All Chapters of 協議離婚したら、忘れていた夢が叶い始めた: Chapter 381 - Chapter 390

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第381話

誰ひとりとして、声を上げなかった。「相手がまだ子どもだから」、ただその一点のみを理由に、皆が必死で怒りを腹の底にこらえていた。「小春ちゃん、そんな酷いことを言ってはいけませんよ」恵理子が一応、大人としてたしなめる。あくまでその場を穏便におさめるための、形ばかりの一言だった。だが小春はそんな大人の配慮などお構いなしに、隆正の首にぎゅっとしがみついて、さらに言い募った。「嘘じゃないもん!曾おじいちゃん、あたし、あの嘘つきおばさんが大嫌い!あんな人を……」「……黙りなさいッ!」杏奈の鋭い声が、氷の刃となって空気を切り裂いた。その目に宿った冷たさは、小春がこれまでただの一度も見たことのないものだった。その低く沈んだ声には、怒りがビリビリと滲んでいる。「ここにいたいのなら、今すぐ口を閉ざして黙っていなさい。それができないなら、今すぐ出ていきなさい。円香は、私がこの家に招いた大切な『お客様』よ。あなたたちこそ――」杏奈は、嫌悪に満ちた眼差しを突き刺した。小春はその目に見覚えがあった。かつて自分とパパが、目の前のママに向けていた、あの見下すような目とまったく同じだ。まさか、自分がその眼差しを向けられる日が来るとは思いもしなかった。「あなたたちこそ、誰にも招かれていないのに厚かましく押しかけてきた、招かれざる『お客様』でしょう」「客」という言葉をことさら強調して口にしたとき、杏奈の視線は、黙り込んでいる蒼介へと流れた。その目には、強烈な皮肉の色が滲んでいる。だが蒼介は聞こえていないかのように、表情の筋肉ひとつ動かさなかった。当然、腰を上げる気配も微塵もない。激しい拒絶を受け、小春の大きな目はみるみるうちに真っ赤に染まっていった。涙がぽろぽろと頬を伝い、床にシミを作っていく。「うわぁん!ママなんか、大嫌い!あっちへ行ってよ!もう顔も見たくない、今すぐここから出ていって!」泣きじゃくりながら足をばたつかせて叫ぶ。杏奈は不快げに眉をひそめた。これ以上、この我がままな子どもとまともな話し合いにはならないと悟り、鋭い目を蒼介へ向ける。その視線の圧を受けて、今度は蒼介も素直に動いた。小春のそばへ静かに歩み寄り、隆正の腕からひょいと受け取って、その頭をそっと撫でながら柔らかい声で言い聞かせる。「ほら、泣かない。ママは
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第382話

「いい加減にして!」杏奈の怒声が、夜の静寂を鋭く切り裂いた。「小春のママでしょう」「吉川家の奥様でしょう」――自分を縛り付けてきたその呪いのような言葉に、彼女はもはや激しい吐き気を覚えていた。「ええ、そうよ。私は確かにあの子のママよ。でもね、あの日、自分の命をかけてあの子を守り抜いたとき、私は母親としての義務を、もう十分すぎるほど果たしきったわ」吐き捨てるように言いながら、杏奈の声音は波を打ったように静かだった。声は低く、どこか淡々として、それでいて決して聞き流すことのできない、重く冷たい覚悟を帯びていた。「それに、あれが初めてじゃないわ」あの子のために積み重ねてきた犠牲は、もはや両手では数えきれない。身を挺して彼女の身の危険を払ったことも、一度や二度ではなかったのだ。「……蒼介」すでに完全に冷静さを取り戻した杏奈が、静かにその名を呼んだ。諭すような静かな口調だからこそ、その言葉に込められた絶対的な本気がひしひしと伝わってくる。「かつての愚かな私は、諦めずに愛し続ければいつか必ず希望の光が見えると本気で信じていたの。あなたという名の冷酷な氷を、私の温もりでいつかは溶かせるんだって、本気で思っていた……でもね」杏奈はそこで、短くひと呼吸置いた。唇の端に浮かんだ笑みはたまらなく苦かったが、その瞳の奥には、彼という呪縛からの解放と未来へ向かう確かな光が宿っていた。「でも、もう心底疲れたの。そしてようやくひとつの真実に気がついたわ――他人を愛して尽くす前に、まず『自分自身』を愛して大切にしなければいけないんだってことにね。私たちが結婚したこと自体が、そもそも大きな間違いだったのよ。今こそ、その間違いを正す時が来たの。蒼介。私はもう、あなたのことをこれっぽっちも愛していないわ」夜風に乗ったその声は、鋼のように揺るぎなかった。「これからの私は、誰かに従属する妻でも、誰かのためだけに生きる母でもない。私は私――この世界でたったひとりの、『三浦杏奈』という一人の人間として生きていくわ」言い終えると同時に、杏奈はふたりをもう一瞥もすることなく、さっさと踵を返した。ぱんっ。無情に閉まる音が、微かに停止していた蒼介の思考を現実世界へと引き戻した。彼の漆黒の瞳が、冷たく閉ざされた扉をただ静かに見つめる。まるで女の姿
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第383話

