LOGIN会議室Bは、オフィスの端にある小さな部屋だった。窓からは、隣のビルの壁が見える。午後の光が、斜めに差し込んでいた。
颯はドアをノックして、中に入った。
「失礼します」
春海はすでに席に着いていた。テーブルの上には、ノートパソコンと資料が広げられている。
「座ってくれ」
颯は春海の向かいに座った。テーブルを挟んで、正面から向き合う形だ。
近い。大学時代以来、こんなに近くで春海の顔を見たのは初めてかもしれない。午後の光が、彼の輪郭を柔らかく照らしている。
「データの件だが」
春海が口を開いた。颯は慌てて資料を開く。
「はい。こちらのサンプルデータで、想定外の挙動が確認されました」
颯は画面を見せながら、問題点を説明した。春海は黙って聞いていた。時折、質問を挟む。
「その場合のエラーコードは?」
「こちらです」
「ログは確認したか」
「はい。この部分に、異常な値が出ています」
春海は画面を覗き込んだ。眼鏡越しの目が、真剣にデータを追っている。
颯は説明を続けながら、ふと気づいた。
春海の目の下に、薄いくまができている。
疲れているのだ。プロジェクトの立ち上げで、おそらく毎日遅くまで働いているのだろう。それでも、表情には一切出さない。完璧な上司の仮面を、決して崩さない。
大学時代も、そうだった。
研究で追い詰められていても、後輩の前では弱音を吐かなかった。いつも冷静で、理性的で、頼れる先輩であり続けた。
でも、颯は知っていた。
深夜の研究室で、一人きりの春海が、疲れた顔で天井を見上げていたことを。誰にも見せない、素の表情を、颯だけは見たことがあった。
今の春海にも、そんな瞬間があるのだろうか。
誰にも見せない弱さを、今も一人で抱えているのだろうか。
「高橋」
名前を呼ばれて、颯は我に返った。
「あ、すみません。何か」
「聞いていたか」
二度目の食事は、一度目よりも穏やかだった。 颯が選んだ店は、駅から少し離れた場所にある小さなイタリアンだった。隠れ家のような雰囲気で、照明は暖かく、壁には古いワインのラベルが飾られている。春海は店に入った瞬間、「いい店だな」と呟いた。その一言を聞いただけで、颯は報われた気がした。 ワインを飲みながら、二人はさまざまなことを話した。仕事のこと、AIの未来のこと、学生時代の思い出。春海は相変わらず多くを語らなかったが、時折見せる笑顔が、颯の心を温めた。 帰り道、駅まで並んで歩いた。「また、行こう」 春海がそう言ってくれた。 颯は頷いた。声が出なかった。嬉しすぎて、言葉にならなかった。 そうして、三度目の食事があり、四度目があった。 週末ごとに会うようになっていた。仕事の話から始まり、少しずつプライベートな話も増えていった。春海の好きな本、好きな音楽、休日の過ごし方。そんな些細なことを、一つずつ知っていった。 パズルのピースを集めるように、春海という人間の輪郭が、少しずつ見えてきた。 壁は確実に低くなっていた。 でも、まだ越えられない。 春海は心を開きかけては、すっと引いてしまう。近づいたと思った瞬間に、距離を取られる。まるで、自分の中の何かを守るように。 それでも、颯は焦らなかった。 ゆっくりでいい。少しずつでいい。この人のペースに合わせて、待っていよう。 そう思っていた。 あの夜までは。 * 金曜日の夕方、颯はオフィスで残業をしていた。 週末に向けてのタスクを片づけておきたかった。明日は春海と会う約束がある。今度は颯が見つけた和食の店に行く予定だ。口コミで評判の店で、予約を取るのに苦労した。 春海は喜んでくれるだろうか。 そんなことを考えながら、コードを書いていた。指がキーボードの上を滑る。タイピングの音が、静かなオフィスに響いている。 ふと、視線を感じた。
その後は、仕事の話をした。ARIAプロジェクトの進捗や技術的な課題、今後の展望についてだ。春海の話は面白かった。AIについての深い知識と、鋭い洞察力。聞いているだけで、勉強になった。 颯も自分の考えを話した。最初は緊張していたが、春海が熱心に聞いてくれるので、だんだん饒舌になった。自分のアイデアを話すのは楽しかった。特に、春海が頷いてくれると、うれしかった。 気づけば、時間が経っていた。窓の外はすっかり暗くなり、店内の照明が主役になっていた。「もう十時か」 春海が時計を見ていった。「すみません、長くなってしまって」「いや、楽しかった」 春海がそういった。 楽しかった。 その言葉が、颯の胸に染み込んだ。春海が楽しいといってくれた。この時間を、楽しんでくれた。