All Chapters of 協議離婚したら、忘れていた夢が叶い始めた: Chapter 311 - Chapter 320

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第311話

世論の影響だけでも、吉川家にとっては十分すぎる打撃となる。そこへ、吉川家の地位を虎視眈々と狙う他の勢力がこれに付け入ってくれば、混乱がさらに激化するのは目に見えていた。蒼介が理性を保っている限り、互いをそこまで追い詰めるような事態にはならないはずだが…………個室の中では、全員が円卓を囲んで座っていたが、その空気はどこかいびつだった。円卓は大きく三つの陣営に分かれている。中央には主催者の蓮が座り、左側には蒼介、紗里、小春の三人が、まるで睦まじい一家のように並んでいる。対する右側には杏奈、円香、裕司の三人が、小声で何やら話し、時折笑い声を漏らしていた。蓮。「…………」……俺だけ、完全に孤立してないか?場を盛り上げようと話題を振っても、誰一人としてまともに応じてくれない。ベチャッ!突然、熱々の肉の塊が空中を弧を描き、杏奈の目の前に落ちた。あと少しで直撃するところだった。杏奈が反応するより早く、円香がすっと顔を上げ、小春を鋭く睨みつける。「……どういうつもり?」小春は聞こえないふりをして、完全に無視を決め込んだ。紗里がわざとらしくたしなめる。「小春ちゃん、お行儀よくしなさい。食べ物を粗末にしてはいけないわ。ましてや人に投げつけるなんて、もってのほかよ」その言葉が終わるや否や、小春はコロリと表情を変え、素直そうな笑みを浮かべた。「うん!わかった!」そのやり取りを見て、円香は鼻で笑いそうになるのをこらえた。――なるほど、そういう遊びがしたいわけね。ベチャッ!今度は油ぎった肉の切れ端が一直線に飛んでいき、小春の呆然とした小さな顔に張り付いた。小春の力では勢いが足りなかったが、円香のコントロールは正確無比だった。見事に命中したのを確認すると、円香はにやりと笑った。「ほら、続けなよ。遊びたかったんでしょ?なんでそんな泣きそうな顔してるの?」「もう……紗里ちゃんっ!」小春は口をへの字に曲げ、紗里を見上げた。紗里は小春の顔から肉を取り除き、額をそっと拭ってやると、咎めるような視線で円香を見た。「円香、小春ちゃんはまだ子どもよ。そこまでしなくてもいいじゃない」円香はにっこりと、しかし皮肉をたっぷり込めた笑みで返した。「それを言うなら、私だってまだまだ子どもよ。家では末っ子の宝物なんだから」賢
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第312話

しかし、何も変わらなかった。杏奈の顔には、一切の感情が浮かんでいない。二人の方へ目を向けることすらなく、まるで見知らぬ他人のように淡々としていた。やっぱり、本当なのね……紗里は内心で確信を深めながら、苦しげな演技を続けた。「もし紗里に何かあったら、承知しないぞ」蒼介が本気で焦っているのは明らかだった。彼は紗里を抱き上げると、小春に目を向ける余裕もなく個室を飛び出し、その背中はあっという間に扉の向こうへ消えていった。小春:「……?」ぽかんとしているのは円香も同じだった。「ちょっと、本気?負けたなら素直に引けばいいのに、なんで悲劇のヒロインぶって逃げるのよ」「まあ、いいわ」円香は唇を尖らせた。「いなくなってくれた方がせいせいするし、ご飯も不味くならなくて済むしね」「さあ、早く食べよう」杏奈は円香に料理を取り分けながら、紗里のことなどまるで気にも留めていない様子だった。だが、裕司はわずかに眉をひそめていた。これで決定的な亀裂が入った。もし紗里に万が一のことがあれば、蒼介の怒りを真正面から受けることになる。今のうちに三浦家と鈴木家に連絡を入れ、備えさせておく必要があるだろう。それぞれが異なる思惑を巡らせる中、中央に座っていた蓮だけが、ほとんど放心状態に陥っていた。せっかく場が少し持ち直したかと思えば、今度は一瞬にして台無しだ。今夜まとめた提携が、このまま維持できるかどうかすら怪しい。「あの……」蓮は口を開きかけ、しばらく迷った末に、言葉を飲み込んだ。……まあいい。今ここで聞いても、答えは出ないし。急いでも仕方がない。それに、人生にはいくらでも道がある。最悪の場合は――背水の陣で挑むしかないだろう。食事が終わり、杏奈、円香、裕司が席を立とうとしたところで、蓮が呼び止めた。「少しお待ちください」「何でしょう?」裕司が振り返る。蓮は苦い顔をして、部屋の隅を指差した。「俺は構わないんですが、あの子がちょっと……」全員が振り返る。そこには、取り残された小春がいた。兎のように目を真っ赤に腫らし、声も上げずにぽろぽろと涙をこぼしている。その姿は、客観的に見れば胸を締めつけられるほど痛ましい。ただし、その「客観」の中に円香は含まれない。好機を逃すことなく、円香がすぐさま詰め寄った。「あら小春
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第313話

