All Chapters of 協議離婚したら、忘れていた夢が叶い始めた: Chapter 491 - Chapter 500

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第491話

扉が閉ざされた瞬間、先ほどまで円香と杏奈に向けていた穏やかな笑みは、まるで潮が引くようにすっと颯の顔から消え失せた。その瞳の奥に宿っていたわずかな温もりだけが、かろうじて名残をとどめている。颯は車椅子を反転させて二人と正面から向き直ると、再び口元に笑みを浮かべて問いかけた。「円香さん、どうしてそんな目で僕を見るんです?」円香は腕を組み、彼の姿を上から下まで値踏みするように眺め回すと、遠慮のない口調で言い放った。「別に。ただあんた、ずいぶん変わったわねって思っただけ。昔のあの泣き虫とは、まるで別人じゃない」杏奈も静かに頷いた。その眼差しには深い感慨と、そしてごく微かな探るような光が滲んでいる。「そうね。いじめられるといつも物陰に隠れて泣いていた子が……今ではずいぶんと、威厳を備えているもの」「威厳」という言葉を耳にしても、颯の表情は微塵も揺らがなかった。むしろその笑みはほんの少しばかり深みを増し、姉のような存在である彼女たちの優しい冗談を、鷹揚に受け止めているかのようだった。しかし、その澄み切った瞳の最奥では、墨汁のように濃い翳りがほんのわずかに揺らめいていた。それはまるで小石を投じられた深い淵のように波立ち――そして瞬く間に、元の静寂へと呑み込まれていった。成海家とは、人の魂をすり減らし、骨の髄まで喰らい尽くす魔窟に他ならない。その地獄で生き残り、己の欲するものを手に入れようとするならば、変わらないことなど死を意味するのだ。「僕だって大人になったんですよ。いつまでもあなたたちの背中に隠れて、守ってもらうだけの子どもではいられませんから」杏奈が口にした「泣いていた」という過去は、彼のその容姿に起因していた。あまりにも整いすぎた、どこか中性的な顔立ち。目尻には生まれつき一粒の小さな泣きぼくろがあり、本来であれば妖艶な色気を醸し出すはずのその印は、当時の彼のあまりに脆く臆病な性格と相まって、弱肉強食の世界においては格好の標的でしかなかったのだ。杏奈に偶然見いだされ、武闘派である円香の庇護下に匿ってもらったあの半年間。それは、颯の暗く冷たい人生における唯一の光だった。誰かに守られ、自分を偽る必要もなく、ただ存分に人の温もりを感じられたあの日々。それを思い返した颯の唇が、ほんの少しだけ、心からの笑みを形作った。その瞳には、紛
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第492話

話を聞き終えた杏奈は、わずかに眉をひそめた。しかし、自身の身の危険を案じるよりも先に、彼女の視線は颯へと向けられた。「それをわざわざ教えに来てくれたことで……成海家でのあなたの計画を、狂わせることにはならないの?」颯の体が、目に見えて強張った。危険を報らされた直後だというのに、杏奈が真っ先に自分の立場と計画を気遣ってくれるなどとは、明らかに想定外だったのだ。形容しがたい複雑な感情が、彼の胸の奥を素早くよぎっていく――それはあまりにも一瞬で、正体を捉える隙すら与えなかった。そして次の瞬間には、温もりと固い決意を帯びた笑みがその口元に浮かんでいた。「お二人が無事でいてくれるのなら、計画が狂ったところで構いません。布石ならまた打ち直せます。けれど、お二人の安全は……ほかの何にも代えがたいものですから」「ったく、あんたにもそれくらいの義理堅さは残ってたってわけね!」円香がどこか満足げな視線を送る。颯はその言葉を素直に受け止め、誠実な光を宿した瞳で言った。「お二人には、本当によくしていただきました。あの時のことはずっと感謝しています。今になってようやく少しばかり力がついてきたんですから、恩返しをするのは当然のことです」杏奈は深く頷き、落ち着いた声で応じた。「わかったわ。心に留めておく。私も円香も十分に気をつけるから、あなたも心配しすぎないでね」円香は自信たっぷりに拳を振り上げてみせた。「そうよ!ここは濱海市、この私たちの庭なんだから。成海家の三男家がここで好き勝手暴れようっていうなら、一人残らず相手をしてあげるわ。頭をねじ切ってボール代わりにしてやるんだから!」「……それなら安心しました」颯はようやく重い肩の荷を下ろしたかのように、長く、そしてかすかに震える息を吐き出した。隠しきれない疲労感が眉間に色濃く浮かび、その顔色は先ほどよりもわずかに蒼白さを増したように見えた。その様子を見た杏奈は、急いで彼に身を労わるよう声をかけ、円香とともに席を立った。個室に設えられた重厚な木の扉が再び閉ざされ、外の喧騒を完全に遮断する。「行ったか?」颯の声が静かに響いた。感情の起伏など一切ない、酷く平坦な声だ。視線すら扉に向けようとはしない。音もなく入室してきた誠也が、恭しく頭を下げる。「若様。お二人がお車に乗られる
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第493話

