All Chapters of 協議離婚したら、忘れていた夢が叶い始めた: Chapter 301 - Chapter 310

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第301話

それだけ言い終えると、祐一郎はもう一度肩を軽く叩き、踵を返して去っていった。……翌朝、空がようやく白み始めた頃、杏奈はすでに起き出していた。身支度を済ませて階下へ下りると、普段着姿の祐一郎がソファに深く腰掛け、新聞を読んでいる。何気なく声をかけた。「あら、お友達は?」「ホテルに泊まってる」祐一郎が顔も上げずに答えた。「何か用でもあったか?」「ううん、ただ聞いてみただけ」杏奈はさらりと返して、ダイニングへ向かった。恵理子が作ってくれた雑炊の、出汁のいい香りがすでに漂ってきていた。「俺の分も一杯頼む」祐一郎が声をかけた瞬間、後頭部をパシッとはたかれた。「まったく、横着にもほどがある。少しは自分で動け」武史が背後からのそりと現れた。祐一郎はのんびり言い返す。「親父、この間まで俺がどれだけ忙しかったか知ってるだろ。やっと少し時間ができたんだ、ゆっくりさせてくれよ」「そうか。じゃあしっかり休んで、杏奈を会社まで送ってやれ」武史は上着を羽織って、さっさと出て行った。「おじさん、雑炊できてますよ。一杯食べてから行きませんか」杏奈は器を持って後を追いかけた。武史は振り返ることもなく手をひらひらと振った。「俺はいい、お前たちで食え」「親父が食わないなら俺が食う」祐一郎はひょいと器を受け取り、満足そうにひと口食べてから続けた。「親父に頼まれたから後で送ってやるよ。早く食え。俺も少し片付けたい用事があるんだ」「お兄ちゃんは用事があるなら先に行っていいよ。私一人で行けるから」「それはダメだ。親父に知られたらまたうるさく言われる」「わかった。じゃあ、サンドイッチを持って行こう」杏奈はダイニングへ戻ってサンドイッチを二つ袋に詰め、祐一郎の車に乗り込むと、そのままルミエールへ直行した。……ビルのエントランス前、車がまだ止まり切らないうちに、お決まりの端役が、案の定姿を現した。「おはよう」那月が朝食の袋を提げて車の窓越しに立ち、人懐っこい笑みを向けてくる。「朝ごはんはもう食べた?ちょうど買ってきたんだけど……」「食べた」那月は無言のまま杏奈を見つめた。まあ、杏奈にとっては想定の範囲内か。「じゃあ、俺はこれで」祐一郎は那月に軽く頷き、杏奈に一言告げてそのまま車を走らせた。「杏奈」那月が
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第302話

朝の空気はひんやりと冷たく、吹き抜ける風が刺すような冷たさを運んでいた。那月が額に汗を浮かべ、背中まで冷や汗をかいているのを見届けると、杏奈は満足げにその場を後にした。普段なら那月もうまくかわして時機を待つところだが、今はそれができない。美南に約束してしまっていたからだ――今夜中に完璧なデザイン案を三点届けること。先日の審査会でしくじった分の埋め合わせとして。もし用意できなかったら……その先を、那月はどうしても想像したくなかった。「杏奈、待って!」那月が早足で追いかけた。杏奈は聞こえないふりをして、足を止めない。追いつかれる前に、エレベーターに乗り込んで姿を消した。……最上階の社長室。裕司と杏奈は対面して座り、二人の間のテーブルにはお茶が置かれていた。裕司はひと口含んでから、穏やかに切り出した。「それで、どうなった?」「協議書に書かれた通り、三ヶ月の期間が終われば、正式に離婚できます」杏奈は簡潔に状況を説明した。裕司は軽く頷いた。「今まで散々耐えてきたんだ、三ヶ月くらい急ぐこともない。ただ……」少し間を置いて、言いにくそうに続けた。「スターナイト・プロジェクトの件、まだ吉川グループと組む必要があるわけだが。もし気まずいなら、俺の方で何とか断りを入れることもできるぞ」プロジェクト自体は離婚前に決まっていた話で、各部署もすでに全力で動き始めている。今さら撤退するとなれば、社内への影響はもちろん、蒼介側へも顔向けができない。それが裕司の迷う理由だった。結婚中にあれだけのことをした男だ、離婚後に何をしてくるかわかったものではない。「大丈夫です」杏奈は彼の心配を察して、笑いながら首を振った。「向こうから利益を運んできてくれるというのに、断る理由なんてないでしょう?」「本当に気にしないのか?」「私はもう本当に吹っ切れました。完全に」「そうか」裕司は頷いた。「じゃあスターナイト・プロジェクトは君に仕切ってもらう。ただ、吉川グループ側も監督役を送り込んでくると思う。もしかしたら、共同でプロジェクトを推進する形になるかもしれない」「藤本紗里ですか?」杏奈は迷わず名前を挙げた。「エロス・クラウンを手掛けたのは彼女だし、吉川グループも推している。デザイナー以上の権限を持たせるつもりなら、おそらく彼女だ
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第303話