三浦家では、もともと用意していた食材を、隆正の誕生日祝いの席ですでに綺麗に使い果たしてしまっていた。皆が困り顔で頭を悩ませているのを見て、祐一郎がやれやれと額に手を当てた。「あのさ、料理のことは後で考えるとして、まずはお客様を中へお通ししたほうがいいんじゃないか?」「そうよ、そうね!」恵理子がハッとして自分の額をポンと叩いた。「あなた、今すぐお客様をご案内してきて。私は先に、料理人にあり合わせで何か簡単なものを作らせておくから」「わかった」……それから数分後。広々としたキッチンにポツンと通された創大と娘の心愛は、額からじっとりと冷や汗を流していた。どこか奇妙な、探るような目つきで自分たちをぐるりと取り囲む三浦家の一同を見渡しながら、創大は恐る恐る口を開いた。「あの……今日は、三浦のおじいさまの大切なお誕生日ではないのですか?皆さんは……ご一緒に召し上がらなくてよろしいんですか?」自分たち親子だけをぽつんと座らせて食事を出し、皆でただじっと無言で見つめてくるというのは、一体どういう状況なのだ?まさか、この料理に毒でも盛られているのでは?その考えが脳裏をよぎった瞬間、創大の全身の筋肉がピーンとこわばった。彼は顔を引きつらせたまま、こっそりと上着の内ポケットへ手を忍ばせる。――なんて陰険で恐ろしい商戦だ。三浦家は誕生日というめでたい席を隠れ蓑にして、商敵であるこの俺を密かに始末しようと企んでいるのか!ぱんっ!創大がひとり脳内でサスペンス劇場を繰り広げていた、まさにその矢先。隣に座っていた心愛が突然目を閉じ、そのままテーブルに突っ伏して、鈍い音を立てたのだ。三浦家の皆が「えっ?」と反応する間すら与えず、創大は内ポケットから光り輝くステッキを勢いよく引き抜いた。そして目の前のテーブルを派手にひっくり返す勢いに合わせ、彼の脳内には熱血特撮ソングの熱いBGMが爆音で鳴り響き始めた。「僕らの声がぁぁぁ♪♪世界を変えてゆけるぅぅぅ♪♪……ッ!」ガシャァァァン!!無垢材でできた丸テーブルが、料理もろとも盛大に横倒しになった。創大は手にしたステッキを三浦家の一同へと突きつけ、警戒と激しい怒りを滲ませた声で叫びを上げる。「こんな卑劣な真似をするとは!食事に毒を盛るなど、言語道断だ!愛する娘に万が一のこと
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第384話

