All Chapters of リターン・ラブ--(return love;): Chapter 1 - Chapter 10

37 Chapters

プロローグ 大学の夜――言えなかった想い

 蛍光灯が静かに明滅していた。 深夜二時を過ぎた情報学研究室に残っているのは、颯と春海の二人だけだった。キーボードを叩く規則正しい音が、沈黙を縫うように響いている。 颯は手元のコードを見つめながら、隣に座る春海の横顔を盗み見た。眼鏡の奥の瞳は、モニターに映る数列を追っている。その表情には、いつもの冷静さがあった。まるで感情という熱を帯びていない、完璧な機械のように。 ――この人は、どんなときも揺れない。 修士二年の春海は、研究室で最も優秀な院生だった。誰もが認める理性的な判断力と、完璧な論理構成。学部三年の颯にとって、春海は憧れそのものだった。 いや、憧れという言葉では足りない。 颯は、自分でも気づかないうちに、春海の一挙手一投足を目で追うようになっていた。彼が淹れるコーヒーの香り、資料をめくる指先、考え込むときの眉間の皺――そのすべてが、颯の胸を締め付けた。光の中にいる春海と、その影に立つ自分。その距離が、痛いほど愛おしかった。*「高橋」 不意に名前を呼ばれて、颯は息を呑んだ。心臓が跳ねる。「これ、見てくれるか」 春海がモニターを指差す。颯は慌てて椅子を寄せた。肩が触れそうな距離で、春海の体温を感じる。シャツからは微かに洗剤の匂いが香った。胸が高鳴った。「ここのアルゴリズム、少し修正が必要だな」 春海の指が、颯のキーボードに伸びる。その手が、一瞬、颯の手に触れた。 電流が走ったような感覚。颯は息を止めた。触れた場所が、熱を持って震えている。 だが春海は、何事もなかったかのように手を引いた。その動作があまりにも自然で、颯の心だけが取り残された。「……感情を持ち込むと、判断が鈍る」 ひとり言のような呟きが、颯の耳に届いた。春海は再び自分のモニターに向き直る。横顔に浮かぶ影が、どこか寂しげに見えた。* その言葉が、胸に刺さった。 春海にとって、感情は邪魔なものでしかないのだろうか。この距離も、この時
last updateLast Updated : 2025-12-01
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第一章 再会――止まっていた時間

 朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。 高橋颯は目覚まし時計が鳴る前に目を覚ます。六時半。いつもと同じ時間だ。体が勝手に覚えている日常のリズムだった。ベッドから起き上がり、窓を開ける。四月の朝の空気は、まだ少し肌寒い。遠くで鳥の声が聞こえた。 洗面所の鏡に映る自分の顔を見つめる。二十七歳。大学を出て五年。顔つきは多少大人びたかもしれないが、本質的な部分は変わっていない気がする。髪を整え、髭を剃る。これも毎朝の儀式のようなものだ。 キッチンでコーヒーを淹れる。豆を挽く音が静かな部屋に響く。この音を聞くと、なぜか研究室のコーヒーメーカーを思い出してしまう。深夜、疲れた体にカフェインを流し込みながら、コードと格闘した日々。そして、隣で同じように作業をしていた人のことを――。 首を振って、雑念を追い払う。今日は新プロジェクトのキックオフ。集中しなければ。 朝食は簡単に済ませた。トーストとスクランブルエッグ。テレビのニュースは経済の話題ばかりで、あまり興味が湧かない。時計を確認し、スーツに着替える。ネクタイを結びながら、今日の予定を頭の中で整理した。九時から全体会議。新しいプロジェクトの詳細が発表される。 マンションを出ると、通勤の人波がすでに動き始めていた。駅までの道のりは、もう体が覚えている。信号の変わるタイミング、人の流れの癖、全てが予測できる範囲内だった。 電車のホームでは、いつもの場所に立つ。三両目の二番ドア。ここが一番乗り換えに便利だと、入社してすぐに覚えた。三両目の二番ドア。ここが一番乗り換えに便利だと、入社してすぐに覚えた。同じ時間、同じ車両には、見覚えのある顔がいくつもあった。名前は知らないが、同じ時を共有する仲間のような存在。 吊り革につかまり、スマートフォンでプロジェクトの進捗を確認する。昨日までのタスクは全て完了。今日から新しいフェーズが始まる。画面に表示されるコードの断片を見ていると、ふと指が止まった。 return false; この一行が、妙に目に留まる。偽を返す。否定を返す。五年前、自分も同じことをしたのではないか。想いを伝えることを否定し、何も言わずに終わらせた。
last updateLast Updated : 2025-12-01
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1-2

