All Chapters of 協議離婚したら、忘れていた夢が叶い始めた: Chapter 201 - Chapter 210

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第201話

想いというものは、一方通行では決して長続きしない。互いに想いを交わしてこそ、初めて本物の絆へと昇華されるのだ。どれも、ほんの些細な出来事にすぎないのかもしれない。それでも、そんな小さな欠片が長い年月をかけて降り積もれば、やがて円香の胸の奥に、決して消えることのない確かな重みとなっていく。黙って耳を傾けていた賢治は、その顔に複雑な色を滲ませていた。胸の内にじわじわと広がっていくのは、娘に対する深い後悔の念だ。長年「のびのびと育てている」などと聞こえのいい綺麗事を並べていたが、その実態は、ただ欲しい物を買い与えるだけで、育児放棄も同然の日々だった。その結果、円香は「今を楽しまなきゃ損だ」とばかりに、享楽的で刹那的な生き方をする娘に育ってしまったのだ。決して、娘の奔放な性格を正そうとしなかったわけではない。ただ、もう手遅れだと悟った時点で、賢治はあっさりと手を引いてしまった。一度たりとも立ち止まって考えようとはしなかったのだ――娘がなぜ、こんな風になってしまったのかを。すべての元凶が自分自身であったと今更突きつけられ、賢治はしばらく呆然と口を開けたまま、どんな言葉を紡げばいいのか分からずにいた。重苦しい沈黙を破るように、円香が静かに口を開く。「お父さん。こんなことを話したのは、罪悪感を煽って杏奈を助けてほしいからじゃないよ。ただ、あの子は私にとって大切な家族なんだってこと、分かってほしかったの。これから何があっても、私は絶対にあの子を見捨てない。たとえ、この命を懸けることになったとしても」円香の心に、一片の迷いもなかった。彼女は決して愚かではない。名家に生まれ、幼い頃から大人の世界の醜悪さもあらゆる裏事情も見聞きして育ってきた。世の中の理不尽さなど、とうの昔に骨身に沁みている。もし本当にただの世間知らずの阿呆だったなら、とっくの昔に誰かにいいように食い物にされていたはずだ。飛び交う世間の噂を拾い集めるだけでも、杏奈の置かれた状況が絶望的なまでに最悪であることは容易に察しがついた。単に会社が潰れて終わる話ではない。最悪の場合、命の危険だって十分にあり得るのだ。だからといって、恐れをなして逃げ出すとでもいうのか?今日一日、病室に張り付いて彼女のそばを離れず、さらには世論を誘導するためのネット工作の指示まで出した。その
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第202話

祐一郎はしばらく逡巡したあと、意を決したように口を開いた。「俺の顔を立てて、一つデザインを頼めないか」「え?」杏奈は戸惑ったように小さく首を傾げた。「お兄ちゃんの会社、また事業の方向転換でもするの?」その一言に、武史と恵理子も揃って息子のほうへ顔を向けた。そんな話は寝耳に水だと言わんばかりの表情だ。そもそも、今はそんな無茶ができる時機ではない。これまでの先行投資すらまだ回収できておらず、ここで下手に舵を切れば、吉川グループに狙われるまでもなく、三浦家は自滅するしかないのだ。「心配しないで、方向転換じゃないから」祐一郎は慌てて否定した。「海外にいる知り合いが、ジュエリーにすごく興味を持っててさ。あの、海外から振り込まれた資金のこと、覚えてるか?」「ああ、覚えている」武史が深く頷いた。「あのお金がなかったら、うちはこの最悪の局面を乗り越えられなかったかもしれないからな」「そうなんだ」祐一郎は言葉を引き取るように言った。「我が家にはジュエリーデザインの天才がいるじゃないか。だから、あいつへの感謝の気持ちとして、杏奈にデザインしてもらったジュエリーを贈りたいんだよ」「困っている時に助けてもらったんだもの、きちんとお礼をしなくちゃね」恵理子は賛同しながらも、決して杏奈に無理強いはせず、本人の意思を尊重した。「杏奈、私たちのことは気にしなくていいのよ。やりたければやる、気が進まないなら断っていいからね。祐一郎には、自分で何とかさせればいいんだし」「恵理子おばさん」杏奈は少し唇を尖らせて不満を滲ませた。「何言ってるの。私たちは家族でしょ?家族の役に立てるなら、そんなの当たり前のことでしょ」「ありがとう、杏奈……」恵理子が感極まったようにぎゅっと抱きしめると、その瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。隣に座っていた武史も、温かな眼差しで二人を見守っていた。「ん……?」祐一郎だけが、一人ぽつんと取り残されたように呆然と瞬きをした。いや、俺……蚊帳の外か?ジュエリーをデザインしてほしいと頼んだだけなのに、なぜか自分だけがこの感動的な空気に馴染めていないのはどういうことだ。食事が終わり、武史たちが帰ったあと、祐一郎は病室に残って杏奈と細かい打ち合わせを始めた。「お兄ちゃんの知り合いって、どんなスタイルのジュエリーが好みな
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第203話

