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Penulis: 海野雫
last update Terakhir Diperbarui: 2025-12-04 19:00:21

 三時頃、田中が飲み物を持ってきてくれた。

「はい、糖分補給」

 缶コーヒーを机に置く。颯は礼をいって、プルタブを開ける。甘い香りが鼻をくすぐった。

「さっきから見てたけど、すごい集中してたね」

「まあ、締切も近いし」

「春海さんと知り合いだったなんて、羨ましいな。きっと仕事しやすいでしょ?」

 田中の言葉に、颯は苦笑する。仕事しやすい? とんでもない。むしろ逆だ。意識しすぎて、普段の半分も力を出せない。

「別に、普通ですよ」

「そう? でも、春海さんって近寄りがたい感じしない? すごく優秀そうだけど、なんか怖いというか……」

 颯は春海の方を見る。彼はモニターを真剣に見つめ、時折眉間にしわを寄せている。確かに近寄りがたい雰囲気はある。でも、怖くはない。少なくとも、颯にとっては。

「慣れれば、そうでもないですよ」

 本当は、もっといいたいことがあった。春海は優しい人だと。不器用だけど、思いやりのある人だと。でも、それは颯だけが知っていればいいこと。

 定時を過ぎ、オフィスに残業の明かりが灯り始める。今日は早めに帰ろうと思っていたが、なんとなく席を立てなかった。春海もまだ残っている。彼の姿が視界の端に入るだけで、意識がそちらに引っ張られる。

 六時半。七時。時間が過ぎていく。窓の外は、すっかり暗くなっていた。夜のオフィス街の明かりが、宝石のように輝いている。

 七時を過ぎた頃、春海が席を立った。颯は画面を見つめるふりをしながら、その動きを目で追う。春海は資料を整理し、パソコンの電源を落とす。鞄を持ち、歩き始める。

 颯の席の前を通りかかった時、春海の足が止まった。

「まだ残るのか」

 突然の問いかけに、颯は顔を上げた。春海が見下ろしている。蛍光灯の光が眼鏡に反射して、表情がよく見えない。でも、声にはわずかな温度があった。

「あ、はい。もう少しだけ」

「無理はするな」

 そういって、春海は歩き去ろうとする。でも、数歩進んだところで、また立ち止まった。振り返ることはなく、背中を向けたままいう。

「木曜日、よろしく」

 それだけいって、今度こそ春海は去っていった。

 颯は、しばらくその場で呆然としていた。『無理はするな』『木曜日、よろしく』。簡単な言葉。でも、そこには確かに、昔の春海の面影があった。不器用だけど、優しい春海の。

 八時過ぎにようやく帰路についた。電車は帰宅ラッシュのピークを過ぎ、少し空いていた。座席に座り、窓の外を流れる夜景を見つめる。街の明かりが、線になって流れていく。

 明日も春海と顔を合わせる。明後日も、その次の日も。このプロジェクトが続く限り、毎日。

 胸が苦しい。でも同時に、どこか期待している自分もいる。もう一度、春海の近くにいられる。たとえ上司と部下という関係でも、同じ空間で、同じ仕事をしている。

 それだけでも――。

 颯は首を振った。そんな考えは捨てなければ。プロフェッショナルとして、適切な距離を保たなければ。春海が望んでいるのも、きっとそういう関係だ。

 自宅のマンションに着く。鍵を開けて、真っ暗な部屋に入る。明かりをつけると、見慣れた風景が浮かび上がる。一人暮らしの部屋は静かで、少し寒い。

 コートを脱ぎ、ネクタイを緩める。キッチンに立ち、簡単な夕食を作る。パスタを茹で、レトルトのソースをかける。一人で食べる食事は、味気ない。

 テレビをつけても、内容は頭に入ってこない。バラエティ番組の笑い声が、空虚に響く。リモコンでチャンネルを変えるが、どれも同じように見える。結局、電源を切った。

 シャワーを浴びる。熱い湯が、疲れた体に心地良い。目を閉じると、今日一日の出来事が頭の中を巡る。春海との再会。変わらない横顔。事務的な会話。そして、『無理はするな』という言葉。

 髪を乾かしながら、鏡に映る自分を見る。二十七歳。もう学生ではない。社会人として、きちんと振る舞わなければ。感情に振り回されてはいけない。

 でも、心はいうことを聞かない。

 ベッドに入り、天井を見つめる。暗闇の中で、思考が渦を巻く。

 春海悠斗。五年ぶりに会った初恋の人は、あの頃と何も変わっていなかった。理性的で、完璧で、感情を見せない。でも、なぜか前よりも寂しく見えた。

 孤独――その言葉が頭に浮かぶ。春海はずっと一人で生きてきたのだろうか。誰かと心を通わせることなく、理性だけを頼りに。誰も寄せ付けない鎧を身にまとって。

 そんなことを考える権利は、颯にはない。春海の人生に、颯は関係ない。五年前にそう決まったのだ。春海が距離を置き、颯が何も言えなかったあの夜に。

 でも、もしかしたら――。

 颯は寝返りを打つ。枕が冷たい。シーツの感触が肌に心地良い。でも、眠りはなかなか訪れない。

 考えすぎだ。明日は普通に仕事をしよう。春海のことは意識せず、一人の開発者として、プロジェクトに貢献しよう。それが正しい態度だ。

 窓の外では、春の夜風が吹いている。カーテンが揺れ、月明かりが部屋に差し込む。その光を見ていると、研究室の蛍光灯を思い出す。

 あの頃の光は、もっと眩しかった気がする。希望に満ちていて、可能性に溢れていて。でも同時に、痛いほど切なかった。届かない想いを抱えて、ただ春海の隣にいることしかできなかった。

 今は違う。颯は成長した。社会人として、エンジニアとして、一人の大人として、もうあの頃のような臆病な学生ではない。

 でも、春海を前にすると、まるで時間が巻き戻ったような感覚になる。声が震え、手が震え、心臓が高鳴る。まだ、あの頃の自分が、心の奥に住んでいる。

 春海さん、と心の中で呟く。

 あなたは変わらない。五年前と同じ、理性の人。感情を殺して生きる人。完璧な鎧で、自分を守っている人。

 でも俺は――俺は変わったでしょうか。あの頃の臆病な自分から、少しは成長できたでしょうか。今なら、あなたに想いを伝えることができるでしょうか。

 答えは出ない。ただ、春の夜は静かに更けていく。遠くで救急車のサイレンが聞こえ、また静寂が戻る。

 明日が来るのが、怖いような、待ち遠しいような、複雑な気持ちだった。

 あの夜から五年。止まっていた時間が、今日また動き始めた。それが良いことなのか悪いことなのか、颯にはまだわからない。

 ただ一つ確かなのは、忘れかけていた想いが、再び胸の奥で息を吹き返したということ。それは小さな炎のように、静かに、でも確実に燃えている。

 消そうと思っても、消せない。忘れようと思っても、忘れられない。

 春海悠斗。その名前を心の中で繰り返す。

 明日、また会える。その事実だけが、今の颯を支えていた。

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