LOGIN自分のデスクに戻ると、颯は深く息をついた。モニターには先ほどの資料がまだ表示されている。開発統括:春海悠斗。その文字を見つめながら、これから始まる日々のことを考える。
毎日顔を合わせることになる。会議で、レビューで、進捗報告で。上司と部下として、適切な距離を保ちながら仕事をしなければならない。過去のことは忘れて、プロフェッショナルとして振る舞わなければならない。
できるだろうか。
颯は目を閉じて、深呼吸をする。できるかできないかではない。やらなければならないのだ。これは仕事だ。個人的な感情を持ち込むべきではない。
――感情を判断に入れるべきじゃない。
皮肉なことに、春海の言葉が指針になる。そうだ、春海のいうとおりだ。感情は邪魔になる。理性的に、論理的に、プロフェッショナルとして振る舞おう。
午前中の仕事は、まったく手につかなかった。コードを書こうとしても、集中できない。変数名を打ち間違え、セミコロンを忘れ、簡単な論理ミスを繰り返す。ドキュメントを読もうとしても、文字が頭に入ってこない。同じ行を何度も読み返してしまう。
春海の姿が、視界の端にちらつく。彼は自分のデスクで黙々と仕事をしている。時折、誰かが相談に行き、春海は的確にアドバイスを返している。その姿は、まさに理想の上司そのものだった。
十一時頃、春海が席を立った。颯は画面を見つめるふりをしながら、その動きを目で追う。春海はコーヒーサーバーの前で立ち止まり、カップに注ぐ。その仕草さえも無駄がない。
ふと、春海がこちらを見た。目が合う。颯は慌てて視線を逸らしたが、遅かった。春海は確実に、颯が見ていたことに気づいただろう。恥ずかしさで顔が熱くなる。
ようやく昼休みになり、颯は屋上に向かった。エレベーターに乗り、最上階のボタンを押す。人気のない屋上で、春風に吹かれながら深呼吸する。
空は青く澄んでいた。白い雲がゆっくりと流れていく。遠くに見えるビル群は、春の陽射しを受けてきらめいている。都会の喧騒が、ここまでは届かない。
ベンチに座り、持参した昼食を取り出す。コンビニで買ったおにぎりとサンドイッチ。味はよくわからなかった。ただ機械的に口に運び、飲み込む。
五年前のあの夜を思い出す。研究発表の準備で、二人きりで残った夜。春海が淹れてくれたコーヒーは、少し苦かった。でも、それが妙に美味しく感じられた。
『君の論理は美しいね』
春海はそういって、颯のコードを褒めた。その時の嬉しさは、今でも覚えている。認められた喜びだ。でも同時に、寂しさも感じた。春海が見ているのは颯のコードであって、颯自身ではない。
あの夜、もし勇気を出していたら――。
『春海さん、好きです』
そう言えていたら、何か変わっていただろうか。春海は驚いただろうか。困っただろうか。それとも、やはり『感情を判断に入れるべきじゃない』といっただろうか。
携帯電話が震える。メールの通知だった。開いてみると、春海からだった。
『高橋さん
技術レビューの日程を調整したいと思います。
今週中で都合の良い時間を教えてください。
春海』
事務的で簡潔な文面。「さん」付けで呼ばれることに、妙な距離を感じる。大学時代は「高橋」だった。時には「颯」と呼ばれることもあった。今はもう、ただの部下の一人。
颯は予定表を確認し、返信する。
『春海さん
木曜日の午後、もしくは金曜日の午前中が空いています。
ご都合はいかがでしょうか。
高橋』
送信ボタンを押してから、何度も文面を読み返してしまう。変なところはないか。不自然ではないか。もっと別の書き方があったのではないか。考えすぎだとわかっていても、やめられない。
すぐに返信が来た。
『木曜日の十五時からでお願いします。会議室Bを予約しておきます。』
それきりだった。素っ気ない。でも、春海らしい。
午後の仕事に戻る。少しは集中できるようになった。新しい機能の実装に取り掛かる。キーボードを叩く音が、規則正しいリズムを刻む。この音を聞いていると、心が落ち着く。コードの世界に没頭していると、余計なことを考えなくて済む。