「もう、焦りましたよ……チェーンブレスレットを半分まで作ったところで、杏奈さんが辞めるって聞いて、このまま続けていいのかわからなくなってたんです。よかった、戻ってきてくれて」みんなが杏奈の周りに群がった。驚かせてはいけないという理性が働かなければ、胴上げでもしかねない勢いだ。杏奈が入院していたこの数日は、彼らにとっても試練だった。現在のデザイン部の中心はソーン・シリーズだ。だがその要である杏奈がいないとなれば、事実上、暗礁に乗り上げたも同然だった。新たなコンセプトを確立する権限も能力もない彼らには、ただ待つしかなかった。それでも、杏奈はようやく戻ってきた。杏奈は穏やかな笑顔で皆をなだめ、場が落ち着くのを待ってから、不在中の進捗を確認した。途端に、さっきまでの熱気が嘘のように引いていく。問いかけても、誰一人口を開こうとしない。杏奈は苦笑いしながらも、やんわりと告げた。「今回だけは目をつぶるわ」それから思い出したように続けた。「それと、根拠のない噂話は、今後このデザイン部では一切禁止にするわ」「はい!」と声が揃う。誰も気づかなかったが、人垣に紛れていた那月は、返事をする際に一瞬、その瞳に後ろめたげな色がよぎった。どれだけ取り繕っていても、前に立っている杏奈からは、その不自然な視線の動きがはっきりと見えていた。やっぱり彼女だったのね。先輩もとっくに気づいているはずだ。なのになぜ止めないのだろう――その疑問を、昼休みに裕司と外食に出た際、杏奈はようやく口にした。「長い目で見て、泳がせているんだよ」裕司がゆっくりと言った。杏奈は少し眉を寄せた。「でも、横井の背後にいるのが美南だってもうわかってますよね。それでも泳がせる意味があるんですか?」「会社にはまだ他の勢力が潜んでいるのを忘れたか?」裕司が促した。「他の勢力……株主たちのことですか?」「かもしれないな」裕司は曖昧に答えた。「だが誰であれ、横井を放置しておけば、やがて連中が彼女を都合のいい駒として使おうとする。目立つ横井が的になれば、陰に潜む連中も安全圏から動き出す。そこを俺が狙うんだよ」尻尾を見せた那月を囮に、背後の黒幕ごと一網打尽にする算段だ。一度表に引きずり出せば、根こそぎ片をつけられる。杏奈にはその細かい駆け引きはわからなかったが、
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第304話

