All Chapters of 黎明の風と永遠の指輪ー夜の世界で出会った二人、危険で甘い約束ー: Chapter 31 - Chapter 40

130 Chapters

第三十一話 壊れた男

 ――そこは、戦場の跡のようだった。 床には割れたグラスと酒瓶。  壁には拳で殴られた跡。  ベッドのシーツは乱れ、空気は血と酒と涙の匂いに満ちている。 その中央で、蓮が壁に背を預け、ゆっくりと呼吸をしていた。  だが、その顔には生気がなかった。  虚ろな瞳で一点を見つめ、まるで魂だけが抜け落ちたようだった。 隼人は一歩近づき、静かに声をかけた。  「……社長……」 蓮の肩がわずかに震える。  視線の先――床に落ちたスマートフォンには、  玲の番号が何度も表示されていた。  発信履歴が何十件も並び、最後の通話には「応答なし」とだけ残っている。 蓮は唇を噛みしめ、掠れた声を漏らした。  「……玲、俺は……お前を守るつもりで、全部を壊した」 その声は、まるで断罪のようだった。  胸の奥が焼けるように熱い。  喉の奥に溜まる嗚咽をこらえながら、蓮は拳を握りしめる。 隼人は膝をつき、そっと肩に手を置いた。  「社長……」  だが、蓮は反応しない。  虚ろな瞳のまま、どこか遠い場所を見つめている。 「玲を……傷つけた」  「……」  「信じさせて、裏切った。俺の手で……」 隼人は拳を握りしめ、視線を落とした。  胸の奥に、言葉にできない痛みが広がっていく。  蓮と玲――二人は互いに不器用なほどまっすぐで、  それゆえに誰よりも惹かれ合っていた。  その絆を、こんな形で断ち切らせるわけにはいかない。 「社長、立ってください。ここにいたら、あの女の思うつぼです。まずはここを出ましょう」  隼人の声は冷静だが、その奥には焦燥が滲んでいた。  「俺たちにはまだやることがある。西条を潰さなきゃ、   玲さんを守れない」 蓮はわずかに顔を上げた。  目の縁が赤い。  「……もう、俺にそんな資格はない」  「資格なんて関係ありません!」  隼人は珍しく声を荒げた。  「玲さんは、あんたをまだ信じてます!写真を見ても、真実を知りたがってた。   俺は……二人を見てきたんです。あんなに互いを想い合う人間、他にいません!!」 蓮の拳が震える。  唇が何かを言いかけて止まり、静かに閉じられた。  部屋の外から、遠くのサイレンの音がかすかに聞こえる。  夜は深く、空気は冷たい。  だがその冷たさよりも、蓮の胸
last updateLast Updated : 2025-12-02
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第三十二話 黒幕の影

夜明け前の街を、神崎隼人は無言で歩いていた。  冷たい風が頬を打ち、吐く息が白く揺らめく。  眠らぬ街の灯りが、どこか不安げに瞬いていた。  頭の奥で、何かがざわめいている。  ――どうも、おかしい。 利衣子の仕掛けた罠、そしてその背後にいる西條組。  だが、彼女がいくら柊 蓮との情事の写真や動画を鷲尾に送ったところで、  黎明コーポレーションとの取引が頓挫するはずがない。  黎明の資金力と政治的な影響力を考えれば、  ひとりのスキャンダルで揺らぐような組織ではないのだ。 「……もっと、大きな何かが動いている」  隼人は小さく呟いた。  写真は“引き金”にすぎない。  本当の目的は、黎明の中枢を――内部から崩すこと。  つまり、蓮を失脚させ、会長・柊晴臣を孤立させるための仕掛けではないか。 黎明の後継者を貶め、血統そのものを疑わせる。  それが鷲尾の狙いだとしたら、あまりに冷酷で、だが理にかなっていた。  隼人は歩を止め、夜明けの街を見上げる。  東の空が、かすかに青白く染まり始めていた。  (……蓮さん、あんたは狙われた。個人としてじゃない。黎明そのものとしてだ) しかし、その推測を本人に伝えようとしても、  返ってくるのは、あまりにも虚ろな反応だけだった。 「……社長、聞いてますか?」  隼人の声が、静かなリビングに落ちた。 ソファに腰かけた蓮は、無表情のまま窓の外を見つめていた。  朝焼けがカーテン越しに差し込み、頬を照らしても、瞳は微動だにしない。  まるで、心そのものがどこか遠くへ行ってしまったようだった。 「社長、利衣子は単なる女じゃありません。背後に西條の鷲尾がいます。   あの女があなたを狙ったのも、計画の一部かもしれないんです」 隼人の声には焦りがあった。  しかし、蓮は何も答えない。  指先でグラスを弄びながら、ただ氷が溶けていく音を聞いている。  沈黙の中、氷がコトリと鳴るたびに、隼人の胸がざわめいた。 「……放っておけ、隼人」  「でも……!」  「もう、どうでもいい」 その一言が、隼人の胸を冷たく貫いた。  かつて“誰よりも熱い正義”を持っていた男の声ではなかった。  あの誇り高く、不器用で、真っすぐな柊 蓮はもういない。  そこにいるのは、愛と信念を失い、虚無
last updateLast Updated : 2025-12-02
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第三十三話 黎明に沈む光

