All Chapters of 輝く私の背中に、夫は必死に追いつこうとした: Chapter 851 - Chapter 860

907 Chapters

第851話

理玖の視線は、ずっと紬の手首に残る赤い痕に注がれており、その瞳はますます暗く沈んでいった。紬もその熱を帯びた視線に気づき、たまらず理玖の方を見た。「どうしたの、りっくん?」「まだ痛む?」唐突なその言葉に、紬は一瞬、何のことか分からなかった。我に返り、理玖の視線の先を追って、ようやく彼が何を言っているのか理解した。紬はそこで納得したようにふっと笑い、手を上げてその痕を覆い、理玖の熱い視線を遮った。「もう大丈夫よ、こんなのかすり傷だわ。私、そこまでひ弱じゃないもの」「それでもダメだ」理玖の灰色の瞳に、痛ましそうな色が滲んだ。「俺でさえ、傷つけないように触れることすら躊躇うのに、あの男にそんな権利があるもんか」「はいはい、大丈夫よ。どうせあんな人とは、今後関わることもないんだし」紬自身は、そこまで気に留めていなかった。今の成哉に関しては、どうしても頭がおかしいとしか思えないのだ。もともと、成哉の状況になんてこれっぽっちも興味はない。もしあいつがこれ以上自分からまとわりついてくるようなら、その時は容赦しないつもりだった。理玖は、紬が明らかに成哉の話題を避けたがっているのを見て、それ以上は何も言わなかった。だが、この件はしっかりと彼の心に刻み込まれた。すぐに、文人からもメッセージが届いた。成哉がここに現れたのは、本当にただの偶然だったようだ。彼はここで人と食事の約束をしていたらしい。紬と出くわしてしまったのは、まったくの偶然だった。文人からのメッセージを読み終え、理玖自身も思わず黙り込んだ。文人でさえ予想外だったのだろう。これほどタイミングが良すぎるのは、成哉が意図的に仕組んだことだと思っていたが、どうやら自分の考えすぎだったようだ。やはり、これくらい用心深くなければ、ビジネスの世界で生き残っていくことなどできないということか。理玖はスマホを再びポケットにしまい、この件を気にするのをやめた。だが、紬を傷つけたことだけは、絶対に許さない!理玖の瞳の奥に、一瞬だけ冷酷な光が走った。――一方その頃、成哉は取引先との食事に向かっていた。健一は彼のそばにつき従っていたが、恐ろしくて成哉の顔色を窺うことすらできなかった。あの集団から離れて以来、成哉の顔は恐ろしいほど
Read more

第852話

成哉の心の中も、同じ考えだった。しかし、彼は虚勢を張るように言った。「相手の秘書にもう一度メッセージを送って聞いてみてくれ。道中、何かトラブルでもあったんじゃないのか?」健一は口を開きかけたが、言いかけた言葉を結局は飲み込んだ。仕方ない。社長がそこまでこだわるのなら、これ以上口出しする必要もないだろう。昔から言うではないか。現実を突きつけられるまで、人は諦めないものだと。今の成哉は、まさにその状態なのだろう。健一はため息をつき、ポケットからスマホを取り出した。そして成哉の目の前で、メッセージを送信した。【こちらはすでに個室でお待ちしております。伊藤会長は、まだこちらへ向かわれていないのでしょうか?】相手からの返信は早かった。【会長より伝言を預かっております。天野社長はまだお若いですから、もう少し経験を積まれてからになさい、とのことです。現在、天野治氏が非常によくやっておられますので、このまま彼に任せておくのがよろしいかと存じます】健一は目を丸くし、どう返信していいのか分からなくなった。ましてや、成哉がすぐ横で見ているのだ。健一は気まずそうな顔を浮かべた。「社長、どういたしましょうか」「帰るぞ」こんな場所、成哉はもう一秒たりともいたくなかった。ここは自分にとって鬼門なのではないだろうか?何をしても、ことごとく裏目に出る!こんなこと、他人に話して信じてもらえるだろうか?健一は仕方なく、成哉の後をトボトボとついていくしかなかった。【承知いたしました。では、また次の機会によろしくお願いいたします】健一が再びメッセージを送ろうとしたが、見事にブロックされてしまった。健一は心の中で大きくため息をついた。彼は前を大股で歩く成哉をちらりと見た。手にしているスマホが、まるで熱した石炭のように思えた。同時に、この事実を成哉に伝えるべきかどうか、心底悩んでいた。一方、前を歩く成哉の頭の中には、取引先の件もさることながら、それ以上に紬のことで頭がいっぱいだった。――今日、自分にこれほどの恥をかかせたのだ。絶対に、絶対に許しはしない!あの女、俺の気を引くのに失敗したから、腹いせにこんな嫌がらせをしているのか?そう考えると、成哉は思わず嘲笑を漏らした。あんな手段を使えば、
Read more