円香自身、颯の変わりようには驚かされていた。だが、彼女の心の奥底には「あの泣き虫の弟分」に対する庇護欲と信頼が依然として根強く残っており、「企み」という冷たい響きを本能的に拒絶していたのだ。杏奈はシートに背を預けたまま、窓の外を飛ぶように流れていく街灯の残影をぼんやりと眺めていた。その眼差しは、どこか暗く沈み込んでいる。かつて自分たちが守り抜いたあの少年を、疑いたくなどない。しかし、研ぎ澄まされた直感と、嫌でも気づいてしまった細かな違和感が、彼女の心の中でけたたましく鳴り響く警報を無視させてはくれなかったのだ。「円香。彼と紗里……どこか似通っている部分があると思わなかった?」「似てる?どこがよ?」円香にはまったく思いもよらない発想だったらしい。きょとんとした顔で首を傾げる。「片方は計算高い腹黒女で、もう一方は私たちが昔から知ってるそうちゃんじゃないの……?」「野心よ」杏奈がその言葉を遮り、真っ直ぐに円香へと向き直る。その目は射抜くように鋭かった。「あの二人とも、骨の髄にまで、決して無視できないほどに巨大な野心を宿しているわ。ああいう手合いは、表面上どれほど完璧に取り繕おうとも、一つだけ……どうしても隠しきれない部分があるのよ」「どこが?」円香がすかさず問う。「目よ」杏奈は一語一語、噛み締めるように言った。「目なのよ」「目ぇ?」円香はますます要領を得ないといった顔になる。「そうちゃんの目、すごく綺麗だと思ったけど。昔みたいにぱっちりしてて……」杏奈はかすかにため息をつき、噛んで含めるようにゆっくりと説明を紡いだ。「野心ってね、形になるのよ。真に野心を抱き、強烈に何かを渇望している人間を注意深く観察すれば、その瞳の奥底に――獲物を絶対に逃がすまいとする、圧倒的なまでの占有欲と支配欲が、嫌でも自然と滲み出ているものなの」それはまるで、狙い定めた獲物をしかとその爪に捉え、死んでも手放すまいとする猛禽の眼差しそのものだ。ほんの少し間を置き、杏奈は先ほどのカフェでのやり取りの細部を一つひとつ脳内で反芻した。その声には、かすかなぞっとするような冷たさが滲んでいる。「さっき、ほんの短い時間会話しただけなのに――彼が『継承者の座』『成海家の資源を使う』『何よりも大事』と口にするそのたびに、あの強欲な占
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第494話

