All Chapters of 輝く私の背中に、夫は必死に追いつこうとした: Chapter 81 - Chapter 90

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第81話

しかし芽依の視線は、紬と手を繋いでいる小さな女の子に釘づけになっていた。すると突然、唯が自分の足首を押さえて「あ痛たっ」と声を上げ、いかにも可哀想そうな仕草で紬の腕にしがみついた。「きれいなお姉ちゃん、足がすっごく痛いの……」「どうしたの、唯ちゃん?捻ったの?急にどうして――」さっきまでの淡々とした態度とは一変し、紬の声にははっきりと緊張が走った。彼女は唯をひょいと抱き上げ、痛みを与えないよう細心の注意を払いながら、その小さな体をそっと腕の中に収める。その光景を目にした瞬間、芽依の胸に、まるで塵でも入り込んだかのような鋭い痛みが走った。――ママが、あんなふうに私を抱っこしてくれたのなんて……もう、ずいぶん前のことなのに。あんなちびっ子に、ママを奪われるなんて、我慢できない……!「大丈夫だよ、お姉ちゃん。ただ歩けなくなっちゃっただけなの。少しだけ、抱っこしててくれる?」唯は紬の肩に顔をすり寄せて甘えながら、背後にいる芽依へ向けて、勝ち誇ったようにアッカンベーをしてみせた。「もちろん、いいわよ」紬はそのやり取りにまったく気づかず、唯のわがままをたしなめるどころか、首元に顔を寄せてくる小さな体を、愛おしそうに受け止めた。「お姉ちゃん、大好き。とっても優しいんだもん」芽依は、もはや平静を装えなかった。駆け寄って紬の前に立つと、唯を指さして叫ぶ。「ママ、その子、嘘ついてるのよ!分からないの!?」紬はゆっくりとまぶたを上げ、淡々と答えた。「ええ、分かっているわ。それで?」そんな返事が返ってくるとは思ってもいなかった。芽依の胸の奥から、得体の知れない苦しみが激流のように押し寄せる。「あいつは卑怯なのよ!離れなさい!」そう叫ぶなり、芽依は無理やり唯を紬の腕から引きずり下ろそうとした。紬は唯を抱いたまま、階段の途中に立っていた。足元はヒールの高い靴。強く引っ張られ、体が大きくぐらつく。子供を抱えたまま後ろ向きに転げ落ちそうになった、その瞬間――腰のあたりに、力強い感触が伝わった。誰かが彼女の体をしっかりと支え、引き戻してくれたのだ。心臓が早鐘を打つ。振り返ると、いつの間にか理玖がそこに立っていた。紬は申し訳なさそうに顔を曇らせ、唯を理玖に預ける。そして今度は、怒りを込めて芽依を見据えた
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第82話

紬の思考は、あらぬ方向へと飛んでいた。脳内では、理玖の知られざる婚姻歴について、勝手な憶測が幾通りも渦を巻いている。理玖は灰色の瞳をわずかに細めると、すぐに彼女の疑念に気づいた。「……紬さん。まさか、俺が結婚しているとでも思っているのか?」「えっ?いえ、そんなことは……」紬の小さな顔に動揺が走る。彼女は恐る恐る言葉を選びながら尋ねた。「でも、理玖さんはこれほど非の打ち所のないイケメンですし、少なくとも一度や二度はご経験があるのかと……」「ないよ!きれいなお姉ちゃん!私は生まれてからずっと、おじさんが独身なのを見てきたもん!結婚なんて、絶対してないよ!」理玖の肩に担がれた唯が、焦ったように叫んだ。一方で理玖は、紬の口から飛び出した「非の打ち所のないイケメン」という評価に、内心すっかり機嫌を良くしていた。それでも、紬は確信を持てなかった。唯はまだ子供だ。大人の事情を詳しく知っているはずがない。理玖が自分で明確に否定しなかったのは、きっと家族にすら伏せているからなのだ。――きっと、奥様とひっそり静かな結婚生活を送りたいのね。他人に知られたり、邪魔されたりしたくないんだわ。そう解釈すると、紬の中ですべての辻褄が合ってしまった。これからは、理玖と距離を置かなければ。手術費用を十分に稼げれば、彼への恩返しも終わる。何より、女性のために身を挺して刃物を防ぐような出来事を、もしパートナーが知ったら、穏やかではいられないはずだ。同じ女として、紬にはその気持ちが痛いほど分かった。紬の笑みは次第に引き、他人行儀に一歩距離を取ると、地面に置いていた食材を持ち上げた。「……ありがとうございます、神谷さん。必要があれば、連絡させていただきますわ」理玖は、彼女の態度の変化を敏感に察知した。なぜ急に冷たくなったのか、理由が分からない。――まさか、俺の気持ちが露骨すぎて、怖がらせてしまったのか?唯が物欲しそうに涎を垂らす。「きれいなお姉ちゃん、チキンスープ、チキンスープが食べたい……」「夜に出来上がったら、唯ちゃんを呼びに行くわね。いいかしら?」唯に向ける紬の声は、水のように柔らかかった。「……俺の分は?」理玖が気だるげに、探るような調子で尋ねる。「理玖さんが召し上がりたいなら、唯ちゃんが帰る時に、一
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第83話

