All Chapters of 黎明の風と永遠の指輪ー夜の世界で出会った二人、危険で甘い約束ー: Chapter 11 - Chapter 20

130 Chapters

第十一話 影の護衛

二十分後。  黎明コーポレーションの地下駐車場。  薄暗い蛍光灯の下に、黒のSUVが静かに並んでいる。  その一角で、蓮はコートの襟を立てて立っていた。  足音が一つ、ゆっくりと近づいてくる。 「お呼びでしょうか、社長」  現れたのは一人の男。  神崎隼人(かんざき はやと)――二十八歳。  表向きは蓮の秘書だが、その実態は黎明の“影の右腕”。  蓮がまだ若手の頃から仕え、命を預け合った仲でもある。 背は高く、無駄のない動き。蓮が一番信頼している男だ。  スーツの袖口から覗く手首には、古傷が一筋。  その過去を誰も口にしないのは、彼がどれほどの修羅場を潜ってきたかを皆が知っているからだ。 「隼人、お前に頼みがある」  蓮の声には、いつになく硬い響きがあった。 隼人は真っすぐ蓮を見つめる。  その瞳には、主への絶対の忠誠と、言葉にしない理解が宿っていた。 「俺はこれから一ヶ月、関西に行く。その間、玲のことを頼みたい」 「桐嶋さんを、ですか」 「ああ。彼女の警護だ。いや……見張りと言った方が正確かもしれない」 蓮は自嘲するように笑った。  男として、愛する人を信じながらも、同時に監視を頼む――矛盾だ。  それでも、今の蓮にはそうするしかなかった。 「玲が働く『クリスタルローズ』。あそこには毎晩、様々な男が出入りする。   俺がいない間に、玲に近づく不届き者がいないか、しっかり目を光らせてくれ」 「承知しました。二十四時間体制で警護します」 短く答える隼人。  だがその胸の奥には、複雑な感情が渦巻いていた。  彼もまた、桐嶋玲という女性を知っている。  蓮の恋人としてではなく、一人の人間として、尊敬していた。  清らかで、誠実で、誰にでも優しい女性――それが玲だった。 だからこそ、蓮の“嫉妬”の影を感じ取ってしまうのが、辛かった。  彼の主は、誰よりも強く、誰よりも孤独な男だ。  玲と出会って初めて、人らしいぬくもりを取り戻した。  その彼が、再び「疑念」という闇に囚われようとしている。  隼人には、それが痛かった。 「ただし」  蓮は歩み寄り、隼人の肩に手を置いた。  「玲には絶対に気づかれるな。あくまで影からだ。彼女を不安にさせたくない。そして……」  言葉を切り、低く続けた。  「もし
last updateLast Updated : 2025-11-25
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第十二話 出立の朝

出発の朝。  午前の光はやわらかく、それでいてどこか白く冷たかった。  冬の名残をわずかに含んだ風が、街路樹の枝を揺らし、薄曇りの空の下でビルの窓ガラスが鈍く光る。  蓮は黒いスーツケースを片手に、玲のマンションの前に立っていた。  高層マンションのエントランスにはまだ朝の静けさが残り、人影もまばらだった。 ポケットに差したスマートフォンを取り出す。画面には「玲」の名前。  指先がわずかに震えた。通話ボタンを押す寸前に、彼は深く息を吸い込み――やめた。  この数分の沈黙すら、愛おしく感じてしまう。  彼女に会えば、きっと笑って送り出してくれるだろう。それでも、心のどこかで彼は逃げ出したかった。 エレベーターが上昇する。  電子音とともに、数字がひとつずつ光っていく。  二五階――。  小さく鳴った音とともにドアが開く。廊下には彼女の部屋のドアだけが、ぽつりと光を漏らしていた。 蓮がインターフォンを押すと、すぐに中から小さな足音が近づいてきた。  ドアが開き、白いエプロン姿の玲が立っていた。  その瞬間、蓮の胸の奥で何かがきゅっと鳴った。  柔らかな黒髪が肩にかかり、淡いピンクのニットが彼女の華奢な体を包んでいる。  目の下には、昨夜眠れなかった証のような薄い影。 「……来てくれたのね」  小さな声だった。けれど、その声の奥には、抑えきれない感情が滲んでいた。 蓮は玄関をくぐり、スーツケースを壁際に置いた。  部屋の中は、いつも通り整っている。リビングのテーブルには、蓮の好きなコーヒーと、焼きたてのクロワッサン。  その香ばしい香りが、かえって別れの現実を突きつける。 玲は蓮のスーツケースに視線を落とし、唇を噛んだ。  白い指が震えているのが見えた。 「一ヶ月、長いね」 その一言が、部屋の空気をわずかに震わせた。  蓮は短く頷き、静かに言った。 「ああ。でも、必ず毎日蓮絡する」 ――嘘だった。  父・晴臣に釘を刺されていた。「任務中は、蓮絡すら命取りになる」と。  その言葉が頭を離れない。  しかし、彼は真実を口にできなかった。  この女性を不安にさせること、それだけは耐えられなかった。 玲はそれ以上何も言わず、ただ彼の顔を見つめた。  視線が絡んだまま、時間が止まる。  互いに何を言えばいいか
last updateLast Updated : 2025-11-25
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第十三話 “LUX TRADE代表・柊 蓮”

