Masuk大会議室のドアを開けると、すでに十名ほどが集まっていた。開発部のメンバーだけでなく、営業やマーケティングの顔も見える。みんな少し緊張した面持ちで、配布資料に目を通している。
颯は空いている席に座った。隣の席には、先輩エンジニアの山田が座っている。彼は颯の入社時からの指導役で、技術的な相談によく乗ってくれる人だ。
「大きなプロジェクトだな」
山田が小声で話しかけてくる。
「ええ、資料を見る限り、かなり野心的な内容ですね」
「新しいリーダーがどんな人か、楽しみだよ。噂では相当な切れ者らしいが」
颯は頷きながら、配布された資料を開く。一ページ目にはプロジェクトの概要が書かれている。次世代AIシステムの開発で、顧客の行動を予測し、最適なサービスを提供する革新的なプラットフォームだ。
ページをめくっていく。技術仕様、システム構成図、開発スケジュール。そして、体制図のページ。
颯の視線が、一点で止まった。
開発統括:春海悠斗
文字が霞んで見える。目を擦り、もう一度見る。間違いない。春海悠斗。その名前が、確かにそこにあった。
心臓が大きく跳ねた。血液が耳の奥で脈打つ音が聞こえる。周りの話し声が、急に遠くなったような気がした。
春海悠斗。まさか。同姓同名かもしれない。そんなはずはない。あの春海がここに? なぜ? いつから?
思考が渦を巻く。記憶が押し寄せる。研究室の蛍光灯、キーボードの音、コーヒーの香り、そして――。
「おはようございます」
低く落ち着いた声が、会議室の空気を震わせた。
颯の呼吸が止まる。この声は――間違いない。ゆっくりと顔を上げる。会議室の入り口に立っていたのは、紛れもなく春海悠斗その人だった。
時間が止まったような感覚に陥る。五年という歳月が、一瞬で消え去った。
春海は相変わらずだった。スーツの着こなしは完璧で、一分の隙もないように見えた。髪は短く整えられ、清潔感がある。眼鏡の奥の瞳は冷静で、表情からは感情が読み取れない。顔つきが少し大人びたような気もするが、本質的な部分は変わっていないように見えた。
春海は会議室の前方に向かって歩く。その足取りは自信に満ちていて、迷いがない。颯は息をすることも忘れて、その姿を見つめていた。
春海が参加者を見渡す。その視線が颯の上を通過する時、一瞬だけ動きが止まったような気がした。春海の瞳が、わずかに見開かれる。唇が、かすかに動く。だがそれも一瞬のことで、次の瞬間には、春海はすでに別の方向を向いていた。
錯覚だったのかもしれない。颯の願望が見せた幻かもしれない。春海の表情は相変わらず無表情で、何も変わっていないように見えた。
「春海です。本日より、このプロジェクトの開発統括を務めさせていただきます」
声が会議室に響く。五年前と同じ声。少し低くなったかもしれないが、話し方は変わらない。淡々として、理路整然として、無駄がない。
「簡単に自己紹介をさせていただきます。前職では、AIシステムの研究開発に従事しておりました。専門は機械学習とデータ解析です」
春海はホワイトボードの前に立ち、マーカーを手に取る。流れるような動きで、システム構成図を描き始める。その手つきは慣れていて、迷いがない。
「このプロジェクトの目的は、単なるAIシステムの構築ではありません。人間の行動パターンを理解し、予測し、最適化する。そのためには、技術だけでなく、人間への深い洞察が必要です」