最近、浩之が唯を連れて出かける姿を見かけないと思っていた。唯の両親は海外にいるはずだ。そうなると、彼女が身を寄せる先は、自然と理玖のもとしかないのだろう。唯は頬袋をぱんぱんに膨らませ、もごもごと口を動かしながら言った。「そーだよ!おじさん、ここ数日、私を会社に連れてって強制出勤させてるんだもん。超つまんない!あ、でも今日ね、女の社員の人が泣きながら『営業部にだけは送らないで』って、おじさんにすがってたよ。おじさん、一瞥もくれずに『病気なら精神病院へ行け』って言ってた。超ウケるよね!」紬は内心で舌を巻いた。――身代わりさんの線の引き方は、相変わらず徹底しているわね。会社では、さらに毒舌家らしい。自分も彼に対して分をわきまえない振る舞いをしなくて、本当に良かったと胸を撫で下ろした。「そうだ!」唯は大きく一口飲み込むと、興奮気味に続けた。「私の転入手続きが終わったの!これからひいおじいちゃんのお家で長く住むことになったから、きれいなお姉ちゃんと毎日会えるよ!」眉を動かしておどけてみせるその仕草に、紬はすぐ意図を察した。「いいわね。これから唯ちゃん、食べたいものがあったら、お姉ちゃんと一緒に作りましょう」「うわぁん!お姉ちゃんは美人な上に心が広すぎるよ!ひいおじいちゃんときたら、お花を育てるのはいいけど、他はからっきしだもん!特に料理はダメ!詰まったトイレよりひどいんだから!」唯は幼いながら、言葉の選び方がどこか独特で面白い。その少し背伸びした物言いが、かえってアンバランスで可愛らしかった。紬は浩之の料理の腕前について詳しくは知らなかった。「そうなの?」唯は激しく首を振る。「そうだよ!お姉ちゃん、聞いたことある?『イチゴ餡の餃子』とか、『スプライト煮込み豆腐』とか、『砂糖たっぷりの唐辛子炒め』とか!」「ぶっ――」紬は思わず激しくむせた。――それは確かに……想像するだけで恐ろしい。同じ頃、神谷家の食卓。イチゴ餡の餃子、スプライト煮込み豆腐、砂糖たっぷりの唐辛子炒め、そしてドラゴンフルーツの肉炒め。一汁三菜が、完璧に並んでいた。理玖は沈黙した。彼が実家で食事をするのを嫌がるのには、正当な理由がある。一目見る勇気すら湧かず、彼は今しがた置いたばかりのスマホを、再び手に取った。浩之が箸で
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第84話

