LOGIN三時頃、田中が飲み物を持ってきてくれた。
「はい、糖分補給」
缶コーヒーを机に置く。颯は礼をいって、プルタブを開ける。甘い香りが鼻をくすぐった。
「さっきから見てたけど、すごい集中してたね」
「まあ、締切も近いし」
「春海さんと知り合いだったなんて、羨ましいな。きっと仕事しやすいでしょ?」
田中の言葉に、颯は苦笑する。仕事しやすい? とんでもない。むしろ逆だ。意識しすぎて、普段の半分も力を出せない。
「別に、普通ですよ」
「そう? でも、春海さんって近寄りがたい感じしない? すごく優秀そうだけど、なんか怖いというか……」
颯は春海の方を見る。彼はモニターを真剣に見つめ、時折眉間にしわを寄せている。確かに近寄りがたい雰囲気はある。でも、怖くはない。少なくとも、颯にとっては。
「慣れれば、そうでもないですよ」
本当は、もっといいたいことがあった。春海は優しい人だと。不器用だけど、思いやりのある人だと。でも、それは颯だけが知っていればいいこと。
定時を過ぎ、オフィスに残業の明かりが灯り始める。今日は早めに帰ろうと思っていたが、なんとなく席を立てなかった。春海もまだ残っている。彼の姿が視界の端に入るだけで、意識がそちらに引っ張られる。
六時半。七時。時間が過ぎていく。窓の外は、すっかり暗くなっていた。夜のオフィス街の明かりが、宝石のように輝いている。
七時を過ぎた頃、春海が席を立った。颯は画面を見つめるふりをしながら、その動きを目で追う。春海は資料を整理し、パソコンの電源を落とす。鞄を持ち、歩き始める。
颯の席の前を通りかかった時、春海の足が止まった。
「まだ残るのか」
突然の問いかけに、颯は顔を上げた。春海が見下ろしている。蛍光灯の光が眼鏡に反射して、表情がよく見えない。でも、声にはわずかな温度があった。
「あ、はい。もう少しだけ」
「無理はするな」
そういって、春海は歩き去ろうとする。でも、数歩進んだところで、また立ち止まった。振り返ることはなく、背中を向けたままいう。
「木曜日、よろしく」
それだけいって、今度こそ春海は去っていった。
颯は、しばらくその場で呆然としていた。『無理はするな』『木曜日、よろしく』。簡単な言葉。でも、そこには確かに、昔の春海の面影があった。不器用だけど、優しい春海の。
八時過ぎにようやく帰路についた。電車は帰宅ラッシュのピークを過ぎ、少し空いていた。座席に座り、窓の外を流れる夜景を見つめる。街の明かりが、線になって流れていく。
明日も春海と顔を合わせる。明後日も、その次の日も。このプロジェクトが続く限り、毎日。
胸が苦しい。でも同時に、どこか期待している自分もいる。もう一度、春海の近くにいられる。たとえ上司と部下という関係でも、同じ空間で、同じ仕事をしている。
それだけでも――。
颯は首を振った。そんな考えは捨てなければ。プロフェッショナルとして、適切な距離を保たなければ。春海が望んでいるのも、きっとそういう関係だ。
自宅のマンションに着く。鍵を開けて、真っ暗な部屋に入る。明かりをつけると、見慣れた風景が浮かび上がる。一人暮らしの部屋は静かで、少し寒い。
コートを脱ぎ、ネクタイを緩める。キッチンに立ち、簡単な夕食を作る。パスタを茹で、レトルトのソースをかける。一人で食べる食事は、味気ない。
テレビをつけても、内容は頭に入ってこない。バラエティ番組の笑い声が、空虚に響く。リモコンでチャンネルを変えるが、どれも同じように見える。結局、電源を切った。
シャワーを浴びる。熱い湯が、疲れた体に心地良い。目を閉じると、今日一日の出来事が頭の中を巡る。春海との再会。変わらない横顔。事務的な会話。そして、『無理はするな』という言葉。
髪を乾かしながら、鏡に映る自分を見る。二十七歳。もう学生ではない。社会人として、きちんと振る舞わなければ。感情に振り回されてはいけない。
でも、心はいうことを聞かない。
ベッドに入り、天井を見つめる。暗闇の中で、思考が渦を巻く。
春海悠斗。五年ぶりに会った初恋の人は、あの頃と何も変わっていなかった。理性的で、完璧で、感情を見せない。でも、なぜか前よりも寂しく見えた。
孤独――その言葉が頭に浮かぶ。春海はずっと一人で生きてきたのだろうか。誰かと心を通わせることなく、理性だけを頼りに。誰も寄せ付けない鎧を身にまとって。
そんなことを考える権利は、颯にはない。春海の人生に、颯は関係ない。五年前にそう決まったのだ。春海が距離を置き、颯が何も言えなかったあの夜に。
でも、もしかしたら――。