一方その頃――。 蓮は空港へ向かう車の中にいた。  車窓を流れていく街の景色は、いつもと同じ東京のはずだった。見慣れたビル群、通りを急ぐ人々、信号待ちで並ぶ車列。そのどれも変わらない日常の風景なのに――今日は妙に遠く感じられた。まるで自分だけが別の世界へ向かう準備をしているかのように、すべてが薄い膜の向こう側にあるように見えた。 蓮はふと、胸の奥がざわつくのを抑えきれず、スマートフォンを手に取った。  画面を立ち上げると、そこに浮かび上がったのは玲の写真。  優しく微笑んだ横顔。初めて二人で撮った記念の一枚。あの日の空気の温度まで蘇るようで、蓮は思わず指先でその輪郭をなぞる。 その笑顔が、胸の最深部をぎゅっと締めつけた。  触れれば壊れてしまいそうな、儚く温かい光。 何度も画面を swipe し、そして消す。  消したところで意味がないと分かっているのに、また開いてしまう。  この一ヶ月、彼女に連絡を取ることは許されない。  黎明の“闇の命令”によって定められた、絶対のルール。  わかっている。頭では理解している。  ――それでも、指は勝手にメッセージアプリへ向かう。「……一ヶ月か」 ぽつりとこぼれた呟きは、重く沈んだ車内に吸い込まれていった。  運転手は聞こえなかったふりをしたのか、表情を変えず前を向いたままだ。 助手席に置かれたスーツケース。  その中には、任務のための資料、そして隼人とだけ繋がるための秘密の通信機器が収められている。  さらに、セキュリティケースの中には、関西で使うための名刺。  “LUX TRADE代表・柊 蓮”――偽名で作られた身分証。  黎明が裏で動かして用意した、影の存在としての蓮。 だが蓮の心にある願いは、そんな任務とはまるで結びつかない、ただひとつの思いだけだった。 ――必ず戻る。そして、お前を誰にも渡さない。 言葉にはしない。ただ胸の奥で、確かに燃えている。 車はいよいよ高速道路へと入り、周囲の景色が一気に開けていく。  薄曇りだった空はいつの間にか晴れに変わり、遠くには羽田空港の広いターミナルビルが姿を現した。巨大な建物が夕陽に照らされ、ガラス面がキラリと光る。 滑走路では、離陸する飛行機が白い軌跡を残しながら、力強く空へと駆け上がっていく。  蓮はその光景をじっと見つめ
last updateLast Updated : 2025-11-26
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第十四話 崩れゆく夜