今の三浦家は、崖っぷちに立たされている。ほんの少しでも足を踏み外せば、そのまま暗い奈落の底へと転がり落ちることになる。だからこそ、万が一のための退路を密かに用意しておかなければならない。ヴェルティージュは、その生命線の一つだった。「……ちゃんと考えてみるから」杏奈のわずかに疲労を滲ませた声が、祐一郎の意識を現実へと引き戻した。「ああ、急がなくていい。まずは怪我を治すのが最優先だ。数日くらい遅れたって、どうってことない」「分かった」それ以上は踏み込まず、祐一郎は席を立ち、病室をあとにした。ジュエリーの件に目処が立った以上、彼も自身の事業の準備を急がなければならない。杏奈がデザインしたあの王冠は、素人の目から見ても、その技巧の精緻さと息を呑むような完成度の高さが一目で分かる代物だった。ヴェルティージュが杏奈デザインのジュエリーシリーズを大々的に世に送り出せば、間違いなく大きな話題を呼ぶ。三浦家に注がれていた世間の目も、自然とそちらへと向かうだろう。そこで上手く立ち回れれば、この絶体絶命の危機を乗り越えられるかもしれない。そう思考を巡らせるうちに、自然と彼の足取りも速まっていった。「なんか祐一郎のやつ、毎日やることが尽きないって感じで忙しそうだよね」円香はとなりの付き添い用ベッドでゴロゴロと寝転がりながら、のんきに呟いた。杏奈はそんな円香を半目で見やる。「あなたみたいに食っちゃ寝してる人と一緒にしないでよ」「別に何が悪いのさ」円香は悪びれるどころか、むしろ誇らしげに胸を張った。「あくせく生きるのも一生、のんべんだらりと生きるのも一生でしょ。ぐうたらしたくてもできない可哀想な人だっているんだから、ありがたく満喫させてもらうわよ」「はいはい、参りました」杏奈は呆れて白旗を揚げた。「あなたには口じゃ勝てないって」他愛もない言い合いを続けていると、突然、円香がベッドから勢いよく跳ね起きた。杏奈の目には見えないが、そばから伝わってくるただならぬ気配で何かがあったのだと察し、思わず声を上げる。「円香、どうしたの?ベッドから落っこちた?」「大丈夫、大丈夫」円香は笑って杏奈を宥めた。「ちょっとスマホ見てたらさ、すっごくいいニュース見つけちゃって」おやじ、やっと腰を上げてくれたんだね。「どんないいニュース?」杏
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第204話