颯は寝返りを打つ。枕が冷たい。シーツの感触が肌に心地良い。でも、眠りはなかなか訪れない。
考えすぎだ。明日は普通に仕事をしよう。春海のことは意識せず、一人の開発者として、プロジェクトに貢献しよう。それが正しい態度だ。
窓の外では、春の夜風が吹いている。カーテンが揺れ、月明かりが部屋に差し込む。その光を見ていると、研究室の蛍光灯を思い出す。
あの頃の光は、もっと眩しかった気がする。希望に満ちていて、可能性に溢れていて。でも同時に、痛いほど切なかった。届かない想いを抱えて、ただ春海の隣にいることしかできなかった。
今は違う。颯は成長した。社会人として、エンジニアとして、一人の大人として、もうあの頃のような臆病な学生ではない。
でも、春海を前にすると、まるで時間が巻き戻ったような感覚になる。声が震え、手が震え、心臓が高鳴る。まだ、あの頃の自分が、心の奥に住んでいる。
春海さん、と心の中で呟く。
あなたは変わらない。五年前と同じ、理性の人。感情を殺して生きる人。完璧な鎧で、自分を守っている人。
でも俺は――俺は変わったでしょうか。あの頃の臆病な自分から、少しは成長できたでしょうか。今なら、あなたに想いを伝えることができるでしょうか。
答えは出ない。ただ、春の夜は静かに更けていく。遠くで救急車のサイレンが聞こえ、また静寂が戻る。
明日が来るのが、怖いような、待ち遠しいような、複雑な気持ちだった。
あの夜から五年。止まっていた時間が、今日また動き始めた。それが良いことなのか悪いことなのか、颯にはまだわからない。
ただ一つ確かなのは、忘れかけていた想いが、再び胸の奥で息を吹き返したということ。それは小さな炎のように、静かに、でも確実に燃えている。
消そうと思っても、消せない。忘れようと思っても、忘れられない。
春海悠斗。その名前を心の中で繰り返す。
明日、また会える。その事実だけが、今の颯を支えていた。
十二月。年の瀬が近づく頃、颯は深夜のオフィスにいた。 蛍光灯が白い光を落とす、静まり返ったフロア。キーボードを叩く音だけが、規則正しく響いている。モニターの光が顔を照らし、画面にはコードが整然と並んでいた。 隣には、春海がいる。 同じように画面に向かい、同じように静かに作業をしている。ふたりの間に言葉はなく、ただ時間だけが穏やかに流れていた。 この光景を、颯は知っている。 五年前、大学の研究室で見た光景と同じだった。蛍光灯の白い光、静寂、キーボードの音。春海の横顔を盗み見るように眺めていた、あの夜と同じ光景だった。 けれど、すべてが違っていた。 あの頃の颯は、春海の隣にいることさえ緊張していた。話しかける勇気もなく、ただ横顔を見つめることしかできなかった。「好きです」というたった一言が、どうしても言えなかった。 今は違う。 隣にいることが、自然だった。言葉がなくても、不安にならない。同じ空間で同じ時間を過ごしているだけで、胸の奥が静かに満たされていく。 春海が、ふとキーボードから手を離した。「……そろそろ、終わりにするか」 低い声が、静寂を破った。時計を見ると、午前一時を過ぎていた。「はい」 颯は頷いて、ファイルを保存した。今日の作業は、ここまででいい。明日また続きをすればいい。そう思えることが、幸せだった。 春海が立ち上がり、窓際に向かった。ブラインドの隙間から、夜の街を見下ろしている。その背中を見ながら、颯も椅子から立ち上がった。「春海」 名前を呼ぶと、春海が振り返った。蛍光灯の光を背に受けて、その表情は少し影になっている。けれど、目だけはやわらかく光っていた。「なんだ」「……昔のこと、思い出してました」 颯は春海の隣に立った。同じように窓の外を見つめる。街の灯りが、まばらに瞬いていた。「大学の研究室で、こうやって夜を過ごしたこと。あの時は、何も言えなかった」
