All Chapters of 輝く私の背中に、夫は必死に追いつこうとした: Chapter 261 - Chapter 270

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第261話

「心配しないで、紬。剛はそんなことしないって言ってるわ」レイはほっと息をついた。「たった今、彼に写真を五十枚送ってあげたところよ」紬は眉をひそめた。「レイ、馬鹿な真似はやめて」てっきり彼女の惚れっぽさがまた災いしたのかと思ったが、電話の向こうから忍び笑いが聞こえてきた。「全部、私が大切にしまっていた秘蔵の美ショットよ!人に見せるのがもったいないくらいなんだから。紬、あんたにも送ったから、早く見て」スマホの通知音が鳴り響く。紬は怪訝に思いながらトーク画面を開いた。そこには確かに、レイの思春期の写真が並んでいる。かつての望美が撮らせていた、計算されたポーズの写真とはまるで違う。一切メスの入っていない天然の顔立ちは、清らかで、どこか浮世離れした美しさを湛えていた。紬はようやく胸をなで下ろし、素直な称賛を口にした。「……さすがね」――剛はレイから承諾を得ると、送られてきた写真を急いで望美へと転送した。「望美、写真を手に入れたぞ。使えるものがないか確認してくれ。あんなクソみたいなゴシップ、全部握りつぶしてやるから!」望美はメッセージ欄に並ぶレイの美貌の数々を見つめ、奥歯をきつく噛み締めた。泣き出しそうな声で、いかにも心外だと言わんばかりに言う。「剛……助ける気がないなら、もういいわ。私なんて叩かれればいいのよ。明日にも引退するわ」そう言い残すと、一方的に通話を切った。剛は、自分が転送した写真を改めて見返し、完全に呆然とする。それにしても、十七歳のレイ、めちゃくちゃ綺麗だな。望美が「黒歴史」と言い張っていたような、不自然な瞬間は一枚もなかった。一方その頃、望美は怒りに任せてスマホを投げつけていた。ーー紬がよこした動画が、まさか自分の高校時代の整形記録だったとは。あの女、絶対にわざとやったに違いない。整形の事実は、望美の心の奥深くに突き刺さった棘だった。あれはあくまで「微調整」に過ぎず、美しさを整えただけのこと。ネットで騒がれているような大げさなものではない。それでも、怒りで顔は醜く歪んでいた。「この役立たずども!どうして中身も確認せずに動画をばら撒いたのよ!長年私のそばにいて、脳みそは犬にでも食わせたの!?」アシスタントは生きた心地がせず、今にも泣き出しそうだった。投
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第262話

成哉は必死の面持ちで彼女を宥めた。「君を信じていよ、望美。だから俺を信じてくれ。この騒動は、俺が必ず収束させてみせる」あの動画の構成は、非の打ち所がないほどに完璧だった。しかし、これほどまでに執拗に望美を標的にするからには、よほどの怨恨があるか、あるいは結局のところ「金」が目的なのだろう。金を積みさえすれば、動画の制作者に「捏造でした」と白状させることなど造作もないはずだった。だが、部下を動かして調査させても、パパラッチたちの口から黒幕へと繋がる有力な情報は一切得られなかった。「望美、まずは病院へ行って『未整形証明書』を発行してもらうんだ。その様子をライブ配信しろ」成哉は、ズキズキと疼く眉間を指で押さえた。犯人が特定できない現状において、これがファンを繋ぎ止めるための最善策だった。成哉は、望美が整形などという愚かな真似を本気でするはずがないと信じて疑わなかった。折しも、彼と紬の関係は冷え切り、最悪の状態にある。崇もまた、虎視眈々と隙を窺っていた。以前のように天野家の威光を盾に強引にトレンドから削除し、ネット上の言論を封殺することは許されない。それに、今この過熱した議論を力ずくで抑え込めば、かえって火に油を注ぐ結果になりかねなかった。望美は唇が白く変色するほどに噛み締めた。「成哉……他に手はないの?病院へは行きたくない。お医者様たちに先入観を持って、私の顔を審判されるなんて怖いわ……」――この男……ネットのパパラッチどもを封じ込める力があるくせに、あえて私に潔白を証明しろと、これほど屈辱的な真似を強いるなんて!つい先日、顔の修復手術を終えたばかりなのだ。今さら病院へ行って検査など受ければ、自ら罠に飛び込むようなものだった。成哉は、望美が単に医師の専門性を危惧しているだけだと思い込み、宥めるように声を落とした。「望美、案ずるな。担当するのは権威ある専門医ばかりだ。君の顔について、見当違いな判断を下すことは万に一つもない」刹那、望美は声を上げて泣き崩れた。「どうして私の顔が、あんな連中に指を差されなきゃいけないの!もう疲れ果ててしまったわ……どうして、どうして私がこんな目に!もう放っておいて。ネットで罵倒され続けて、死んでしまえばいいのよ!分かっているわ。あいつらはただ流行りに乗って鬱
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第263話