紬は言葉を失った。「……てっきり、もう……」そこまで口にして、はっとする。理玖は――会社に戻っていなかったのだ。まずい。チキンスープなんて、もう一滴も残っていないのに。言葉に詰まった紬を見て、理玖は眉をわずかに動かした。「紬さんのスープを待つ間に、おじい様の『新作メニュー』の試食会に付き合わされてね。まさか――」「あ、あの!」紬は慌ててとぼけ、この気まずい話題を強引に逸らそうとした。しかも勢い余って、さらに愚かな質問まで口にしてしまう。「新作メニューって……どんなお料理だったんですか?」理玖の笑みが、ぴたりと凍りついた。「……ドラゴンフルーツの肉炒めだ」「言いたいけれど言えない」という紬の表情を見て、理玖は察した。これから出てくるスープもまた、自分の心と同じように冷え切っているのだろう、と。紬は気まずそうに、苦しいフォローを絞り出す。「……コホン。神谷おじいさんは、本当に独創力にあふれていらっしゃるんですね……」――なるほど、ドアを開けた時の理玖の顔が、毒でも盛られたみたいに真っ青だったわけだわ。でも、それ……食中毒にならないのかしら?端正な顔を歪めながら、あの世にも奇妙な料理の数々と向き合っていた理玖の姿を想像し、紬は不謹慎にも笑いがこみ上げてきた。もちろん、恩人に対してあまりにも失礼だという自覚はある。必死に笑いを堪えながら、何とか埋め合わせをしなければと考えた、そのとき。「おじさん、どうしてこっちに来たの?」唯がリビングから駆け寄ってきて、わざとらしく首をかしげる。理玖は唯を見下ろした。「……分かっているくせに」唯は大きな瞳をくるりと動かした。「あーあ!おじさん、会社に行かなかったんだね。今日は忙しいんだと思ってたよ。私たちのチキンスープなら、もうとっくに飲み干しちゃった。お皿のカスまで、私がピカピカに洗っておいたもんねー!」その「死体蹴り」とも言える追い打ちに、理玖の顔色はついに鍋底のように真っ黒になった。――よくもやってくれたね、唯!男の瞳に宿る怨念めいた光に気づき、紬は慌ててこれ以上火に油を注がせまいと、唯の口を掌で塞いだ。「神谷さん、申し訳ありません。会社に行かれたものだと思って、取り置いていなかったんです」紬は必死に頭を下げる。「……構わないよ。たまにおじい様
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第85話

ドア一枚を隔てた向こう側で、子供を叱咤し教育する賑やかな声が、ぴたりと遮断された。紬はようやく息をつき、スマホを手に取る。いくつか仕事を片付けていると、新しい友だち追加申請が届いていることに気づいた。アイコンは、足の短いマンチカンの子猫。紬にはその写真に見覚えがあり、ツイッターを開いてレイのプロフィールを確認した。やはり、以前レイがアップしていた飼い猫だった。――きっと、デザイン顧問の件ね……申請を承認すると、間を置かずに可愛らしい挨拶のスタンプが送られてきた。【レイさんですか?】【さすが紬さん、よくわかりましたね】続けて、お腹を見せて転がる子猫の画像が送られてくる。紬は思わず吹き出した。普段はあんなにクールで清純なイメージのレイが、ネット上ではこんなにもギャップのあるタイプだとは、想像もしていなかった。【そういえば、復帰されたばかりでお忙しいとは存じています。どうしてもお時間が取れないようでしたら、無理にお願いするつもりはありません。顧問をお願いしたいと言ったのも、紬さんの感性でドレスのアドバイスをいただきたいと思ったからです。スタイリストや衣装チームは別途用意していますので、心理的なご負担は感じないでくださいね】ここまで言われてしまっては、紬もこれ以上断るわけにはいかなかった。蒼星賞の授賞式は今週末。数えてみれば、あと三日しかない。明日一度レイのもとへ向かい、衣装のチェックを手伝えば、顧問としての責任も果たせるし、二人の間にある恩義にも、ひと区切りがつくはずだ。翌日、紬は「浮世十八景」春夏シリーズの最後のデザイン稿を提出した。だがその日の午後、美咲が緊急会議を招集した。その表情は、かつてなく険しい。「……中條家側が、出資を引き揚げるかもしれないわ。オフラインのプロモーション活動は、一旦延期せざるを得ない状況よ」「どうしてそんなことに?」紬は眉をひそめた。中條家は、今回のブランド展開における最大の出資者として話がまとまっていたはずだ。もし彼らが突然手を引けば、その後の生産ラインや店舗展開に、甚大な影響が出る。「担当マネージャーの話では、中條社長が急に『ブリーズ』のデザインを気に入ったらしいの。あちらは価格設定も妥当だし、ベテランデザイナーのほうが安定感がある――というのが、向こ
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第86話

