All Chapters of 協議離婚したら、忘れていた夢が叶い始めた: Chapter 501 - Chapter 510

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第501話

彼はかすかに眉をひそめた。その目には、杏奈に名を言い当てられたことへの好奇心と、獲物をいたぶる遊びを邪魔された苛立ちが入り混じっていた。しばしの沈黙ののち、彼は口を開いた。「オレを知っているのか?」「知らないわ」杏奈はあっさりと首を振った。だが、想像に難くなかった。以前、理玖から、彼が異常なまでのシスコンだと聞かされていた。妹が誰かに虐げられたと知れば、駆けつけてくるのも当然のことだ。もっとも、杏奈が彼の正体を見抜けた最大の理由は、その体に漂う火薬の匂いだった。骨の髄まで染み込んだ、決して洗い流せない戦場の匂い。国内では銃器の所持が禁じられている。彼が武器商人であるという事実と考え合わせれば――目の前で理不尽に行く手を阻むこの男が誰なのか、答えはおのずと導き出された。「ほーう。面白い」アルバートソンズの彫りの深い顔に、不敵な笑みが広がった。見下ろす瞳には、さらに強い興味の色が浮かんでいる。「オレのことを知らないのに、一目見ただけで名前を当ててみせるとはな。どうやら……」彼は焦らすように言葉を引き伸ばした。杏奈の警戒する視線を受けながら、触れそうなほどぐっと身を乗り出してくる。「三浦さんは、オレが思っていたより愚かではないらしい」後ずさろうにも、背後はすでに壁だった。杏奈はやむなく手を伸ばして彼の胸を押し返し、強い口調で言い放った。「アルバートソンズさん、ここはあなたの国じゃない。好き勝手が許される場所ではないわ。もしこれ以上、妙な真似をするなら――」パシッ。唐突に大きな手が、杏奈の耳元をかすめた。一筋の髪が宙を舞い、はらりと落ちる。間髪入れず、猛獣のように屈強な彼の体が、覆いかぶさるように迫ってきた。息苦しいほどの圧迫感とともに、二人の距離は握り拳の半分にも満たないほどまで縮まる。互いの瞳に相手の姿がくっきりと映り込むほどの近さだ。「三浦さんが賢明な人なら、オレがなぜここへ来たのか、もう分かるよな?」彼は面白そうに口を開き、胸に押し当てられた華奢な手などまるで意に介さなかった。手のひらから伝わるかすかな抵抗を感じながら、彼は喉の奥で笑いを押し殺す。まったく……本当に、か弱い子ウサギのようだ。杏奈は本気で怒っていた。顔を上げて彼を睨みつけ、声に冷たさをにじませる。「今日の出来事が国内外に広
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第502話

聞き覚えのある怒声が、次々と飛んでくる。杏奈が振り返ると、元が仲間たちを引き連れ、アルバートソンズの護衛が築いた人垣を突破しようと押し寄せていた。怒号と罵声が交錯し、一触即発の空気が漂っている。杏奈が目を向けた瞬間、元もこちらを見た。心配そうな顔で、人垣の向こうから大声を張り上げる。「怖がるな!俺がいる限り、誰にも指一本触れさせない!」杏奈はかすかに微笑んだ。それからアルバートソンズへ視線を戻し、冷ややかな口調で告げる。「これ以上ここで時間を無駄にするというのなら、騒ぎが大きくなるのを待っても私は構わないわよ」彼は彼女の脅しを意に介する様子もなかったが、これ以上の無用な騒動を起こす気もないらしい。壁についていた手を下ろし、杏奈をじっと見つめてから、笑みとともに言い残した。「くくっ……三浦さん、きっとまた会えると思うぞ」そのまま身を翻し、先頭のランドローバーへと迷いなく向かっていった。彼が乗り込むのを見届けると、護衛たちも次々と車へ乗り込んだ。やがて長い車列は、エンジン音を響かせて走り去っていった。人垣が崩れると、元は仲間とともに杏奈のそばへ駆け寄ってきた。「大丈夫か?」杏奈はかすかに微笑んで首を振る。「平気ですよ。ここは国内だから、さすがの彼らも無茶はできなかったみたい」「でも……」元の顔に迷いが浮かんだ。何を言えばいいのか、言葉を探している様子だ。助けに来てくれたことへの感謝もあり、杏奈の声はいくぶんか柔らかくなった。「言いたいことがあるのなら、はっきり言ってください」元は唇を引き結び、言いにくそうに口を開いた。「さっき……あいつに抱きしめられているように見えたんだが、本当に何もされなかったのか?」口にしてから自分の言い過ぎに気づいたのか、慌てて付け加える。「別に変な意味じゃない。ただ、もし嫌な目に遭っていたのなら、早めに教えてもらった方が解決も早いと思って……」取り繕うには、あまりにも不器用すぎた。しきりに杏奈の顔色をうかがう瞳が、彼の本心をありありと映し出している。心配?いや、独占欲と呼ぶ方が正確だろう。好意を寄せる女が別の男に抱かれているように見えた。ただそれだけで、男の哀れな独占欲が、時と場もわきまえずに頭をもたげたのだ。杏奈の瞳から、先ほどのわずかな温もりが消え失せた
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第503話