 大会議室のドアを開けると、すでに十名ほどが集まっていた。開発部のメンバーだけでなく、営業やマーケティングの顔も見える。みんな少し緊張した面持ちで、配布資料に目を通している。 颯は空いている席に座った。隣の席には、先輩エンジニアの山田が座っている。彼は颯の入社時からの指導役で、技術的な相談によく乗ってくれる人だ。「大きなプロジェクトだな」 山田が小声で話しかけてくる。「ええ、資料を見る限り、かなり野心的な内容ですね」「新しいリーダーがどんな人か、楽しみだよ。噂では相当な切れ者らしいが」 颯は頷きながら、配布された資料を開く。一ページ目にはプロジェクトの概要が書かれている。次世代AIシステムの開発で、顧客の行動を予測し、最適なサービスを提供する革新的なプラットフォームだ。 ページをめくっていく。技術仕様、システム構成図、開発スケジュール。そして、体制図のページ。 颯の視線が、一点で止まった。 開発統括:春海悠斗 文字が霞んで見える。目を擦り、もう一度見る。間違いない。春海悠斗。その名前が、確かにそこにあった。 心臓が大きく跳ねた。血液が耳の奥で脈打つ音が聞こえる。周りの話し声が、急に遠くなったような気がした。 春海悠斗。まさか。同姓同名かもしれない。そんなはずはない。あの春海がここに? なぜ? いつから? 思考が渦を巻く。記憶が押し寄せる。研究室の蛍光灯、キーボードの音、コーヒーの香り、そして――。「おはようございます」 低く落ち着いた声が、会議室の空気を震わせた。 颯の呼吸が止まる。この声は――間違いない。ゆっくりと顔を上げる。会議室の入り口に立っていたのは、紛れもなく春海悠斗その人だった。 時間が止まったような感覚に陥る。五年という歳月が、一瞬で消え去った。 春海は相変わらずだった。スーツの着こなしは完璧で、一分の隙もないように見えた。髪は短く整えられ、清潔感がある。眼鏡の奥の瞳は冷静で、表情からは感情が読み取れない。顔つきが少し大人びたような気もするが、本質的な部分は変わっ
last updateLast Updated : 2025-12-02
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1-3

 自分のデスクに戻ると、颯は深く息をついた。モニターには先ほどの資料がまだ表示されている。開発統括:春海悠斗。その文字を見つめながら、これから始まる日々のことを考える。 毎日顔を合わせることになる。会議で、レビューで、進捗報告で。上司と部下として、適切な距離を保ちながら仕事をしなければならない。過去のことは忘れて、プロフェッショナルとして振る舞わなければならない。 できるだろうか。 颯は目を閉じて、深呼吸をする。できるかできないかではない。やらなければならないのだ。これは仕事だ。個人的な感情を持ち込むべきではない。 ――感情を判断に入れるべきじゃない。 皮肉なことに、春海の言葉が指針になる。そうだ、春海のいうとおりだ。感情は邪魔になる。理性的に、論理的に、プロフェッショナルとして振る舞おう。 午前中の仕事は、まったく手につかなかった。コードを書こうとしても、集中できない。変数名を打ち間違え、セミコロンを忘れ、簡単な論理ミスを繰り返す。ドキュメントを読もうとしても、文字が頭に入ってこない。同じ行を何度も読み返してしまう。 春海の姿が、視界の端にちらつく。彼は自分のデスクで黙々と仕事をしている。時折、誰かが相談に行き、春海は的確にアドバイスを返している。その姿は、まさに理想の上司そのものだった。 十一時頃、春海が席を立った。颯は画面を見つめるふりをしながら、その動きを目で追う。春海はコーヒーサーバーの前で立ち止まり、カップに注ぐ。その仕草さえも無駄がない。 ふと、春海がこちらを見た。目が合う。颯は慌てて視線を逸らしたが、遅かった。春海は確実に、颯が見ていたことに気づいただろう。恥ずかしさで顔が熱くなる。 ようやく昼休みになり、颯は屋上に向かった。エレベーターに乗り、最上階のボタンを押す。人気のない屋上で、春風に吹かれながら深呼吸する。 空は青く澄んでいた。白い雲がゆっくりと流れていく。遠くに見えるビル群は、春の陽射しを受けてきらめいている。都会の喧騒が、ここまでは届かない。 ベンチに座り、持参した昼食を取り出す。コンビニで買ったおにぎりとサンドイッチ。味はよくわからなかった。
last updateLast Updated : 2025-12-03
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1-4