「俺も、楽しかったです」 颯は笑顔で答えた。今度は、心からの笑顔だった。 会計を済ませ、店を出た。春海が払うといったが、颯は自分の分は自分で払わせてもらった。奢られるのは、なんだか申し訳なかった。 外に出ると、夜風が涼しかった。昼間の曇り空は晴れて、星が見えていた。都会の夜空でも、いくつかの星は見えた。「送ろうか」 春海が静かにいった。「え?」「駅まで」「あ、大丈夫です。近いですし」「いや、送る」 春海の声は、有無を言わせない響きだった。颯は頷くしかなかった。 二人で駅に向かって歩いた。夜の街は静かだった。土曜の夜なのに、この辺りは人通りが少ない。街灯の光が、道を照らしている。 並んで歩きながら、颯は春海の存在を感じていた。すぐ隣にいる。肩が触れそうな距離。彼の体温が、空気を通して伝わってくるような気がした。「今日は、ありがとうございました」 颯は口を開いた。「誘ってくれて、うれしかったです」「誘ったのはお前だろう」「あ、そうでした」 颯は苦笑した。そうだ、誘ったのは
土曜日が来るまでの数日間、颯は落ち着かなかった。 仕事中も、食事中も、眠る前も、頭の中は土曜日のことでいっぱいだった。何を着ていこう。何を話そう。どんな店だろう。春海は何を好むのだろう。 考えれば考えるほど、緊張が高まった。まるで初めてのデートに行く高校生のようだと、自分でも思った。 いや、デートではない。 仕事の話をするだけだ。先輩と後輩の、業務上の食事会。それ以上でも、それ以下でもない。 そう自分に言い聞かせても、心臓は落ち着かなかった。 金曜日の夜、颯はクローゼットの前で悩んでいた。 普段着で行くべきか、少しきちんとした格好をすべきか。カジュアルすぎると失礼かもしれない。でも、フォーマルすぎると気合が入りすぎているように見えるかもしれない。 結局、シンプルな白いシャツと、紺色のジャケットを選んだ。清潔感があって、でも堅すぎない。それが無難だと思った。 鏡の前で何度も確認した。髪型も整えた。いつもより丁寧に。 馬鹿みたいだと思った。 相手は男で、しかも上司だ。こんなに気合を入れる必要はない。 でも、止められなかった。春海に会う。それだけで、特別な準備をしたくなる。少しでも良く見られたい。そんな気持ちを、否定することができなかった。 土曜日の夕方、颯は待ち合わせ場所に向かった。 駅前の時計台の下。春海からのメッセージには、そう書いてあった。店の場所は駅から歩いて五分ほどのところにあるらしい。 約束の時間は七時だった。颯は十五分前に着いた。早すぎたかもしれない。でも、遅刻するよりはいい。 時計台の下で待ちながら、颯は周りを見回した。土曜の夕方、駅前は人で賑わっていた。買い物帰りの家族連れ、待ち合わせをしているカップル、一人で歩く会社員。様々な人が行き交っている。 空はまだ明るかった。西の空がオレンジ色に染まり始めている。雲が茜色に輝いていた。 きれいな夕焼けだ、と颯は思った。 こんな空の下で、春海を待っている。それだけで、胸がいっぱ
昼休み、颯は一人でコンビニに行った。 いつもは同僚と一緒に昼食を取るのだが、今日は一人になりたかった。頭の中を整理したかったのだ。午前中の出来事が、まだ胸の中で反響している。 コンビニでサンドイッチとお茶を買い、近くの公園のベンチに座った。平日の昼間、公園には人が少なかった。遠くで子供が遊んでいる声が聞こえる。風が木の葉を揺らしている。 サンドイッチをかじりながら、颯は空を見上げた。 雲はまだ空を覆っていたが、ところどころに切れ間ができていた。その切れ間から、青空が覗いている。光の筋が雲の隙間から差し込んで、地面にまだらな影を作っていた。 春海が褒めてくれた。 たったそれだけのことが、こんなにもうれしい。 颯は自分の単純さに苦笑した。二十七歳にもなって、好きな人に褒められただけでこんなに浮かれている。まるで高校生みたいだ。 でも、仕方がない。 五年間、ずっと想い続けるだけだった。会うことも、話すことも、叶わなかった。あの卒業式の夜から、春海は颯の世界からいなくなった。存在していたのは、記憶の中の春海だけだった。届かない場所で、ただ面影を抱きしめて生きてきた。 それが、今は目の前にいる。 同じ空間で働いている。言葉を交わしている。時には、笑顔を見せてくれる。 それだけで、十分だと思っていた。 でも、今日の春海を見て、颯は欲が出てしまった。 もっと話したい。もっと近づきたい。あの人のことを、もっと知りたい。 嫌われていたわけじゃない。その確信が、颯に勇気を与えていた。 春海は何かを恐れている。だから壁を作る。でも、壁の向こうにはぬくもりがある。あの夜、颯に見せてくれた素顔。「楽だ」といってくれた言葉。それは、春海の本当の姿なのだと思う。 その姿に、もう一度触れたい。 今度こそ、手を伸ばしたい。 颯はサンドイッチを食べ終え、お茶を飲み干した。立ち上がり、空を見上げる。雲の切れ間が、少しずつ広がっているような気がした。 午後