春海の部屋は、颯の部屋とは対照的だった。 整然と片付けられたリビング。余計なものが一切ないシンプルな空間。本棚には技術書が整然と並び、デスクの上にはパソコンだけが置かれている。春海らしい、理性的で無駄のない部屋だった。「散らかってなくて、すごいですね」 颯がいうと、春海は肩をすくめた。「物が少ないだけだ」「俺の部屋、見せられないなあ……」「知ってる。見た」 そうだった。土曜日の夜、春海は颯の部屋に来たのだ。散らかった部屋を見られてしまったのだ。「……恥ずかしい」「別に。お前らしいと思った」 その言葉に、颯は顔が熱くなった。 春海がキッチンに向かい、コーヒーを淹れ始めた。その背中を見ながら、颯はソファに座った。 不思議な気分だった。 春海の部屋にいる。恋人として、訪れている。一週間前までは考えられなかったことだ。「コーヒーでいいか」「はい」 春海がカップをふたつ持って戻ってきた。颯の隣に座り、カップを手渡す。「ありがとうございます」 コーヒーを一口飲む。苦味と香りが、口の中に広がる。「……疲れただろう」 春海がいった。「この一週間、大変だった」「春海の方が、大変だったでしょう」「俺は慣れてる」 そういいながら、春海はコーヒーを啜った。その横顔を、颯は見つめていた。 疲れている、と思った。 春海は、疲れているのだ。プロジェクトのリーダーとして誰よりも重圧を背負ってきた。それを表に出さないだけで、本当は限界に近かったのかもしれない。「春海」「なんだ」「お疲れさま」 その言葉に、春海の表情が緩んだ。「……ああ」「今日は、ゆっくり休んでください」 颯はカップをテーブルに置き、春海の肩に手を伸ばした。そっと触れる。コートを脱いだ春海の肩は、思ったより細
水曜日の夜。 プロジェクトの最終調整は、佳境を迎えていた。 オフィスには、まだ多くのメンバーが残っていた。金曜日のプレゼンテーションに向けて、最後の仕上げを行っている。キーボードを叩く音、電話の声、時折響く笑い声。緊張感の中にも、どこか高揚した空気が漂っていた。 颯も、自分の担当箇所の最終チェックを行っていた。UIの動作確認、デザインの微調整、バグがないかの検証。ひとつひとつ、丁寧に確認していく。「高橋、ちょっといいか」 春海の声が、背後から聞こえた。振り返ると、春海が立っていた。「はい」「会議室で、最終確認をしたい。来てくれ」 それだけいって、春海は先に歩き出した。颯は慌てて立ち上がり、後を追った。 会議室に入ると、春海はドアを閉めた。ブラインドは下りていて、外からは中が見えない。「……座れ」 春海がいった。颯はいわれるままに、椅子に座った。 春海も向かいに座る。ふたりきりの会議室。蛍光灯の白い光が、ふたりを照らしている。「最終確認って……」「仕事の話じゃない」 春海の声が、低くなった。 颯の心臓が、跳ねた。「金曜日のプレゼンが終わったら、俺の部屋に来い」 春海の目が、真っすぐに颯を見ていた。いつもの冷静な目。けれど、その奥に、熱が宿っている。「打ち上げは……」「途中で抜ける。お前も、適当なところで抜けろ」 強引ないい方だった。けれど、嫌ではなかった。むしろ、うれしかった。春海が、自分とふたりきりの時間を望んでくれている。仕事の後、真っ先に自分に会いたいと思ってくれている。「……はい」 颯は頷いた。声が、少し震えていた。「それだけだ。仕事に戻れ」 春海が立ち上がった。颯も立ち上がる。 ドアに向かう春海の背中を見ながら、颯は思った。 この人は、不器用だ。 愛情表現が下手で、感情を言葉にするのが苦手で、いつも回りくどい言
月曜日の朝。颯はいつもより早く目を覚ました。 カーテンの隙間から差し込む光が、部屋をやわらかく満たしている。十一月の朝は冷え込むようになっていたが、布団の中にはまだ、夜の温もりが残っていた。 隣を見る。春海はもういなかった。 枕には、かすかな体温の名残。シーツには、ふたり分の眠りの痕跡。颯はその枕に顔を埋めた。春海の匂いがする。清潔で、少しだけ甘い、この人だけの匂い。 昨日の夜、春海は自分の部屋に帰っていった。月曜日からは仕事があるから、と。その言葉に寂しさを感じる一方で、同時に安心もしていた。この人は、ちゃんと現実を見ている。ふわふわした気持ちだけで突っ走らない。それが春海らしかった。 土曜日の夜から日曜日の朝にかけて、ふたりで過ごした時間を思い出す。春海の腕の中で眠った夜。目が覚めた時、隣にこの人がいた幸せ。あの時間は、夢ではなく現実だったのだ。 スマートフォンを確認すると、メッセージが届いていた。『おはよう。今日から、また仕事だな』 たったそれだけの言葉。けれど、颯の胸は温かくなった。春海が、自分にメッセージを送ってくれている。朝起きて、最初に自分のことを考えてくれている。それだけで、今日一日を頑張れる気がした。『おはようございます。今日も、よろしくお願いします』 返信を打って、送信する。「よろしくお願いします」なんて、まるで仕事のメールみたいだと思った。けれど、まだ距離感が掴めていなかった。恋人としてどう接すればいいのか、わからなかった。 ベッドから起き上がり、カーテンを開ける。澄んだ青空が広がっていた。雲ひとつない、晴れ渡った空。土曜日の夜に降っていた雨が嘘のようだった。 世界が、新しく見える。 同じ部屋、同じ景色。なのに、すべてが違って見える。窓から見える街並みも、道を行き交う人々も、どこか輝いて見えた。春海と結ばれたことで、世界の色が変わったのだ。自分の心が、変わったからだ。 シャワーを浴び、身支度を整える。鏡に映る自分の顔は、いつもと同じはずなのに、どこか違って見えた。目が、少しだけ明るい。口角が、自然と上がっている。
