Mag-log in夕方になり、オフィスの人口が少しずつ減っていく。定時で帰る人、残業に突入する人。颯は後者だった。前処理モジュールの基本設計を、今日中に終わらせたかった。
周囲の席が空いていく中、颯はひたすらコードと向き合った。キーボードを叩く音だけが、静かなオフィスに響く。窓の外では、夕陽が西の空を茜色に染めている。その光が、オフィスの床に長い影を落としていた。
ふと、気配を感じて顔を上げた。
春海が、颯のデスクの前に立っていた。
「……春海さん」
声が裏返りそうになるのを、必死で抑えた。
「進捗はどうだ」
「あ、はい。基本設計は、今日中に終わりそうです」
「見せてくれ」
春海は颯の横に立ち、モニターを覗き込んだ。近い。肩が触れそうな距離だ。颯は息を詰めた。
春海の体温が、すぐそこにある。でも、触れてはいない。触れそうで、触れない。その数センチの距離が、永遠のように感じられた。彼のまとった清潔な香りが、かすかに鼻腔をくすぐる。大学時代と同じ香りだ。
春海の視線が、コードを追っている。眼鏡越しの目は、真剣そのものだ。
「ここの処理、もう少し効率化できるな」
「え?」
「この部分。ループの回し方を変えれば、計算量を減らせる」
春海がマウスを取り、該当箇所を指し示した。その指先が、颯の手のすぐ近くを通る。触れそうで、触れない。心臓が、痛いほど鳴っている。
「……なるほど。確かに、そうですね」
「あと、ここのエラーハンドリング。例外処理が甘い」
「すみません」
「謝らなくていい。指摘を受けたら改善すればいい」
春海の声は、淡々としていた。怒っているわけでも、呆れているわけでもない。ただ事実を述べているだけだ。
それが、かえって颯の心を締め付けた。
大学時代の春海は、もう少し優しかった。ミスをしても、「次は気をつけろ」といって、頭をぽんと叩いてくれた。今の春海には、そんな温度がない。
「修正は、明日の朝までにできるか」
「……やります。今日中に終わらせます」
「無理はするな」
その言葉だけが、わずかに温かく聞こえた。颯は顔を上げて、春海を見た。
目が合った。
一瞬だけ、春海の表情が揺らいだように見えた。蛍光灯の光が眼鏡に反射して、その目の奥を読み取ることはできなかった。でも、確かに何かが動いた気がした。
気のせいだろうか。
そう思う間もなく、春海の表情は元の無表情に戻った。
「俺は先に帰る。戸締りを頼む」
「はい」
春海は踵を返し、オフィスを出ていった。その背中を見送りながら、颯は深く息を吐いた。
触れそうで、触れられない。
見えるのに、届かない。
透明な壁が、いつも二人の間にある気がした。
春海の残り香が、かすかに空気に漂っている気がした。清潔な、けれどどこか冷たい香り。大学時代と同じだ。五年経っても、変わらない。
その事実が、切なかった。
窓の外を見ると、夕陽はすでに沈みかけていた。茜色だった空が、紫色に変わり始めている。一日が終わろうとしている。何も変わらないまま、また一日が終わろうとしていた。
修正作業を終えたのは、夜の九時を過ぎた頃だった。
颯はコードを保存し、パソコンをシャットダウンした。オフィスには、もう誰もいない。蛍光灯の光だけが、無機質に空間を照らしている。
帰り支度をしながら、颯は今日一日を振り返った。
春海と話したのは、ミーティングの時と、さっきの指導の時だけ。合計しても、十分にも満たない。それなのに、心はずっと彼のことを考えていた。
好きだ、と思う。
五年経っても、その感情は消えていなかった。むしろ、再会したことで、より鮮明になった気がする。
でも、その感情を伝えることは、たぶんできない。
春海は上司だ。仕事上の関係を壊すわけにはいかない。それに、彼が自分をどう思っているのかもわからない。
大学時代、最後に距離を置かれたことを、颯はまだ忘れていなかった。
卒業間際のあの頃、春海は急に颯を避けるようになった。それまでは二人で残って作業することも多かったのに、颯が残ろうとすると「今日は一人でやる」といって追い返された。話しかけても、必要最低限の返事しか返ってこなくなった。