「杏奈!」「……何ですか?」杏奈は足を止め、振り返った。「まだ何か御用ですか?」「俺……」元の瞳に葛藤がにじんだ。何度か口を開きかけては、重いものを飲み込むようにぎゅっと唇を閉じる。その強さに、唇の色が白くなるほどだった。付き合っていられない。杏奈は眉をひそめた。「何を言いたいのかご自分でも整理がついていないのなら、一度帰ってよく考えてからでも遅くはないですよ。私は先に失礼させてもらいますね」「待ってくれ!」踵を返そうとした杏奈の姿に、元はたまらず一歩を踏み出し、強引に行く手を遮った。奥歯を噛み締め、目を閉じたまま、腹の底に溜め込んでいた思いを一気に吐き出した。「分かってる、今、お前が蒼介と離婚の手続きを進めていることは!だから……離婚が成立した後に、俺のことも考えてくれないか!」言い終えると、彼は長く息を吐き出した。その口元に浮かぶ苦笑には、言葉では言い表せない感情が混じっている。「正直なところ、自分でもいつから惹かれ始めたのか分からないんだ。お前が昔とは変わったと気づいた時かもしれないし、モモと一緒にいるお前を見た時かもしれない。とにかく……」元は顔を上げた。もう迷わないという覚悟が、その瞳に宿っていた。しかし次の瞬間――目を開いた彼の視界に、冷酷な現実が飛び込んできた。隠しようもない嫌悪の情が、彼女の表情に浮かんでいたのだ。元は固まった。喉元まで出かかっていた言葉が、そのまま詰まって出てこない。嫌悪……いや、それどころか、吐き気をこらえているような顔だった。それほどまでに――彼女は俺のことが嫌いなのか?「今まで一度も言ったことがなかったでしょうか」「な、何が……?」杏奈は真剣な眼差しで、静かに、しかしはっきりと告げた。「私、あなたのことが本当に、本当に、本当に嫌いなんですよ。あなたたち全員も含めてね」三度繰り返した。それがどれほどの嫌悪であるかは、言葉を重ねるまでもなく伝わってくる。涼平も、その後ろにいる取り巻きたちも、全員含めて。情熱的な告白?笑えない。彼はいったい何を期待していたのだろう。かつて散々傷つけておきながら、自分はそれをなかったことにできると思っているのだろうか。あるいは、窮地から救った英雄気取りで、心まで奪えると信じているのだろうか。どちらに
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第504話