三浦家へと帰り着き、玄関のドアを開けた杏奈は、その場に釘付けにされたように立ち尽くした。明るいリビングでは、三浦家の面々がソファを囲んで和やかに団欒していた。その中心には、おもちゃを手にはしゃぐ小春の姿があった。屈託のない笑い声が夜の静寂を柔らかく溶かし、そこには絵に描いたような温かな空気が漂っていた。ところが、杏奈が姿を見せた途端、全員がまるで一時停止ボタンを押されたかのように、ぴたりと動きを止めたのだ。恵理子は顔にぎこちない作り笑いを貼り付けたまま、手をもじもじとすり合わせ、何と声をかければいいのか戸惑っていた。隣に座る武史に至っては、ふいっと目を逸らす始末だった。小春を膝に抱き上げていた隆正はあわてて彼女を降ろし、普段のよく通る大きな声に、妙な後ろめたさを滲ませて口を開いた。「杏奈ちゃん、お、お前、なんで帰ってきたんだ?」口にしてから己の言葉のおかしさに気づいたのか、慌てて言い直す。「いや、違う、そういう意味じゃない。今日は随分と帰りが早いなと思ってな」杏奈が返事をするよりも早く、少し離れた場所に立っていた祐一郎が、くすっと含み笑いをこぼした。「おじいさん、杏奈が化け物か何かみたいに、そんなに緊張してどうするんですか。まさか――」背筋を伸ばし、唇の端に悪戯っぽい笑みを浮かべて言葉を続けようとした瞬間、彼の後頭部に鋭い一撃が飛んだ。パーン!乾いた音が、リビングに漂う気まずい空気を切り裂いた。恵理子が凄みのある笑顔を浮かべながら、祐一郎の耳をきゅっと引っ張り上げた。「生意気言わないの。おじいさんをからかうつもり?」祐一郎は身をかがめて首をすくめ、必死の形相で訴えた。「いてぇえええ!ごめんってば!みんな杏奈と顔を合わせにくそうにしてるから、ちょっと空気をほぐそうと思っただけじゃないですか」その言葉に、その場にいる全員の笑顔がわずかに引きつった。彼らが小春に優しく接していたのは、愛する杏奈を何よりも大切に思っているからこそだ。だが、だからといって、これだけ長い時間を一緒に過ごしてきて、何の情も芽生えないはずがない。本当に何も感じないのだとすれば、それは血の通った人間ではなく、血も涙もない機械と同じだ。今日,杏奈が出かけたあと、恵理子は小春が目を覚ましたら吉川の家へ送り届けるつもりでいた
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第495話

もしかして……許してくれたの?一縷の望みを抱いて、小春はおずおずと小さな声で呟いた。「ママ、じゃあ今夜は……」「だめ」杏奈がその言葉をぴしゃりと遮った。いつものように平坦で、ひどく静かな口調だった。「ここにいるのは構わないけれど、私があなたの世話をすることだけは期待しないで」七年間。どんな些細なことにも心を砕き、愛情を注ぎ続けてきた。その結果が、あの冷酷な嫌悪と拒絶だったのだ。この子が今、本当に反省しているのか、それともただの子供なりの演技なのか、杏奈にとってはもうどちらでもよかった。これ以上、どんな相手であろうと、自分の心を擦り減らしてまで愛情を注ぎ込むつもりなど微塵もなかった。もう、ひどく疲れたのだ。割に合わない関係のために、これ以上少しの労力も使いたくなかった。小春は本当に心から反省したのか、あれほど真正面から冷たく拒絶されても、以前のように泣き喚くことはなかった。ただ、こくりと素直に頷いた。「ママ、きっと疲れてるんだよね。大丈夫だよ。小春、自分のことは自分でちゃんとできるから」杏奈は短く「うん」とだけ返し、家族に向けて言い残した。「今日は疲れたから、私、先に休むね。みんなも早く寝て」それだけを言い残し、一度も振り返ることなく階段を上っていった。杏奈の姿が見えなくなると、武史がためらいがちに口を開いた。「杏奈のやつ……」「もういい」隆正が落ち着き払った声で、その言葉を遮った。「杏奈ちゃんがあそこまで言ったんだ。あまり過剰に気にするな。わしらは今まで通りにしていればいい」そう言いながら、席を立つ前に恵理子へとひとこと付け加えた。「この数日は、なるべく……あの子を杏奈ちゃんの前に出さないようにしてやってくれ」「わかったわ、お義父さん」恵理子は静かに頷いてから、小春の目線に合わせてしゃがみ込み、優しく言い聞かせた。「小春ちゃん。ママはね、これからしばらくお仕事がとっても忙しいの。毎日ひどく疲れて帰ってくるんだから、用がない時はあまりまとわりついちゃだめよ」小春は幼いながらも愚かではなかった。言外に含まれた意味は、ちゃんと理解できた。ママは、まだ自分を許してくれていないのだ。胸の奥がちくちくと痛んだけれど、これ以上ママに嫌われることだけは、どうしても避けたかった
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第496話