if (emotion.isValid()) {
return process(emotion);
} else {
return suppress(emotion);
}
ふと、そんなコードを書いてしまい、慌てて削除する。何を考えているんだろう。感情を処理する関数なんて、存在しない。
十二月。年の瀬が近づく頃、颯は深夜のオフィスにいた。 蛍光灯が白い光を落とす、静まり返ったフロア。キーボードを叩く音だけが、規則正しく響いている。モニターの光が顔を照らし、画面にはコードが整然と並んでいた。 隣には、春海がいる。 同じように画面に向かい、同じように静かに作業をしている。ふたりの間に言葉はなく、ただ時間だけが穏やかに流れていた。 この光景を、颯は知っている。 五年前、大学の研究室で見た光景と同じだった。蛍光灯の白い光、静寂、キーボードの音。春海の横顔を盗み見るように眺めていた、あの夜と同じ光景だった。 けれど、すべてが違っていた。 あの頃の颯は、春海の隣にいることさえ緊張していた。話しかける勇気もなく、ただ横顔を見つめることしかできなかった。「好きです」というたった一言が、どうしても言えなかった。 今は違う。 隣にいることが、自然だった。言葉がなくても、不安にならない。同じ空間で同じ時間を過ごしているだけで、胸の奥が静かに満たされていく。 春海が、ふとキーボードから手を離した。「……そろそろ、終わりにするか」 低い声が、静寂を破った。時計を見ると、午前一時を過ぎていた。「はい」 颯は頷いて、ファイルを保存した。今日の作業は、ここまででいい。明日また続きをすればいい。そう思えることが、幸せだった。 春海が立ち上がり、窓際に向かった。ブラインドの隙間から、夜の街を見下ろしている。その背中を見ながら、颯も椅子から立ち上がった。「春海」 名前を呼ぶと、春海が振り返った。蛍光灯の光を背に受けて、その表情は少し影になっている。けれど、目だけはやわらかく光っていた。「なんだ」「……昔のこと、思い出してました」 颯は春海の隣に立った。同じように窓の外を見つめる。街の灯りが、まばらに瞬いていた。「大学の研究室で、こうやって夜を過ごしたこと。あの時は、何も言えなかった」
春海の部屋は、颯の部屋とは対照的だった。 整然と片付けられたリビング。余計なものが一切ないシンプルな空間。本棚には技術書が整然と並び、デスクの上にはパソコンだけが置かれている。春海らしい、理性的で無駄のない部屋だった。「散らかってなくて、すごいですね」 颯がいうと、春海は肩をすくめた。「物が少ないだけだ」「俺の部屋、見せられないなあ……」「知ってる。見た」 そうだった。土曜日の夜、春海は颯の部屋に来たのだ。散らかった部屋を見られてしまったのだ。「……恥ずかしい」「別に。お前らしいと思った」 その言葉に、颯は顔が熱くなった。 春海がキッチンに向かい、コーヒーを淹れ始めた。その背中を見ながら、颯はソファに座った。 不思議な気分だった。 春海の部屋にいる。恋人として、訪れている。一週間前までは考えられなかったことだ。「コーヒーでいいか」「はい」 春海がカップをふたつ持って戻ってきた。颯の隣に座り、カップを手渡す。「ありがとうございます」 コーヒーを一口飲む。苦味と香りが、口の中に広がる。「……疲れただろう」 春海がいった。「この一週間、大変だった」「春海の方が、大変だったでしょう」「俺は慣れてる」 そういいながら、春海はコーヒーを啜った。その横顔を、颯は見つめていた。 疲れている、と思った。 春海は、疲れているのだ。プロジェクトのリーダーとして誰よりも重圧を背負ってきた。それを表に出さないだけで、本当は限界に近かったのかもしれない。「春海」「なんだ」「お疲れさま」 その言葉に、春海の表情が緩んだ。「……ああ」「今日は、ゆっくり休んでください」 颯はカップをテーブルに置き、春海の肩に手を伸ばした。そっと触れる。コートを脱いだ春海の肩は、思ったより細