何かしたのだろうか、と颯は何度も自問した。
思い当たることがあるとすれば、あの夜だ。深夜の研究室で、二人きりで作業をしていた時。春海が珍しく弱音を吐いた。「疲れた」と、ぽつりと呟いた。颯は何もいえなかった。ただ、彼の横顔を見つめていた。見つめすぎた。自分の視線にどれだけの感情が込められていたのか、颯自身にもわからない。
でも、春海は気づいたのかもしれない。颯の視線の意味に。
だから、距離を置いたのかもしれない。
考えすぎだろうか。でも、他に理由が思いつかなかった。
嫌われたのだと思った。自分の存在が、重荷だったのだと。
だから、もう近づくべきではない。
理性ではそうわかっている。けれど、心がついてこない。
エレベーターを待ちながら、颯は窓の外を見た。夜景がきれいだった。ビルの灯りが、星のように瞬いている。都会の夜空には本物の星は見えないけれど、人工の光が代わりに夜を彩っている。
こんな景色を、春海と一緒に見られたらいいのに。
そんなことを思って、すぐに打ち消した。馬鹿げている。叶うはずのない願いだ。
エレベーターが来て、颯は中に乗り込んだ。ボタンを押す。扉が閉まる。
自分の顔が、金属の壁に映っていた。
疲れた顔をしている、と思った。目の下に薄い影ができている。それは、きっと残業のせいだけではない。
翌日も、その翌日も、同じような日々が続いた。
春海は変わらず冷静で、仕事においては完璧だった。チームへの指示は的確で、問題が起きれば即座に対処した。部下からの質問には、必要十分な答えを返す。それ以上でも、それ以下でもない。
颯は自分の仕事に集中しようとした。前処理モジュールの開発は順調に進んでいた。春海からの指摘を反映させ、コードの品質は着実に上がっていった。
でも、心は落ち着かなかった。
春海がオフィスにいるだけで、意識がそちらに引っ張られる。彼が誰かと話しているのを見ると、胸がざわつく。目が合いそうになると、慌てて視線を逸らしてしまう。
自分でも、情けないと思った。
二十七歳にもなって、まるで高校生のようだ。好きな人の一挙手一投足にいちいち反応してしまう。
中村が心配そうに声をかけてきた。
「高橋、最近なんか元気ないな。大丈夫?」
「うん、大丈夫。ちょっと疲れてるだけ」
「無理すんなよ。この業界、体壊す奴多いんだから」
「ありがとう」
颯は笑ってみせた。いつもの、人当たりのいい笑顔。この笑顔で、これまでずっとやってきた。誰にも本音を見せず、明るく振る舞い、周囲の潤滑油になる。それが、颯の処世術だった。
でも、春海の前では、その仮面が剥がれそうになる。
彼の前だけは、素の自分でいたいと思ってしまう。弱さも、迷いも、すべて見せてしまいたいと。
それは、きっと許されないことだ。
プロジェクト開始から一週間が経った金曜日。
午後三時、春海がチーム全体に声をかけた。
「今週の進捗確認をする。各自、簡単に報告してくれ」
順番に、メンバーが報告していく。颯の番が来た。
「前処理モジュールは、予定通り進んでいます。来週中にはテスト版が完成する見込みです」
「問題点は」
「特にありません。ただ、一部のデータ形式で想定外の挙動があるので、そこは追加調査が必要です」
「わかった。詳細は後で報告してくれ」
「はい」
それだけだった。春海の視線は、すぐに次のメンバーに移った。
特別扱いはしない。当然だ。でも、その「当然」が、少しだけ寂しかった。
大学時代は、颯の報告を聞くと、春海は必ず何か一言付け加えてくれた。「よくやってる」とか、「その調子で」とか。些細な言葉だったけど、颯にとっては大きな励みだった。
今は、それがない。
仕事として割り切っているのだろう。上司と部下として、適切な距離を保っているのだろう。それが正しいことは、颯にもわかっている。
わかっているのに、寂しい。
報告会が終わり、各自が席に戻る。颯も自分のデスクに向かおうとした時、春海が声をかけてきた。
「高橋、少し残ってくれ」
「……はい」
他の二人が出ていき、会議室には颯と春海だけが残った。