第853話

一方、その頃。一台の控えめながらも高級感のあるリンカーンが、道路を滑るように走っていた。仕立ての良さが際立つダークグレーのスーツに身を包んだ老人が、車の後部座席の中央に座っていた。年齢はすでに還暦を過ぎ、両側の髪には白いものが混じっているが、その背筋はピンと伸びている。この老人こそ、成哉が口にしていた「伊藤会長」――伊藤義光(いとう よしみつ)であった。傍らには秘書の足立が座り、彼に状況を報告している。「会長、天野成哉の連絡先はすでにブロックいたしました」足立は眼鏡を押し上げながら、事務的な口調で告げた。義光は特に反応を示すことなく、ただゆっくりと目を開けた。成哉の名を聞くと、どうしても眉をひそめずにはいられなかった。彼はずっと海外に滞在し、現地の会社を取り仕切っている。崇とは、年の差を超えた親友であった。でなければ、天野家の裏の勢力を彼がまとめることなどなかっただろう。二人は若い頃からの付き合いで、それが今日まで続いているのだ。今こうして彼が海原に姿を現したのは、バカンスのようなものでもあった。ただ、治の容赦ない強引なやり方には、以前から少なからず不満を抱いていた。だからこそ、あの崇の老いぼれが相続権を成哉に譲ったと聞き、ついでに様子を見に来たのである。確かに、成哉の物事の処理能力は治よりもずっと優れていると、彼も感じていた。柔よく剛を制す。たとえ他人が異論を唱えようとも、それを黙らせるだけの力があった。今日、彼がレストラン『宵庭』へ足を運んだのも、本来はそこで成哉と面会するつもりだったからだ。だが二階を通りかかった際、成哉が紬にまとわりつき、揉み合っているみっともない姿を目撃してしまった。彼が紬に向かって吐き捨てたあの言葉も含めて、すべてを聞いていた。その瞬間、彼は悟ったのだ。成哉という男は、重責を託すに足る器ではないと。彼はすぐさまきびすを返し、微塵の躊躇いもなくその場を立ち去った。あんな男と話すなど、ただの時間の無駄でしかない。彼は治のことも評価していなかったが、成哉のあのピエロのような振る舞いは、それ以上に軽蔑すべきものだった。まだ治のほうが、腹の底に多少の冷徹さがあるだけマシだ。最終的に、義光は心の中である決断を下した。――翌日。「屋敷
Read more