「その通りよ!」玲子の声は力強かった。「本当はもっと早く出したかったんだけど、ずっとタイミングをうかがっていてね。ちょうどあの件がまた掘り返されたから、この流れに乗って、あなたに着せられた汚名を一気に晴らしてしまいましょう」ずっと黙って耐えてきた。そろそろ反撃に出る頃合いだった。「だから、時間があるなら濱海市のテレビ局まで来てくれない?私もそこに特設スタジオを用意して、視聴者からの疑問に答えるつもりなの。当事者のあなたがその場にいれば、説得力がまるで違うから」「分かりました。今すぐ向かいますね」電話を切り、杏奈はアクセルを踏み込んでテレビ局へと車を走らせた。……「大変申し訳ございませんでした、社長」吉川グループ本社ビル、最上階の社長室。ダークスーツを身にまとった男が、床から天井まで続くガラス窓を背にして立っていた。襟元のタイピンが差し込む陽光を受け、冷たい光を散らしている。乱れた黒髪が空調の微風に揺れる中、深淵のような瞳が、デスクの前に立ち深く頭を下げる洸平へと注がれた。その眼差しが帯びる冷気は、見る者を凍りつかせるほどだった。洸平はその重圧に到底耐えきれず、額から冷や汗が滝のように流れ落ちて、声まで震えていた。「今回の件は、すべて私の失態でございます。いかなる処分も、甘んじてお受けします」蒼介は笑った。静まり返った広い部屋に、低い笑い声が響く。不気味なほど静かな笑いだった。「フン……濱海市の各空港を張らせて、アルバートソンズが入国したかどうかを確認しろと命じた。できなかったな。で、ネットの世論を監視して、一度火消しした話題が再燃しないようにしろと言った。それもできなかった。次は……」蒼介の声は低く、淀んだ沼のように底知れなかった。罪状を数え上げるような口ぶりは、すでに忍耐の限界を超え、最終的な裁断を下そうとしているかのようだった。一つ告げられるたびに、洸平の心臓は早鐘を打った。膝がじわじわと震え、立っているのがやっとの状態だった。やがて、蒼介が言い終えた。洸平の瞳が震え、巨大な恐怖に全身が飲み込まれていく。「社長、私の落ち度でした!全て私の不手際で……どうか――」洸平の言葉が、突然途切れた。いつの間にか、オフィスに二人の男が現れていた。無表情に洸平を見下ろすその目は、まるで死人
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第505話

「アルバートソンズの相手はお前がしなくていい。だが、奴の毎日の動向を把握しろ。何をして、何を食べて、どこへ行ったか――一挙手一投足、余すところなく調べ上げるんだ」蒼介の声には、珍しく苛立ちの色が滲んでいた。洸平にとっては無理難題に等しい命令だったが、蒼介の無機質な視線を前にすれば、断る権利など最初からなかった。「……承知いたしました」「下がれ」地獄に仏とでも言うように、洸平は深々と頭を下げてから、そそくさと部屋を出ようとした。しかし二、三歩も進まないうちに、足が止まった。顔が引きつった。視界の端に、背後霊のようにぴったりとついてくる二人の「清掃係」の姿が映り込み、落ち着きを取り戻しかけた心臓が再び激しく跳ね上がった。社長はもう自分を信用しておらず、監視をつけたのか?「彼らはお前の補佐につける」背後から、蒼介の静かな声が届いた。洸平は慌てて居住まいを正し、深く頭を下げた。「彼らとは決して摩擦を起こさぬよう、うまく連携いたします!」「ああ」……濱海市、地方テレビ局。杏奈が車を走らせて到着したとき、一目でそれと分かるピンクのマセラティが、ちょうど隣のスペースに停まるところだった。ドアが開くや否や、円香が矢のように飛び出してきて、杏奈の車の窓際に仁王立ちした。腰に両手を当て、得意満面に言い放つ。「杏奈、さっき一つ前の交差点でもう見えてたんだよね。数百メートル離れてて、前に何台詰まってようが、この秋名山のカリスマドライバーにかかれば追いつくくらい朝飯前!どう、すごくない?」杏奈はくすりと笑った。ネットの騒動で落ち込んでいないかと気を遣ってくれているのだと分かり、あえて調子を合わせて返す。「さすが秋名山の神ね、脱帽だわ」「いやいや、お褒めにあずかり光栄ですぅ~」円香はにっと白い歯を見せた。「ところで、どうして来たの?」車を降りながら、杏奈は聞いた。二人で並んで局の建物へ歩き出しながら、円香が答える。「ネットの騒ぎを見て玲子さんに連絡したら、いよいよ証拠を公表するって言うじゃない」ちらりと杏奈の顔色をうかがい、特に落ち込んでいる様子がないのを確かめてから、彼女は胸を張って続けた。「あのネット民どもが何か言ってきたら、私が黙ってないからって思って、応援に来たんだよ」杏奈は苦笑した。「
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第506話