小春は紗里に何度もメッセージを送ったが、返事は一向に来なかった。けれど、紗里ちゃんが自分を無視しているわけじゃない。あの悪いおばさんが、紗里ちゃんを倒れるまで怒らせたから返信できないのだ――小春は自分の中でそう結論づけていた。恨むなら、円香という悪いおばさんを恨めばいい。紗里ちゃんは少しも悪くない。幸い、円香はそんな小春の恨み言を知る由もなかった。もし知っていたら、今頃もっと容赦のない言葉が飛び出していただろう。「もう外は真っ暗だし、あんたのパパも電話に出ない。あんたの大好きな紗里ちゃんがどこの病院にいるかなんて、わかるわけないじゃない」小春は顔を真っ赤にして言い返した。「そんなの、探せばいいじゃない!」円香は「へえ」と呆れたようにため息をついた。「手加減してあげてたのに、まだそんなに強気なの?ちゃんと口の利き方がわからないなら、私本気で怒っちゃうわよ」小春はぴたりと縮み上がった。円香を怖がっているのが丸わかりで、助けを求めるように杏奈を見た。しかし杏奈は、とっくに小春に失望していた。以前のように無条件で甘やかすつもりはない。「ママを見たって無駄よ」円香が視線を遮り、悪役のような笑みを浮かべた。「ふふふ、いいこと?パパも紗里ちゃんもいないんだから、ここはおとなしくしてなさい。逆らったら、二度と会わせてあげないわよ!」その脅しは効果抜群だった。泣くまいと必死で堪えながらも、小春が引きつった顔で耐えているのが何よりの証拠だ。その痛々しい様子を見て、円香はさすがに少しやりすぎたと思ったのか、唇をすぼめて妥協案を出した。「まあ、泣きたいなら泣けばいいわ。でも、今夜は紗里ちゃんのところには連れていけないから。杏奈の家についていくか、それとも吉川のお屋敷に送り届けて家政婦さんに面倒みてもらうか、どっちかにしなさい」小春は一秒も考えずに答えた。「お家に帰る。安達さんに世話してもらうもん」安達の世話が万全ではないことは子ども心にもわかっている。だが、この恐ろしいおばさんと一緒にいるよりは、まだ安達の方がましだと思ったのだ。「わかったわ」円香は頷き、杏奈に言った。「じゃあ杏奈、あなたが送ってあげて。私は明日も朝からレッスンがあるから、この子の守りまではできないわ」「大丈夫、あなたは先に帰って休んで。私が送っていくから」杏
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第314話