第854話

「いつも通りさ」崇は使用人に大切に保管させている茶葉を持ってくるよう合図すると、振り返って義光に自慢げに言った。「ちょうどいい機会だ。これは少し前に手に入れたばかりの上級茶だ。さあ、味わってみろ」「ああ」義光の顔にも、いくらか興味の色が浮かんだ。崇はふと口を開いた。「そういえば、お前がここに来たのは、ただお茶を飲みに来たってわけじゃないだろう」「お前の目はごまかせんな」義光はフッと笑った。「用があって来たのは確かだが、お前に会いたかったというのも本当だ」それを聞き、崇は鼻を鳴らした。「それなら、まだお前にも良心が残っていたようだな」使用人がお茶を淹れると、義光は一口飲み、それからゆっくりと話し始めた。「お前の孫、たしか成哉だったかな」「それがどうした?」崇の眉間がピクリと動いた。義光が自分のことに干渉することはめったにない。となると、成哉の奴がどこかで彼を怒らせたらしい。義光はわずかに唇の端を持ち上げ、お茶を一口含んだ。「子どもとしてはいい子だが、やはり少し気性が不安定だな。あの海外の相続権を、お前はそんなに簡単にあいつに譲るつもりなのか」義光のその言葉は、遠回しなものではなく、はっきりとしたものだった。崇の顔に不快の色が走った。「口に出した以上、どうにもならない。あとはあの子次第だ」義光は崇の表情を注意深く観察し、空気を読んでティーカップを置いた。「まあいい、そこまで硬い顔をするな。俺は主に、お前に会いに来たんだ。お前の体がまだ頑丈なら、俺より先に逝きさえしなければ、それでいい」そう言って、義光は立ち上がった。「用事がある。この海原にも長くは居られない。俺はお前に忠告しただけだ。あとはお前自身がどうするかだな」立ち去る前、義光は意味深に崇の肩を叩いた。崇は目を細め、最後にこう言った。「誰かに送らせよう」「いらん」義光はそれ以上長居せず、崇が何を言いたいのかも理解していた。これ以上ここにいると、かえって気まずくなるだけだ。義光が去った後、崇は一人でリビングに座り、しばらく物思いにふけった後、ようやく立ち上がって部屋へと向かった。そして、その一部始終が二階にいた望美の目にしっかりと焼き付いていた。その瞳には、思案の色が浮かんだ。ま
Read more

第855話

「明日、俺と一緒に伊藤会長のところへ直接挨拶に行くぞ。予定されている会議はすべて後ろにずらしておけ」「はい」健一は真剣な顔つきで答えた。心の中では、ようやくホッと息をついていた。この人使いの荒い社長も、ようやく自分を解放してくれる気になったようだ。これ以上は、本当に身がもたない。あらゆるツテを頼ってみたものの、やはり伊藤会長の側近とは一切連絡が取れなかったのだ。向こうはまるで鉄壁のように守りを固めており、情報一つすら漏れ出てこない。――退社後、成哉が駐車場へ車を取りに向かうと、突然目の前が真っ暗になり、頭に何かを被せられた。そのまま、体ごと隅のほうへと引きずり込まれる。成哉が声を上げる間もなく、顔面に向かって容赦なく拳が振り下ろされた。成哉は痛みのあまり低く呻いたが、すかさず口の中に何かをねじ込まれた。彼を襲った者は一言も発することなく、ただひたすらに拳を叩き込んでくる。とりわけ、成哉の右手を念入りに狙ってきた。もし紬がこの場にいたなら、以前成哉に強く掴まれたのも右手だったと思い出しただろう。十分後、成哉を殴っていた者は素早く立ち去った。成哉は地面に倒れ伏したまま、しばらく息を整えると、震える長い指を伸ばして頭の被り物を取り外した。ついでに、口に詰め込まれていた薄汚れた布――というより、むしろ雑巾のようだった――を吐き出した。見下ろして体の無事を確認したが、手で触れた顔の傷はまだマシなほうで、口元が青黒く腫れている程度だった。だが、全身が激しく痛み、何よりも右手首の痛みがひどい。どこを負傷したのかは分からないが、とにかく腕が上がらず、拳を握ることすら困難だった。このとんだ災難に、成哉は頭の中が真っ白になった。いったい、誰の恨みを買ったというのだ?だが、普通に考えて、いくらビジネス上のライバルであっても、ここまで汚い手は使わないはずだ。こんな人目につかない卑劣な手段を使う者など、そうそういるものではない。誰もが正々堂々と、プロジェクトの場で勝負をしているのだから。成哉はしばらく呆然としていたが、やがて手にしていた「雑巾」をきつく握りしめると、その顔はどす黒い怒りに染まった。――いいだろう、上等だ!犯人を突き止められなければ、天野の名を捨ててやる!成哉
Read more