二人が立ち去るや否や、受付は内線電話に手を伸ばした。「……社長にお伝えください。ノヴァの人間は帰りました」今日は、「ブリーズ」と中條家が正式に契約を交わす日だ。万が一の事態を防ぐため、受付は上層部から「誰が来ても、社長は新浜へ出張中だと言い張れ」と厳命されていた。とりわけノヴァの人間が現れた場合は、いかなる手段を使ってでも時間を稼ぎ、追い返さなければならなかった。受話器を置いた受付は、遠ざかる二人の背中を見送りながら、ひそかに首を横に振った。――ファッション界の権力者・橋本望美を敵に回して、この業界でやっていこうなんて……無理な話よね。駐車場。美咲と紬は、すぐには車を出さなかった。「あそこに停まってるの、中條社長がいつも乗っているBMWよ。もし本当に不在なら、車は自宅か空港にあるはずだわ」美咲はハンドルを握ったまま、怪訝そうな顔をする紬に理由を告げた。「どうやら最悪のタイミングだったみたいね。おそらく今日は『ブリーズ』との契約日だわ」業界に長く身を置いてきた美咲には、こうした人間模様の裏側が、手に取るように見えている。紬が落胆しているのを見て、美咲は明るく励ました。「大丈夫よ。壁が高いほど、乗り越えた時の景色はいいんだから。投資家なんて他にもいくらでもいるわ。気にしないで」復帰したばかりの後輩の自信を、ここで挫かせるわけにはいかなかった。「……先輩」紬は彼女の手を握り、静かに切り出した。「チャンスがないわけじゃないわ。昨日カグヤに行ったとき、責任者の方が『本社が来期にアパレル事業を拡大する計画がある』って言っていたの。提携先を探すそうだけど……今回、それに賭けてみない?」中條家の一件が起きるまで話す余裕はなかったが、これは偶然にしては出来すぎた好機だった。美咲の瞳がぱっと輝く。「……ええ、賭けてみよう!」二人は、中條家のオフィスがある荒涼とした土地に長居はしなかった。「こんな辺鄙な場所、こっちから願い下げよ!」車をバックさせながら吐き捨てる美咲に、紬は思わず吹き出しそうになる。帰り道、二人は他愛ない話を交わした。美咲が、この近くの山にご利益のある有名な寺があると言い出す。紬の脳裏に、会うたびに自分のせいで不運に見舞われる理玖の姿が浮かんだ。「先輩、そのお寺に寄
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第87話

昨日、マンションへ逃げ帰った芽依は、不安のあまり、出来事の一部始終を望美に打ち明けた。望美はまず優しく娘をなだめ、それから静かに付け加えた。「引っ越してきてから、マンションの中で紬さんを見かけたことは一度もないわ」芽依は、その瞬間に悟った。――やっぱり、私が引っ越してくるのを知って、ママがわざとこの住宅街に住み着いたんだわ!ママが自分やパパを、そんなに簡単に手放せるはずがない。記憶を失ったところで、結局はあのみっともなく、こそこそ嗅ぎ回るママのままなのだ。成哉の瞳にも、娘の言葉を受けて、紬に対する別の意味での深みが宿った。彼と望美は、一週間も前からこの寺への願掛けを予約していた。調べればすぐに分かることだ。しかも、わざわざ参拝客の少ない西門を選んでいる。事前に誰かに調べさせていなければ、ここまで「都合のいい」偶然が起こるはずがない。「俺や芽依に会いたいなら、ここまで大層な真似をする必要はない」成哉が冷淡に言い放つ。紬は一言も返さず、ただ階段を下りようとした。これ以上、この父娘の妄想を聞かされれば、昨日のチキンスープを吐き戻しそうになるほど、反吐が出そうだった。だが、三人の横をすり抜けようとした瞬間、手首を強く掴まれた。「紬。俺はお前に話しかけているんだ」成哉の声には、濃厚な不快感が滲んでいた。紬は拘束された自分の手に視線を落とし、眉間にわずかな嫌悪を走らせる。その表情を見て、成哉は一瞬、見間違いかと思った。――俺、嫌われたのか?だが、すぐにその可能性を否定する。本当に嫌悪しているなら、即座に手を振り払うはずだ。それをせず、こんな煮え切らない態度を取るのは、ただ自分の気を引きたいだけに違いない。紬の言動はすべて、自分の関心を買うための演出なのだ。紬が動く前に、成哉は自ら手を放した。紬の冷ややかな視線が、下から上へと彼を射抜く。「……それで、いつ私と離婚するの?」成哉もまた、複雑な眼差しで紬を見つめ返した。あの日、彼女が天野家を去った後、彼は監視カメラを確認している。望美が不注意で転倒した事実と同時に、紬が婚姻届受理証明書を持ち出したことも、はっきりと映っていた。記憶を失うことが、これほどまでに人の感情を変えてしまうのか――彼は初めて思い知らされた。今
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第88話