「誰?」ベッドから杏奈が尋ねた。円香が答えるよりも先に、どこかで聞き覚えのある低い声がドアの外から飛び込んできた。「殺人教唆事件の捜査で参りました」警察の取調室にいた、あの警部の大地だ。微塵も表情を変えることなく、杏奈は静かな声で告げた。「円香、通してあげて」「まさか、うちの杏奈をまた連行しに来たとか、そういうふざけた用件じゃないでしょうね」円香は鋭い視線を向け、まずそこを確認せずにはいられなかった。一度警察に連行されたせいで、杏奈はあと少しで本当に失明するところだったのだ。もしまた同じような過ちが繰り返されるようなら、想像するだけでも背筋が凍る。ドアの外で足止めを食らっていた大地も、彼女の切実な懸念と怒りを察したのだろう。取調室で見せていたあの鋭い態度はすっかり鳴りを潜め、その声には深い申し訳なさが滲み出ていた。「あの時は、我々内部の者に問題があり、あのような取り返しのつかない事態を招いてしまいました。本当に、申し訳ありませんでした」彼は深く頭を下げた。「この度の入院費等、関連する費用につきましては、すべて私どものほうで負担させていただきますので……」「結構です」円香が冷たく遮った。「お金の話なんかどうでもいい。ただ、一日も早く事件の真実を明らかにして、杏奈の身の潔白を証明してくれれば、それだけで十分ですから」「実は、まさにそちらの件でお伺いした次第なのです」大地は少し間を置いてから、恐る恐る切り出した。「よろしければ、ご本人の前で直接お話しさせていただいてもよろしいでしょうか」「……どうぞ」渋々といった様子で身を引き、道を空けた。制服姿の数人がぞろぞろと病室に入り、杏奈のベッドの前に置かれた椅子に順番に腰を下ろした。円香はすぐに杏奈の隣に座り直し、そっと肩を抱いた。言葉こそないが、それは何よりも確かな「私がついている」という支えだった。警察と、杏奈たち。両者が向かい合い、重苦しい沈黙がしばらくの間、病室を満たした。「コホン」やがて、大地が一つ咳払いをし、張り詰めた空気を整えるように静かに沈黙を破った。「三浦さん、今回の件では大変なご迷惑と苦痛をおかけしてしまいました。まずは、警察を代表して心よりお詫び申し上げます」「いいえ」杏奈は静かに首を横に振った。「処分されるべき人間は、すでに処
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第205話

「分かりました」大地は深く頷き、さらに問いを重ねた。「他に心当たりはありますか」杏奈は少し思案してから、静かに答えた。「……藤本家も、調べてみる価値があるかもしれません」蒼介を除いて、この世で最も自分の死を望んでいる人間がいるとすれば、あの「父親」をおいて他にいない。自分が死んでさえくれれば、紗里はすぐにでも吉川家の正妻の座に収まることができるのだから。大地は押し黙った。よりによって、杏奈と藤本家、そして紗里の複雑な愛憎関係も、警察側はすでに把握していたのだ。事情を聞けば聞くほど、あまりの酷さに胸が痛くなってくる。元夫に殺されかけ、実の父親にも殺されかけ、そのうえ今、彼女の隣にぴったりと寄り添って座っているこの女性は……大地の視線が、となりの円香へと向けられた。なぜだか、今にも懐からナイフを取り出してきてもおかしくないような、彼女から、ピリピリとした妙な威圧感を感じ取っていたのだ。「あのさ」円香が地を這うような低い声で凄んだ。「頭の中で何を想像してるのか知らないけど、そのジロジロ見る目つき、ちょっと失礼すぎない?」大地は慌ててわざとらしく咳払いをし、気を取り直して杏奈に向き直った。「あの……他にはございますか。もしなければ、一つ私からお願いがあるのですが」「心当たりはそれだけですが」杏奈は首を横に振った。「お願いとは、何でしょうか」「実は、実行犯の橋口剛が、あなたに直接会いたいと申し出ているんです」大地が率直に告げると、杏奈も予想外だったのか少し面食らった様子を見せた。「あの人が……私にですか?一体なぜ……」「今日、足を引きずる奥さんが幼い子どもを抱き、車椅子に乗った母親に付き添われて面会に来られたんです。おそらく、ご家族の姿を見て、彼の中で何か思うところがあったのでしょう」少し想像を巡らせてみれば、杏奈にも理解できた。どれほど凶悪な罪に手を染めた人間であろうと、家族の姿を前にして心の奥底で何かが揺り動かされることはあるのだろう、と。「いいですよ」杏奈は静かに頷いた。「今からですか?」「いえ、今日はやめておきましょう」大地は気遣うように首を振った。「私どもも、人の情というものは理解しているつもりです。療養中のお体に、これ以上ご負担をおかけするわけにはいきません。明日、改めてお迎えに上がります
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第206話

