頭をよぎっている。でも同時に、今の桔梗の桐谷家での穏やかな時間を目にすると、あの夜すらも一つの収束点だったのではないかという感覚が生まれる。記憶喪失という不確定要素すら含めて、避けようのない運命的な流れの中にあったのではないかと考えてしまうのだ。.「誰だったんだ?」桐谷蓮司の問いは短いが、その一言で場の空気がわずかに張り詰める。余計な感情を挟まない声音だからこそ、こちらも無駄を削ぎ落として答えるしかない。「白州典正。武家の流れをくむ白州家の次男で、現在は
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4-24 side桔梗

「素敵な絵ですね」思わず零れたその言葉は、自分でも驚くほど素直だった。蓮司さんのお祖母様である和美お婆様に誘われて訪れた日本画の展示会場。その静謐な空気の中で、私は一枚の絵の前に足を止めていた。その絵に視線を向けた瞬間、周囲のざわめきが遠のき、時間がゆっくりと凍りつくような錯覚に陥った。隣に立つお婆様もまた、静かに頷きながら同じ作品を見つめており、年輪を重ねた眼差しには、単なる鑑賞を超えた慈しみのようなものが宿っていた。「石川明梗の作品ね。まだ若いけれど、すでに名の知れた日本画家よ。どれも素晴らしいけれど、私は特にこの美人画が好きなの」穏やかに語られる説明に「そうなのですね」と応じながらも、私の意識は半分以上、目の前の絵に奪われていた。するとお婆様は、ふと私と絵を見比べるように視線を移し、どこか楽しげに微笑む。「どこか桔梗さんに似ているわね」「そう、でしょうか」思わず頬が熱くなる。美人画の女性に似ていると言われることは、遠回しに褒められているようで落ち着かない。しかもそれを言ったのが、私が心から敬愛しているお婆様なのだから尚更だ。「そろそろ次に……桔梗さん?」「お婆様、その、私はもう少し……」未練がましい言葉を言いかけると、お婆様はくすりと笑い、やわらかく頷いた。「とても気に入ったのね。素敵な出会いは大切にしなさいな。私は他の作品を見ているから、ゆっくり見ていらっしゃい」その言葉に背中を押されるように、私は再び絵へと向き直る。美しい――それは間違いない。けれど、それだけではない感情が胸の奥に広がっていく。懐かしい。初めて見るはずの作品なのに、どうしてこんなにも胸が締めつけられるのだろう。まるで、遠い昔に置き去りにした記憶の欠片に触れたような、あるいは夢の中で何度も繰り返し見ていた景色に、ようやく現実で再会したような、不確かで、それでも確かな既視感があった。.描かれているのは、椅子に腰かけた一人の女性。うつむき、顔の輪郭は見えるのに表情は隠されている。薄紅の小袖に墨色の帯、その色彩は抑えられているのに、どこか艶やかで、見る者の視線を引き留める。結い上げられた黒髪から覗く白い襟足は、無垢さと色気を同時に宿していて、目を逸らすことができない。伏せられた目元、閉じられた唇。そのすべてが静かで、整っていて、けれど決して空虚ではない。そこに
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4-25

どこかに連れて込まれたと感じたのは、背後で襖が閉じられる乾いた音がしたから。やけに鮮明に耳に残ったのは、この音が外の世界との繋がりが断ち切ったから。自分の意志とは無関係に、運ばれてきた。進むたびに足の裏は重みを感じるのに、歩いている感覚はほとんどない。足の裏の感触は、畳みたい。足袋ごしだから、草履はどこかで脱げてしまったみたい。探しに行かなくてはと思うけど、無理だなとも思ってしまう。体がずっしりと重い。……変なの。こんなことを、考えるのはできるみたい。頭はぼんやりしているのに、指先ひとつ動かせないほど脱力しているのに。思い当たるのは、さっきの注射。きっと変なもので……。「水でも飲んだほうがいい」そう言う隣にいるこの男は―――危険。  パシャッ。「え……」水を、かけられた……男は水差しを逆さに持っているから、あの中身だと思うけど……なんで?「おや、濡れてしまいましたね。気をつけてくださいね」「え、いや……あなた、が……」男はニコニコ笑ったまま、私を突き飛ばした。浮遊感。倒れる…………ソファ?反動で浮かび上がって、また落ちる。背中に沈み込むクッションが柔らかい。「濡れたので、着替えましょうか」!「や、め……て……」どうにか絞り出した声は、かすれて喉の奥でほどけ、そのまま消えてしまう。男の顔が怖い―――まるで珍しい玩具を手に入れた子どものような表情。人に向ける種類のものではない。歪んだ好奇心と、相手を人格として認識しない冷たい無関心が混ざり合った、異質なもの。「いや……」もう一度声を出そうとしても、恐怖に押し潰されて言葉にならない。喉が締めつけられ、呼吸さえ浅くなる。「うん、動けるようになってきたね。頭もハッキリしてきたんじゃないかな」そう言いながら男はゆっくりとスーツの内ポケットに手を入れ、小さな携帯用の瓶を取り出した。琥珀色の液体が揺れるそれを、わざと見せつけるように私の目の前で軽く振った。シロップのような甘い香りが漂うが、変なものに違いない。「飲み給え」穏やかな声色でありながら、それは紛れもない命令。次の瞬間、顎を強く掴まれる。骨に食い込むような力に思わず息が詰まり、抵抗する間もなく瓶の口が口内に押し込まれた。喉が本能的に拒絶しようと収縮するが、鼻をつままれて喉が開く。むせ返る感覚とともに液体が流れ込み、
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