成哉の手は、空中で虚しく止まった。容赦のない皮肉を浴びせられ、普段は冷静沈着なエリートの顔が、失態と言ってもいいほど引きつっている。紬は、授かったばかりのお守りに不浄な気が移るのを嫌うかのように、足早にその場を後にした。「……あいつ、よくもあんな口を!」成哉は怒りにまかせて声を荒らげた。望美は相変わらず「理解ある愛人」を演じ続ける。「成哉、紬さんはまだ病気なのよ。自分が何を言っているのか分かっていないの。良くなれば、きっとあなたに謝りに来るわ」成哉の漆黒の瞳から冷徹な光が放たれ、遠ざかる背中に突き刺さる。「ふん、記憶喪失どころか、正気まで失ったようだな!」望美の隣で小さくなっていた芽依は、一言も発しなかった。パパがママにこれほど激昂させられるのを見るのは、初めてだった。芽依の幼い瞳に、戸惑いの色がよぎる。――ママ、本当に行っちゃった……さっきの言葉、本気でパパと離婚するつもりなのかな?「さあ成哉さん、もう怒らないで」望美はしなやかな動作で彼の腕に絡みつき、少し寂しげな響きを声に含ませた。「今日は私のために籤を引きに来てくれたんでしょう?紬さんが現れた途端、彼女のことしか目に入らなくなって……私、今回の蒼星賞はすごく期待しているのよ」成哉の表情が、ようやく和らいだ。「望美、考えすぎだ。あんな女のことは放っておいて、先へ行こう」成哉はこれまで、子供の前では紬に対して「母親」としての体面を保ってきた。その彼が直接「あんな女」と口にしたのは、それだけ怒りが深い証だった。望美は内心でほくそ笑む。――紬、策に溺れたわね。そんな古臭い「駆け引き」を繰り返していればいい。成哉は、遅かれ早かれ私のものになるんだから。……寺を後にした紬は、その足でレイの個人事務所へと向かった。今回、レイが授賞式の内外で着用するドレスの候補は三着あった。赤、黒、白――まったく異なるテーマの三種類だ。黒はブランドから提供された限定モデルだったが、レイが色を好まず却下。赤は、最近ようやくデザインが決まった新調ドレスだったものの、刺繍があまりに多く、外用ドレスの製作が難航していた。納期は厳しく、授賞式までに間に合うかどうかは不透明な状況だ。そして残る一着が、羽のフリンジをあしらった白のドレスだった。そのデザインは一目で
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第89話