画面の中の女子生徒は、嘲弄を滲ませた声で言い放つ。「だったら、あんたの鼻に入ってるプロテーゼ、出しなさいよ」対する望美は、恐怖に顔を歪ませて必死に首を振った。「お願い、それだけは……それだけは勘弁してください。これ、すごく高かったんです。今これを取り出されたら、もう新しく作り直すお金なんてないんです……!」動画の尺は短かった。しかし、先に出回った釈明動画など比較にならないほど、当の本人の口から「整形の事実」が語られたことの衝撃は、凄まじい勢いで世間に波及していった。事務所の中は、見る影もなく荒れ果てていた。望美はすでに理性の箍を外し、狂乱の如く叫び声を上げている。「あの女……殺してやる!叩き潰してやるわ!」これほどまでに望美にとって致命的な動画を握っているのは、紬をおいて他にいない。あの頃、あの馬鹿正直な女は、望美の潔白を証明しようと必死になって、あろうことか不都合な「証拠」を大量に保存していたのだ。あのお節介が、いつか自分を破滅させることになると、望美はどこかで予感はしていた。望美は荒い呼吸を整え、必死に冷静さを取り戻そうと足掻いた。もはや、成哉すら当てにはならない。本当に自分を救う気があるのなら、真っ先にすべきは動画の削除だったはずだ。「元作者」などという、間に合わせの偽アカウントを引っ張り出して誤魔化すことではなく。――紬、いい度胸ね。なら、徹底的に後悔させてやるわ。望美の瞳に、どす黒い殺意が宿る。傍らで鳴り続けるスマホを無視し、彼女がそれに応答することは二度となかった。一方、成哉は繋がらない電話に苛立ちを募らせていた。まさか、望美が本当に整形をしていたとは露ほども思っていなかった。だが、あの動画に映っているのは紛れもなく彼女自身だ。「社長、あの動画は何者かが裏で意図的に拡散を煽っています。さらに、投稿者の発信元も高度に秘匿されており、特定には時間がかかります」秘書の健一が調査結果を報告する。成哉は、またしても留守電に切り替わった端末を一瞥した。「……静観しろ」望美の言い分にも、一理はある。大抵の人間はただの野次馬に過ぎず、望美個人に深い恨みがあるわけではない。喉元を過ぎれば、熱さなど誰もが忘れる。ほとぼりが冷めた頃にまた素晴らしい作品に出演し、好感度の高い役柄
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第264話