第856話

「不注意でぶつけたんです」成哉はとっくに言い訳を考えていた。もし地下駐車場での一件が知れたら、家族にどんな顔をして会えばいいというのか。彼がこれ以上語りたがらないのを見て、崇も無理には聞き出さなかった。こうして改めて見てみると、この孫は確かに伊藤会長の言う通りなのかもしれない。自分のやり方は、本当に正しかったのだろうか。「義光がここへ俺を訪ねてきたぞ」成哉は目を輝かせた。「そうですか。聞いていませんけど」「聞いて、どうするつもりだ。お前、何を企んでいる」崇は目を細め、鋭く問い詰めた。「それは……」崇の鋭い威圧的な視線を浴びて、成哉はついに言葉を濁した。「ただ、おじいちゃんの古い友人だから、礼儀として一度お会いすべきだと思っただけです」「変な気は起こすな」崇は成哉の口元にある青アザを見て、眩暈がしそうになった。「しっかりと薬を塗って、少しは身なりに気を配りなさい。天下の天野グループのトップが、そんな顔で外を出歩いてどうする」「はい、分かりました」崇は呆れたように小さく息を吐くと、大股でその場を立ち去った。義光の言葉と照らし合わせてみると、以前下した決断が果たして正しかったのかどうか、本当に考え直す必要があるのかもしれない。崇が去った後、成哉はソファに座り込んだ。頭の中では先ほどの言葉が何度もこだまし、その顔には暗く、読み取れない表情が浮かんでいる。ソファに置かれた、殴られていないほうの左手が、ゆっくりと強く握りしめられた。次の瞬間、成哉は隣のソファがふわりと沈み込むのを感じた。横目で視線を向けると、望美の潤んだ美しい瞳と視線がぶつかった。成哉は無意識に顔を背けた。こんなにも惨めな姿を、望美に見られたくなかったのだ。「どうしてここに来た」成哉の声は低く、感情は読み取れなかった。それでも望美は、成哉の顔にある傷を目ざとく見つけていた。望美は手を伸ばし、彼が固く握りしめた拳を包み込むようにして、心配そうに尋ねた。「成哉、あなたの顔……」「何でもないと言っただろう」成哉は立ち上がってその場を離れようとした。これ以上、望美と面倒なやり取りをするつもりはなかった。しかし、引き止めようとした望美が、無意識に怪我をしている右手を掴んでしまい、頑なに離そうとしなか
Read more

第857話

この瞬間、成哉の記憶に刻まれた望美の面影が、目の前の女の顔と再び重なり合ったかのようだった。成哉は喉仏を上下させた。頭の中では、相反する二つの感情が激しくせめぎ合っていた。彼が立ち去ろうと口を開きかけたその時、不意に望美が口を挟んだ。「今日、伊藤会長が屋敷にいらしたこと、知ってるわ」成哉はハッとして瞳孔をわずかに縮め、その底知れぬ暗い瞳で望美を見つめた。「冗談を言っているわけじゃないだろうな」「それだけじゃないわ。伊藤会長とおじいちゃんが何を話していたかも知ってる」望美は小首を傾げて成哉を見つめ、慌てる様子もなくゆっくりと言い放った。成哉の瞳に険しい光がよぎり、二人は長いこと睨み合ったまま動かなかった。最後に折れたのは成哉だった。「言ってみろ、何が望みだ」成哉からは見えない角度で、望美の口元に思い通りになったと言わんばかりの笑みが浮かんだ。成哉なら必ず食いついてくると、最初から分かっていたのだ。……翌日。スタジオ「Nirvana」のオフィス。現在、スタジオの業績はまさに右肩上がりと言っていい。多くの商業施設から、「Nirvana」に出店してほしいというオファーが舞い込んでいるほどだ。それが無理なら、せめてサブブランドである「刹那」だけでも入ってくれないかという声も多い。だが、総合的に判断した結果、紬はそれらの誘いをすべて断っていた。今のスタジオは着実に歩みを進めており、デザイン業務に専念できればそれでいいのだ。デザインの質が落ちてしまえば、ビルの基礎が崩れるのと同じだ。その上に新たな階を建て増しできるはずもない。そのため、紬はわざわざ従業員を集めて会議を開き、とにかくデザインに集中して今のクオリティを維持することを強調した。自分たちはあくまで新鋭のスタジオであり、多くのライバルたちが虎視眈々と狙っているのだから。出る杭は打たれるという道理を、紬はよく理解していた。紬は特に念を押した。「カナ、オンラインストアのお客様のフォローは絶対におろそかにしないでね。ゆくゆくは、芸能人をアンバサダーに起用して、うちの服をプロモーションすることも考えているから」「はい、承知いたしました」カナは普段のおどけた表情を引っ込め、真剣な顔つきで答えた。紬が市場の動向を注意深く
Read more