裕司は静かに頷いた。「少なくとも、本人はそう言っている」「一体どうやって説得したんでしょうね」杏奈は純粋な疑問を口にした。「もうすぐ来る。直接聞けばいいさ」「そうですね」二人はそれ以上言葉を交わすことなく食事を終えると、最上階の社長室へと戻り、彼の到着を待った。十分ほど経った頃、控えめなノックの音が響いた。「河原社長、成海様がいらっしゃいました」「通してくれ」程なくして、秘書の案内に従い蓮が姿を現した。数日ぶりに見る彼の顔には相変わらず飄々とした雰囲気が漂っていたものの、その奥には隠しきれない疲労の色が濃く滲んでいた。それでも、その目に宿る光は鋭く、己の野望を手にした者だけが放つ特有の高揚感が確かにそこにあった。「河原社長、杏奈さん」蓮は二人の向かいのソファに腰を下ろすと、手短な挨拶を済ませるなり、さっそく本題を切り出した。「今回の提携には、俺個人の名義で参加させてもらいます。主導権の配分については、そちらで決めてもらって構いません。俺は最終的な見返りさえ手に入れば、それで十分なので」裕司はわずかに眉を跳ね上げた。ある程度予想していたこととはいえ、いざ面と向かって告げられると、やはり真意が気になる。「不躾を承知でお尋ねしますが、一体どうやってあの吉川社長を説得したのですか?」杏奈もまた、真っすぐな視線を蓮へと注いだ。二人の射抜くような視線を正面から受け止めながらも、蓮は微塵も表情を崩さなかった。むしろ、その淡々とした声の底には、ぞっとするような凄みが潜んでいた。「死を恐れぬ狂犬に、わざわざ喧嘩を売るような馬鹿はいない……ということです」理由はそれだけではない。その狂人は、たとえ最終的に敗北を喫しようとも、死なば諸共とばかりに相手に致命傷を与えかねないだけの実力を、間違いなく備えているのだ。隣市に名を轟かせる成海家の御曹司という肩書きさえあれば、ここ濱海市においても、それなりの人間を動かすことができる。そこに相応の利益をちらつかせれば、命懸けとまではいかなくとも、喜んで力を貸す輩はいくらでも湧いてくるのだ。裕司は腑に落ちたように深く頷いた。杏奈はそれ以上追及する気もなく、純粋な好奇心が満たされたことで、静かに席を立とうとした。具体的な業務提携の交渉は、裕司に任せておけばいい。「杏奈
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第305話

半日も経たないうちに、円香のオーディションへの熱意はすっかり冷え込み、心身ともに疲弊しきっていた。杏奈は思わず苦笑を漏らし、泣きつく親友をどう慰めたものかと思案した末、優しく語りかけた。「実は今夜、うちの会社でちょっとした食事の席があるんだけど、よかったら円香も来ない?いい気分転換になるかもしれないよ」そして少しの間を置いて、真剣な声音で付け加えた。「もちろん、レッスンが本当に嫌で嫌でたまらないなら、オーディション自体を辞退するのも私は応援するからね」「……やめないわよ」電話の向こうで、円香がぷうっと頬を膨らませる様子が目に浮かぶ。「ちょっと限界だったから、杏奈に電話して愚痴を吐き出したかっただけだもん」「そっか」杏奈は親友の泣き言に辛抱強く耳を傾け、時折優しい相槌を打った。そうしてしばらく愚痴を聞いているうちに、円香のささくれ立っていた心も随分とほぐれていったようだった。「……よし、じゃあ練習に戻るわ」先ほどまでの弱音とは打って変わり、その声にはどこか妙な芯の強さが宿っていた。杏奈は明るく笑ってエールを送った。「うん、頑張ってね!」「うんっ!」通話を終えてスマホを置いた瞬間、唐突に背後から声が降ってきた。「お二人のその友情……本当に羨ましいな」驚いて振り返ると、いつの間にか那月がすぐ隣に立っていた。まるで自分もそんな美しい友情を渇望しているのだとでも言わんばかりに、夢見るような、憧れを孕んだ瞳でこちらを見つめている。正直なところ、裕司が「長い目で泳がせておけ」と指示していなければ、杏奈などとうの昔に彼女の相手をするのをやめていただろう。平気で二枚舌を使い、腹の底が墨を流したように真っ黒な人間が、抜け抜けと純白の友情を語るなど、悪い冗談にしても笑えない。内心でそう冷ややかに吐き捨てながらも、杏奈は微塵も顔色を変えることなく、礼儀正しく、それでいて明確な壁を感じさせる薄い笑みを向けた。「横井さんにも、きっとそのうち、そんな風に何でも話せる仲の良いお友達ができるよ」その言葉を聞いた瞬間、那月はまるで雷にでも打たれたかのようにその場に硬直したかと思うと、みるみるうちにその大きな瞳に涙を溜めた。「ひどい……杏奈、私たち、とっくにそういう親友同士の関係だと思っていたのに……」那月は胸を痛めたように言葉を詰
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第306話