――翌朝。 本社・黎明コーポレーションタワーの最上階。  重厚な扉の向こう、会長室には静寂が漂っていた。  外のガラス窓からは冬の光が差し込み、  白い煙のような朝靄が、ゆっくりと街を包んでいる。 蓮はその部屋へ呼び出されていた。  黒のスーツを着てはいるものの、  肩は落ち、どこかよろめくように歩いている。  その背中を見送りながら、廊下に立つ隼人は胸を締めつけられた。 (会長の前で、蓮さんがどう見えるのか……) 会長室の扉が閉まると、厚い静寂が廊下に残った。  中からは晴臣の低い声がかすかに聞こえてくる。 「報告を聞こう。関西の交渉はどうなった」 「……あぁ……その……」 蓮の声は、明らかに震えていた。  具体的な数字も、取引先の動きも、何ひとつ口にできない。  会長の机の上に置かれた報告書の束を見ても、  焦点の合わない瞳は、ただ空中を彷徨っている。 晴臣は静かに葉巻を置いた。  長年の修羅場をくぐり抜けてきた男の、  冷ややかで、しかしどこか父の情が滲む眼差し。 「……どうした。お前らしくないな」 だが、蓮は答えない。  沈黙の中で、時計の針が一分を刻む音がやけに大きく響いた。 「――もういい。下がれ」 晴臣の低い声が、静かに部屋を切り裂いた。  その言葉に、蓮は深く頭を下げ、無言で部屋を後にした。  その背中を見送る晴臣の瞳に、確かな疑念と苛立ちが浮かんでいた。 ――息子が、壊れていく。 彼にはその事実を認めるしかなかった。  机の上で、葉巻の煙が細く立ちのぼる。  その白い煙が、まるで黎明の未来を覆う暗雲のように見えた。 数分後、会長室にノックの音が響いた。  「どうぞ」  入ってきたのは、関西に同行していた部下だった。  緊張の面持ちで、タブレットを差し出す。 「……会長。ご報告があります」  「なんだ」  「柊社長の件です。西條組と繋がりを持つ女――利衣子という者と、   ……その、関係を持たれていたようで」 晴臣の眉がわずかに動いた。  部下がタブレットの電源を入れる。  画面には、ホテルのベッドで眠る蓮と、隣に並ぶ女の姿。  利衣子の顔が、はっきりと映っていた。 「……鷲尾の仕業か」  晴臣の声が低く響いた。 「はい。西條の若頭が、これを各方面に流そうと
last updateLast Updated : 2025-12-02
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第三十四話 消えた光

夜の帳がゆっくりと降りるころ、柊 蓮はひとり車のハンドルを握っていた。  フロントガラス越しに流れる街の灯りが、滲んで見える。  街は華やかに輝いているのに、彼の心の中だけが、ひどく暗かった。 ――玲。  その名を心の中で呼ぶたび、胸の奥が痛んだ。 昨日の夜、あの瞬間。  玲の顔に浮かんだ涙が、まぶたの裏から離れない。  あの涙は怒りでも、失望でもなかった。  もっと深く、もっと静かに――  まるで心の奥の何かが壊れてしまったような、そんな泣き方だった。 (俺が悪かった。どんな言い訳をしても、もう信じてもらえないかもしれない)  ハンドルを握る手に力が入る。  指先が白くなるほど、強く握りしめていた。 それでも、蓮は行かずにはいられなかった。  どれほど拒まれても、誤解されても、  彼女に会って、謝って、伝えたかった。 「もう一度、あの頃のように笑ってくれたら……」 その願いだけを胸に、蓮は夜の街を走らせていた。  フロントガラスの外、信号が赤から青に変わるたび、  玲の笑顔が一瞬、幻のように浮かんでは消えた。 時計の針が八時を指したころ、  蓮は「クリスタルローズ」の入るビルの前に車を停めた。  見慣れた場所。  玲と何度も笑い合ったあの夜の灯りが、彼を迎えてくれるはずだった。 しかし、街の喧騒の中に立つそのビルは、  どこか違う――  見慣れたはずのネオンが、妙に冷たく見えた。 蓮はゆっくりとエントランスを抜け、無意識のようにエレベーターのボタンを押した。  “12”の数字が静かに光る。  狭いエレベーターの中、上昇音が耳に響くたび、心臓が高鳴った。  (会える。ちゃんと話そう。信じてもらえなくてもいい、ただもう一度――) そう願うように目を閉じる。 チン――と軽い音が鳴り、扉が開いた。 しかし、出迎えてくれるはずの華やかなピアノの旋律も、  花の香りも、どこにもなかった。  廊下は暗く、人の気配がまるでない。  空調の低い音だけが、冷たく響いている。 いつもなら、笑い声やグラスの音、  玲の柔らかな声が廊下に溶けていたはずだ。 だが今、そこにあるのは――無音。 ネオンの反射が床に歪んで映り、蓮の影を細く引き伸ばしていた。 (……おかしい。どうして、こんなに静かなんだ) 不安が
last updateLast Updated : 2025-12-03
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 第三十五話 消された痕跡