水曜日の夜。 プロジェクトの最終調整は、佳境を迎えていた。 オフィスには、まだ多くのメンバーが残っていた。金曜日のプレゼンテーションに向けて、最後の仕上げを行っている。キーボードを叩く音、電話の声、時折響く笑い声。緊張感の中にも、どこか高揚した空気が漂っていた。 颯も、自分の担当箇所の最終チェックを行っていた。UIの動作確認、デザインの微調整、バグがないかの検証。ひとつひとつ、丁寧に確認していく。「高橋、ちょっといいか」 春海の声が、背後から聞こえた。振り返ると、春海が立っていた。「はい」「会議室で、最終確認をしたい。来てくれ」 それだけいって、春海は先に歩き出した。颯は慌てて立ち上がり、後を追った。 会議室に入ると、春海はドアを閉めた。ブラインドは下りていて、外からは中が見えない。「……座れ」 春海がいった。颯はいわれるままに、椅子に座った。 春海も向かいに座る。ふたりきりの会議室。蛍光灯の白い光が、ふたりを照らしている。「最終確認って……」「仕事の話じゃない」 春海の声が、低くなった。 颯の心臓が、跳ねた。「金曜日のプレゼンが終わったら、俺の部屋に来い」 春海の目が、真っすぐに颯を見ていた。いつもの冷静な目。けれど、その奥に、熱が宿っている。「打ち上げは……」「途中で抜ける。お前も、適当なところで抜けろ」 強引ないい方だった。けれど、嫌ではなかった。むしろ、うれしかった。春海が、自分とふたりきりの時間を望んでくれている。仕事の後、真っ先に自分に会いたいと思ってくれている。「……はい」 颯は頷いた。声が、少し震えていた。「それだけだ。仕事に戻れ」 春海が立ち上がった。颯も立ち上がる。 ドアに向かう春海の背中を見ながら、颯は思った。 この人は、不器用だ。 愛情表現が下手で、感情を言葉にするのが苦手で、いつも回りくどい言
月曜日の朝。颯はいつもより早く目を覚ました。 カーテンの隙間から差し込む光が、部屋をやわらかく満たしている。十一月の朝は冷え込むようになっていたが、布団の中にはまだ、夜の温もりが残っていた。 隣を見る。春海はもういなかった。 枕には、かすかな体温の名残。シーツには、ふたり分の眠りの痕跡。颯はその枕に顔を埋めた。春海の匂いがする。清潔で、少しだけ甘い、この人だけの匂い。 昨日の夜、春海は自分の部屋に帰っていった。月曜日からは仕事があるから、と。その言葉に寂しさを感じる一方で、同時に安心もしていた。この人は、ちゃんと現実を見ている。ふわふわした気持ちだけで突っ走らない。それが春海らしかった。 土曜日の夜から日曜日の朝にかけて、ふたりで過ごした時間を思い出す。春海の腕の中で眠った夜。目が覚めた時、隣にこの人がいた幸せ。あの時間は、夢ではなく現実だったのだ。 スマートフォンを確認すると、メッセージが届いていた。『おはよう。今日から、また仕事だな』 たったそれだけの言葉。けれど、颯の胸は温かくなった。春海が、自分にメッセージを送ってくれている。朝起きて、最初に自分のことを考えてくれている。それだけで、今日一日を頑張れる気がした。『おはようございます。今日も、よろしくお願いします』 返信を打って、送信する。「よろしくお願いします」なんて、まるで仕事のメールみたいだと思った。けれど、まだ距離感が掴めていなかった。恋人としてどう接すればいいのか、わからなかった。 ベッドから起き上がり、カーテンを開ける。澄んだ青空が広がっていた。雲ひとつない、晴れ渡った空。土曜日の夜に降っていた雨が嘘のようだった。 世界が、新しく見える。 同じ部屋、同じ景色。なのに、すべてが違って見える。窓から見える街並みも、道を行き交う人々も、どこか輝いて見えた。春海と結ばれたことで、世界の色が変わったのだ。自分の心が、変わったからだ。 シャワーを浴び、身支度を整える。鏡に映る自分の顔は、いつもと同じはずなのに、どこか違って見えた。目が、少しだけ明るい。口角が、自然と上がっている。