「そ、そんなに大ごとにはならないんじゃ……」達也はごくりと生唾を飲んだ。紗里の力になりたかっただけで、まさかこれほど致命的な失策を演じるとは夢にも思っていなかったのだ。紗里はもう、この愚かな父親に言葉を費やす気力すら失せていた。「……あなたに動いてもらったその人間は、今どこにいるの」「え?」「指示を出したその実行犯よ。名家の連中に資金の出所を突き止められる前に、さっさと始末してきなさい。一切の証拠を残さず、綺麗にね」「それは……」達也は露骨に躊躇した。「なにもそこまでしなくても、外国にでも逃がしてしまえばいいんじゃないか。わざわざ……」「馬鹿ね!」紗里の堪忍袋の緒が、ついに音を立てて切れた。「あの人たちの恐ろしい手が、海外なら届かないとでも本気で思ってるの?もし向こうで追いつかれたら?もしすべてを暴かれたら、どうなるか分かってるの!?」「濱海市の名家という名家が総出で藤本家を標的にしたとして、私たちがどんな悲惨な末路を辿るか、少しでも想像できる!?」達也は脂汗を滲ませながらも、それでもなかなか決断に踏み切れずにいた。「だ、だが、うちには吉川家という後ろ盾がいるじゃないか……」他人の強大な権威を笠に着て、安全な場所から威張り散らすだけなら喜んでやる。だが、自らの手を下して人間を「消す」となると、まったく話は別だ。そもそもそんな座った度胸があるなら、実の娘を売り飛ばすようなクズに落ちぶれることもなかったはずだ。達也は、絵に描いたような「内弁慶」の悪党だった。とはいえ、相手次第では、踏み越えてはならない一線があることを、本能で理解している。それを骨身に沁みて理解したのは、紗里の瞳が一瞬にして絶対零度に凍りついた瞬間だった。達也は足からスッと力が抜け、無様に膝が震え出した。もしこれが杏奈相手であれば、今頃は鼻先に指を突きつけ、とっくに罵声を浴びせて言い返していただろうに。「吉川家ですって?」紗里は鼻で笑った。「あの家の人たちが、全員揃いも揃って馬鹿だとでも思ってるの?あの吉川瑞枝という食えない古ダヌキが、裏で私のことをどう値踏みしているか、あなたみたいな人間には到底分からないでしょうけど。これだけの厄介な問題を起こした私のために、あの男が吉川家を危険に晒してまで守ってくれると思う?」紗里は、自分
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第207話

お腹も十分に満たされ、一行が出口へ向かった、まさにその時だった。先頭の部下が扉を押し開けた瞬間、外から誰かがガラスのドアに激突してきたのだ。「ドン!」という鈍い衝撃音がガラス越しに響いた。大地が慌てて駆け寄って崩れ落ちる体を抱き留めると、その男の額はべっとりと血まみれで、すでに完全に意識を失っていた。「何があったの?」杏奈が、不安げに尋ねた。円香が手短に説明すると、杏奈は思わず声を上げた。「これだけの出血だもの、まず急いで病院に連れて行かないと。手遅れになる前に急がないと」「まったく、朝からなんてことだ……」大地はひどく苦い顔をしながらも、すぐに部下の一人に男を抱えさせ、近くの病院へ搬送するよう的確に指示を出した。「こちらの聴取が片付いたら、三浦さんを病院へお送りする足で、彼の様子を見に行きましょう」「はい」こうして一行は二手に分かれることになった。それから十分ほどで、杏奈たちは警察署に到着した。円香がしっかりと腕を支え、大地の案内に従って奥へと進む。やがて、とある取調室の前に辿り着いた。分厚いドアの向こう側から、男の必死に押し殺したような、悲痛な嗚咽が漏れ聞こえてくる。大地が、小さな声で説明を添えた。「昨日、ご家族が面会に来られてから、彼は一晩中ずっとあの状態なんです。こちらが何を聞いても、ただ泣くばかりでまともな答えが返ってこなくて。どうしても三浦さんに直接会って謝りたいと言い張るので、ご負担とは思いつつも、こうしてわざわざお越しいただくしかなかった次第です」杏奈は無言のまま小さく頷き、部屋の中へと足を踏み入れた。まだ椅子に腰も下ろさないうちに、「ガン、ガン、ガン」という音が室内に響き渡った。続いて、剛の涙と鼻水に塗れた嗚咽混じりの声が、床に額づいた剛の口から絞り出された。「お嬢さん……っ、すみません、本当に、本当に申し訳ありませんでした……!あなたを罠に嵌めて陥れようとしたのは俺ですが、決して、個人的な恨みがあったわけじゃないんです……!ただ俺は、死ぬ前に、せめて残される家族に少しでも金を残してやりたくて……うっ、ううっ……」杏奈はその場で固まった。立ったままで見下ろすべきか、どう声をかけるべきか、分からなかったのだ。すでに相手の口から聞くべき謝罪の言葉はこれ以上ないだろう。こ
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第208話