小春は、杏奈がこれまで自分にしてくれたことを一つ一つ数え上げていく。本来なら親子の温かい思い出のはずなのに、杏奈の表情は、聞けば聞くほど冷ややかになっていった。小春のために残していた最後の温もりすらも、すっと消え失せていく。この子は、母親の愛情に気づいていなかったわけではない。ただ、それが自分に与えられて当たり前のものだと思って、完全に慣れきってしまっていただけだ。だから少しも大切にしなかった。杏奈がその愛情を全て引き上げて初めて、小春はその喪失感に気づいたのだ。自分の振る舞いが間違っていたと反省したわけではない。ただ、無条件で誰かに大切にしてもらえる心地よさが、もう手に入らなくなったことに戸惑っているだけだ。「ママ……」なかなか返事が来ないので、小春は不安げに顔を上げた。涙で濡れた目に、すがるような光が宿っている。「お家に帰ってきてくれないの?」「行くわ」杏奈はそれ以上答えなかった。ハンカチを畳んで片付けると、小春の小さな手を引き、無言で外へ歩き出した。……吉川家の本邸。玄関のドアを開けた瞬間、杏奈は直感的に何かがおかしいと気づいた。暗すぎる。そして、静かすぎる。夜間のために常に点けてあるはずの常夜灯の微かな光すら消えており、広大な屋敷の中はどこも漆黒の闇に沈み、物音一つしない。七年間ここで暮らし、屋敷の隅々まで知り抜いている杏奈には、この死んだような静けさが明らかに異常だとわかった。杏奈は不用意に踏み込まず、小春の手を引いて玄関から少し距離を取ってしゃがみ込み、目線を合わせた。「小春、安達さんはどこにいるの?他のお手伝いの人たちは?夜の戸締まりは誰がしてるの?」矢継ぎ早な質問に、小春は戸惑ったように首を振った。「……わからないよ」杏奈は険しく眉をひそめた。蒼介の妻として七年間生活し、幾多の修羅場を潜り抜けてきた。その経験が研ぎ澄ました本能が、この屋敷の中に「何かがいる」とけたたましく警鐘を鳴らしていた。それも……おそらく、致命的な危険が潜んでいる。直感は正しかった。「動くな!」鋭く冷たい刃がいつの間にか首元に押し当てられ、背後から男の低い唸り声が響いた。杏奈は動かなかった。小春を自分の胸にぎゅっと抱きしめ、できるだけ落ち着いた声で答えた。「人違いじゃないですか?私たちはただ、ここを通
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第315話

杏奈は震える小春の頭をそっと撫でた。「大丈夫よ。パパが、きっとすぐに助けに来てくれるわ」「……本当に?」「ええ、もちろんよ」小春をどうにか落ち着かせると、杏奈は納戸の中を素早く見回した。スマホは屋敷に入った直後に男に奪われている。ここから逃げ出すには、何か道具が必要だ。だが部屋の中を探しても、床の隅に落ちていたわずかな古い縄と、空っぽの棚があるだけだった。もともと納戸に置いてあったはずの備品は、犯人たちがあらかじめ入念に片付けてしまったのだろう。杏奈は縄を手に取り、窓から外へ吊り下りられないかと考えた。しかし、窓枠が外側から太い釘で厳重に打ち付けられているのを確認した瞬間、その最後の望みすら断たれた。「ママ……」小春がいつになく甘えるように、杏奈のズボンの裾を両手でしっかりと掴んだ。大きな瞳を不安でいっぱいにしながら見上げてくる。「いつになったら、ここから出られるの?」杏奈は引きつる頬に無理やり笑みを作り、安心させるように言った。「もうすぐよ。もう少しだけ待ってて。すぐ誰かが助けに来てくれるからね」裕司先輩……先輩が別れ際に言っていた――無事に着いたら連絡をくれ、と。もし自分から連絡がなければ、あの聡明な裕司ならきっと異変に気づいてくれるはずだ。どうか、一刻も早く気づいてくれますように。もちろん、杏奈はただ助けを待つだけでなく、自力での脱出も諦めてはいなかった。まず小春に、絶対に声を出さないようきつく言い聞かせた。それから足音を忍ばせて窓へ近づき、窓枠に両手をゆっくりと当てた。慎重に力を込め、押し続ける。打ち付けられた釘を、少しずつ緩めていく作戦だ。一方、納戸からわずか数部屋離れた場所では、黒ずくめの男たちがテーブルを囲んでいた。「どうだ、吉川蒼介に写真は送ったか?返事は来たか?」「ボス、娘の写真はさっき送りました。一緒にいるもう一人の女が妻かどうかの裏付けはまだ確認中ですが、時間がありません。ポリ公に目をつけられてるんで、早くこの仕事を片付けて海外に飛ばないと」「関係ない。娘の身柄を押さえていれば十分だ。いくらあの冷血野郎でも、実の娘を見捨てるほど薄情じゃないだろ」中央に傲慢に腕を広げて座っていた男の袖口から、蛇のように這う火傷の痕が覗いていた。スマホを操作していた男が、焦り気味に
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第316話