 出張と称した関西での任務から、すでに一か月半が経っていた。  柊 蓮は、ホテルの薄暗い一室で天井を見つめながら、重い溜息をついた。  窓の外では、遠くにパトカーのサイレンが鳴り響き、湿った風がカーテンを揺らしている。  その音を聞くたび、ここが自分にとって“敵地”なのだという現実を思い知らされる。 任務――それは表向き「企業間取引の監査」として報告されていたが、  実際は、関西を拠点とする対立組織〈神威会(かむいかい)〉の若頭、黒澤剛士が率いる、西條組による武器密輸ルートの掌握を阻止するための潜入捜査だった。  蓮は黎明の幹部として、裏社会における取引ルートの監視を担っている。  だが、今回の任務はその中でも特に危険度が高かった。  西條組の幹部・鷲尾が主導する密輸ルートは巧妙で、国内外の裏市場を通じて金と人間を動かしていた。  取引が行われるのは主に港湾地帯や古びた倉庫。  取引相手の中には、かつての黎明の協力者も紛れ込んでおり、裏切りと銃弾が紙一重の世界だった。 ――この一ヶ月半で、蓮は三度、殺されかけた。  一度は車に仕掛けられた小型爆弾。  二度目は取引現場での偽装射殺。  三度目は、部屋に仕掛けられていた盗聴器の摘発。  それらを切り抜けたのは運ではなく、彼の冷静さと経験によるものだった。  だが、その冷徹さの裏には、限界まで擦り減った精神が潜んでいる。 ――「毎日電話する」。  玲と約束したあの言葉が、今は呪いのように胸に響く。 結局、玲には一度も直接蓮絡できなかった。  監視が厳しく、通信の傍受の恐れがあった。  もし玲との通話が敵に知られれば、彼女の身も危険に晒される。  それを分かっているからこそ、彼は蓮絡を絶った。 代わりに、蓮れてきた部下にメッセージを送らせていた。  玲に「無事です」と伝えるためだけの、代筆された短い文面。  東条圭吾――二十三歳。  まだ若く、どこか世間知らずな笑顔を浮かべる男だった。  軽口を叩きながらも、どこか憎めない無邪気さがある。  黎明の中でも珍しく純粋な部下。  だが、その無邪気さが時に、蓮の神経を逆撫でした。 「蓮さん、昨日も行ってきましたよ。スナック“琥珀”ってとこ。ママが超おもしろいんすよ! そこのホステスさん、めちゃ綺麗で――」 くだけた調
last updateLast Updated : 2025-11-26
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第十五話 アルコールと香水の誘惑

そして数日後。  案件にようやく目途が立ち、任務の圧力が一瞬だけ緩んだ。  わずかな自由が与えられたその夜、蓮はポケットからスマートフォンを取り出し、玲の番号を押した。 「……玲?」 通話がつながった瞬間、張り詰めていた心が一気に崩れた。  聞き慣れた声が、震えながら応える。 『れ、蓮……? 本当に、蓮なの……?』 「やっと話せた……。もうすぐ帰る。あと少しで、終わるんだ」 『蓮、無事だったのね!!よかった……本当によかった……!』 嗚咽混じりの声が、受話口から伝わった。  その涙の響きが、蓮の胸の奥に熱をともした。  たった数分の通話。それだけで、胸の奥の氷が溶けていくようだった。 通話が終わっても、彼はしばらく動けなかった。  無音の部屋で、彼女の声だけが残響のように蘇る。  ――帰らなければ。必ず。 「……よし。少しぐらい、息抜きしてもいいだろう」 その言葉は、疲れ切った心の隙間からこぼれた。  圭吾の誘いに、珍しく頷いた。 夜の街は湿った熱気を帯び、ネオンの光が雨に滲んでいる。  蓮が足を踏み入れたのは、スナック“琥珀”。  古びた看板と、くすんだ金色の暖簾。  中に入ると、昭和歌謡が流れ、カウンターには派手な化粧の女たちが並んでいた。  アルコールと香水の甘い匂い。  それだけで、長く張り詰めた神経が緩んでいくのを感じた。 「いらっしゃい、蓮さん! いつも圭吾くんから話聞いてるのよ」 声をかけてきたのは、長い黒髪をゆるく巻いたホステス――利衣子(りいこ)。  薄暗い照明の中で、彼女の肌は白く艶めいていた。  笑うとえくぼができ、その笑顔が玲の面影をかすかに呼び起こす。  だが、その目の奥には、玲にはない鋭い光が宿っていた。  それは、蛇のように男を絡め取る視線。 「……そうか。じゃあ、軽く一杯だけ」 最初は本当に、そのつもりだった。  だが、グラスが空になるたび、利衣子は新しい酒を注ぎ、笑みを浮かべる。  彼女の話し方には、不思議な引力があった。  相手の反応を見ながら、会話のテンポと笑顔を調整する。  まるで、長年男の心を弄んできた者のように。 隣に座る圭吾が、軽く彼女の肩に触れた。  その指先の自然さに、蓮は目を細める。  ――妙に慣れている。  圭吾と利衣子の間に、見えな
last updateLast Updated : 2025-11-26
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 第十六話 裏切りの朝