紬の承諾を取り付けると、渚の険しかった眉間は一転して緩んだ。話のわかる女で助かった、と彼は内心で息をつく。さもなくば、さらに強硬な手段に訴えることも辞さなかっただろう。渚はベッドの傍らで涙に暮れる望美を見つめ、痛ましそうに言葉を紡いだ。「望美ちゃん、もう安心していい。必ず彼女を会場へ連れて行くから」「渚くん、ありがとう……」望美は咽び泣きながら、彼の胸に縋りついた。「本当に怖いの。どうして紬さんは、あんなに私を追い詰めようとするのかしら。私はただ、より高みを目指したかっただけなのに。私、間違っているの?」渚は腕の中の女を見下ろした。その痛々しい姿に、かつての自分を重ね合わせる。彼の瞳が大きく揺れ動いた。「君は間違っていない」野心を抱くことは、決して罪ではない。家に引きこもって無為に時を過ごす者たちに比べれば、それはむしろ気高い資質ですらある。整形など、世に蔓延る略奪や殺生に比べれば、取るに足らない些事だ。望美が間違っているはずがない。非があるのは、裏で卑劣な策を弄する悪党どもの方だ。奴らの思い通りになど、決してさせはしない。「大丈夫だ。今夜は必ず紬を会場へ連れて行く」「ありがとう、渚くん。私、紬さんとしっかり向き合って話してみるわ」望美の涙に濡れた瞳の奥で、鋭い光が走った。――今度こそ、前回のように紬をみすみす逃がしたりはしない。記憶が確かならば、明日は彼女と成哉が離婚届を出すはずの日だ。二人が正式に離縁する前に、とっておきの手土産を贈ってやろうではないか。――紬が渚のチャリティーオークションへの誘いに応じたのは、出品リストの中に、かつて祖父が愛用していた筆を見つけたからだった。それは、熟練の職人による手作りの逸品だった。大学入学の祝いに祖父から贈られた大切な品だったが、画室に置いておいたらいつの間にか消失してしまっていたのだ。渚がまたどのような策を弄してくるのか見定めてやろうという思いもあったが、最大の目的はその筆を取り戻すことにあった。紬は画面に映る出品写真を見つめ、しばしの間、深い思索に沈んだ。夕刻、渚から「マンションの前に車を回した」と連絡が入った。紬は唯をあやして寝かしつけるように落ち着かせると、ドレスに着替えて出発の準備を整える。唯は名残惜しそ
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第265話

ふと、文人は思い出したかのように口を開いた。「社長、昨日、紬さんが弁護士の鈴木先生と面会する約束をされていたのですが、その道中で鈴木先生の車が故障しまして。その隙を突き、彼に成りすました者が紬さんに接触を図ったようです」鈴木は、神谷商事の法務部からサポートとして派遣された男だ。それゆえ、紬の離婚協議に関する進捗は、最優先事項として理玖に報告される手はずになっていた。理玖の瞳の奥が、ふっと険しさを帯びる。「……なぜ、今頃報告するんだ」文人は言葉を濁した。昨夜、社長は実母と激しい衝突を演じたばかりだ。そんな火中の栗を拾うような真似を、誰が進んでできようか。「ご安心ください。すでに人員を手配し、影から見守らせておりました。紬さんは実に聡明な方で、即座に偽物だと見抜かれたようです。本来渡すはずだった不倫の証拠動画を、あえて望美の整形手術の動画にすり替えて掴ませたようでして。私も裏でこっそりと、その拡散を後押ししておきました」「……よくやった」理玖の口角が、微かに持ち上がる。「いえいえ、それほどでも――」文人はぱあっと表情を輝かせ、照れくさそうに頭をかいた。だが、理玖は冷ややかな一瞥を投げ、釘を刺した。「……彼女を褒めているのだ」相変わらず、抜け目のない小狐のような女だ、と理玖は思う。文人の顔が、がくりと落ちた。――え?私の自惚れだったか!「望美の裏の動きを徹底的に洗え」理玖の声音が冷徹に響く。あの女の執念深く強欲な性格だ。紬からこれほどの反撃を食らえば、必ずやさらなる報復を企てているはずだ。このオークションには、何か拭いきれない違和感があった。――その後、紬は渚と合流した。渚の足のギプスはすでに外されており、ロイヤルブルーのスーツに身を包んだその佇まいには、隠しきれない気品が漂っていた。紬は彼の足元に視線を落とすと、わざとらしく驚きの色を浮かべて見せた。「白石さん、ギプスはどうされたのですか?」車に乗り込んできた紬の、息を呑むような美しさに、渚は一瞬言葉を失っていた。彼女の声に我に返ると、不自然な手つきで足をさすった。「ああ、医者がもう外しても構わないと言ってくれたんだ。数日間、車椅子で養生していれば、大きな支障はないそうだ」あの重苦しいギプスは、本来、紬の同
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第266話