円香はへらへらと笑い、杏奈は呆れながらも彼女の額をつんと指で弾いた。その顔には、隠しきれない親愛の情がにじんでいた。冗談を言い合いながら歩いていると、いつの間にかテレビ局のロビーに差し掛かっていた。スタッフたちが慌ただしく行き交う中、彼らの顔には焦りと隠しきれない興奮が入り混じっている。特大のスクープを前にした熱気が、局全体に満ちていた。「玲子さん、局のスタッフ全員を動員したって感じね」円香が感心したようにつぶやいた。「その通りよ!」少し離れた場所から、凛とした明るい声が飛んできた。二人が顔を上げると、玲子が微笑みながら歩いてくるところだった。体のラインにぴったりと沿ったパンツスーツが、彼女のしなやかなプロポーションをいっそう際立てている。髪は高くまとめられ、ナチュラルメイクが明るい照明に映え、その佇まいには隙のない有能さがにじんでいた。「玲子さん」二人が揃って声をかけた。玲子は軽く頷き、二人を伴って放送ブースへと歩き出しながら、落ち着いた口調で話し始めた。「まずはこちらへ。杏奈、証拠の公表については、エンタメ班と報道班のアナウンサーとキャスターたちに話は通してあるから、できる限り誤解を解くために動いてくれるはずよ」杏奈が負担に感じないよう、玲子はわざわざ付け加えた。「彼らもタダで動いてくれるわけじゃないから、心配しなくていいわ。これだけの大ニュースなら、向こうにとっても十分なメリットがあるから」「分かりました」杏奈は頷き、心から礼を言った。「玲子さん、こんなに動いてくれて、本当にありがとうございます」「本当に感謝してくれるなら、時間のある時に食事でも奢ってちょうだい」玲子は笑った。「もちろん」杏奈も笑って応じた。円香がすかさず割り込んでくる。「私も私も!杏奈、抜け駆けは許さないわよ」「分かってるわよ」杏奈は円香をいとおしむような目で見つめた。「誰より先に、あなたのことは絶対に忘れないから」他愛のない話をしているうちに、目的の放送ブースに辿り着いた。機材の整った室内で、白いシャツを清潔に着こなした端正な男性が、機器の調整をしているところだった。扉が開いたのに気づき、男は振り返って微笑んだ。春風のように穏やかで、人の心を和ませる笑顔だった。「玲子さんから伺っていた、三浦さんと鈴木さんですね。は
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第507話

たちまち、ネット上の熱狂は最高潮に達していた。#名家の真実#杏奈ちゃんにみんなで謝ろう#堀川柚莉愛は芸能界から出て行け関連タグが、各大手SNSのトレンドを次々と塗り替えていった。公開された告発動画は、三十分も経たないうちに再生数が百万を突破し、リポスト数も秒単位で万単位に跳ね上がる勢いで拡散された。コメント欄は瞬く間に一色に染まっていた――杏奈への切実な謝罪と、心からの労わりの言葉で。放送ブースでは、翔真が機器の調整を終え、最初のリスナーとの通話が繋がった。ツー、ツー、と二回鳴った後、杏奈のイヤホンから、かすかにしゃくり上げるような声が聞こえてきた。「うううっ、杏奈ちゃん……ずっと心配してたんだよ……」杏奈は思わず言葉に詰まった。心から気にかけてもらえることは、素直に嬉しい。でも自分より若そうな相手に心配されて、なんとも複雑な気持ちになってしまう。隣で同じくイヤホンをつけていた翔真が、絶妙なタイミングで口を挟んだ。「お電話が繋がっているファンの方、通話時間は三分間となっておりますので、お早めに。何か聞きたいことがあれば、どうぞ」リスナーは慌てて鼻をすすり、気持ちを整えてから尋ねた。「杏奈ちゃん、今は幸せ?」その一言が、杏奈の胸の奥に静かに響いた。幸せ……そんなこと、考えたこともなかった気がする。かつての自分が考えていたのは、どうすれば夫の心を取り戻せるか、どうすれば娘に嫌われずに済むか――そういうことばかりだった。あの冷たい檻を抜け出し、自分を粗末に扱う人たちと距離を置いてからは、自分が描いた未来に向かって、ただひたすら走り続けてきた。失われた時間と後悔を払拭するために、休む間もなく。でも……自分は本当に、幸せなのだろうか?それとも、長年抱えてきた執念から逃げるために、あるいはあの頃の痛みを直視しないために、ただ忙しくすることで心に蓋をしていただけなのか。杏奈には、もう分からなくなっていた。あの頃の傷は、時という刃に深く刻み込まれたまま、今も胸の奥にひっそりと残っていた。ブース内に静寂が満ちた。イヤホンの向こうからは、リスナーの静かな息遣いだけが聞こえていた。急かすような気配は、まるでない。最初に滲ませた心配と同じように、この人は杏奈を少しも追い詰めようとしていなかった。
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第508話