まさか完全に見破られているとは思っていなかったのか、心愛は一瞬だけハッと動揺したが、すぐに持ち前の冷静さを取り戻した。あどけない声の中に、子どもらしからぬ余裕を滲ませて問い返した。「答える前に、ひとつだけ聞いてもいい?どうして、私とパパが芝居をしているってわかったの?」杏奈はジュエリーデザインひとすじの人間で、権謀術数が渦巻くビジネスの駆け引きは得意ではない。しかし、人の心の色を見る確かな目は持っていた。あの日、初めて路地裏で会ったときから、彼女は心愛がただの怯えるだけの無力な子どもではないと直感していたのだ。拉致され、いつ命を奪われるかもわからない極限の状況下で、あんなにも泣きも騒ぎもせず、静かに事態を見極めていられる子どもが、果たして本当にいるだろうか。それに――「世間の噂では、お父さんのことを、純粋でヒーローが大好きで、ちょっとばかりおかしな人だって面白おかしく言われているわよね」そう言いながら、杏奈は腰を屈め、心愛の目と真っ直ぐに視線を合わせた。一語一語、彼らが被っている分厚い仮面をそっと剥ぎ取るように。「でも、あの杉野家という大きな組織を率いる当主として、もし彼が本当にそれほど単純な――いえ、極端に言えば愚かな人物だったなら、杉野家はとっくの昔に誰かに食い物にされていたはずよ」「……おっしゃる通りだわ」心愛はふふっと笑って、小さく頷いた。その眼差しには、杏奈の洞察に対する率直な感嘆の色があった。「パパに関する世間の噂が事実ではないのと同じように、あなたに関する噂もまた、まったくの事実無根のようね」――凡庸な主婦だという噂は、間違いだったようだ。ぱちんっ。心愛の言葉が終わるや否や、杏奈がその小さな額を、指で軽くはじいた。「いたっ」心愛が額を押さえ、抗議の目を向けてむくれると、杏奈が微笑みながら言った。「ふたりきりのときは、言葉の選び方をもう少し気をつけたほうがいいわよ。じゃないとおばさん、あなたの可愛いお尻をぺんぺんしちゃうかもしれないわよ」心愛はびくっと肩をすくませた。さっきまでの大人びた余裕はすっかりどこかへ消え去り、ころりと愛想よく、子どもらしく笑い出す。「えへへ、怒らないでくださいよぅ。ただの冗談ですよ、冗談!」杏奈はふと、こうして利発な子どもをからかうのも、なかなか
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第385話

「おぉおお!それは本当ですか!?」創大は目をキラキラと輝かせ、本気でQRコードを表示しようとスマホを取り出した。「…………」円香の笑顔が、ピシッと固まった。本気で喜ばれるとは思わず、言葉を失ったのだ。他の三浦家の面々も、次々と口を閉ざして沈黙した。数々の修羅場をくぐり抜けきた彼らでさえ、ここまで突き抜けたタイプの変人は、まったくもって前例がなかったのである。結局心愛が、父親の袖を引っ張り、半ば引きずるようにして邸宅から連れ出したのだった。……夜の邸宅の外に出た途端。創大はおどけた表情をパッと消し去り、別人のように顔を引き締めた。少し細められたその瞳の奥底に、鋭い光が走った。「心愛。さっきの俺の演技、どうだった?ちゃんと相手の反応を見ていたか。あちらは何か……」心愛は深くため息をつき、父親の言葉を呆れたように遮った。その目に滲む「この人、本当に嫌だ」という感情の色は、もはや隠しようもなかった。「確かに『軽く合わせて』とは言ったけど、あんな過剰に盛りすぎなくていいのよ。毒を盛られたとか、三流ドラマじゃないんだから信じるわけないでしょ。やりすぎ」「……ばれたか?」創大が、心外だとばかりに言う。心愛はじろりと父を睨んだ。「パパがテーブルをひっくり返した時点で、今すぐやめろって言いたかったんだけどね。あのオーバーすぎる演技、目が見える人なら誰だって一瞬で気づくでしょ」創大はしばし黙ってから、声をぐっと低くして言った。「ということは……もし俺の芝居が完全に見抜かれていたのだとしたら、向こうはわざと合わせてくれていたってことか?」「それはないわよ」心愛はきっぱりと首を振った。「向こうは、私たちが彼らの器を『試していた』なんてことには気づいていない。ただ純粋に、パパの奇行にドン引きして呆れ返っていただけなのは、あの表情を見ればわかったわ」創大はばつが悪そうに鼻の頭を掻き、咳払いをして話題を変えた。「……それで、お前の目から見て、あちらと手を組めると思うか?」普段の心愛なら、こんなにあっさりとイエスとは言わなかった。三浦家の人間全員の腹の底をきっちりと見極め、計算が合うまでは絶対に首を縦に振らないのが彼女の信条なのだ。でも、浴室での杏奈とのあのやり取りがふっと頭に浮かび、気がつけば心愛は自然と頷い
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第386話