「話って、何のこと?」病室の天井でちらつく蛍光灯の白い光が、紗里の顔をいっそう蒼白に浮かび上がらせていた。頬がげっそりとこけるほどに憔悴しきっており、その分だけ不自然に瞳が大きく見える。漆黒の瞳は、病室に戻ってきた男の姿を、一瞬たりとも外すことなくじっと見つめ続けていた。それは、どこか薄気味悪さすら覚えるほどの執念だった。蒼介の事務的な問いかけを耳にして、紗里はふっと自嘲するように笑った。深い悲哀が滲む笑みだった。「そんなに……私のことが嫌い?」蒼介は何も答えなかった。だが、いつもの温もりを完全に失った、冷え切った眼差しが、すべての答えを雄弁に物語っていた。紗里は静かに目を伏せた。額にかかる前髪が、彼女の瞳の奥底で渦巻く冷たい感情を覆い隠していた。紡がれた声は相変わらず、痛ましいほどの寂寥感を帯びていた。「そういうことなら……あなたの言う通りにするわ。別れましょう」本当は、死んでも別れたくなどなかった。飛び降りという強硬手段に出たというのに、それでも彼の心は自分のもとへは戻ってこなかったのだ。無様に追い出されるのを待つくらいなら、むしろ――「ただ、補償の条件だけは変えさせてほしいの」「言ってくれ」蒼介の静かな声が病室に響く。紗里はゆっくりと顔を上げ、あらかじめ頭の中で完璧に組み立てていた言葉を口にした。「私たちが別れたことは、しばらく公表しないでほしいの。それから、しばらくの間だけでいい……以前と変わらない関係であるかのように、私のそばで振る舞って」蒼介が不審げに眉をひそめ、何かを言い返そうとした。その瞬間、紗里の目尻がさっと赤く滲み、涙で潤んだ瞳が、病室の灯りを受けてひどく痛ましく揺れた。普段の彼女の、あの明るく奔放な姿との落差が、あまりにも際立っていた。蒼介の険しい眉間が、わずかにほどけた。無意識のうちに、声のトーンがゆるむ。「……理由を」紗里はすかさず説明を重ねた。「あなたもわかっているでしょう?あなたと特別な関係にあるということで、私もこれまでにたくさんのプレッシャーを背負い、無数の敵を作ってきたわ。私たちが別れたと世間に知れ渡れば、その連中が一斉に私と藤本家を標的にして襲いかかってくる。今の私では、到底太刀打ちできない……」蒼介が再び眉をひそめ、藤本家と正式に深い提携を
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第497話

「それから、今日ここに来たのは離婚の件を話すためよ。それと関係ない話なら、失礼するわ」言い終えるなり、杏奈はバッグを手にして立ち上がり、ためらいなく背を向けた――が、その手首を、節くれだった大きな手が強く掴んだ。ほんのわずかに引き寄せられる。重心を崩した杏奈の体は、蒼介の方へと傾いた。しかし、彼女の反応は素早かった。とっさに空いた手をテーブルにつき、力を込めて身をねじる。男の胸に飛び込む寸前で、円を描くように大きく体を旋回させ、体勢を立て直してみせたのだ。数歩よろめいてから、杏奈はどうにか体勢を整えた。不意の出来事に心臓がうるさく跳ねているのにも構わず、慌てて立ち上がった蒼介を怒気に満ちた目で見据える。「何をするの!?」「俺は……」蒼介の顔に、珍しく申し訳なさそうな色が浮かんだ。何か弁解しようとしたものの言葉にならず、結局こう絞り出す。「離婚の話が、まだ終わっていないから……」「次からは言葉で言って。こういう真似はしないで」杏奈は深く眉をひそめ、再び席についた。「何が問題なの。言いなさい」「離婚したことは、しばらく公にしないでほしい」蒼介は、あらかじめ用意していたらしい言葉を口にした。これも、紗里とのやり取りから得た発想だった。「適切な時期が来たら、どう動くべきかはこちらから指示する」杏奈はふっと息を吐き、皮肉めいた笑みを浮かべた。「一つ言っておくけれど、私はもうそちらの人間でもなければ、あなたの部下でもない。あなたの指示に黙って従う義務なんて、どこにもないはずよ」蒼介の表情は揺らがなかった。そう切り出すからには、説得できるだけの自信があるのだろう。「個人的な取引だと考えてくれればいい。同意してもらえるなら、君の会社と俺のグループ企業との間で、より深い提携を結ぶことができる」言われてみれば、確かに魅力的な提案ではある。数日前であれば、迷わず飛びついていただろう。しかし、あの国際ジュエリー展で杏奈がデザインした作品に、複数の大手国際企業から予約が殺到した今となっては、その「深い提携」とやらも、さして魅力的なものには映らなかった。杏奈がすげなく断ろうと唇を開きかけたとき、向かいの蒼介が茶を一口含み、ゆったりとした口調で付け加えた。「それと、エルメス集団からの圧力についても、こちらで対
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第498話