世界が、白く弾けた。 意識が、一瞬だけ途切れた。体の芯から、何かがあふれ出していく。快感が雷のように体を突き抜ける。声が出た。どんな声だったのか、自分でも分からない。ただ、何かを叫んでいた。春海の名前だったのかもしれない。あるいは、意味のない声だったのかもしれない。 春海も、同じ瞬間に果てた。颯の名前を呼びながら、体を震わせていた。その声が、颯の耳に残る。かすれた、切実な声。この人も、自分と同じ場所にいる。同じ瞬間を、共有している。 五年分の想いが、すべて解放されていく。 我慢していた感情があふれ出していく。抑え込んでいた欲求が解き放たれていく。体の奥から、何かが噴き出すようにあふれていく。それは涙だったのかもしれないし、声だったのかもしれない。あるいは、もっと別の何かだったのかもしれない。 春海の体が、颯の上に崩れ落ちた。重い。けれど、その重さが心地よかった。生きている証拠。この人がここにいる証拠。春海の鼓動が、自分の鼓動と重なっている。二つの心臓が、同じリズムで脈打っている。速くて、激しくて、やがてゆっくりと落ち着いていく。 雨音だけが、静かに響いていた。 二人とも、しばらく動けなかった。息を整えることすら難しかった。ただ、重なり合ったまま、時間が過ぎていくのを感じていた。* どれくらいの時間、そうしていたのか分からない。 春海が体を起こしたのは、呼吸が落ち着いてからだった。ゆっくりと体を離し、颯の隣に横たわる。天井を見つめている。その横顔を、颯はぼんやりと眺めていた。 汗で濡れた髪、閉じられた瞼、穏やかな表情。普段の春海からは想像できないほど無防備な姿だった。理性の鎧を脱ぎ捨てた、素の春海。その姿がたまらなく愛おしかった。この人のこういう姿を見られるのは自分だけなのだと思うと、胸が熱くなった。「……後悔、してないか」 春海が、目を閉じたまま言った。その声には、かすかな不安が混じっていた。「してないです」 颯は即答した。迷う必要もなかった。「これが俺の……本当の気持ちです」 春海が目を開
シャツが脱がされた。 颯の上半身が露わになる。恥ずかしさに、思わず腕で体を隠そうとした。見られるのが恥ずかしい。こんな自分を見せるのが恥ずかしい。けれど、春海がその腕を優しく押さえた。「隠すな」 低い声。けれど、命令ではなかった。お願いに近い響き。「見せてくれ」 颯の顔が熱くなった。こんな言葉をいわれるなんて思わなかった。恥ずかしい。恥ずかしいのに、嬉しい。この人に見られたいと思う自分がいる。この人に、すべてを知ってほしいと思う自分がいる。 腕の力を抜いた。春海の目が、颯の体を見つめる。視線が肌の上をなぞっていくのが分かった。鎖骨。胸。お腹。見られている。この人に見られている。その事実だけで、体が熱くなっていく。 春海の手が、颯の胸に触れた。その瞬間、息が止まった。「っ……」 声にならない声が漏れた。触れられた場所から、電流が走るような感覚。全身が過敏になっている。春海の手のひらがゆっくりと胸を撫でていく。その動きが、たまらなく気持ちよかった。こんな感覚、初めてだった。「声……我慢しなくていい」 春海の声が、耳元で囁いた。その息が、首筋にかかる。ぞくりと背筋が震えた。「でも……」「聞きたい」 その言葉に、理性が溶けていく気がした。我慢しなくていい。声を出していい。この人の前では、何も隠さなくていい。そういわれている気がした。 春海の手が、脇腹を撫でた。くすぐったいような、甘いような感覚。思わず身をよじる。「あ……っ」 声が出た。自分の声とは思えないほど、甘い声。恥ずかしかったが、春海が嬉しそうに目を細めるのを見て、恥ずかしさより喜びが勝った。この人が喜んでくれるなら、恥ずかしさなんてどうでもよかった。 春海もシャツを脱いだ。鍛えられた体が、薄暗い中でも見て取れた。広い肩、厚い胸板、腹筋の線。颯は息を呑んだ。「綺麗……」 思わず呟いた言葉に、春海が驚いたように目を見開いた。「男に綺麗というのか」「だって、綺麗だから