颯は必死で平静を装いながら、メモを取る。ペンを持つ手が、かすかに震えている。それを悟られないよう、机の下に手を隠した。
春海の説明は続く。技術的な要件、クライアントの期待値、開発スケジュール。その全てが論理的で、明確で、説得力がある。参加者たちは真剣な表情で聞き入っている。
「質問はありますか」
誰かが手を挙げる。データベースの仕様について。春海は的確に答える。別の人が質問する。APIの設計について。これにも春海は即座に回答する。
颯は何も言えなかった。声を出せば、震えてしまいそうだった。ただ黙って、春海の姿を見つめることしかできない。
五年という時間は、春海を変えたのだろうか。より洗練され、より完璧になったように見える。でも、本質的な部分は変わっていない。理性的で、感情を表に出さない。まるで精密な機械のような人。
でも颯は知っている。春海にも感情があることを。深夜の研究室で、ふと見せた疲れた表情。難しい問題を解決した時の、かすかな笑み。そして――。
「他に質問がなければ、これで全体説明を終わります。各チームごとに、詳細な打ち合わせを行ってください」
春海の言葉で、会議室がざわめき始める。人々が席を立ち、それぞれのグループに分かれていく。颯も立ち上がろうとした、その時――。
「高橋さん」
名前を呼ばれて振り返る。春海が立っていた。相変わらず感情の読めない顔で、颯を見下ろしている。周りにはまだ数人のメンバーが残っていて、こちらを興味深そうに見ていた。
「久しぶりだな」
その一言に、颯の心臓が大きく跳ね上がった。やはり覚えていた。当たり前だ。研究室で一年間一緒に過ごしたのだから。忘れるはずがない。でも、こんなにあっさりと認めるとは思わなかった。
「……はい。お久しぶりです、春海さん」
颯はようやくそれだけを絞り出す。声が震えていないだろうか。表情は自然だろうか。手は震えていないだろうか。右の手首を左手でぎゅっと掴んで必死で平静を装う。
春海は小さく頷いた。その仕草さえも、計算されているように見えた。
「君がこの会社にいるとは思わなかった」
「春海さんこそ……いつからこちらに?」
「先月からだ。ヘッドハンティングされてね」
春海の口調は事務的だった。まるで天気の話でもしているような、感情のない声。それが颯の胸を締め付ける。五年前と同じだ。春海は変わらない。颯との間に、見えない壁を作っている。
「大学は無事に卒業したのか」
春海の質問に、颯は少し驚いた。てっきりもう興味もないと思っていた。
「はい。春海さんが院を修了された翌年に」
「そうか」
短い返事。それ以上は何も聞いてこない。沈黙が二人の間に流れる。周りの視線が痛い。田中が興味深そうにこちらを見ている。山田も不思議そうな顔をしている。
「よろしく頼む」
春海はそういって、踵を返した。広い背中が会議室を出ていく。颯はその場に立ち尽くしたまま、消えていく姿を見送った。
「知り合いだったの?」
田中が近づいてくる。その顔は好奇心で輝いている。
「あ、ええ。大学の先輩で」
「へー! すごい偶然だね。どんな人だった? 怖い人? 優しい人?」
「どんなって……」
颯は言葉を探した。春海悠斗をどう説明すればいいのか。理性的で、完璧主義で、感情を表に出さない人か? それとも、深夜の研究室で時折見せた孤独な横顔の持ち主か? 誰よりも厳しく、誰よりも優しかった人か?