翌朝、杏奈は早く目を覚ました。洗顔と着替えを手早く済ませて一階の階段を下りると、ちょうど恵理子が、湯気の立ち上る土鍋を台所から両手で大事そうに抱えてくるところだった。「あら杏奈、早いじゃない。お味噌汁もうできてるわよ。先に温かいうちに一杯飲んでいきなさいな。しゃけとおかずのほうはもう少しかかりそうだから」「おばさん」杏奈は鍋を受け取るのを手伝おうと小走りで歩み寄りながら、申し訳なさそうに声をかけた。「もう朝ごはん担当の料理人さんを雇ってるんだから、おばさんはもう少しゆっくり寝ていてもよかったのに」恵理子が、わざとらしくむっとしたように眉を跳ね上げる。「あら、何よ。さては私の作る料理じゃ、もうすっかり飽きちゃったってこと?何か他のもっと美味しいものが食べたくなったのかしら?」「おばさんってば、意地悪!」杏奈は苦笑いしながら恵理子の腕にぎゅっとしがみつき、その肩にこてんと頭をもたせかけた。娘のように甘えた声を出した。「飽きるわけないじゃない。私がおばあちゃんになっても、ずっとおばさんの作ったお味噌汁を飲ませてもらいたいくらい大好きなのよ」恵理子は杏奈の額を指でつんと軽く弾いた。「バカねえ。あなたがおばあちゃんになったころには、おばさんはもうヨボヨボで歩くのすらやっとよ。その時にもし無理してお味噌汁なんか作ったら、鍋の中に自分の入れ歯がぽろっと落ちて、一緒に煮えちゃうかもしれないわよ」「…………」杏奈は、すんと黙り込んだ。……いくらなんでも、それは想像するだけでシュールすぎる。どう気の利いた返しをすればいいのか、見当もつかない。幸い、恵理子も本気で返答を待っていたわけではなく、さらっと笑ってすぐに話題を変えてくれた。「それにしても、今日はどうしてこんなに朝が早いの?」杏奈はダイニングテーブルに腰を下ろし、よそってもらったお味噌汁を受け取った。まだ少し眠そうな、のんびりとした口調で答える。「今日ね、いよいよ円香がオーディション番組の正式な本番収録に入る日なのよ。観客席のチケットをもらったから、親友として絶対に応援に行かなきゃ」芸能界やオーディション番組の仕組みには疎い恵理子だったが、「観客の投票」という言葉に敏感に反応した。「だったら、私たち家族もみんなで応援に行って、一票ずつ入れてあげたほうが
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第387話

もしこの重要な話し合いの場に杏奈が同席しなければ、ふたりの間に損得勘定だけが絡むことになる。そうなれば、どんな火種が生まれるかわからない。「お兄ちゃん、心配しすぎよ。彼は私の先輩なんだから。絶対に裏切らない、信頼できる人よ」杏奈は、従兄の過保護な忠告に眉をひそめた。祐一郎はしばらく黙って杏奈の顔を見つめてから、やれやれと深いため息をついた。「……わかった。じゃあ、時間を見て俺が直接ルミエールに出向くとするよ。ただ、できればお前も時間が取れるときに、その場に合わせて顔を出してほしいんだ。なんと言っても『パピヨン・デベーヌ』はお前のデザイン画を基に作っているんだから、チーフデザイナーとして、最終的な出来栄えくらい、その目でしっかり確認してくれないと困る」「わかったわ。じゃあ、自分のスケジュールを確認してから、また後で連絡するわね」その返し方に、祐一郎が思わず吹き出した。手を伸ばし、杏奈の頭をぐしゃぐしゃと撫でてくる。「ははっ、うちの可愛い杏奈も、ずいぶんいっちょ前に『社長っぽく』なってきたじゃないか。『スケジュールを確認してから連絡する』だなんて。この分だと、次は俺に向かって『三分以内に資料を揃えろ』とか言い出すんじゃないか?」杏奈は頭を揺らして祐一郎の手をペシッと払い除け、じろりと脅すように下から見上げた。「お兄ちゃん。これ以上からかうなら、本気で叫ぶよ」「すまん!悪かったって!」祐一郎はすぐさま両手を上げて降参した。「ほら、海のように心が広いから、今回だけは哀れな兄を許してくれるよな?」「まあ、自分が悪いって自覚してるなら、許してあげなくもないわ」杏奈は得意げに可愛らしく鼻を鳴らした。食後、恵理子に声をかけてから玄関へ向こうとすると、祐一郎が自分の上着を手に、慌てて追いかけてきた。「あら、お兄ちゃんもこれから出かけるの?」「収録会場までお前を送っていくよ。送ったついでに、そのまま俺も別の用事を済ませてくるから」「ふふ、じゃあ、お言葉に甘えようかな」杏奈はまったく遠慮する素振りも見せず、悪びれずにお願いした。「お兄ちゃん、今日は一日、専属運転手、よろしくね」「……はぁ、運がいいんだか悪いんだか」……「――運が悪い、ですって?」テレビ局の収録会場。出演者用の大部屋の楽屋の一角
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第388話