ピッ、ピッ。カフェを出た杏奈を、見計らったようなタイミングで鳴らされた路肩のクラクションの音が彼女を呼び止めた。停車していた控えめな黒のセダンから、祐一郎が運転席の窓越しに顔をのぞかせ、人好きのする笑みを向けてくる。「なんだか、ひどく叱られた子どもみたいな顔をしてるね。うまくいかなかった?」杏奈は少し返事に迷ったが、無用な心配をかけたくなくて、結局小さくかぶりを振った。「ううん、なんでもないわ。お兄ちゃん、先にルミエールまで送ってくれる?」「了解」本人が言いたくないなら無理には詮索しない。祐一郎はあっさりと頷き、静かに車を発進させた。オフィスビルに到着したのは、ちょうど昼休みの時間帯だった。スーツ姿の社員たちが三々五々ビルから出てきては、どこで昼食にするかと賑やかに言葉を交わしている。祐一郎は杏奈を降ろすと、軽く手を振って走り去っていった。人の流れに逆らうようにして歩き始めた杏奈は、すぐに周囲の空気がどこか異様であることに気がついた。すれ違う社員たちから向けられる視線が、遠慮がちでありながらも、あからさまな嘲りや軽蔑の色を隠そうともしていないのだ。ルミエールのデザイン部長として着任したばかりの頃の冷ややかな空気を、ふと思い出す。訝しげに眉をひそめ、近くの誰かに事情を聞こうとした矢先、人の輪の中から一人が抜け出し、小走りでこちらへ向かってきた。「ボス、いらしてたんですか!」デザイン部に所属する女性社員だった。明るい陽光の下で見ると、彼女の顔には明らかな焦燥感が滲んでいる。澄んだ瞳は、杏奈への心配の色を浮かべていた。杏奈が何かを問いかけようとするよりも早く、女性社員は杏奈の腕を引き、人のいない方向へと促す。「ここじゃ話しづらいです。とりあえずこっちへ来てください」「ええ……わかったわ」杏奈は戸惑いながらも頷き、引かれるがままにその場を離れた。二人の姿が見えなくなった途端、周囲に残された社員たちは、堰を切ったようにヒソヒソとざわめき始めた。「あの大企業の令嬢、アレーナ様を本気で怒らせたくせに、よくもまあ平気な顔をして会社に戻ってこられたものね」「社長と個人的に仲がいいからって、いくらなんでも好き勝手やりすぎでしょ。無断欠勤しようが、外で誰に喧嘩を売ろうが、どうせ何のお咎めもなしなん
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第499話