「とても優秀な人でした」
結局、それしか言えなかった。田中は物足りなさそうな顔をしたが、それ以上は聞いてこなかった。
自分のデスクに戻ると、颯は深く息をついた。モニターには先ほどの資料がまだ表示されている。開発統括:春海悠斗。その文字を見つめながら、これから始まる日々のことを考える。 毎日顔を合わせることになる。会議で、レビューで、進捗報告で。上司と部下として、適切な距離を保ちながら仕事をしなければならない。過去のことは忘れて、プロフェッショナルとして振る舞わなければならない。 できるだろうか。 颯は目を閉じて、深呼吸をする。できるかできないかではない。やらなければならないのだ。これは仕事だ。個人的な感情を持ち込むべきではない。 ――感情を判断に入れるべきじゃない。 皮肉なことに、春海の言葉が指針になる。そうだ、春海のいうとおりだ。感情は邪魔になる。理性的に、論理的に、プロフェッショナルとして振る舞おう。 午前中の仕事は、まったく手につかなかった。コードを書こうとしても、集中できない。変数名を打ち間違え、セミコロンを忘れ、簡単な論理ミスを繰り返す。ドキュメントを読もうとしても、文字が頭に入ってこない。同じ行を何度も読み返してしまう。 春海の姿が、視界の端にちらつく。彼は自分のデスクで黙々と仕事をしている。時折、誰かが相談に行き、春海は的確にアドバイスを返している。その姿は、まさに理想の上司そのものだった。 十一時頃、春海が席を立った。颯は画面を見つめるふりをしながら、その動きを目で追う。春海はコーヒーサーバーの前で立ち止まり、カップに注ぐ。その仕草さえも無駄がない。 ふと、春海がこちらを見た。目が合う。颯は慌てて視線を逸らしたが、遅かった。春海は確実に、颯が見ていたことに気づいただろう。恥ずかしさで顔が熱くなる。 ようやく昼休みになり、颯は屋上に向かった。エレベーターに乗り、最上階のボタンを押す。人気のない屋上で、春風に吹かれながら深呼吸する。 空は青く澄んでいた。白い雲がゆっくりと流れていく。遠くに見えるビル群は、春の陽射しを受けてきらめいている。都会の喧騒が、ここまでは届かない。 ベンチに座り、持参した昼食を取り出す。コンビニで買ったおにぎりとサンドイッチ。味はよくわからなかった。
大会議室のドアを開けると、すでに十名ほどが集まっていた。開発部のメンバーだけでなく、営業やマーケティングの顔も見える。みんな少し緊張した面持ちで、配布資料に目を通している。 颯は空いている席に座った。隣の席には、先輩エンジニアの山田が座っている。彼は颯の入社時からの指導役で、技術的な相談によく乗ってくれる人だ。「大きなプロジェクトだな」 山田が小声で話しかけてくる。「ええ、資料を見る限り、かなり野心的な内容ですね」「新しいリーダーがどんな人か、楽しみだよ。噂では相当な切れ者らしいが」 颯は頷きながら、配布された資料を開く。一ページ目にはプロジェクトの概要が書かれている。次世代AIシステムの開発で、顧客の行動を予測し、最適なサービスを提供する革新的なプラットフォームだ。 ページをめくっていく。技術仕様、システム構成図、開発スケジュール。そして、体制図のページ。 颯の視線が、一点で止まった。 開発統括:春海悠斗 文字が霞んで見える。目を擦り、もう一度見る。間違いない。春海悠斗。その名前が、確かにそこにあった。 心臓が大きく跳ねた。血液が耳の奥で脈打つ音が聞こえる。周りの話し声が、急に遠くなったような気がした。 春海悠斗。まさか。同姓同名かもしれない。そんなはずはない。あの春海がここに? なぜ? いつから? 思考が渦を巻く。記憶が押し寄せる。研究室の蛍光灯、キーボードの音、コーヒーの香り、そして――。「おはようございます」 低く落ち着いた声が、会議室の空気を震わせた。 颯の呼吸が止まる。この声は――間違いない。ゆっくりと顔を上げる。会議室の入り口に立っていたのは、紛れもなく春海悠斗その人だった。 時間が止まったような感覚に陥る。五年という歳月が、一瞬で消え去った。 春海は相変わらずだった。スーツの着こなしは完璧で、一分の隙もないように見えた。髪は短く整えられ、清潔感がある。眼鏡の奥の瞳は冷静で、表情からは感情が読み取れない。顔つきが少し大人びたような気もするが、本質的な部分は変わっ
朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。 高橋颯は目覚まし時計が鳴る前に目を覚ます。六時半。いつもと同じ時間だ。体が勝手に覚えている日常のリズムだった。ベッドから起き上がり、窓を開ける。四月の朝の空気は、まだ少し肌寒い。遠くで鳥の声が聞こえた。 洗面所の鏡に映る自分の顔を見つめる。二十七歳。大学を出て五年。顔つきは多少大人びたかもしれないが、本質的な部分は変わっていない気がする。髪を整え、髭を剃る。これも毎朝の儀式のようなものだ。 キッチンでコーヒーを淹れる。豆を挽く音が静かな部屋に響く。この音を聞くと、なぜか研究室のコーヒーメーカーを思い出してしまう。深夜、疲れた体にカフェインを流し込みながら、コードと格闘した日々。そして、隣で同じように作業をしていた人のことを――。 首を振って、雑念を追い払う。今日は新プロジェクトのキックオフ。集中しなければ。 朝食は簡単に済ませた。トーストとスクランブルエッグ。テレビのニュースは経済の話題ばかりで、あまり興味が湧かない。時計を確認し、スーツに着替える。ネクタイを結びながら、今日の予定を頭の中で整理した。九時から全体会議。新しいプロジェクトの詳細が発表される。 マンションを出ると、通勤の人波がすでに動き始めていた。駅までの道のりは、もう体が覚えている。信号の変わるタイミング、人の流れの癖、全てが予測できる範囲内だった。 電車のホームでは、いつもの場所に立つ。三両目の二番ドア。ここが一番乗り換えに便利だと、入社してすぐに覚えた。三両目の二番ドア。ここが一番乗り換えに便利だと、入社してすぐに覚えた。同じ時間、同じ車両には、見覚えのある顔がいくつもあった。名前は知らないが、同じ時を共有する仲間のような存在。 吊り革につかまり、スマートフォンでプロジェクトの進捗を確認する。昨日までのタスクは全て完了。今日から新しいフェーズが始まる。画面に表示されるコードの断片を見ていると、ふと指が止まった。 return false; この一行が、妙に目に留まる。偽を返す。否定を返す。五年前、自分も同じことをしたのではないか。想いを伝えることを否定し、何も言わずに終わらせた。
蛍光灯が静かに明滅していた。 深夜二時を過ぎた情報学研究室に残っているのは、颯と春海の二人だけだった。キーボードを叩く規則正しい音が、沈黙を縫うように響いている。 颯は手元のコードを見つめながら、隣に座る春海の横顔を盗み見た。眼鏡の奥の瞳は、モニターに映る数列を追っている。その表情には、いつもの冷静さがあった。まるで感情という熱を帯びていない、完璧な機械のように。 ――この人は、どんなときも揺れない。 修士二年の春海は、研究室で最も優秀な院生だった。誰もが認める理性的な判断力と、完璧な論理構成。学部三年の颯にとって、春海は憧れそのものだった。 いや、憧れという言葉では足りない。 颯は、自分でも気づかないうちに、春海の一挙手一投足を目で追うようになっていた。彼が淹れるコーヒーの香り、資料をめくる指先、考え込むときの眉間の皺――そのすべてが、颯の胸を締め付けた。光の中にいる春海と、その影に立つ自分。その距離が、痛いほど愛おしかった。*「高橋」 不意に名前を呼ばれて、颯は息を呑んだ。心臓が跳ねる。「これ、見てくれるか」 春海がモニターを指差す。颯は慌てて椅子を寄せた。肩が触れそうな距離で、春海の体温を感じる。シャツからは微かに洗剤の匂いが香った。胸が高鳴った。「ここのアルゴリズム、少し修正が必要だな」 春海の指が、颯のキーボードに伸びる。その手が、一瞬、颯の手に触れた。 電流が走ったような感覚。颯は息を止めた。触れた場所が、熱を持って震えている。 だが春海は、何事もなかったかのように手を引いた。その動作があまりにも自然で、颯の心だけが取り残された。「……感情を持ち込むと、判断が鈍る」 ひとり言のような呟きが、颯の耳に届いた。春海は再び自分のモニターに向き直る。横顔に浮かぶ影が、どこか寂しげに見えた。* その言葉が、胸に刺さった。 春海にとって、感情は邪魔なものでしかないのだろうか。この距離も、この時