時間が止まったように、蓮は張り紙を見つめ続けていた。  そこには、たった数行の文字―― > “諸事情により、『クリスタルローズ』は閉店させていただきました。” 乾いたフォントのその文字が、まるで氷の刃のように胸に突き刺さる。  喉の奥から絞り出すように息を吐く。  信じられない。昨日まで玲がここにいたのに。  彼女の声も、笑顔も、ここにあったのに――。 蓮の膝が崩れ、背中が壁に沈む。  冷たいコンクリートの感触が、皮膚を刺した。  視界が揺れ、遠くで誰かの足音が聞こえる。  エレベーターの扉が開く音。  金属の擦れる音が、妙に大きく響いた。 その中から現れたのは――神崎隼人だった。「……社長!」 その声には驚きと焦りが入り混じっていた。  隼人が駆け寄り、倒れかけた蓮の身体を支える。  冷たくなった肩を抱き起こし、彼は驚愕と心配の入り混じった目で見つめた。「しっかりしてください! 一体、どうしたんですか!」 蓮は焦点の合わない目で、ぼんやりと隼人を見つめた。  頬の色はなく、唇がかすかに震えている。  まるで魂だけが、どこか遠い場所に置き去りにされたようだった。 乾いた唇が、かすかに動く。「……玲は……?」 掠れた声。夢の中から漏れ出したような問い。  隼人は黙ったまま、ゆっくりと首を横に振った。  何も言葉が出てこない。  “いなくなった”――その現実を、今の蓮にどう伝えればいいのか分からなかった。「……社長、とにかくここを出ましょう」 隼人は静かに言い、蓮の腕を取った。  抵抗する力もなく、蓮はそのままエレベーターへと導かれる。  金属の扉が閉まり、上階の廊下が視界から消えた。  機械の振動が、静かな密室に響く。 蓮は壁にもたれ、目を閉じたまま、微かに呟いた。「……玲が、いない……どうして……」 その声に答える者はいなかった。  ただ、エレベーターの降下音だけが、二人の間に虚しく響いた。 地上に降り立つと、夜風が冷たく頬を打った。  冬の匂いがした。  街のネオンが濡れたアスファルトに滲み、行き交う車のライトが幻のように揺れている。 隼人は運転席に回り、無言のまま蓮を後部座席へ乗せた。  エンジン音が低く響き、車体がゆっくりと動き出す――その瞬間。「……玲の家へ行く」 蓮が低く
last updateLast Updated : 2025-12-03
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 第三十六話 黒い契約