「とにかく、頑張ってください!もし何か私にできることがあれば、いつでも言ってください。デザイン部のみんなで協力しますから。それじゃ、お先に失礼します!」「ええ、本当にありがとう」女性社員が立ち去ると、カフェには杏奈が一人取り残された。ぼんやりしている暇はない。杏奈はさっそくスマホを取り出し、先日のジュエリー展の主催者に電話をかけた。目的はアレーナの個人的な連絡先を聞き出すことだったが、あいにく知らないと断られてしまった。そこで次善の策として、彼女に付きまとわれていた海斗に連絡を取ることにしたのだ。アレーナと海斗の仲は最悪だとは聞いているが、長年の腐れ縁である以上、連絡先くらいは知っているに違いない。そう見込んで電話をかけると、わずか二回のコールの後、すぐに応答があった。ただし、電話に出たのは海斗本人ではなく、マネージャーである理玖の声だった。「はい、坂口海斗のマネージャーです。何かご用件でしょうか」「……三浦杏奈です」杏奈が名乗る。電話越しの理玖の声が、明らかに明るいトーンに跳ね上がった。「三浦さんでしたか!まさかあなたの方からお電話をいただけるとは。海斗さんに何かご用ですか?」「いえ、理玖さんにお聞きしたいんです」理玖は少し不思議そうにしながらも、「私で役に立てることがあれば」と真摯に応じた。杏奈は前置きを省き、すぐに本題を切り出した。「アレーナさんの連絡先を、ご存知ないですか?」その名前を出した途端、理玖は杏奈が何を求めているのかを一瞬で察したようだった。電話越しにわずかに言葉を淀ませ、どう答えるべきか迷っている気配が伝わってくる。「何か知っていることがあるなら、遠慮なく言ってください」杏奈は促した。「わかりました」理玖は観念したように小さく苦笑を漏らし、ゆっくりと話し始めた。「では率直に申し上げましょう。あなたがアレーナさんを怒らせてしまったらしいという噂は、僕の耳にも入っています。詳しい事情は存じ上げませんが……正直なところ、今は直接会うのはやめておいた方が賢明かと思います」「……なぜですか?」杏奈は納得がいかず眉をひそめた。自分がなぜ恨みを買ったのか、その理由すらわからないまま一方的に攻撃され、それを確かめることもできないなど、到底受け入れられない。理玖は少し間
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第500話

「……わかりました。無茶はしません」頭では事情を十分に理解できた。しかし、杏奈の口からこぼれた声には、どうしようもない徒労感と無力感が滲み出ていた。理玖は本来、自分たちの管轄外のトラブルに深く首を突っ込むつもりはなかった。しかし、海斗の杏奈に対する並々ならぬ執着を思うと、どうしても手を差し伸べずにはいられなかったのだ。「三浦さん。どうか、そんなに思い詰めないでください。この件については、僕の方でも少し探りを入れてみます。何か手がかりが掴めたら、すぐにあなたにご連絡しますから」「ありがとうございます……よろしくお願いします」杏奈は心からの感謝を込めて丁寧に礼を述べた。「いえ、お気になさらず。海斗さんがいつもあなたに多大なご迷惑をおかけしていることへの、せめてものお詫びのつもりですから」「ええ、頼りにしています」短いやり取りを交わし、杏奈は通話を切った。テーブルに置いたバッグを手に取り、席を立ってカフェの扉を押し開けようとしたその瞬間――ドロドロドロ……と、アスファルトを揺るがす地響きのような重低音が急速に迫ってきた。漆黒のランドローバーが何台も連なって轟音とともに現れ、道行く人々の度肝を抜く。そして、カフェの目の前の路上に一糸乱れぬ動きで横並びに停車したのだ。周囲の空気を押しつぶすような、異常なまでの威圧感が辺りを支配する。ドアが開き、真っ先に降り立ったのは、彫りの深い外国人特有の顔立ちをした男だった。眩しい陽光を浴びて輝く淡いブルーの瞳には、どこか猟奇的で歪んだ光が渦巻き、波打つような金髪が微風に揺れている。黒地に金糸の刺繍が施された手縫いの最高級スーツが、一切の無駄なく引き締まった長身を包み込んでいた。服の上からでもわかる、鋼のようにみっちりと詰まった規格外の筋肉が、対峙する者に無言の暴力的なプレッシャーを与えている。「スーツを着込んだ猛獣」そんな比喩がこれほどまでに完璧に当てはまる男だった。規格外の男が車から降り立った途端、遠巻きに見ていた野次馬たちの間から、ざわめきとともに声が上がり始めた。「えっ待って、体格良すぎて無理……今夜の夢に出てきて!いい夢見れそう〜!」「スパダリ気質の狂犬攻め×儚げな愛され受……この体格差、控えめに言って神。一生推せるわ」「この圧倒的なオーラと取り巻きの数…
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