「何の知らせ?」杏奈は話を合わせて尋ねた。「ほら、見て」円香がスマホを差し出しながら、興奮気味に続ける。「柚莉愛のやつ、完全に終わったよ。アンバサダーを務めていたブランドが、一斉に契約解除を発表したって」言ってから、得意げに鼻を鳴らした。「違約金だけで破産確定じゃない?これでもう、二度と杏奈に何かしようなんて思えないわよね。ていうか、あいつの芸能人生はもう終わりか」杏奈は各社の契約解除の声明にひと通り目を通したが、顔色一つ変えなかった。当然の報いだ。女優でありながら言葉の重みを知らず、自分を慕うファンを盾にして他人を誹謗中傷に追い込んだのだ。この結末は、自業自得にほかならない。「でも、惜しいよね~」ふと、隣からため息が漏れた。杏奈は不満げな顔の円香を見て、小さく首を傾げた。「一件落着したのに、まだ不満があるの?」「柚莉愛なんて、ただの捨て駒でしょ」円香は悔しそうに口を尖らせた。「本当の黒幕はあの最低な女なのに、あっちはのうのうとしてるんだもん。悔しくない?」「そうね」杏奈も確かに、と頷いた。「歯痒い気もするけど、今のところ決定的な証拠がないのよ。柚莉愛の証言だけじゃ、紗里を完全に追い詰めるにはまだ足りないわ。それに――」柚莉愛が真実を語った動画の中では、全ては紗里の指示だったと明かされている。しかし、一度騙されたネット民たちが、彼女の言葉をそう簡単に信じるはずがない。加えて吉川家と藤本家が揃って手を回したことで、紗里に関する話題は広がる前にあっさりと揉み消されてしまった。「吉川グループの危機管理能力、さすがね」円香はさらに口を尖らせた。「すごいんだか何なんだか分からないけど。誰がどう逆らったって、あの男には勝てないでしょ」「あの男」が誰か――分かる者には分かる話だった。杏奈は苦笑して、円香の頬をそっと揉んだ。「もういいじゃない。解決したんだから、今は考えすぎない方がいいわよ」「仕返ししたくないの?」円香が上目遣いで尋ねた。杏奈の口元に、どこか凄みを帯びた笑みが浮かんだ。「円香、吠える犬は噛まないって言うでしょう。今あんなに大人しくしているってことは、水面下で必ず何かを企んでいるはずよ。焦らなくていいわ。いつか必ず尻尾を出す。その時には――」一拍置いてから、杏奈の瞳に冷たい光が過ぎった。「
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第509話