 三時頃、田中が飲み物を持ってきてくれた。「はい、糖分補給」 缶コーヒーを机に置く。颯は礼をいって、プルタブを開ける。甘い香りが鼻をくすぐった。「さっきから見てたけど、すごい集中してたね」「まあ、締切も近いし」「春海さんと知り合いだったなんて、羨ましいな。きっと仕事しやすいでしょ?」 田中の言葉に、颯は苦笑する。仕事しやすい? とんでもない。むしろ逆だ。意識しすぎて、普段の半分も力を出せない。「別に、普通ですよ」「そう? でも、春海さんって近寄りがたい感じしない? すごく優秀そうだけど、なんか怖いというか……」 颯は春海の方を見る。彼はモニターを真剣に見つめ、時折眉間にしわを寄せている。確かに近寄りがたい雰囲気はある。でも、怖くはない。少なくとも、颯にとっては。「慣れれば、そうでもないですよ」 本当は、もっといいたいことがあった。春海は優しい人だと。不器用だけど、思いやりのある人だと。でも、それは颯だけが知っていればいいこと。 定時を過ぎ、オフィスに残業の明かりが灯り始める。今日は早めに帰ろうと思っていたが、なんとなく席を立てなかった。春海もまだ残っている。彼の姿が視界の端に入るだけで、意識がそちらに引っ張られる。 六時半。七時。時間が過ぎていく。窓の外は、すっかり暗くなっていた。夜のオフィス街の明かりが、宝石のように輝いている。 七時を過ぎた頃、春海が席を立った。颯は画面を見つめるふりをしながら、その動きを目で追う。春海は資料を整理し、パソコンの電源を落とす。鞄を持ち、歩き始める。 颯の席の前を通りかかった時、春海の足が止まった。「まだ残るのか」 突然の問いかけに、颯は顔を上げた。春海が見下ろしている。蛍光灯の光が眼鏡に反射して、表情がよく見えない。でも、声にはわずかな温度があった。「あ、はい。もう少しだけ」「無理はするな」 そういって、春海は歩き去ろうとする。でも、数歩進んだところで、また立ち止まった。振り返ること
last updateLast Updated : 2025-12-04
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第二章 理性の距離――近くて遠い上司

 プロジェクトが正式に始動してから、三日が経った。 颯は自分のデスクに向かいながら、意識の端で常に春海の存在を捉えていた。彼の席は、颯から斜め前方に五メートルほど離れた場所にある。声をかけようと思えばかけられる距離なのに、その五メートルがひどく長く感じられた。近いようで、遠い。 春海は今、モニターに向かって何かを打ち込んでいる。時折、眼鏡を押し上げる仕草をする。その横顔は、いつも通り無表情だ。何を考えているのか、何を感じているのか、まるでわからない。 見えているのに、届かない。 まるで透明なガラスの壁が、二人の間にあるようだった。触れようとすれば、冷たい表面に指先が当たるだけ。決して、向こう側には行けない。 その距離感が、五年前と何も変わっていないことに気づいて、颯は小さく息を吐いた。 朝のミーティングは九時半から始まった。会議室に集まったチームメンバーを前に、春海は壇上に立ち、新プロジェクト「ARIA」の開発スケジュールと各チームの役割分担について説明した。「このプロジェクトは、従来の音声認識モデルを超える精度を目指す。各自の専門領域を最大限に活かしてほしい。質問は随時受け付けるが、まずは自分で調べる習慣をつけてくれ」 声は低く、落ち着いている。感情の起伏がほとんど読み取れない。大学時代に聞いた声と同じだ。あの頃から春海は、理性で感情を完璧に制御していた。 颯はメモを取るふりをしながら、その横顔を見つめていた。眼鏡の奥の目は、モニターの数値を追うように冷静だ。誰かが質問をすると、春海は一瞬だけ相手を見て、必要最低限の言葉で答える。無駄がない。まるでアルゴリズムのように。 会議室の窓から差し込む午前の光が、春海の輪郭を淡く縁取っている。その光景が、大学時代の研究室の記憶と重なった。あの頃も、春海はいつもこうだった。理路整然として、隙がなくて、誰にも心の内を見せない。 ペンを握る指先に、無意識に力が入った。 ミーティングが終わると、春海は真っ先に会議室を出ていった。颯と目が合うことは、一度もなかった。  自席に戻り、颯はパソコンを立
last updateLast Updated : 2025-12-05
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2-2