第858話

清彦はパタンとサンバイザーのミラーを閉じると、雅乃に向かって口を開いた。「さあ、行こうか」雅乃は絶句した。この男の図々しさは、どうしてまた一段とレベルアップしているのだろうか。以前は、こんなふうではなかったはずだ。よくよく思い返してみると、どうやらあの夜からおかしくなったような……雅乃は慌てて頭の中の妙な考えを振り払い、真面目な顔で返した。「降りてください。私は仕事に行くんです。旅行に行くわけじゃないんだから、ついてこられても困ります」清彦は心外だと言わんばかりの口調で言った。「それがどうしたって言うんだ?俺はもう子供じゃないんだし、邪魔だってしない。俺が一緒に行ったって、別にいいだろ」清彦はまるで非難するかのような顔つきで雅乃を見つめた。連れて行ってくれなければ、ひどい女だと言わんばかりの態度である。雅乃は心の中でため息をつき、仕方なく頷いて承諾した。「やっぱり紬さんにメッセージを送っておきます。一応、仕事で行くわけですし」スマホを取り出し、操作しようとした手を、清彦がそっと制した。「大丈夫だって。俺が君と一緒に来たこと、紬さんはちゃんと知ってるから」どうして知っているのかと雅乃が尋ねようとした矢先、清彦は気まずそうに鼻筋を指でこすりながら、言葉を濁した。「だって……俺が君の行き先を、どうやって知ったと思ってるんだよ」「スタジオに行ったの?」清彦が頷くのを見て、雅乃はピンときた。間違いなく、あの口の軽いカナがしゃべったのだ。カナが口を開いたとなれば、おそらくスタジオ中のみんなが知っているに違いない。雅乃はすっかり諦めモードになり、仕方なく車を発進させた。一方、スタジオでは雅乃の予想通り、すでにその噂が広まっていた。紬は、カナが大げさに何かを熱弁しているのを見て、たまらず尋ねた。「どうしたの、そんなに興奮して」「いやぁ、清彦さんと雅乃のことですよ」紬は途端に興味をそそられた。「詳しく聞かせて。そういう話、大好物よ」カナもさらに勢いづき、コホンと軽く咳払いをして、事の顛末を語り始めた。「さっき清彦さんが訪ねてきた時、雅乃は不在だと言ったんです。そしたらあの人、すっごく落ち込んだ顔をして。私がラッキーの骨を取り上げて、わざと焦らして食べさせないようにした時
Read more