窓から差し込む午後の光が、テーブルの上に四角い影を作っている。この空間だけが、切り取られたように静かで、声は届かない場所のようだった。
「さっきいっていたデータ形式の件、今から確認できるか」
「あ、はい。大丈夫です」
「会議室Bを取った。十分後に来てくれ」
春海はそういって、先に会議室に向かった。颯は心臓が跳ねるのを感じながら、資料をまとめ始めた。
二人きりだ。
会議室で、春海と二人きり。
それだけのことで、こんなに動揺してしまう自分が、情けなくもあり、同時に愛おしくもあった。
二度目の食事は、一度目よりも穏やかだった。 颯が選んだ店は、駅から少し離れた場所にある小さなイタリアンだった。隠れ家のような雰囲気で、照明は暖かく、壁には古いワインのラベルが飾られている。春海は店に入った瞬間、「いい店だな」と呟いた。その一言を聞いただけで、颯は報われた気がした。 ワインを飲みながら、二人はさまざまなことを話した。仕事のこと、AIの未来のこと、学生時代の思い出。春海は相変わらず多くを語らなかったが、時折見せる笑顔が、颯の心を温めた。 帰り道、駅まで並んで歩いた。「また、行こう」 春海がそう言ってくれた。 颯は頷いた。声が出なかった。嬉しすぎて、言葉にならなかった。 そうして、三度目の食事があり、四度目があった。 週末ごとに会うようになっていた。仕事の話から始まり、少しずつプライベートな話も増えていった。春海の好きな本、好きな音楽、休日の過ごし方。そんな些細なことを、一つずつ知っていった。 パズルのピースを集めるように、春海という人間の輪郭が、少しずつ見えてきた。 壁は確実に低くなっていた。 でも、まだ越えられない。 春海は心を開きかけては、すっと引いてしまう。近づいたと思った瞬間に、距離を取られる。まるで、自分の中の何かを守るように。 それでも、颯は焦らなかった。 ゆっくりでいい。少しずつでいい。この人のペースに合わせて、待っていよう。 そう思っていた。 あの夜までは。 * 金曜日の夕方、颯はオフィスで残業をしていた。 週末に向けてのタスクを片づけておきたかった。明日は春海と会う約束がある。今度は颯が見つけた和食の店に行く予定だ。口コミで評判の店で、予約を取るのに苦労した。 春海は喜んでくれるだろうか。 そんなことを考えながら、コードを書いていた。指がキーボードの上を滑る。タイピングの音が、静かなオフィスに響いている。 ふと、視線を感じた。
その後は、仕事の話をした。ARIAプロジェクトの進捗や技術的な課題、今後の展望についてだ。春海の話は面白かった。AIについての深い知識と、鋭い洞察力。聞いているだけで、勉強になった。 颯も自分の考えを話した。最初は緊張していたが、春海が熱心に聞いてくれるので、だんだん饒舌になった。自分のアイデアを話すのは楽しかった。特に、春海が頷いてくれると、うれしかった。 気づけば、時間が経っていた。窓の外はすっかり暗くなり、店内の照明が主役になっていた。「もう十時か」 春海が時計を見ていった。「すみません、長くなってしまって」「いや、楽しかった」 春海がそういった。 楽しかった。 その言葉が、颯の胸に染み込んだ。春海が楽しいといってくれた。この時間を、楽しんでくれた。「俺も、楽しかったです」 颯は笑顔で答えた。今度は、心からの笑顔だった。 会計を済ませ、店を出た。春海が払うといったが、颯は自分の分は自分で払わせてもらった。奢られるのは、なんだか申し訳なかった。 外に出ると、夜風が涼しかった。昼間の曇り空は晴れて、星が見えていた。都会の夜空でも、いくつかの星は見えた。「送ろうか」 春海が静かにいった。「え?」「駅まで」「あ、大丈夫です。近いですし」「いや、送る」 春海の声は、有無を言わせない響きだった。颯は頷くしかなかった。 二人で駅に向かって歩いた。夜の街は静かだった。土曜の夜なのに、この辺りは人通りが少ない。街灯の光が、道を照らしている。 並んで歩きながら、颯は春海の存在を感じていた。すぐ隣にいる。肩が触れそうな距離。彼の体温が、空気を通して伝わってくるような気がした。「今日は、ありがとうございました」 颯は口を開いた。「誘ってくれて、うれしかったです」「誘ったのはお前だろう」「あ、そうでした」 颯は苦笑した。そうだ、誘ったのは