「おふくろが……」剛は両手で顔を覆った。「全部、気づいていたんです」息子が警察に捕まったと知り、さらに家には見覚えのない大金が転がり込んでいる。それを見た老母は、息子が陰でどのような汚い仕事に手を染めていたのか、考えるまでもなかったのだろう。だからこそ、体の不自由な嫁と幼い孫を連れ、わざわざ警察署まで面会にやって来たのだ。取調官たちの耳の奥には、昨日面会室で響いた老いた母親の悲痛な声が、今もなお、その残響が耳の奥にこびりついていた――「うちはこんなに貧乏だけどね、これまでどれだけ助けられたか、あんたは分かってるのかい。毎月の支援がなかったら、おっかあも、嫁も、子どもも、とっくの昔に飢え死にしてたんだよ。そんな真似を、お前はどうして平気でできたんだ。お前がこんな卑怯な真似をしたと知ったら、いつもご支援をくださっているあのお方たちに、おっかあは一体どんな顔をして会えばいいんだい!」一億円。彼らの暮らしなら、一生食べていけるほどの大金だ。その金さえあれば、剛一家のその日暮らしのどん底の生活は一変するはずだった。だというのに、あの老母は手に入った大金を少しも惜しむことなく、ただただ愚かな息子を涙ながらに諭しにきたのだ。綺麗事だ、馬鹿なことだと鼻で笑う者もいるかもしれない。けれど、世の中にこういう人間が確かに存在するからこそ、世の中もまだ捨てたもんじゃないと思わせてくれる。話を聞いた誰もが、この誇り高き老母に対して、深い敬意を抱かずにはいられなかった。それでも、剛の犯した罪が帳消しになるわけではない。杏奈に、彼を無条件で赦す気など毛頭なかった。しかし、あの気高い母親のために自分から何かできることはないかと思案し、少しの沈黙のあと、静かに口を開いた。「彼が受け取った報酬のお金は、犯罪収益として当然没収されるでしょう。ですが、私個人として……彼のお子さんが無事に成人して、家族を養えるようになるまでの間、生活費を援助させてください」その言葉が終わった瞬間、取調室の中が水を打ったようにしんと静まり返った。その場にいた全員が、呆然として杏奈を見つめていた。何しろ、被害者である彼女自身からそんな慈悲深い申し出が出るとは、誰も予想していなかったのだ。もし自分が彼女の立場なら、加害者の家族に同情することはあっても、自分を致命的な罠に
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第209話