ダッ、ダッ、ダッダッ――!荒々しい足音が、廊下の奥から徐々に近づいてくる。それはまるで死へのカウントダウンのように、杏奈の張り詰めた神経を容赦なく逆撫でした。せっかく命がけで窓にわずかな隙間をこじ開けたところだったというのに。冷たい夜風が吹き込むよりも早く、その足音が杏奈を絶望の底へと突き落とした。「小春、絶対に声を出してはだめ!」杏奈の顔色が一瞬にして青ざめる。ほぼ外れかかっていた窓枠を痛む手で全力で押さえ直すと、震え上がる小春を素早く抱き上げ、部屋の最も暗い隅へと飛び込んだ。冷たい壁に背中をぴったりと張りつけ、小さな娘の体を自分の体で覆い隠すように抱きしめる。ギィィ――錆びついた蝶番が耳障りな悲鳴を上げ、納戸の扉が開かれた。筋骨隆々の大男が、入り口に立ちはだかる。その手に無造作に提げられた手斧の刃が、薄暗がりの中でもぬらりと鈍く光っていた。男は陰険な目つきで部屋の隅を見下ろし、口の端を残忍に歪めた。「おい」男の嗄れた不気味な声が、凍りついた静寂を切り裂いた。「あの野郎、こっちがメッセージを送ってやってるってのに、全く反応がねえ。自分のかわいい一人娘の命が惜しくねえのか?」男が手首を返し、斧をゆらりと揺らす。鈍く光る刃先が、杏奈の青ざめた顔と、小春の固く閉じた目を掠めた。杏奈の心が、冷たい泥の中に沈んでいく。蒼介が今どこで何をしているかなど、考えるまでもなかった。きっと紗里のベッド脇に付きっきりで、彼女の側を片時も離れようとしないのだろう。今の彼にとっては紗里一人が世界の全てであり、自分たち母子が暗闇の中でどんな恐ろしい危険に晒されていようとも、知ったことではないのだ。笑えないほどの残酷な皮肉に、杏奈の喉の奥が干からびる。男は奪っていたスマホを、乱暴に杏奈の足元へと投げ捨てた。「俺も鬼じゃねえ。最後のチャンスをくれてやる」男が一歩、重い足取りで踏み込んだ。ブーツが床板を踏み鳴らす音が、狭い空間に響く。「今すぐ吉川蒼介に電話をかけろ。繋がれば、お前らにはまだ交渉のカードとしての使い道がある。このガキも、今夜は五体満足で帰してやるよ。だが、もし繋がらなかったら……」男はねっとりと語尾を引き伸ばし、手斧をゆっくりと持ち上げた。鋭利な刃先が、震える小春の体へと向けられる。「待ちくたびれた利子として、こ
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第317話

「だから……」杏奈は最後の一縷の望みに縋るように、乾ききった喉から精一杯の声を絞り出した。「娘よりも、妻である私の方が、交渉の材料として蒼介にはずっと価値があるはずです。だから……お願いです。この子だけでも先にここから解放してもらえませんか?まだこんなに小さいんです……」「ごちゃごちゃとうるせえ!」男が突然怒鳴り声を上げ、その目に凶暴な光がギラリと宿った。手斧の刃が、杏奈の顔面へと容赦なく突きつけられる。「下手な小細工をするな!いいからさっさと電話をかけろ!これ以上ぐずぐずするなら、腕どころか今ここで二人まとめてバラバラにしてやるぞ!」男は威嚇するように足を振り上げ、杏奈の足元に転がったスマホを踏み砕く素振りを見せた。杏奈にもう迷っている猶予はなかった。ほとんど地面に這いつくばるようにして飛びつき、端末を拾い上げた。ひんやりと冷えたスマホが、冷や汗の滲んだ手の中で滑る。恐怖で指が激しく震え、まともに画面をタップすることすらできない。深く息を吸い込み、蛇のようにまとわりつく男の視線を感じながら、連絡先を開き、心の奥底に呪いのように刻みつけていた名前を必死で探した。――吉川蒼介。プルルル……プルルル……単調な呼び出し音が、淀んだ室内に響き渡る。一回鳴るたびに、目に見えない重圧が杏奈の胸を容赦なく押し潰していくようだった。スマホを耳に強く押し当てたまま、彼女の脳細胞は猛烈な速さで回転し続けていた。どうやって時間を稼ぐか。どうやって外部にこの絶望的な状況を伝えるか。どうやって、小春を連れてここから逃げ出すか。だが、誰も出なかった。永遠にも思える長い無音の後、無情にも通話は自動で切断された。画面がふっと暗転した瞬間、杏奈の瞳の奥で微かに灯っていた最後の希望が、完全に消え去った。「このアマ……っ!」男の忍耐が、ついに底を突いた。怒りが爆発する。「お前、やっぱりただの愛人か何かで、本当のカミさんじゃねえんだろ!だからあいつは電話にも出ねえんだ!」男が大股で距離を詰め、斧の冷たい刃が杏奈の鼻先数ミリのところまで迫った。杏奈は、力なく笑った。それは、声を上げて泣き叫ぶよりもずっと痛ましい笑みだった。「ええ……彼は、私を愛してなんていないわ。この結婚は、最初から何から何まで、すべてが間違いだったのよ」深い悲
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第318話