土曜日が来るまでの数日間、颯は落ち着かなかった。 仕事中も、食事中も、眠る前も、頭の中は土曜日のことでいっぱいだった。何を着ていこう。何を話そう。どんな店だろう。春海は何を好むのだろう。 考えれば考えるほど、緊張が高まった。まるで初めてのデートに行く高校生のようだと、自分でも思った。 いや、デートではない。 仕事の話をするだけだ。先輩と後輩の、業務上の食事会。それ以上でも、それ以下でもない。 そう自分に言い聞かせても、心臓は落ち着かなかった。 金曜日の夜、颯はクローゼットの前で悩んでいた。 普段着で行くべきか、少しきちんとした格好をすべきか。カジュアルすぎると失礼かもしれない。でも、フォーマルすぎると気合が入りすぎているように見えるかもしれない。 結局、シンプルな白いシャツと、紺色のジャケットを選んだ。清潔感があって、でも堅すぎない。それが無難だと思った。 鏡の前で何度も確認した。髪型も整えた。いつもより丁寧に。 馬鹿みたいだと思った。 相手は男で、しかも上司だ。こんなに気合を入れる必要はない。 でも、止められなかった。春海に会う。それだけで、特別な準備をしたくなる。少しでも良く見られたい。そんな気持ちを、否定することができなかった。 土曜日の夕方、颯は待ち合わせ場所に向かった。 駅前の時計台の下。春海からのメッセージには、そう書いてあった。店の場所は駅から歩いて五分ほどのところにあるらしい。 約束の時間は七時だった。颯は十五分前に着いた。早すぎたかもしれない。でも、遅刻するよりはいい。 時計台の下で待ちながら、颯は周りを見回した。土曜の夕方、駅前は人で賑わっていた。買い物帰りの家族連れ、待ち合わせをしているカップル、一人で歩く会社員。様々な人が行き交っている。 空はまだ明るかった。西の空がオレンジ色に染まり始めている。雲が茜色に輝いていた。 きれいな夕焼けだ、と颯は思った。 こんな空の下で、春海を待っている。それだけで、胸がいっぱ
昼休み、颯は一人でコンビニに行った。 いつもは同僚と一緒に昼食を取るのだが、今日は一人になりたかった。頭の中を整理したかったのだ。午前中の出来事が、まだ胸の中で反響している。 コンビニでサンドイッチとお茶を買い、近くの公園のベンチに座った。平日の昼間、公園には人が少なかった。遠くで子供が遊んでいる声が聞こえる。風が木の葉を揺らしている。 サンドイッチをかじりながら、颯は空を見上げた。 雲はまだ空を覆っていたが、ところどころに切れ間ができていた。その切れ間から、青空が覗いている。光の筋が雲の隙間から差し込んで、地面にまだらな影を作っていた。 春海が褒めてくれた。 たったそれだけのことが、こんなにもうれしい。 颯は自分の単純さに苦笑した。二十七歳にもなって、好きな人に褒められただけでこんなに浮かれている。まるで高校生みたいだ。 でも、仕方がない。 五年間、ずっと想い続けるだけだった。会うことも、話すことも、叶わなかった。あの卒業式の夜から、春海は颯の世界からいなくなった。存在していたのは、記憶の中の春海だけだった。届かない場所で、ただ面影を抱きしめて生きてきた。 それが、今は目の前にいる。 同じ空間で働いている。言葉を交わしている。時には、笑顔を見せてくれる。 それだけで、十分だと思っていた。 でも、今日の春海を見て、颯は欲が出てしまった。 もっと話したい。もっと近づきたい。あの人のことを、もっと知りたい。 嫌われていたわけじゃない。その確信が、颯に勇気を与えていた。 春海は何かを恐れている。だから壁を作る。でも、壁の向こうにはぬくもりがある。あの夜、颯に見せてくれた素顔。「楽だ」といってくれた言葉。それは、春海の本当の姿なのだと思う。 その姿に、もう一度触れたい。 今度こそ、手を伸ばしたい。 颯はサンドイッチを食べ終え、お茶を飲み干した。立ち上がり、空を見上げる。雲の切れ間が、少しずつ広がっているような気がした。 午後