図星を突かれて明奈が真っ赤になって激昂するかと思いきや、意外にも彼女の毒々しい唇の端に、薄く嘲るような笑みが浮かんだ。「鈴木円香、今、本当に内心で激しく動揺しているのは、私じゃなくてあんたのほうじゃないの?」円香は、パチパチと目を瞬かせた。そして、救いようのない馬鹿を見るような哀れむ目で明奈を眺める。「……一体、何を寝言言ってるの?」「強がってとぼけないでよ」明奈が一歩じりっと詰め寄り、円香の耳元へ顔を寄せ、毒蛇のようにそっと囁いた。「天下の鈴木家の大切なひとり娘のくせに、実のお父さんは、芸能界なんていうドロドロの名利まみれの世界に、あんたをわざわざ身分を隠して放り込んだのよ。どう見たって、愛想を尽かされて『勘当された』んでしょ?」バッと体を離して立ち上がると、今度はその声に、勝利を確信したような得意気な色が濃く滲む。周りにいる全員、いや、世界中に向けて特大の秘密を宣告してやりたいとでも言うように。「自分の実のお父さんに『いらない』って突き放されたんだから、今頃すごく悲しくて、惨めで辛いんでしょ?もう無駄に強がらなくていいわよ。メッキは、とっくに剥がれてるのよ!」円香は、ただ黙った。お父さんに捨てられたなんて、当の私自身がこれっぽっちも知らないのに、あんた一体どこからそんな情報を仕入れてきたのよ?ある意味、その想像力には感心する。しかも実際のところ、賢治は最初から娘の身分を隠すつもりなど、毛頭なかったのだ。こんな芸能界で、愛娘に万が一のことがあったら困ると、むしろ大々的に「鈴木家令嬢」として売り出すつもりだったのだ。しかし、それを円香自身がきっぱりと断った。どうせこの世界に挑むなら、杏奈みたいに誰の力も借りず、自分の実力と魅力だけで道を拓きたかった。外からの強大な後ろ盾があれば、確かに最初は楽になれるだろう。でも、それは自分の本物の礎には決してなれない。厳しい嵐どころか、そよ風が一つ吹いただけで、あっけなく崩れ去ってしまうからだ。円香は普段は底なしの食いしん坊で気楽に生きているように見えるが、その分、物事の本質を見抜く目だけは、誰よりも澄んでいた。しかし、明奈は円香のその沈黙を、「図星を突かれて絶望した」ものと都合よく受け取った。完全に自分が優位に立ったとばかりに、明奈は大きく手を振りかぶり、円
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第389話