  朝。  ぼんやりとした光が、カーテンの隙間から差し込んでいた。  薄い白布を透かして揺らぐ光はやさしく見えたが、蓮の瞼を照らすそれは、どこか残酷でもあった。 重たいまぶたを開けた瞬間、彼の脳裏に鈍い痛みが走る。  ――頭が割れるように痛い。  昨夜の記憶が、霧のように断片的にしか思い出せない。  酒の味、甘い香り、低い笑い声、指先に触れた柔らかい肌。  そして、あの――囁き。 「……っ!」  息をのんだ。  腕の中に、柔らかな温もりがあった。  肌の感触が、あまりに生々しく、現実を突きつける。  恐る恐る視線を落とした蓮の目に映ったのは――裸の女。 ――利衣子だった。 乱れたシーツの中、白い肩を半ば露わにして、穏やかな寝息を立てている。  彼の胸に頬を寄せ、まるで恋人のように微笑を浮かべたまま。  その肩口に、紅い跡がいくつも――まるで花のように散っていた。 「……嘘だろ……」 蓮は凍りついた。  脳が拒絶する。信じたくない現実が、鮮明に突きつけられる。  自分の体にも――胸元から肩にかけて、赤く滲むキスマークが無数にあった。  まるで印を刻むように、彼女が爪を立てた痕が残っている。  その痛みが、夢ではないことを告げていた。 ――昨夜、何があった?  酒の席で、どこまで飲んだ? 彼女がグラスに何かを入れた?  思考が乱れる。  しかし、どれだけ考えても、答えは見つからなかった。  目の前の現実だけが、すべてを物語っていた。 「……くそっ……!」 蓮はシーツを握りしめ、ベッドから跳ね起きた。  床に散らばる衣服――見覚えのある、利衣子が昨夜着ていたドレスと、そして下着。蓮の目に映ったそれが、何よりも残酷だった。 「……なんで……どうして……」 喉が乾く。心臓が暴れ、指先が震える。  胸の奥から湧き上がるのは、怒りでも絶望でもなく、ただ――自分への嫌悪。 そのとき、ベッドの上で利衣子がわずかに身じろぎした。  長い髪が肩を滑り、眠たげに目を開ける。  そして、唇の端に、ほんのりと笑みを浮かべた。 「……蓮さん……おはよう」 その声音はどこか艶を帯び、勝ち誇ったような響きを含んでいた。 「……っ」  蓮の喉が音を立てた。 利衣子はゆっくりと身体を起こし、シーツを胸元まで引き寄せながら
last updateLast Updated : 2025-11-27
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第十七話 男の罪

利衣子は一瞬怯んだように目を伏せたが、次の瞬間、唇に笑みを戻した。 「そんなに怒らなくてもいいのに。……責任、取ってくれるんですよね?」 その言葉が、刃のように蓮の胸に突き刺さる。  脳裏をかすめたのは、玲の顔。  優しく笑う彼女の横顔。  “あなたを信じてる”と、あの夜、涙ながらに言ってくれた声。 ――終わった。 その瞬間、全てが崩れた気がした。  蓮は震える手で利衣子の肩をつかみ、激しく揺さぶった。 「立て! ここから出て行けッ!!」 「れ、蓮さん……? どうしたの……?」  「出て行けって言ってるんだ!!」 怒鳴り声がホテルの壁に反響する。  利衣子の瞳に涙が滲む。だが、それは怯えの涙ではなかった。  その奥には、冷たい嘲笑があった。 「……いいんですか? 本当に、こんなことして……」  「黙れ!」  「じゃあ、私のこと……なかったことにするんですね」  「そうだ! 二度と俺の前に現れるな!」 利衣子は静かに笑った。  唇にかすかな紅を残したまま、拾い集めたドレスを抱えて立ち上がる。  「ふふ……そんな顔しなくても。――でも、きっとまた会えますよ。運命なら」 その言葉を残し、彼女はヒールの音を響かせて部屋を出ていった。  ドアが閉まる音が、やけに重く響いた。 静寂が戻る。 ――沈黙の中で、蓮は崩れ落ちた。 喉の奥から込み上げるものを抑えきれず、洗面所へと駆け込む。  冷たい大理石の床に膝をつき、便器に手をついた瞬間、胃の中のものをすべて吐き出した。酸っぱい匂いとともに、胸の奥まで焼けるような痛みが広がる。 「う……っ、はぁ、はぁ……」 息が苦しい。  鏡の前に立ち、蛇口をひねる。冷たい水で顔を洗い、何度も口をすすいだ。  だが、どれだけ洗っても、肌に残る彼女の匂いが消えない。  頬、首筋、胸元――赤い痕がいくつも浮かび上がっている。  それはまるで、罪の烙印のようだった。 鏡の中の自分が、別人のように見えた。  頬はこけ、瞳は赤く濁り、唇には血の気がない。  まるで、何かを失った亡者のように。 「俺は……何をしてるんだ……」 掠れた声が漏れる。  あれほど大切にしてきたものを、一瞬で壊した。  自分の手で。 思考の奥に、玲の笑顔が浮かんだ。  涙で濡れた頬、抱きしめたときのぬ
last updateLast Updated : 2025-11-27
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第十八話 残酷な罪悪感