――一方その頃、関西地区。  西條組本部ビル最上階。  金と漆黒を基調にした応接室は、夜の帳の中で獣のように光を放っていた。  重厚なソファ、燻銀の葉巻ケース、壁に掛けられた巨大な日本刀。  そのすべてが“力”を象徴していた。 外の窓には、関西の街の灯が滲み、ネオンが血のような赤を落としている。  サックスの低音が流れ、煙草と酒の匂いが入り混じる。  鷲尾剛――西條組の若頭にして、“黒き参謀”と呼ばれる男は、  革張りのソファに深く腰を下ろし、葉巻をくゆらせながら目の前の女を見下ろしていた。 その視線の先には、紅いドレスをまとった女――利衣子。  高級酒のグラスを指で転がしながら、猫のように笑う。  瞳の奥では、獲物を見定めるような光が揺れていた。「柊 蓮なんてたいしたことないじゃない。  裸の写真を婚約者に送っただけで、大騒ぎだったわよ。  私、いい仕事したんだから……ねぇ、なにかご褒美ちょうだい?」 鷲尾の口角がゆっくりと上がる。  彼は手にしていたグラスをテーブルに置き、重い身体をわずかに前へ。  利衣子の腰に、分厚い手をまわした。「お前はかわいい奴だな。……そうだな、ご褒美に――一晩中、抱いてやる」 その声は甘く、同時に冷酷だった。  利衣子は媚びるように笑いながら、男の胸へと身を預ける。  だが、その笑みの奥に潜むのは、したたかな計算。 ――この男を利用すれば、自分は“裏社会の頂点”に近づける。  鷲尾に尽くせば、神威会の庇護が得られる。  金も地位も、そして何より「自分という存在の証」を手に入れられる。「嘘じゃないわよね? 蓮はダメ男だったわよ。酔ってて、使い物にならなかったわ」 利衣子が唇を歪めると、鷲尾はわずかに眉を動かした。  その声には愉快と軽蔑が混じっている。「お前……本当に柊に抱かれたのか?」 利衣子は唇の端を吊り上げ、挑発するように囁いた。「さぁ、どうかしら。でも“抱かれたように見える”写真なら、たっぷり撮ってあげたわ」 その瞬間、鷲尾の瞳が獣のように鋭く光る。  利衣子がただの色仕掛け要員でないことを、彼は知っていた。  彼女は“黎明を崩すための鍵”――そう呼ばれる女。 鷲尾は葉巻を灰皿に押し付け、ゆっくりと立ち上がった。  分厚い窓の向こう、遠くに輝く大阪湾の光を見
last updateLast Updated : 2025-12-03
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第三十七話 黎明の“女”

「……それで、次はどうするの?」 利衣子が問うと、鷲尾はゆっくりと振り向いた。  その瞳は冷たく、蛇のように光る。「晴臣を縛るための鎖は、もう一つある。“女”だ」「……女?」「黎明の女、成瀬 玲。柊の婚約者だ」 利衣子の目がわずかに見開かれる。 「彼女、ただのホステスじゃないの?」「表向きはな。だがあの女、晴臣の資金ルートを知ってる。  “クリスタルローズ”は隠れた情報拠点だった。  政治家への裏金、建設利権、金融ルート――  あの店を介して、黎明は“表の金を裏に流す”仕組みを作っていたんだ」 鷲尾はテーブルの上の地図を指差した。  港湾ルート、海外企業との取引記録、すべてが赤いラインで繋がっている。「だから、あの店ごと消しておかねぇと、俺たちの計画は水の泡になる」 利衣子は息を呑んだ。(消すって…どうやって?) 玲と店の存在を“消すため”の仕組まれた作戦。「お前は柊を壊した。いい働きだ。あとは玲を消す。あの女がいなくなれば、柊晴臣も動けねぇ」 鷲尾の声が低く響く。  その眼光は、鋼の刃のように冷たい。「……まさか、玲を……?」「殺す必要はねぇ。ただ、“世から消す”だけだ。」「消すって…」利衣子の顔が青ざめる。「消すってのは、外国かなんかに売り飛ばすって意味だ。ただ…」鷲尾は舌なめずりをし、「ただ売り飛ばすんじゃもったいねぇな。あんないい女。しばらく俺の玩具にしてからってのもありかな」そう言い、厭らしく笑う。利衣子は嫌悪感を隠そうともせず「ねえ、あの女が資金ルートを知ってるなら、ただ売るんじゃなくてその情報を使って一儲けすればいいんじゃない!!」と言った。鷲尾は利衣子の顔を見て笑い「お前も悪い女だな」と言ったが、「いや、あの女は黒澤のアニキの命令で、とにかくどこかへ消せって言われてるんだ。だからその前に俺が手をつけたってわかんねぇ」と否定した。「黒澤さんが?」「ああ、ただ、黒澤のアニキのもっと上からの命令みたいだからな、とにかく柊とは終わったなら簡単に捕まえられるだろう」と鷲尾がまたニヤニヤする。 利衣子の背筋を、冷たいものが這い上がる。  いくら闇の仕事に慣れていても、この計画の残酷さには息を呑んだ。  彼女の指先が、かすかに震える。 (――本当に、そんなことしていいの?)  心の奥で、わずかな躊躇が
last updateLast Updated : 2025-12-04
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第三十八話 夜明けの行方