その理由は至極単純だ。彼女が容赦なく怒鳴り散らす気性の荒い人物だというのもあるが、何より、彼女自身が濱海市のテレビ局の上層部に太いパイプを持っているという確かな噂が業界内に広まっていたからだ。番組のディレクターですら彼女には一目置いている。そんな絶対的な権力を持つ相手に、下っ端の参加者が逆らえるはずがない。どれだけ理不尽に怒鳴られようとも、ただ首をすくめてじっと嵐が過ぎるのを耐えるしかないのだ。恐ろしくないわけがなかった。ばつの悪そうに視線を泳がせ、気まずそうに目を逸らす面々をぐるりと見渡して、広川玲子(ひろかわ れいこ)は怒りを通り越して乾いた笑いが漏れた。「なによ。集団でイジメておいて、誰も責任取れないってわけ?私の仕切る現場で、よりによって派閥を作って卑劣なイジメなんかやらかして……あなたたち、本当にいい度胸してるわね。怖いもの知らずにも程があるわ!」玲子の怒りが最高潮に達し、雷が落ちようとしたそのとき。背後から、女性の焦った声が飛んできた。「玲子さん、すみません、ちょっとだけそこをどいてもらえますか!」その聞き慣れた優しい声に、室内にいたふたりがハッとして同時に顔を上げた。玲子が苛立ちながらもスッと横に道を開けると、果たして、廊下から足早に歩いてくる杏奈の姿が目に飛び込んできた。円香の強張っていた表情が、パッと花が咲くように明るくなる。「杏奈!こっちこっち!」一方、明奈は忌々しそうに唇をきゅっと引き結んだ。その目の底に剥き出しの悪意を滲ませた――その瞬間だった。ドンッ!後頭部に見えない一撃を食らったように、明奈は大きくつんのめり、あわや無様に転倒しそうになった。必死で体勢を立て直して振り返り、怒鳴りつけようとした瞬間――その顔からスッと表情が無になった。「なによ。何か私に不満でもあるわけ?」玲子が氷のように冷ややかに見下ろしている。「今のその腐った目つきはどういうつもり?集団でイジメをしておいて、自分はちっとも悪くないとでも思ってるわけ?」相手が身分も後ろ盾もないただの一般参加者なら、明奈だっていくらでも強気に出られた。でも、紗里からきつく言い含められている以上、この権力者には、いくら腹が立っても怒りをぶつけることすらできない。明奈はどうにか引きつった笑顔を作り、必死で言い訳を並
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第390話

「ちょっと明奈、早く何か言いなさいよ!私たちをここに呼んだのはあなたでしょ。今さら黙り込んでどうするつもりなの?!」「そうよ、素直に謝るだけで済むって言ってるじゃない。なんで関係ない私たちまで巻き込むのよ!」「ほら、早く謝って!」玲子がすぐそこで目を光らせていなければ、彼女たちは明奈の頭を無理やり押さえつけてでも、無理やりにでも頭を下げさせていたところだ。しばらく待っても、明奈が意地を張って謝る気配がないと見て、ついに玲子の堪忍袋の緒が切れた。「……ここまで言われても反省の色すら見せないというなら、このまま荷物をまとめて帰ってもらうまで――」「……謝りますッ!」明奈が突然、弾かれたように口を開いた。今にも泣き崩れそうなしゃがれ声だった。床に顔を伏せたまま小刻みに震える肩から、屈辱の涙が次々とこぼれ落ちている。いかにも自分こそが一番の被害者のような有様だった。まあ、無理もない。桐島家の箱入りのお嬢様として、紗里ほど完璧に溺愛されてはいなくても、これまで人前で惨めに頭を下げたことなどほとんどなかったのだろうから。それどころか、かつての藤本家の正真正銘のお嬢様だった杏奈の前でさえ、散々見下して優越感に浸ってきた人間だ。それが今、自分よりずっと下の存在だと思っていたその親友に向かって謝罪を強いられている――明奈にとって、これほどのプライドを粉々にされる屈辱はなかった。しかし、円香は少しも彼女を甘やかすつもりはなかった。「あらら、まあ。涙まで流して見せちゃって。これじゃあ、事情を知らない人が見たら、私がイジメてるみたいじゃない?」玲子も不快そうに眉をひそめた。「謝るなら、ちゃんと誠意を見せて謝りなさい。それが嫌だというなら――」その瞬間、明奈の涙に濡れた目に、一瞬だけ希望の光が戻った。これまでの紗里の忠告を守り、ご機嫌取りをしてきた努力がやっと効いてきたかと思いきや――直後に玲子が放った言葉に、明奈は穴があったら入りたくなった。「さっさと荷物をまとめて家に帰り、法廷の場で決着をつけなさい!」まだ若い彼女たちの将来を考えて、人生を棒に振らせたくないという玲子なりの最低限の情けがなければ、彼女はとっくに警察と弁護士を呼んで、法的手段で動いていたのだ。明奈の目から完全に光が消え失せた。もう、この場で誰か
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