利衣子が去ったあと、ホテルの部屋には重苦しい沈黙だけが残った。  柊 蓮はトイレで散々胃の中身を吐き出した後、ベッドの端に腰を下ろし、額を押さえたまま動けずにいた。 吐き気と耳鳴りが止まらない。  脳裏には、絡み合った白いシーツと女の肌の記憶が、まるで悪夢のようにこびりついていた。 ――昨夜、何が起きたのか。  断片的な記憶の中、利衣子の笑みだけが鮮明に浮かぶ。  甘い香水の匂い、熱い吐息、そして目が覚めると、自分の手が彼女の背を抱いていたという感覚。  頭の奥が焼けるように痛い。  先ほどまで裸の女が胸の中で眠っていた光景を、どうしても消し去ることができなかった。 「俺は……最低だ……」  かすれた声で呟く。  あれほど誓ったのに。  玲だけを愛すると、誰よりも幸せにすると――その約束を、わずか一晩で踏みにじった。 鏡の前に立ち、顔を洗いながら、蓮は指輪に目を落とした。  玲とお揃いの誓いの指輪。  かつては希望の証だった金の輪が、今は残酷な鉄鎖のように思えた。  指に巻きつく冷たい金属が、彼を責め立てる。 (玲……お前に、なんて言えばいい……)  罪悪感が喉を締めつけ、呼吸すら苦しくなる。  この任務が終わったら、まっすぐ彼女の元へ帰るつもりだった。  それなのに、自分は――。 今回の任務は、黎明にとって重要な潜入作戦だった。  関西を拠点とする対立組織〈神威会(かむいかい)〉の若頭、黒澤剛士が率いる西條組。  彼らは海外の武器密輸ルートを掌握しようと暗躍していた。  蓮はその動きを阻止するため、表向きは貿易会社のバイヤーを装い、潜入していた。 裏社会の取引現場は、常に死と隣り合わせだった。  黒澤は冷酷な男で、取引相手の裏切りを一度でも疑えば、その場で撃ち殺すと噂されている。  蓮も幾度となく彼の側近・鷲尾の目の前で、命の駆け引きを経験してきた。  銃の重み、血の匂い、そして人間の恐怖――。  それらが日常になっていた。 だがようやく、黎明の諜報網と協力し、密輸ルートを封鎖できる目途が立った。  関西での任務は、終わりを迎えようとしていた。  あと一歩で、東京へ帰れる。玲のもとへ戻れる――  そう思っていた矢先に、この失態だった。ホッとして気が抜けたのか… 「……連絡をしなきゃ……」  震える
last updateLast Updated : 2025-11-27
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第十九話 利衣子の策略