裕司は歩き回る足をピタリと止め、すかさず円香の番号へ発信した。電話が繋がるなり、怒鳴るような声で問い詰めた。「円香!そっちは杏奈から何か連絡はあったか!」電話口の円香の声からは、いつもの明るさが消え失せ、ひどく沈み込んでいた。「いえ、祐一郎の話だと、杏奈はまだ実家に全然帰ってきてないって!裕司先輩、大変なことになってるかもしれないわ。さっき森口警部に急いで連絡して、街の防犯カメラを調べてもらったんだけど……」円香は一度、深く息を吸い込んだ。「杏奈の車が最後に映っていた路線のカメラ映像が、同時刻に何者かにハッキングされて、完全にデータを消されてたって!プロの判断では、これはただの偶然じゃない。極めて計画的な拉致事件よ。杏奈は今、本当に危ない状況に巻き込まれてるわ!」裕司の心臓が一気に凍りついた。拉致。計画的な犯行。裕司は強引に呼吸を整え、声を絞り出した。「……わかった。少なくとも、最悪の事態が起きていることだけははっきりした。森口警部たちはもう動いているか?現在位置の特定は?」「もう全力で動いてくれてる!技術班が、消去データの復元に総力を挙げているわ。新しい情報が入り次第、すぐに知らせてくれる手はずになってる!」「わかった!何か少しでもわかれば、すぐに俺にも連絡をくれ!」裕司は電話を切るなり、壁に思い切り拳を叩きつけた。関節から、じわじわと血が滲む。それでも彼は必死に自分を律し、あらゆる可能性と、自分が今動かせるすべての人脈を頭の中で必死に組み立てていった。一方、吉川家の本邸。政夫の広い寝室では。リリリン――!リリリン――!深夜の静寂を切り裂くような着信音が、まどろんでいた政夫を無慈悲に叩き起こした。「大旦那様」執事の井上が、ひどく心配そうな顔でスマホを差し出した。「杏奈様からの、お電話でございます。こんな夜更けに、一体何事かと……」政夫の意識は即座に覚醒した。不吉な予感が背筋を駆け抜ける。杏奈という娘は、常に分別があり、思慮深い。本当に命に関わるような緊急事態でなければ、こんな非常識な時間に電話をかけてくるはずがないのだ。「早くこっちへ持ってこい」スマホを受け取り、迷わず応答ボタンを押した。「杏奈か?こんな夜更けに、一体何があったというんだ?」電話口で一瞬の不自然な沈黙があった後
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第319話