数秒遅れてようやく正気を取り戻した那月は、滑稽なほど呆然とした顔で円香を凝視した。「……な、なんでいきなり叩くんですか!?」目の前の女とは初対面のはずだ。恨みを買った覚えなど、欠片もない。対する円香は、叩いた方の手をひらひらと振っていた。さきほどの一撃は気合を入れすぎたせいで、叩いた本人の手のひらまでジンジンと痛む。「あーらごめんなさいね。さっき、あんたの顔に小汚い蚊が止まってたから、親切で払ってあげたのよ。お礼なら結構よ」那月が陰でこそこそと杏奈の悪口を吹聴していたことを、円香は決して忘れてなどいなかった。顔を合わせる機会がなければそれで済んだが、こうしてのこのこと目の前に現れたとなれば話は全く別である。大切な親友をコケにされて、円香の堪忍袋の緒はとうに限界を超えて弾け飛んでいた。売られた喧嘩はきっちり買ってやる。それが円香の流儀だ。彼女の信条は、「気に食わない奴とはとことんやり合う」ことである。那月は頭に血が上る思いだったが、杏奈の目の前で本性を晒すわけにはいかず、顔に引きつった笑みを貼り付けた。そして恨み言を絞り出した。「あ、あら、蚊だったんですね……それは……ご親切に、どうもありがとう」円香は鷹揚に手をひらひらと振った。「いいのいいの、気にしないで。次にまた蚊が止まってたら、遠慮なくぶっ叩いてあげるから」火のつくような頬の痛みは、未だに引く気配がない。那月は恐怖から素直に頷くことなどできず、後ずさった。「い、いいえ、大丈夫です。虫除けスプレーでも買いますから……」円香は心底残念そうに肩をすくめた。「あら、本当にいいの?私、こう見えて蚊を退治するのはすっごく得意なんだけど」那月は、あと一歩で喉元まで出かかった本音を絶叫しそうになった。得意なのは蚊じゃなくて、人の面をひっぱたくのが得意なんでしょうが!「本当に結構だって言ってるでしょ!」那月は思わず噛みつくように叫ぶと、これ以上相手にするのは危険だと判断し、強引に杏奈へと向き直った。「杏奈、ちょっとだけよろし……」「あ、また蚊が!」鼓膜を突き破らんばかりの円香の叫び声に、那月の顔からサッと血の気が引いた。咄嗟に身構えて口を開いた。「ま、待って、私は……っ」「待てないわね!」円香の容赦ない手が、なんの躊躇いもなく空を切った。パァァンッ!!
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第307話

「わかった」……車が走り出してしばらくすると、ハンドルを握っていた裕司がふと口を開いた。「そういえばさっきビルを出たとき、横井を見かけたんだが、顔がひどく腫れていたぞ。一体どうしたんだ?」円香がすかさず誇らしげに胸を張った。「私がひっぱたいたからよ」裕司:「……?」なんと、真犯人はすぐ隣に座っていたらしい。事情は概ね察しがついたし、今さら責める気にもなれなかった。裕司は一言だけ忠告した。「次からは、人目のある場所でああいう真似はするなよ」那月が自分の立場を考えて泣き寝入りすればいいが、もし逆上して騒ぎ立てれば、円香が厄介な事態に巻き込まれる。円香もその程度の分別はあるようで、照れ隠しのように鼻の頭を指でこすった。「わかってるってば。今回はあいつが突然目の前に現れたから、条件反射で抑えきれなかっただけよ」裕司は無言で頷いた。これ以上釘を刺す必要はないだろう、円香なら十分に心得ているはずだ。三十分ほど走ると、車は蓮が予約した高級レストランの車寄せに静かに滑り込んだ。ドアを開けようとしたその瞬間、すぐ隣のスペースに、重低音のエンジンを響かせた漆黒の高級SUVが乗り付けてきた。ドアが開き、一人の男が姿を現す。仕立ての良い黒のスーツに、深いネイビーのネクタイ。胸元には深紅のルビーのブローチが鈍く光っている。蒼介だった。「先輩、成海さんは彼も招待していたんですか?」杏奈が微かに眉をひそめた。裕司も顔を曇らせる。「いや、それは聞いていない。ただの偶然かもしれないが、念のため後で確認してみよう」円香が不満げに唇を尖らせた。「確かめるまでもないわよ。わざと杏奈を嫌な気分にさせようとして呼んだに決まってるじゃない」「まあまあ」杏奈はなだめるように、円香の頬をそっとつまんだ。「先輩の言う通り、まずは確かめてから……」杏奈の言葉が、ふいに途切れた。蒼介は運転席から降りるなり、足早に反対側へと回り込み、助手席のドアを開けたのだ。その一連の動作は、杏奈が知る彼とはまるで別人のように丁寧で、慈しみに満ちていた。まばゆいエントランスの照明の中、助手席から降りてきた女の顔色は、病的なまでに透き通るように白い。女は全身から力が抜け落ちたかのように、ふらりと蒼介の厚い胸板へと倒れ込んだ。蒼介は慣れた手つきでその細い腰をそ
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第308話