あの気づきから、一週間が経った。 嫌われていたわけじゃない。 その確信は、颯の中で静かに根を下ろしていた。五年間ずっと胸の奥に刺さっていた棘は、完全に抜けたわけではない。でも、その棘の正体が少しだけわかった気がした。それだけで、世界の見え方が変わっていた。 オフィスの窓から見える空は、薄い灰色の雲に覆われていた。晴れでも雨でもない、曖昧な空。光は雲を通して柔らかく拡散し、影のない穏やかな明るさを作り出している。 こんな空が、今の自分の心に似ている気がした。 晴れ渡ってはいない。でも、暗くもない。どこかに光があることを知っている。雲の向こうに太陽があることを、信じられるようになった。 春海との関係も、少しずつ変化していた。 あの夜のような激しい衝突はなくなった。春海は相変わらず必要最低限の会話しかしないが、以前のような冷たさは薄れていた。時折、颯の作業を覗き込んで、短いアドバイスをくれることもあった。目が合ったときに、すぐに逸らされることもなくなった。 それは小さな変化だった。他の人には気づかないような、ほんの些細な変化。でも、颯にとっては大きな意味があった。 壁が、少しだけ低くなっている。 そう感じられた。 その日、開発チームの週次ミーティングがあった。 会議室には十人ほどのメンバーが集まっていた。長方形のテーブルを囲んで座り、それぞれがノートパソコンを開いている。窓際の席には春海が座っていた。いつものように背筋を伸ばし、手元の資料に目を落としている。 颯は春海から三つ離れた席に座った。近すぎず、遠すぎない距離。彼の横顔が視界の端に入る位置。 ミーティングが始まった。 議題は、ARIAプロジェクトの進捗報告だった。各チームが順番に現状を報告し、課題を共有していく。颯のチームの番が来たとき、リーダーの田村が口を開いた。「今週は、自然言語処理モジュールの改善を進めました。高橋くんが提案したアプローチが効果的で、応答精度が十二パーセント向上しています」 颯は少し驚いた。
あの夜から、春海の態度が変わった。 以前は二人で研究室に残ることもあったのに、颯が残ろうとすると「今日は早く帰れ」と追い返されるようになった。他の学生には何もいわないのに、颯にだけ、そういった。 会話も必要最低限になった。研究の指導はしてくれるが、それ以外の話はしなくなった。雑談も、コーヒーを淹れてくれることも、なくなった。 颯が話しかけても、短い言葉で返されるだけだった。目も合わせてくれなくなった。 颯は自分が拒絶されたのだと思った。 あの夜、手を重ねたこと。傍にいたいといったこと。それが春海を不快にさせたのだと。 男同士でそんなことをいったのだから、気持ち悪いと思われても仕方がない。後輩が先輩に、そんなことをいうべきではなかった。立場をわきまえるべきだった。 颯は自分を責めた。何度も、何度も。なぜあんなことをしたのだろう。なぜあんなことをいったのだろう。せっかく近づけたと思ったのに、自分から壊してしまった。 胸が痛かった。息をするたびに、胸の奥がずきずきと痛んだ。食事も喉を通らず、夜も眠れなかった。目を閉じると、春海の横顔が浮かんでくる。冷たく突き放された瞬間が、何度も蘇ってくる。 それでも、研究室には通い続けた。 春海の姿を見るだけで、胸が苦しくなった。でも、見ないでいることはもっと辛かった。彼がいない場所で生きていくことが、想像できなかった。 研究室の隅から、春海の背中を見つめていた。話しかけることもできず、近づくこともできず。ただ見ているだけ。それだけが颯にできることだった。 やがて冬が来て、春が近づいた。 春海の卒業が迫っていた。 修士論文の発表が終わり、卒業式まであと少し。春海は就職先も決まっていて、四月からは東京のIT企業で働くことになっていた。 颯は何もいえないまま、時間だけが過ぎていった。 好きですといいたかった。でも、いえなかった。また拒絶されるのが怖かった。今度こそ完全に嫌われてしまうのが怖かった。 だから、何もいわなかった。何もしなかった。 卒業式の