スナック“琥珀”の裏口。  雨の匂いとネオンの明滅の中、利衣子が彼を壁際に押しつけた。 ――「お願い、協力して。あなたのアニキに会いたいの」  ――「頼むわ、東条くん。私、本気なの」 甘い香水の香り。囁くような声。  彼女の唇が首筋をなぞり、熱い吐息が肌を滑る。  圭吾の理性は、その瞬間に砕け、気づけば頷いていた。  ――女の色香に、完敗だった。 (まさか……あの女が、本気でアニキを……)  胸の奥がざわつく。だが、利衣子の狙いはもっと冷酷なものだった。 「……ふざけるな!!」 蓮の拳が震える。  怒りと後悔が、胸の奥で爆発した。 「俺のことを“狙ってた”……最初から、仕組まれてたってわけか」 圭吾は何も言えず、ただ俯いた。  蓮は深く息を吐き、冷たく言い放った。 「……もういい。これ以上、俺の前に現れるな」 その声には、冷たい怒りと絶望が混じっていた。  圭吾は唇を噛み、何も言えぬまま部屋を出ていった。 残された蓮は、鏡の前に立ち尽くす。  映るのは、誇りも信頼も、そして愛も失った男の姿だった。 ――このままでは済まされない。  利衣子は、自分を陥れた。  何のために。誰の指示で。 蓮は深呼吸をし、父・晴臣へ暗号通信を送った。  「……父さん。任務は一応、終わりましたが……恐らく、俺はハニートラップにかかりました」 しばらくして、通信が返る。  『……馬鹿者が!! 何をしている!!』  叱責の声が、低く響く。  蓮は頭を下げたまま、沈黙した。  『相手は西條組か。お前の行動はどうせもう監視されている可能性がある。すぐに帰還しろ。組織が動く』 通話が切れた。  拳を握り締めたまま、蓮は膝を折る。  罪悪感と屈辱が混ざり合い、胸が張り裂けそうだった。 ――その数時間後。 ホテルを出ようとした蓮のもとに、一通の封筒が届いた。  中には写真。  白いシーツの上で眠る彼と、裸の利衣子が抱き合う姿。  背筋が凍った。 封筒の中には、赤い口紅で書かれた一枚のメモが添えられていた。  ――「あなたが逃げても、私がついていく」 利衣子の策略だった。  彼女は西條組の幹部・鷲尾の命を受けていた。  「黎明の跡取りを堕とせ。色気で、破滅させろ。」  それが命令だった。  そのために、東条を利用し、
last updateLast Updated : 2025-11-28
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第二十話 敵対組織の思惑

ホテルの部屋から追い出されたあと。  利衣子は、近くのビジネスホテルに部屋を取り、鏡の前に腰を下ろした。  頬に残る紅潮を指先でなぞりながら、ゆっくりと長い黒髪をとかす。  その動きには、怯えも動揺もない。  ただ、鏡の奥に映る自分を冷静に観察する女の目だった。 「――まさか、本当に寝ちゃうなんてね」  ポツリと呟いた声が、微かに笑っている。  唇の端がゆるやかに上がり、やがて妖艶な弧を描いた。 昨日の夜、確かに怖かった。  あの男――柊 蓮。  彼の視線は鋭く、獣のように研ぎ澄まされていた。  ほんの少しでも隙を見せれば、魂ごと射抜かれそうな危うさを持っていた。 そんな男が、今朝、自分の隣で無防備に眠っていたのだ。  腕の中で静かな寝息を立てるその姿に、思わず胸がざわついた。 ――これは仕事、ただの任務。  そう自分に言い聞かせながらも、心のどこかが甘く痺れていた。 バッグの奥からスマートフォンを取り出す。  そこには、昨夜こっそり撮った一枚の写真。  ベッドの上で、眠る蓮の隣に並ぶ自分。  シーツの皺、絡まる髪、そして男の腕。  男の首筋に残した、熱い口づけの跡。それだけで、十分すぎる“証拠”だった。 「本当に欲しくなっちゃったわ、あの男。でもこれで……逃げられないわね」  唇をなぞりながら、利衣子は笑った。 最初はただの“興味”だった。  若くして地位も金もあり、整った顔立ち。  いつも冷静沈着で、女を寄せつけないあの雰囲気。  まるで氷のような男。  その氷を溶かしてみたい――そんな軽い好奇心だった。 だが、ある日、鷲尾に呼び出された。  西條組の幹部であり、裏の密輸ルートを牛耳る男。  彼は煙草の煙を吐きながら、薄暗いバーの奥で彼女に言った。 「利衣子。お前にしかできねぇ仕事がある」 その声は低く、背筋に冷たいものを這わせた。 「例の黎明(れいめい)の若造――柊 蓮。あいつを堕とせ」 利衣子はそのとき、意味が分からなかった。  「堕とせ」とは、どういう意味か。  鷲尾は笑いながらグラスを回す。 「お前は顔がいい。体も使える。少し甘い声を出せば、男なんざ落ちる。  黎明の跡取りを堕とせば、西條の未来は変わるんだ。あのガキを壊せ」 そのとき、利衣子の胸に湧いたのは、恐怖ではなく奇
last updateLast Updated : 2025-11-28
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