目の前で見せつけられれば、心が千々に乱れるのも無理はなかった。七年間、自分のすべてを懸けて注いできたあの本気の愛情は、もしかすると最初から存在すらしない幻だったのではないかと思えてくる。だからこそ、どれだけ尽くしても、何一つ返ってくることはなかったのだと。円香は居ても立ってもいられず、杏奈の華奢な体をぎゅっと力強く抱きしめた。「杏奈、心配しないで。私が一生、あなたに優しくしてあげるから」杏奈は困ったように苦笑いした。「二、三日大人しくしていてくれるだけで、神様に手を合わせて感謝するわ」「ちょっと、失礼なこと言わないでよ」円香は至って真面目な顔で反論した。「これぞ世に言う、『愛の重み』ってやつなんだからね!」「はいはい、愛の重みね」杏奈は可笑しそうに笑いながら円香を抱き返し、スマホを耳に当てて厳しい顔をしている裕司に向かって声をかけた。「先輩、私のことはどうか気にしないでください。もう平気ですから」裕司は電話の相手に向かって冷たく言い放った。「次があるなら、業務提携以外の私的な付き合いは一切断らせてもらう」それだけ告げて一方的に通話を切ると、裕司は険しい顔で杏奈を振り返った。「やはり成海が呼んだらしい。ただの親睦を深める食事の席だと思っていたが、まさか提携の祝賀を兼ねていたとはな」杏奈は淡く微笑んだ。「でしたら、純粋に提携の祝いとして楽しめばいいじゃないですか」「だが……」裕司は眉間の皺を深くした。あからさまな嫌がらせの意図を感じ取り、内心穏やかではない。最初からあの男たちが同席すると知っていれば、絶対に誘いを承諾などしなかった。「もういいんです」杏奈は先輩の怒りをなだめるように穏やかに言った。「ただ食事をするだけですよ。針のむしろに座るわけじゃあるまいし」「……わかった」裕司は渋々頷き、それ以上は言わなかった。円香がドンと胸を叩いた。「安心して、私が杏奈をがっちり守るから。誰が相手だろうと、目に物見せてやるわ……」「杏奈っ!!」車の窓の外から、ヒステリックで鋭い叫び声が鼓膜を刺した。円香の顔からさっと表情が消え、猛禽類のように窓の外を睨みつける。美南が小春の手を引いて外に立っていた。薄暗い街灯に照らし出されたその顔は、憎悪で醜く歪んでいる。車内の杏奈を見下ろす目には、まるで路傍の汚物でも見るかのよう
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第309話