白い羽のフリンジが裾と胸元を彩り、全体に幻想的な空気をまとわせている。レイのスタイルに、これ以上なくふさわしいドレスだった。紬は手袋をはめ、ドレスに近づいて細部や裏地の仕立てを丁寧に確かめる。「スパンヤーンの生地はとても薄くて軽いけど、通気性はあまり良くないわね。でも、このドレスはデザインの組み合わせが素晴らしいのが強みだと思う」「レッドカーペットでは記者のフラッシュが相当強いはずだから、ウエストラインにレースの薄い生地を一枚足して、肌が見えすぎないようにした方がいいわ」紬がそう提案すると、優一が連れてきたアシスタントが一つ一つメモを取っていった。そのとき、点検していた紬の手が、ぴたりと止まった。異変に気づいたアシスタントが声をかける。「どうしましたか、紬さん」紬はドレスの裏地――腰の後ろあたりから、指の関節ほどの長さの銀色の針を一本、静かに引き抜いた。アシスタントは息を呑んだ。その場所はあまりに巧妙に隠されており、注意して見なければ、まず気づかないだろう。もしレイが着用したあとに発見されていたら――そう考えるだけで、背筋が冷える結果になっていたはずだ。「……もう一つクリップがある。下手に動かせないわ。もし折れたら、ドレスが全部ダメになるかもしれない」紬は横を向き、すっかり怯えてしまったアシスタントに告げた。「みんなを呼んできて」――「まったく、ひどすぎる!このドレス二着で千万もしたんだぞ。それなのに、こんな手抜きの品をよこすなんて!一体どういうつもりなんだ!」優一は腰に手を当て、怒りを露わにしていた。「ブリーズの人とは、連絡ついたの?」レイはメイクのテストを終えたばかりで、ただでさえ疲労がたまっている。こんな大事な時に、またこんなことが起こるなんて、思いもしなかった。その話題になると、優一は再び語気を荒らげた。「はっ!あいつら、ずいぶん偉そうでな。こっちに現場の全工程を撮った動画がないと聞くや否や、『これはうちの社長が手がけたドレスだから、そんなミスは絶対にあり得ない』って言い張るんだ!そのうえ、言葉の端々で、俺たちがドレス代を踏み倒そうとしてるんじゃないかって、当てこすりまでしてきやがる!」レイは苦笑した。「どうやら、認める気はなさそうね」その隣で、紬が眉をひそめて尋
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第90話

レイもまた、ツイッターに投稿された「電話に出ない彼氏」の姿を目にしていた。その瞬間、すべてを悟った彼女は、発信を続けるのをやめ、二人のチャット画面を開いた。【これ以上無視するなら別れる】一方その頃、剛はスマホの着信音が自動で途切れるのを、鼻で笑いながら待っていた。ところが、直後に届いたそのメッセージを目にした途端、血が一気に頭に上った。――この女、よくも……!別れを切り出すなら、自分からだ。同じ屈辱を二度も味わうつもりはない。今度は彼のほうが、怒りに任せてかけ直した。「レイ、どういうつもりだ?何かあるたびに、すぐ別れると脅すのか?心底がっかりしたよ!」いつもの高圧的な口調。そこに第三者がいるかどうかなど、まるで意に介さない。レイは慣れきっていると言わんばかりに、声を潜めた。「……やっと出てくれたのね」「ふん」剛は薄く笑った。「用件を言え。俺は忙しいんだ。お前の『おままごと』に付き合っている暇はない」レイは本題を切り出し、ドレスの不備について伝えた。「白石さんはそこにいる?彼の連絡先を知らないの。このドレスは私にとってとても大切なの。どうしても修復して、これを着てレッドカーペットを歩きたいのよ」話を聞き終えた頃には、剛の忍耐はすでに限界を超えていた。よりにもよって、渚に繋げと言われたことが、彼の逆鱗に触れたのだ。――この女、俺を道具だと思っているのか!剛は怒りを押し殺し、吐き捨てるように言った。「たかが服一着で、何を大騒ぎしている?渚はそんなくだらないことに構っているほど暇じゃない。あいつは仕立て屋じゃないんだ!お前のボロ服を直す時間なんて、あるわけないだろう!」「剛、お願い……彼と一言だけ話させて……いいでしょう?お願い……」レイの声は、いつものように、卑屈なほど低姿勢だった。剛の悪趣味な独占欲とサディズムが、むくりと鎌首をもたげる。「俺の人脈を、お前の都合で使えると思うか?レイ、お前には本当に呆れるよ。ドレスなんて、適当なのを着ておけ。お前は俺の女だ。そんなに綺麗に着飾りやがって、誰に見せるつもり……」言い終える前に、受話器から「ツーツー」という無機質な音が流れた。――また切りやがったのか!?増長していくレイの態度に、剛は歯噛みした。その様子を眺めていた望美
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