世界が、白く弾けた。 意識が、一瞬だけ途切れた。体の芯から、何かがあふれ出していく。快感が雷のように体を突き抜ける。声が出た。どんな声だったのか、自分でも分からない。ただ、何かを叫んでいた。春海の名前だったのかもしれない。あるいは、意味のない声だったのかもしれない。 春海も、同じ瞬間に果てた。颯の名前を呼びながら、体を震わせていた。その声が、颯の耳に残る。かすれた、切実な声。この人も、自分と同じ場所にいる。同じ瞬間を、共有している。 五年分の想いが、すべて解放されていく。 我慢していた感情があふれ出していく。抑え込んでいた欲求が解き放たれていく。体の奥から、何かが噴き出すようにあふれていく。それは涙だったのかもしれないし、声だったのかもしれない。あるいは、もっと別の何かだったのかもしれない。 春海の体が、颯の上に崩れ落ちた。重い。けれど、その重さが心地よかった。生きている証拠。この人がここにいる証拠。春海の鼓動が、自分の鼓動と重なっている。二つの心臓が、同じリズムで脈打っている。速くて、激しくて、やがてゆっくりと落ち着いていく。 雨音だけが、静かに響いていた。 二人とも、しばらく動けなかった。息を整えることすら難しかった。ただ、重なり合ったまま、時間が過ぎていくのを感じていた。* どれくらいの時間、そうしていたのか分からない。 春海が体を起こしたのは、呼吸が落ち着いてからだった。ゆっくりと体を離し、颯の隣に横たわる。天井を見つめている。その横顔を、颯はぼんやりと眺めていた。 汗で濡れた髪、閉じられた瞼、穏やかな表情。普段の春海からは想像できないほど無防備な姿だった。理性の鎧を脱ぎ捨てた、素の春海。その姿がたまらなく愛おしかった。この人のこういう姿を見られるのは自分だけなのだと思うと、胸が熱くなった。「……後悔、してないか」 春海が、目を閉じたまま言った。その声には、かすかな不安が混じっていた。「してないです」 颯は即答した。迷う必要もなかった。「これが俺の……本当の気持ちです」 春海が目を開
シャツが脱がされた。 颯の上半身が露わになる。恥ずかしさに、思わず腕で体を隠そうとした。見られるのが恥ずかしい。こんな自分を見せるのが恥ずかしい。けれど、春海がその腕を優しく押さえた。「隠すな」 低い声。けれど、命令ではなかった。お願いに近い響き。「見せてくれ」 颯の顔が熱くなった。こんな言葉をいわれるなんて思わなかった。恥ずかしい。恥ずかしいのに、嬉しい。この人に見られたいと思う自分がいる。この人に、すべてを知ってほしいと思う自分がいる。 腕の力を抜いた。春海の目が、颯の体を見つめる。視線が肌の上をなぞっていくのが分かった。鎖骨。胸。お腹。見られている。この人に見られている。その事実だけで、体が熱くなっていく。 春海の手が、颯の胸に触れた。その瞬間、息が止まった。「っ……」 声にならない声が漏れた。触れられた場所から、電流が走るような感覚。全身が過敏になっている。春海の手のひらがゆっくりと胸を撫でていく。その動きが、たまらなく気持ちよかった。こんな感覚、初めてだった。「声……我慢しなくていい」 春海の声が、耳元で囁いた。その息が、首筋にかかる。ぞくりと背筋が震えた。「でも……」「聞きたい」 その言葉に、理性が溶けていく気がした。我慢しなくていい。声を出していい。この人の前では、何も隠さなくていい。そういわれている気がした。 春海の手が、脇腹を撫でた。くすぐったいような、甘いような感覚。思わず身をよじる。「あ……っ」 声が出た。自分の声とは思えないほど、甘い声。恥ずかしかったが、春海が嬉しそうに目を細めるのを見て、恥ずかしさより喜びが勝った。この人が喜んでくれるなら、恥ずかしさなんてどうでもよかった。 春海もシャツを脱いだ。鍛えられた体が、薄暗い中でも見て取れた。広い肩、厚い胸板、腹筋の線。颯は息を呑んだ。「綺麗……」 思わず呟いた言葉に、春海が驚いたように目を見開いた。「男に綺麗というのか」「だって、綺麗だから