第859話

これほど情熱的に、毎日のように目の前に姿を現しているというのに、雅乃の心を動かせないはずがない。清彦はそう確信していた。清彦は心の中で鼻を鳴らした。雅乃、君のガードがどれほど固かろうと関係ない。俺が絶対に落としてみせる!遅かれ早かれ、俺はあの男に取って代わる存在になってやる!いつか必ず、俺の存在に慣れるようにさせてみせる!突然、雅乃が足を止めた。後ろを歩いていた清彦は、危うくぶつかりそうになり、不思議そうに口を開いた。「急にどうしたんだ?」雅乃は振り返り、顔に真剣な表情を浮かべた。「先に言っておきますけど、中に入ったら絶対に邪魔しないでくださいね。余計なことも絶対禁止ですよ!私は仕事で来てるんだから、仕事です!冗談で言ってるんじゃないですから」「分かった分かった、安心して。君が言ったようなことは絶対にしないから。ちゃんと胸に刻んでおくよ」清彦は雅乃の手を取り、自分の胸をポンポンと叩いた。「ほら、俺は命をかけて誓えるよ」雅乃は顔を真っ赤にして、まるで火傷でもしたかのように慌てて手を引っ込めた。「誓うならご自分の手でやってください!なんで私の手を使うんですか」清彦は頭を掻きながら笑った。「へへっ、君の手のほうがしっくりくるし、それにこうすれば俺の誠意が伝わるだろ」雅乃は口を開いて言い返そうとしたが、彼のふざけた態度を見て、やはりやめることにした。ここは他人のテリトリーなのだから、少しは自重すべきだろう。それに、あろうことか自分には反論する言葉が見つからなかったのだ。「……分かりました。余計なことは言わず、大人しくついてきてくださいね」清彦は大人しく雅乃の後ろについて行った。前を歩く雅乃の口元には、誰にも気づかれないほど微かな笑みが浮かんでいた。しかし、工場の中へ足を踏み入れた途端、雅乃は、ここの人たちの態度が以前ほど丁寧ではないことに敏感に気づいた。雅乃の心に、嫌な予感がよぎった。雅乃は勝手知ったる様子で製造部長のオフィスへ向かい、ドアをノックした。中から返事が聞こえてから、彼女はようやく清彦を連れて中へ入った。オフィスの中には、生地工場を統括する製造部長が座っていた。男の名前は鳥海翔一(とりうみ しょういち)といい、頭が少し薄くなった男だった。顔には常に笑み
Read more

第860話

「話は単純ですよ。うちの工場は、今後あなた方のスタジオに生地を卸すつもりはありません。ですから、他を当たってください」翔一はそこでようやく、ゆっくりと立ち上がった。「そんなの困ります!」雅乃の声には、隠しきれない焦りが滲んでいた。「鳥海さん、貴工場とは正式な契約を交わしているんですよ。忘れたとは言わせません」雅乃はスマホを取り出し、電子契約書の画面を見せた。「契約書にはっきりと書かれています。指定された期日までに生地を納品できなかった場合、そちらに違約金をお支払いいただくことになっているはずです」「なら、払いましょう」翔一は再び椅子にどっかりと腰を下ろし、完全に開き直った態度を見せた。雅乃の瞳に驚きの色が走った。「鳥海さん、そこまでして弊社との取引を切る価値があるんですか?言い換えれば、違約金を払ってでも私たちに生地を卸したくない理由を教えていただけませんか」「いちいち説明する義理はありませんよ」翔一は鬱陶しそうに耳をほじった。「もう用がないなら、お引き取りください。こっちも忙しいんでね。ああ、何かあれば私の助手に連絡を。払うべき違約金はきっちり払いますよ。ですがね、生地のことはもうきっぱり諦めてもらいましょう」気が短い清彦は、ついに堪忍袋の緒が切れてしまった。翔一よりも頭一つ分ほど背の高い彼は、相手を見下ろすように勢いよく立ち上がり、その鼻先を指差して怒鳴りつけた。「あんた、その言い草は何だ!それでも商売人の端くれか!」「お前こそ、どこの馬の骨だ!」翔一も負けじと声を荒らげ、警備員を呼ぼうと受話器に手を伸ばした。「私の縄張りで好き勝手できるとでも思っているのか」「もういいから!」雅乃が清彦を制止した。翔一の言う通りだ。ここは彼の縄張りであり、今ここで騒ぎ立てても、自分たちが不利になるだけだ。得をすることなど何一つない。雅乃は清彦の手をきつく握りしめ、彼が前に出るのを引き留めると、小声で言った。「狂犬を相手にしても仕方ありません。一旦ここを出ましょう。これ以上刺激して逆上されても困りますから」雅乃は振り返って翔一を見ると、目がまったく笑っていない作り笑いを浮かべて言った。「それでは、一旦持ち帰って社長と相談させていただきます。今日はこれで失礼します」翔一が
Read more
PREV
1
...
8485868788
...
91
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status