そんな物騒な思考を、アルバートソンズは少しも顔に出さなかった。口元に妹を溺愛する甘やかな笑みを浮かべたまま、悠然と二人の前へと歩み寄る。「お兄ちゃん……」アレーナが立ち上がり、彼の腕にしなだれかかった。甘えた顔で見上げてくる。「来るの早すぎ。空港まで迎えに行こうと思ってたのに」アルバートソンズは彼女の頭を無造作に撫でた。「早くお前に会いたかっただけだ。迎えなんていい、うちの可愛いお姫様を疲れさせるわけにはいかないだろ」「もう、お兄ちゃんったら……」他人の目がある手前、アレーナは少し恥ずかしそうにしながらも、嬉しそうに拗ねた声を上げた。「あたくし、もう大人なんだから、子ども扱いしないでよ」「何歳になろうと、兄妹は兄妹だろう」アルバートソンズは鼻で笑ったが、アレーナの拗ねたような視線にはあっさり白旗を上げた。「分かった分かった、もう言わない」アレーナは「ようやく分かった?」という勝ち誇ったような目を向けてから、くるりと振り向いて那月を引き寄せた。「お兄ちゃん、こちらは最近仲良くなった友達の、那月よ」那月はようやく自分の出番が来たとばかりに、ぱっと顔を明るくして手を差し出した。「はじめまして、横井那月と申します。アレーナさんからよくお話を伺っていましたが、本当に妹思いの素敵なお兄様ですね」アルバートソンズは笑みを崩さず握手を返しながら、その瞳がいっそう野心的な光を帯びるのを見て、静かに問いかけた。「具体的にどこが素敵なんだ?」「え?」那月は一瞬固まった。彼が「素敵」という言葉に対する具体的な根拠を求めているのだと気づいて、内心で呆れ果てた。社交辞令という言葉を知らないのかしら。アルバートソンズに関する情報は事前に調べてある。上がってきた報告は「狂人」「気に食わなければすぐ人を消す」という物騒なものばかりだった。一体どこに素敵な要素があるというのか。とはいえ、聞かれた以上は答えなければならない。ルミエールを離れた今、この男こそが最も強い後ろ盾だ。しっかりしがみついておかなければならない。「アルバートソンズさんはまずお顔立ちが大変整っていらっしゃいますし、妹さんへの愛情も深い。それに――」那月は息つく間もなく褒め言葉を並べ立て、まるで神様でも崇めるかのような大げさな賛辞を披露し続けた。しかし数十分が経って
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第510話

殺されるのでは、という懸念だろうか?冗談ではない。アレーナとこれほど仲良くなった自分を、彼女を悲しませるような駒として使うはずがない。すっかり自分が主導権を握ったつもりでいた那月は、全く気づいていなかった――アルバートソンズの笑顔の奥底に潜む、深淵のように冷酷な光を。「アルバートソンズさん、ご厚意は大変嬉しいのですが、今回はお断りさせていただけますか」「ほう?」アルバートソンズは軽く語尾を上げた。即座に飛びついてくると思っていたのに拒絶された意外さに、少しばかり興味をそそられた。「どんな理由で?」那月はちらりとアレーナを見て、一瞬迷うそぶりを見せてから、すぐ顔を引き締め、真剣な声で言った。「理由は一つです。アレーナさんの周りの障害を取り除いて、海斗さんの心を射止めるまで力になると約束したから。それが叶うまでは、よそ見をするつもりはありません」この言葉が、アレーナの胸を深く打った。感極まった表情で那月を見つめる。「これからずっと、あなたがあたくしの一番の親友よ!」「お力になれるなら、こちらこそ光栄です」那月は謙虚に微笑んだ。「うぅ、那月……」アレーナはさらに感動で胸を熱くした。二人が熱く友情を確かめ合う中、誰もアルバートソンズの方を見てはいなかった。彼の口元には、いつの間にか犬歯がのぞくほど冷酷な笑みが広がっていた。まるで獰猛な野獣が獲物を前に牙を剥いたような――そんな背筋の凍る笑い方だった。しかしアレーナが視線を向けた瞬間、彼の表情は先ほどの溺愛する兄の顔に何事もなかったかのように戻っていた。声も不自然なほど穏やかなものだった。「アレーナ、オレが来たと聞きつけて、わざわざパーティーを開いてくれた人がいるんだ。一緒に行くか?」……「パーティー?」個室の中、玲子が突然切り出した話に、杏奈は少し戸惑った。「玲子さん、私には招待状も届いていないし、いきなり押しかけるのは、ちょっと……」玲子は涼しい顔で笑った。「大丈夫よ。他の人も連れを伴って来るし、家族連れの人もいるわ。私が連れて行けば問題ないわ」少し表情を引き締めてから、説明を続けた。「まあ、別に社交目的で行ってほしいわけじゃないの。聞いた話だと、このパーティーはY国から来たあのアルバートソンズのために開かれるらしくてね。アレーナも来るかもしれ
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