 夕方になり、オフィスの人口が少しずつ減っていく。定時で帰る人、残業に突入する人。颯は後者だった。前処理モジュールの基本設計を、今日中に終わらせたかった。 周囲の席が空いていく中、颯はひたすらコードと向き合った。キーボードを叩く音だけが、静かなオフィスに響く。窓の外では、夕陽が西の空を茜色に染めている。その光が、オフィスの床に長い影を落としていた。 ふと、気配を感じて顔を上げた。 春海が、颯のデスクの前に立っていた。「……春海さん」 声が裏返りそうになるのを、必死で抑えた。「進捗はどうだ」「あ、はい。基本設計は、今日中に終わりそうです」「見せてくれ」 春海は颯の横に立ち、モニターを覗き込んだ。近い。肩が触れそうな距離だ。颯は息を詰めた。 春海の体温が、すぐそこにある。でも、触れてはいない。触れそうで、触れない。その数センチの距離が、永遠のように感じられた。彼のまとった清潔な香りが、かすかに鼻腔をくすぐる。大学時代と同じ香りだ。 春海の視線が、コードを追っている。眼鏡越しの目は、真剣そのものだ。「ここの処理、もう少し効率化できるな」「え?」「この部分。ループの回し方を変えれば、計算量を減らせる」 春海がマウスを取り、該当箇所を指し示した。その指先が、颯の手のすぐ近くを通る。触れそうで、触れない。心臓が、痛いほど鳴っている。「……なるほど。確かに、そうですね」「あと、ここのエラーハンドリング。例外処理が甘い」「すみません」「謝らなくていい。指摘を受けたら改善すればいい」 春海の声は、淡々としていた。怒っているわけでも、呆れているわけでもない。ただ事実を述べているだけだ。 それが、かえって颯の心を締め付けた。 大学時代の春海は、もう少し優しかった。ミスをしても、「次は気をつけろ」といって、頭をぽんと叩いてくれた。今の春海には、そんな温度がない。「修正は、明日の朝までにできるか」「……やりま
last updateLast Updated : 2025-12-06
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2-3