大地は、杏奈たちを連れて警察署の外へと向かった。「彼が証言した『指示役』についてはできる限り早く身元を割り出します。何か進展があり次第すぐにご連絡しますので、今日はひとまず、病院へお送りいたします」「色々と、お手数をおかけします」杏奈が丁寧に頭を下げると、円香がそっと彼女の腕を取り、そのまま手配された車へ乗り込もうとした。その時、不意に着信音が鳴り響いた。円香が杏奈のポケットからスマホを取り出し、画面に表示された名前を確認すると、わずかに目を丸くした。「誰から?」杏奈が尋ねる。「吉川家のおじいさまからだよ……出る?」「うん、出るよ」「分かった」円香が通話ボタンを押し、杏奈の耳元にスマホを当ててやると、すぐに心配を隠しきれない老人の切羽詰まった声が耳に飛び込んできた。「おお、杏奈か!さっき小耳に挟んだところによると……」現在外で飛び交っている不穏な噂を手短に説明してから、政夫は矢継ぎ早に問いかけた。「今、あんたは大丈夫なのか!?怪我はしとらんか?今どこにおるんだ?すぐに迎えに行くぞ。旧宅にさえ来てくれれば、誰一人としてあんたを苦しめるような真似はさせんからな!」政夫が吉川グループの第一線から退いて隠居して以来、世間の動きやネットの喧騒などは、彼の耳にはほとんど入らなくなっていた。もし屋敷の使用人が昼休みにスマホのニュースで杏奈の事件を偶然見つけ、慌てて報告に来なければ、彼は今もまだ何も知らないまま呑気に過ごしていたかもしれないのだ。「おじいさん、落ち着いて。私は大丈夫ですよ」杏奈は子供を宥めるように優しく微笑んで答えた。「もう事件は大体片付きつつありますから。あと二、三日病院で安静にしていれば、無事に退院できると思います」「病院なんかより、旧宅には優秀な専用の医療チームが控えとるし、腕のいい料理人も使用人もおる。あんな無機質な病院とは比べものにならんぞ」政夫はなおも食い下がり、穏やかに諭した。「さあ、早く戻っておいで」「ううん、お気持ちだけで十分ですよ。私はいいの」杏奈は穏やかな口調ながらも、きっぱりとした意志を持って断った。いくらあの場に蒼介がいなかったとしても、あの屋敷には美南と瑞枝がいる。あの二人の顔を見るだけで気が滅入ってしまう。「はあ……」電話の向こうで、政夫が深く、寂しげな
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第210話

「では、お言葉に甘えます。もし何かあれば、いつでも直接こちらの番号へお電話をください」大地は名刺を手渡すと、足早に踵を返して病院の奥へと消えていった。部外者がいなくなると、円香は途端にいつもの軽口を叩く調子に戻った。「ねえ杏奈、最近の濱海市ってどうしてこんなに物騒なわけ?もしかして、世界の終わりでも近づいてるのかな」「さあね」杏奈は自分の病床にゆっくりと横たわりながら、特に深く考えようとはしなかった。「警察さんがちゃんと調べてくれるわよ。私たちがわざわざ首を突っ込んで心配することじゃないわ」「まあ、それもそうか」円香はあっさりと素直に頷くと、ぱっと表情を明るくして話を切り替えた。「で、お昼、何が食べたい?」天下の大事件よりも、まずは目の前の食事が大事だ。そのあまりにも鮮やかな話題の転換に、杏奈は思わず噴き出して苦笑した。「円香ってば、本当に食いしん坊なんだから」「何を今更」円香はけろりとした顔で胸を張った。「で?早く言ってよ。何がいい?リクエスト通りにさっさと買ってきてあげるから」「うーん……何でもいいよ」杏奈は少し考えてみたものの、これといって特に食べたいものが思い浮かばなかった。「じゃあ、私が適当に見繕ってくるわ」そんな平和で他愛ないやり取りに声を上げて笑い合っていた二人は、まったく気づいていなかった。楽しげな声が響く病室のドアの前を、音もなく、何者かの影が素早く通り過ぎていったことを。……「ちゃんと、片付けたわよね?」達也が病室に入ってくるなり、紗里は開口一番、問い詰めた。「あ、ああ……片付けたさ」達也は曖昧に頷いた。その瞳の奥には、明らかな動揺と隠しきれない後ろめたさが浮かんでは消えていた。もっとも、ベッドの背もたれに深く寄りかかった紗里からは、父親のそんな微細な表情の変化までは読み取れなかった。だから彼女は、その言葉をあっさりと信じ込んだ。「ちゃんと片付けたなら、一体何の用で戻ってきたの?」紗里は不思議そうに眉を寄せた。「それが、だな……」達也の額から、じっとりと嫌な汗が滲みはじめた。実のところ、彼は何一つとして「片付け」てなどいなかったのだ。標的を仕留める寸前で、不運にも相手に逃げられてしまったのである。本来ならば、この大失態をどう挽回すべきか、紗里に泣き
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