美南は絶句した。……なんなのよ、これ!?ここで真っ先に心配されるべきなのは、散々打ちのめされた挙句に圧死しかけた自分ではないの?どう見ても絶対的な被害者はこっちだろう。しかし当の円香は、けろりとした顔で服の埃を払っていた。「全然平気よ。下に手頃な肉布団があったからね」「よかった、怪我がなくて」二人は足元の美南の存在など完全に無視し、我関せずとばかりに平和な会話を続けている。冷たい地面に無様に転がっている美南は、怒りと屈辱で血が沸き返る思いだった。「ひどいおばさん!なんでうちの美南おばちゃんを叩くのよ!」夜気を切り裂くような、子供の甲高い叫び声が響き渡った。裕司に背後から押さえ込まれながらも、小さな体をじたばたとよじって暴れ続ける小春を見て、円香の右手がピクリと危険な動きを見せた。だが、さすがに大人げないと判断したのか、かろうじて理性を働かせて堪えた。「このクソガキ……」「――黙れ」凍てつくような声が場に響き渡った。円香がハッとして顔を上げる。薄暗い街灯の下を、蒼介がゆっくりとした足取りで歩いてくる。その長身から放たれる圧倒的な冷気が、周囲の空気ごと凍てつかせるようだった。漆黒の瞳が静かに円香を射抜き、一言の罵倒もなく、ただただ底知れぬ圧力を放ち続けている。恐れ知らずの円香でさえ、その異常な迫力に気圧され、思わず言葉を飲み込んだ。杏奈は静かに眉を寄せると、さりげなく円香の前に立ち、冷酷な視線から親友を庇うように立ちはだかった。その光景を目の当たりにした蒼介の喉の奥から、冷たい嘲笑が漏れた。「自分の腹を痛めた娘より、他人の女を庇うのか。大した母親だな」杏奈は一切怯むことなく、氷のような笑みを口元に刻んで反撃した。皮肉と嘲りがたっぷりと滲んだ笑みだ。「まあ、冷酷で薄情な人間と長く一緒にいれば、自然とそちらに染まってしまうものなのよ」それは、三年間もの長きにわたり、紗里のために正妻である自分を冷遇し続けた蒼介への、正面切っての痛烈な皮肉だった。蒼介は瞬時にその真意を悟った。整った顔立ちが一瞬にして険しく歪み、凄まじい圧を帯びた眼差しが、杏奈一人へと突き刺さる。だが杏奈は微塵も目を逸らさず、真っ向からその視線を睨み返した。夜は深く、街灯の灯りは頼りない。底冷えする風が、対峙する二人の間を吹き抜けて
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第310話

「残念だけど、その期待には応えられないわ」円香は、むしろ胸を張るように言い放った。「今日ね、私はあのおやじ……じゃなくて、鈴木賢治とやらと、正式に絶縁したのよ」紗里:「……!?」本当に?どうして、そんな話が一切耳に入ってこなかったの?入院していたとはいえ、情報が完全に遮断されていたわけではない。赤司と小田家の力を借りて、外の動きは常に把握していたはずだ。それなのに、これほど重大な出来事を知らなかったなんて。紗里の視線が、そっと杏奈と蒼介の顔を順に巡った。その目には、すでに確信めいた光が宿っている。杏奈は紗里の様子に気づくこともなく、ただ一心に円香を見つめていた。「円香、本当におじさんと……」円香はあっさりと頷いた。「もちろん本当よ。こんなことで嘘ついてどうするの」実際のところは、一日中ぎっしり詰め込まれた課題に腹を立て、勢いに任せて縁を切ると口走っただけだ。だが、それを本気の絶縁ではないと、誰が言い切れるだろうか。「あなたって子は……」杏奈は呆れて言葉を失い、ただ口ごもるしかなかった。張り詰めた空気が、今にも限界を迎えようとした――その瞬間。この場をセッティングした張本人である蓮が、ようやく姿を現した。場の空気を和らげようと、軽く声をかける。「皆さん、今日は提携の祝いの席ですよ。もう少し和やかにいきましょう。こんな険悪な雰囲気では……」「うるさい!」言い終わるより早く、美南が甲高い声で遮った。「傷ついたのは私なのに、のこのこ出てきて丸く収めようとしないで。あんた、何様のつもりよ!」蓮は不快そうに眉をひそめたが、蒼介の妹だと分かっている以上、何も言い返さなかった。ただ目だけで蒼介に「どうにかしろ」と訴えかけた。蒼介が口を開いた。「いい加減にしろ」「お兄ちゃん!」美南が目を見開く。信じられないという顔で兄を見つめた。「私がこんなにひどい目に遭ったのに、私にいい加減にしろって言うの?」蒼介は顔を曇らせ、静かな眼差しで妹を見返した。言葉は発さない。それでも、その視線には圧倒的な重圧があった。「もう一度言わせるのか」「私、私は……」美南は唇を強く噛みしめた。その重圧に耐えきれず、ついに泣きながらその場を走り去っていった。「もう満足か」蒼介は追おうともせず、円香と杏奈を交互に見たあと、最
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