望美の面貌は、これ以上ないほど醜悪に歪んでいた。「そんな理屈を並べ立てたところで、私があなたに慈悲をかけるとでも思っているの?紬、前にも言ったはずよ。私のものは、何があってもあなたには渡さないと!」紬は嘲るように口角を吊り上げた。「どうしたの?私はもう身を引くと言っているのに、あなたの欲しくてたまらないものは、まだ自分から歩み寄ってきてはくれないようね。望美、あなたって本当に救いようのない無能だわ」望美は逆上し、烈火のごとき勢いで平手を振り上げた。しかし、視界の端に近づく人影を捉えた刹那、その手は軌道を変え、自分自身へと向けられた。彼女は糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちると、打たれたばかりの頬を抑え、充血した瞳に涙を湛えた。「紬さん、あの時のことをまだ恨んでいるのはわかるわ。でも、あなたはもう成哉さんを手に入れたじゃない。どうしてこれ以上私を追い詰めるの?もし気が済まないのなら、もう一度私を打ってもいい。謝るから、お願い!」そう訴えながら、彼女は紬の手首を掴み、半ば強引に自分の顔へと打ち付けさせようとした。「何をしている」低く、芯まで凍てつくような男の声が響いた。成哉の声がした瞬間、紬は目の前の女が演じている茶番の正体を即座に悟った。望美は依然として紬の手首を固く握ったまま、なりふり構わず自分の顔を叩かせようと足掻いている。「そんな弱々しい叩き方じゃ、足りないでしょう?」乾いた音が、静寂を切り裂いた。紬の言葉が途切れるか否かの刹那、望美の赤らんだ頬に、渾身の掌打が容赦なく叩き込まれた。五体を震わせるほどの衝撃。望美の思考は、あまりの痛みに一瞬にして白濁した。灼熱のような激痛は、さながら極刑を受けているかのごとき苛烈さであった。彼女の端整な口角から、一筋の鮮血が静かに伝い落ちた。――なぜこのアマが!?望美の胸に驚愕が走る。お人好しで馬鹿正直な紬のことだ、誤解されたことに取り乱し、泣きじゃくりながら成哉に弁明するものとばかり思っていた。それなのに、なぜ彼女は本当に手を下したのか。数秒の間、虚を突かれたように呆然としていた望美だったが、辛うじて我に返ると、再び痛ましい被害者を装い始めた。「紬さん……これで満足?まだ足りないのなら、気が済むまで続けて構わないわ。だからお願い
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第267話

望美の胸中には、狂おしいほどの憤怒が渦巻いていた。「紬さん、ビンタだって甘んじて受けたわ。だからお願い、あの動画を削除して。あんなもの、恥ずかしくてこの先まともに生きていけない……」望美はその場に膝をつくと、縋るような手つきで紬の手を掴んだ。「本当に羞恥心というものがあるのなら、今日この場所に現れるはずなんてないでしょう」紬は容赦のない言葉を叩きつけた。おそらく、渚と結託して仕組んだ茶番なのだろう。望美の顔が屈辱に歪む。握りしめた拳には爪が深く食い込み、今にも皮膚を裂かんばかりだった。――この忌々しい女!どうしてこれほどまでに、付け入る隙がないのよ!成哉もようやく事の核心に気づいたのか、困惑を滲ませた表情で問いかけた。「ネットに上がっている望美の整形動画……あれは、本当にお前が流したのか?」「何の話かしら?」紬は嫌悪感を露わにし、冷ややかな視線で彼を射抜いた。「私がどうして、そんな愚かな真似をする必要があるの?」自分に火の粉が降りかかるような真似をするはずがない。望美はあのような卑劣な手段で動画を奪い取ったのだ。どう取り繕おうと、物的な証拠を捏造することなどできはしない。成哉の表情から、わずかに険が取れる。しかし、望美の我慢はとうに限界を超えていた。「紬さん、私たちは幼馴染じゃない!あの動画を持っているのは、あなた以外に考えられないわ。どうして成哉さんに嘘をつくの?そんなに自信があるなら、今すぐスマホの中身を彼に見せられるって言うの!?」「望美。あなたという人は、厚顔無恥なだけでなく自意識過剰も甚だしいわね。自分を何様だと思ってるの?私が何年も、あなたのデータなんてものを保管し続けているとでも思っているの?それに、もし本当にあなたの言う通りだとしたら、不倫動画の方を先にぶちまけているわ。そちらの方が、手っ取り早くあなたを破滅に追い込めるでしょう?」紬は目の前で苦悶する女を冷徹に見据え、一言一言を突き刺す。反論の余地など、微塵も残されてはいなかった。紬が言葉を重ねるにつれ、成哉の顔色は次第に暗く沈んでいく。「望美、もういい。裏で動いている人間とは、すでに連絡がついている。紬がそんな真似をするはずがない。勝手な推測で彼女を責めるのはやめるんだ」成哉の言葉に含まれた明らかな叱責は、
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第268話