あの気づきから、一週間が経った。 嫌われていたわけじゃない。 その確信は、颯の中で静かに根を下ろしていた。五年間ずっと胸の奥に刺さっていた棘は、完全に抜けたわけではない。でも、その棘の正体が少しだけわかった気がした。それだけで、世界の見え方が変わっていた。 オフィスの窓から見える空は、薄い灰色の雲に覆われていた。晴れでも雨でもない、曖昧な空。光は雲を通して柔らかく拡散し、影のない穏やかな明るさを作り出している。 こんな空が、今の自分の心に似ている気がした。 晴れ渡ってはいない。でも、暗くもない。どこかに光があることを知っている。雲の向こうに太陽があることを、信じられるようになった。 春海との関係も、少しずつ変化していた。 あの夜のような激しい衝突はなくなった。春海は相変わらず必要最低限の会話しかしないが、以前のような冷たさは薄れていた。時折、颯の作業を覗き込んで、短いアドバイスをくれることもあった。目が合ったときに、すぐに逸らされることもなくなった。 それは小さな変化だった。他の人には気づかないような、ほんの些細な変化。でも、颯にとっては大きな意味があった。 壁が、少しだけ低くなっている。 そう感じられた。 その日、開発チームの週次ミーティングがあった。 会議室には十人ほどのメンバーが集まっていた。長方形のテーブルを囲んで座り、それぞれがノートパソコンを開いている。窓際の席には春海が座っていた。いつものように背筋を伸ばし、手元の資料に目を落としている。 颯は春海から三つ離れた席に座った。近すぎず、遠すぎない距離。彼の横顔が視界の端に入る位置。 ミーティングが始まった。 議題は、ARIAプロジェクトの進捗報告だった。各チームが順番に現状を報告し、課題を共有していく。颯のチームの番が来たとき、リーダーの田村が口を開いた。「今週は、自然言語処理モジュールの改善を進めました。高橋くんが提案したアプローチが効果的で、応答精度が十二パーセント向上しています」 颯は少し驚いた。
あの夜から、春海の態度が変わった。 以前は二人で研究室に残ることもあったのに、颯が残ろうとすると「今日は早く帰れ」と追い返されるようになった。他の学生には何もいわないのに、颯にだけ、そういった。 会話も必要最低限になった。研究の指導はしてくれるが、それ以外の話はしなくなった。雑談も、コーヒーを淹れてくれることも、なくなった。 颯が話しかけても、短い言葉で返されるだけだった。目も合わせてくれなくなった。 颯は自分が拒絶されたのだと思った。 あの夜、手を重ねたこと。傍にいたいといったこと。それが春海を不快にさせたのだと。 男同士でそんなことをいったのだから、気持ち悪いと思われても仕方がない。後輩が先輩に、そんなことをいうべきではなかった。立場をわきまえるべきだった。 颯は自分を責めた。何度も、何度も。なぜあんなことをしたのだろう。なぜあんなことをいったのだろう。せっかく近づけたと思ったのに、自分から壊してしまった。 胸が痛かった。息をするたびに、胸の奥がずきずきと痛んだ。食事も喉を通らず、夜も眠れなかった。目を閉じると、春海の横顔が浮かんでくる。冷たく突き放された瞬間が、何度も蘇ってくる。 それでも、研究室には通い続けた。 春海の姿を見るだけで、胸が苦しくなった。でも、見ないでいることはもっと辛かった。彼がいない場所で生きていくことが、想像できなかった。 研究室の隅から、春海の背中を見つめていた。話しかけることもできず、近づくこともできず。ただ見ているだけ。それだけが颯にできることだった。 やがて冬が来て、春が近づいた。 春海の卒業が迫っていた。 修士論文の発表が終わり、卒業式まであと少し。春海は就職先も決まっていて、四月からは東京のIT企業で働くことになっていた。 颯は何もいえないまま、時間だけが過ぎていった。 好きですといいたかった。でも、いえなかった。また拒絶されるのが怖かった。今度こそ完全に嫌われてしまうのが怖かった。 だから、何もいわなかった。何もしなかった。 卒業式の