電話越しに円香の弾んだ声が届く。わずかな希望の光は見えたものの、その底に流れる重苦しさは隠しきれない。裕司の心はますます張り詰め、ただ拳をきつく握り締めるしかなかった。「わかった!何か少しでもわかれば、すぐに俺にも連絡をくれ!」……病院の特別病室。蒼介は政夫からの電話を一方的に切った。浴びせられた激しい罵倒の余韻が残る整った顔には、濃い苛立ちの色が滲んでいる。ベッドの上で、紗里が青ざめた顔を力なく持ち上げた。ひどくか細い声が漏れる。「今の……吉川家の大旦那様からかしら?」まるで「お祖父様」と呼ぶことすら憚っているかのような響きだった。「ああ」蒼介の声は低く、不機嫌に沈んでいた。「蒼介……」紗里は色の抜けた唇をそっと動かし、か弱くも健気な笑みを浮かべてみせた。「もしお仕事などで大切なご用事があるなら、どうか私のことは気にせず行って。優秀な看護師さんがずっと付いていてくれるし、私一人でも……もう大丈夫だから」この痛々しいほど気遣いに満ちた「強がり」が、今この瞬間も命の危険に晒されているかもしれない杏奈の状況と、残酷なほど鮮やかな対比を作り出していた。蒼介の胸の奥でくすぶっていた正体不明の苛立ちが、さらに膨れ上がった。いっそこのままスマホを壁に叩きつけてしまいたかった。だが、政夫が最後に放った一言――「この老いた体では、お前が来るまで持ちそうにないぞ」が、鋭い棘のように刺さったまま抜けない。さすがの蒼介も、祖父のその言葉を完全には無視できなかった。「お前はここでゆっくり休んでいろ」苛立ちを腹の底へ押し殺し、ベッドに屈みこんで布団の端を丁寧に折り込んでやった。「少し外で電話をしてくる。すぐ戻るから」紗里は力なく目を閉じた。もはや頷く力さえ残されていないかのように見えた。しかし、蒼介が踵を返し、病室の重い扉が静かに閉まったその瞬間。紗里の固く閉じていた目が、ぱっと見開かれた。その瞳にか弱さは消え失せ、唇の端には冷酷な笑みが浮かんでいた。ごく小さなバイブレーションの通知音が鳴った。紗里は素早く枕の下から、隠し持っていた別のスマホを取り出した。画面には、非通知の番号からの短いメッセージが表示されていた。【準備完了】紗里が指先で軽く画面に触れると、そのメッセージは跡形もなく消去された。それだ
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第320話

小春は恐怖のあまり頷くことすら忘れ、ただ生存本能のままに、杏奈の首に小さな両腕を巻きつけ、その顔を肩口に深く埋め込んだ。「何をぶつぶつと抜かしてやがる!」男はもう、手を伸ばせば届く距離にまで迫っていた。杏奈を見下ろす濁った目が這い回り、体のどこに斧を振り下ろしてやろうかと残忍に品定めしている。「俺の目の前で、逃げられるとでも……」その言葉は、最後まで続くことはなかった。弾かれたように、杏奈は小春を強く抱きかかえたまま床を蹴って跳び上がった。全体重を右肩に集中させ、警戒を解いていた大男のみぞおちに向かって、猛烈な体当たりを食らわせた。「ぐあっ――!」完全に不意を突かれた男は、予想外の衝撃に全身をくの字に折り曲げて悶絶した。胃袋をかき回されるような激痛に、声にならない悲鳴が喉に詰まる。男はよろめきながら後ろに倒れ込み、手に握られていた手斧がガシャンと床に転がり落ちた。杏奈は一瞬たりともその場に留まらなかった。体当たりの反動をそのまま利用して、放たれた矢のように窓際へと飛んだ。目標はただ一つ。この密室における唯一の出口、あの窓。「ドンッ――!!」夜の静寂を引き裂くような衝突音。杏奈は全力で、釘を緩めておいた窓枠に己の体を叩きつけた。元から腐食して脆くなっていた木の窓枠が、轟音と共に外側へ弾け飛んだ。鋭い木の破片が宙を舞い、古いガラスが粉々に弾け飛ぶ。「なんだ、何の音だ?!」「二階の納戸だ!急げ!」外で見張りをしていた男たちが一気に騒然となった。乱暴な足音と怒鳴り声が、あらゆる方向から建物へと押し寄せてくる。腹を抱えて床をのたうち回っていた男は、激痛に目を血走らせながら窓の方を見た。砕け散った窓枠から、杏奈がすでに半身を夜の闇へと乗り出していた。「逃げ……っ!」男は仲間に叫ぼうとしたが、かすれた息しか出てこない。「ドン!」その時、納戸の扉が外から乱暴に蹴破られ、別の男が飛び込んできた。男の鋭い目が、一瞬にして窓際に立つ杏奈の姿を捉える。男が杏奈に向かって猛然と飛びかかろうとした、まさにその刹那。杏奈は小春を強く抱きしめたまま、一切の躊躇なく二階の窓から暗闇へと飛び降りた。自分が下敷きになるように、腕の中の、小さな命を守り抜くために。「クソッ、逃げたぞ!」窓際に駆け寄った男が、身を乗り出し
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