紬は面白がるような眼差しで、成哉の顔をじっと見つめた。さあ、これでも行かないつもりかしら?「倒れたのなら病院へ運べばいい。俺は医者じゃないんだ」言い放つ成哉の態度は、ひどく冷淡なものだった。健一が焦燥しきった面持ちで訴えかける。「ですが、望美さんは気を失う直前まで、ずっと社長のお名前を呼んでおられました。周囲には大勢の野次馬も集まっております。私が連れ出そうと試みても、彼女は泣きじゃくるばかりでその場を離れようとせず……」成哉の酷薄な視線が健一を射抜く。そのあまりに鋭利な眼光に、健一はぞっと身の毛がよだつ思いがした。――社長は一体どうしてしまったというのか。以前であれば、望美さんの身に何か起こればあれほどまでに血相を変えて案じていたというのに……今日の社長はただ鬱陶しげに追い払おうとしているだけでなく、彼の中で何かが決定的に変質してしまったかのように感じられたのだ。成哉は、健一のあまりの気の利かなさに内心で舌打ちをした。改めて紬に弁明しようと振り返ったものの、すでに彼女の背中は遠ざかっていた。「社長、望美さんの件ですが……」「今後、望美に関する些末な報告はいちいちしなくていい。俺には妻がいるんだ」成哉の声は、薄情なまでに冷え切っていた。健一は我が耳を疑った。他ならぬ望美さんのことで、社長がこれほどに突き放した言い草をするなど、かつてはあり得なかった。一体何が起きているというのか。これは単なる痴話喧嘩の延長なのだろうか。健一はなおも真意を探るように口を開いた。「社長、では今から望美さんを病院へお連れしてもよろしいでしょうか?」成哉はいら立ちを隠そうともせずに吐き捨てた。「望美のアシスタントやマネージャーは何をしているんだ。連れてきた人間に連れて帰らせればいい。お前は俺の秘書か、それとも彼女の秘書か?」成哉の厳しい眼差しに射すくめられ、健一はそれ以上言葉を継ぐことができなかった。「……申し訳ございません。差し出がましい口を叩きました」それでも成哉の胸中は波立っていた。「……彼女はどこにいる。案内しろ」長年の付き合いの中で培われた情がある。完全に放り出すことなど、結局のところ成哉にはできなかった。一方、会場に戻った紬は、渚があらかじめ手配していた待機スタッフの先導で、プライベー
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第269話