 会議室Bは、オフィスの端にある小さな部屋だった。窓からは、隣のビルの壁が見える。午後の光が、斜めに差し込んでいた。 颯はドアをノックして、中に入った。「失礼します」 春海はすでに席に着いていた。テーブルの上には、ノートパソコンと資料が広げられている。「座ってくれ」 颯は春海の向かいに座った。テーブルを挟んで、正面から向き合う形だ。 近い。大学時代以来、こんなに近くで春海の顔を見たのは初めてかもしれない。午後の光が、彼の輪郭を柔らかく照らしている。「データの件だが」 春海が口を開いた。颯は慌てて資料を開く。「はい。こちらのサンプルデータで、想定外の挙動が確認されました」 颯は画面を見せながら、問題点を説明した。春海は黙って聞いていた。時折、質問を挟む。「その場合のエラーコードは?」「こちらです」「ログは確認したか」「はい。この部分に、異常な値が出ています」 春海は画面を覗き込んだ。眼鏡越しの目が、真剣にデータを追っている。 颯は説明を続けながら、ふと気づいた。 春海の目の下に、薄いくまができている。 疲れているのだ。プロジェクトの立ち上げで、おそらく毎日遅くまで働いているのだろう。それでも、表情には一切出さない。完璧な上司の仮面を、決して崩さない。 大学時代も、そうだった。 研究で追い詰められていても、後輩の前では弱音を吐かなかった。いつも冷静で、理性的で、頼れる先輩であり続けた。 でも、颯は知っていた。 深夜の研究室で、一人きりの春海が、疲れた顔で天井を見上げていたことを。誰にも見せない、素の表情を、颯だけは見たことがあった。 今の春海にも、そんな瞬間があるのだろうか。 誰にも見せない弱さを、今も一人で抱えているのだろうか。「高橋」 名前を呼ばれて、颯は我に返った。「あ、すみません。何か」「聞いていたか」
last updateLast Updated : 2025-12-07
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 月曜日の朝。 出社すると、オフィスはすでに活気づいていた。新しい週が始まり、みんなが仕事モードに切り替えている。 颯も自分のデスクに向かい、パソコンを立ち上げた。メールをチェックする。春海からの連絡はなかった。 斜め前方の席を見る。春海はまだ来ていないようだった。 少しだけ、安心した。 同時に、少しだけ、がっかりした。 自分でも、どうしたいのかわからなかった。会いたいのか、会いたくないのか。近づきたいのか、距離を置きたいのか。 矛盾した感情が、胸の中でせめぎ合っている。 午前九時を過ぎた頃、春海がオフィスに入ってきた。 颯は思わず、視線を向けてしまった。 春海はいつも通りだった。シャツにジャケット、眼鏡、スマートウォッチ。無駄のない身なりで、表情は読み取れない。 目が合いそうになって、颯は慌てて視線を逸らした。 心臓が、うるさいくらいに鳴っていた。 午前中は、自分の仕事に集中しようとした。でも、意識は勝手に春海の方に向かってしまう。 彼が誰かと話しているのが、視界の端に入る。彼がコーヒーを取りに行くのが、見える。彼がデスクで何かを書いているのが、気になる。 こんなことでは、仕事にならない。 颯は自分を叱咤した。集中しろ。今は仕事の時間だ。でも、心はいうことを聞かなかった。 昼休み、中村が声をかけてきた。「高橋、飯行こうぜ」「うん」 食堂に向かう途中、窓から差し込む光が眩しかった。四月も終わりに近づき、日差しが少しずつ強くなってきている。 食堂で昼食を取りながら、颯は上の空だった。「高橋? 聞いてる?」「あ、ごめん。何?」「だから、来週の飲み会のこと」「ああ、うん。行くよ」 適当に返事をしながら、颯は春海のことを考えていた。 今頃、何をしているのだろう。昼食は食べたのだろうか。一人で食べているのだろうか。 そんなことを考
last updateLast Updated : 2025-12-08
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 翌日の夕方。 颯は緊張しながら、会議室Bに向かった。 ドアをノックする。返事があり、中に入る。 春海は、すでに準備を終えていた。ノートパソコンが開かれ、データが画面に表示されている。窓の外では、夕陽が沈みかけていた。オレンジ色の光が、会議室の中に斜めに差し込んでいる。「座ってくれ」 颯は春海の隣に座った。いつもは向かい合って座るのに、今日は隣だ。肩が触れそうな距離。 息を詰めた。「では、始めよう」 春海がいって、調査が始まった。 二時間ほど、二人でデータを分析した。 春海は相変わらず冷静で、的確な指摘をする。颯はそれに応えながら、コードを修正していく。 仕事の話だけをしていれば、緊張も薄れてくる。春海の専門知識の深さに、颯は素直に感嘆した。「この部分、春海さんの仮説が正しかったですね」「ああ。お前の調査も役に立った」 その言葉が、少しだけ嬉しかった。「お前」と呼ばれたことも。大学時代、春海は颯のことを時々「お前」と呼んでいた。 九時を過ぎた頃、一つの結論が見えてきた。「原因は、このフォーマットの仕様変更だな」「そうですね。最新のアップデートで、仕様が変わっていたみたいです」「対応策は」「変換処理を追加すれば、解決できると思います」「よし。それで進めてくれ」 調査は、ひとまず終わりだった。 春海はノートパソコンを閉じ、椅子の背にもたれた。少しだけ、緊張が解けたように見えた。窓の外は、すっかり暗くなっていた。ビルの灯りが、夜景として窓に映り込んでいる。 颯も、肩の力を抜いた。「お疲れさまでした」「ああ」 沈黙が流れた。 帰ればいい。立ち上がって、「お先に失礼します」といえばいい。 でも、体が動かなかった。 もう少しだけ、ここにいたかった。春海の傍に、いたかった。「……高橋」 
last updateLast Updated : 2025-12-09
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