ろくでもないガラクタばかりが、次々と高値で競り落とされていく。その惨状に見かねた渚は、ついに制止の指示を飛ばした。「あいつらに競り合うのをやめさせろ」いくら資金があろうと、これ以上いいようにカモにされるわけにはいかない。彼はボックス席で不安げに身を縮める望美を労わるように、温かいお茶を注いでやった。「望美ちゃん、怖がらなくていい。たとえ世界中の誰もがいなくなったとしても、私だけはずっと君の味方だから」望美はまだ目元を赤く腫らしたまま、渚から差し出されたカップを両手でぎゅっと握りしめた。彼の優しさが、冷え切った心をじんわりと満たしていく。「渚くん……この世界で、本当に心から私のことを想ってくれるのはあなただけだわ。このご恩は、一生忘れない。もしあなたまで失ってしまったら、私の人生がどれほど惨めなものになるか……想像するだけでも恐ろしいの」その弱々しい言葉に、渚は胸の奥底から熱い庇護欲が込み上げてくるのを感じた。「安心してくれ、望美ちゃん。君が望むものなら、何だって手に入れられるように私が全力で力を貸そう」望美は嬉しそうにこくりと頷いた。「じゃあ……あそこに出品されているあの筆、買っていただけないかしら?紬さんは絵を描くのが好きだから、あの筆をプレゼントすれば、きっと機嫌を直してくれると思うの」渚は彼女の柔らかな前髪をそっと撫でた。「望美ちゃんは、本当に優しい子だ」目の前の女の顔は、泣きはらしたせいで少しばかりメイクが崩れていた。それでも彼女の美貌がいささかも損なわれていないのは、人工的に整えられたパーツのどれもが完璧な調和を保っているからだ。できることなら、あの時、望美の顔にメスを入れたのが自分であればよかったのにと、渚は密かに唇を噛む。そうすれば、あんな間抜けな連中の手に証拠が渡り、彼女が陥れられるような事態には決してならなかったはずだ。望美は愛らしく微笑んで首を振った。「そんなことないわ。渚くんの深い優しさに比べたら、私なんてまだまだよ」まもなくして、紬が心待ちにしていた『あの筆』がついにステージへと運ばれてきた。開始価格は五十万円。彼女はそっと周囲の様子をうかがったが、パドルを挙げる者は一人としていなかった。もっとも、スタート価格が数百万単位で当たり前という大物揃いのこのオー
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第270話

その落札額が宣告された瞬間、会場の空気は凍りつき、一斉に息を呑む音が響いた。たかが筆一本に一千万。黄金で鋳造されているとでもいうのか。誰もが示し合わせたかのように、1番のボックス席へと疑念と驚嘆の入り混じった視線を注ぐ。代理人は辛うじてポーカーフェイスを保っていたが、その内心は場内の誰よりも激しく動揺していた。会場の一角、成哉は苦々しい沈黙の中にいた。本来、あの筆は紬のために競り落とすつもりだった。しかし、一千万という数字はあまりに常軌を逸している。それだけの資金があれば、より資産価値の高い逸品をいくらでも買い与えられるはずだ。傍らに立つ健一が、困惑を隠しきれない様子で声を潜めた。「社長、これ以上の入札は……いかがいたしますか?」――今夜の予算はとうに底を突いている。今日の社長はどうしてしまったんだ。当初はあんなに望美さんを突き放していたというのに、今度は筆一本のためにここまで後に引かないなんて。成哉は忌々しげに顔を歪め、吐き捨てるように命じた。「……手を引け。それより、あの1番の席、その参加者の正体を特定しろ」この海原で筆一本に一千万を投じるような輩が、ただ者であるはずがない。どこのどいつがこれほど馬鹿げた真似をしたのか、その面拝を拝んでやりたいという衝動に駆られていた。一方、会場のあちこちでは、野次馬めいた憶測がさざ波のように広がり始めていた。狐と狸が化かし合うような虚飾の世界だ。噂の伝播に時間はかからない。紬は周囲から漏れ聞こえてくる断片的な会話に、そっと耳を澄ませた。「聞いたか?あの御方、婚約者を喜ばせるために落札したらしいぞ」「へえ!それにしても筆一本に一千万とは。一体どんな価値があるっていうんだ」「噂では、神谷家のあの方だとも囁かれているが……」新しい出品物がステージに運び込まれ、喧騒は次第に凪いでいった。紬は拾い集めた単語を脳内で繋ぎ合わせた。――神谷家?まさか、あの神谷商事の社長のことだろうか。その時、紬の脳裏にふと理玖の顔が浮かんだ。彼も同じ姓を名乗っている。彼自身が自らの家系や会社の規模について詳しく語ることはなかったが、これまでの彼の振る舞いや、それに対する成哉の過剰なまでの反応を思い返すと――紬は、理玖と神谷家の実権者を重ね合わせるという、突飛な思
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