蓮のマンションを飛び出した玲は、ヒールの音を乱しながら、夜の街をさまよっていた。 頬を伝う涙が止まらない。何度ぬぐっても、次から次へと溢れ出してくる。 肩で息をしながら、彼の名を呼ぼうとしても、声にならなかった。 喉が焼けるように痛い。 ただ、胸の奥に残るのは、裏切られた痛みと、信じたいという祈りの狭間。 ――どうして、あんな写真が送られてきたの。 ――どうして、何も言ってくれないの。 思考は混乱していた。 それでも、あのマンションでの光景が焼き付いて離れない。 ベッドの上に裸でいた“女”。 驚き、慌てて弁明しようとした蓮の顔。 そして、自分を見て絶望したような瞳。 あの瞬間、世界の色がすべて消えた気がした。 信じたかった。 どんなに噂されても、裏切られても、彼の言葉だけは信じていた。 どんな夜も、どんな孤独も、あの人の声ひとつで乗り越えられた。 だけど――あの光景だけは、現実を突きつけるには十分すぎた。 街は静かだった。 明け方が近いというのに、都会の夜はいつまでも明けない。 ビルのネオンは眠らず、誰かの欲望と絶望が混ざり合って光っている。 玲はその光の中を、まるで行き場をなくした影のように歩いた。 視界が滲み、信号の赤と青が涙に溶けていく。 足が痛い。 もう歩けない――そう思った瞬間、目の前に小さな公園が見えた。 玲はふらつく足でベンチにたどり着き、そこに腰を下ろした。 冬の風が、濡れた頬を冷たく撫でていく。 両手でバッグを抱きしめる。 その指には、蓮からもらった指輪が入っている。 別れの言葉を言われたわけじゃない。 でも、もう二度と――彼に会えない気がしていた。 夜空を見上げる。 雲の切れ間から、わずかに星が覗いている。 けれど、光は遠く、霞んでいた。 まるで、手を伸ばしても届かない“希望”そのもののように。 冷たい風が吹き抜ける。 薄いコートの裾が翻り、玲の体が震えた。 心の奥まで凍りつくような寒さ。 泣き疲れたせいか、まぶたが重くなり、意識が遠のきそうになる。 ――その時だった。 低く、ほとんど音のしないエンジン音が近づいてくる。 振り返ると、黒光りする高級車がゆっくりと停まった。 ヘッドライトが霞む夜霧を照らし、その光の中で車体が浮かび上がる。 ――誰もが憧れる威圧感と
last updateLast Updated : 2025-12-04
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第三十九話 帝王の影

今夜の《十八会》の席は、いつになく異様な緊張感に包まれていた。 豪奢なシャンデリアが静かに揺れ、金色の光がワイングラスの縁を細く照らしている。 銀のフォークが皿に触れる音さえ、まるで刃物が研がれるように冷たい。 上座に座る男――桐嶋宗一郎。 柔らかな笑みを浮かべながらも、その目は一切笑っていなかった。 深く座るその姿勢から、ただならぬ威圧が放たれている。 周囲の空気が沈黙に支配され、誰もが言葉を選びながら呼吸しているような、 そんな異様な静けさが、広間の隅々まで漂っていた。 宗一郎の周囲には、政財界の巨頭たちが顔を揃えていた。 議員、大手銀行頭取、大手通信グループの社長、裏社会と繋がる商社の会長。 いずれも《十八会》の頂点に位置する化け物のような存在ばかりだ。 その中に、黎明コーポレーションを率いる柊晴臣、そして後継者である蓮の姿もあった。 蓮にとって、これが初めての《十八会》。 黎明の次代として紹介されて以降、彼は緊張のあまり喉が張りつくのを感じていた。 何を話すべきか、そして何を決して口にしてはならないのか――。 それを誤れば、一夜にして黎明の地位を失う。 この場は、国家の中枢を裏から操る者たちが集う“静かな戦場”なのだ。 笑い声が広間を渡るたびに、誰もが宗一郎の表情を探る。 その機嫌ひとつで、企業の命運が変わる。 ワインの香りが漂うたび、蓮は喉の奥で息を殺した。 重ねられたグラスの音が、妙に生々しく響く。 「……」 蓮はグラスの水を一口飲み、黙って他の席の会話に耳を傾けた。 宗一郎が軽く頷くだけで、笑いが起こる。 逆に、眉を動かせば、全員が息を止める。 そんな異常な支配構造が、まるで儀式のように繰り返されていた。 そのときだった。 一人の老会長が、ワインを掲げながら無邪気に笑い、宗一郎へと話を振った。「そういえば桐嶋会長、今日は御子息はご欠席とか。若社長はお忙しいのでしょうな?」 その言葉に、空気が一瞬、凍りついた。 宗一郎の目が、氷のように冷たく光る。 次の瞬間、彼はゆっくりと笑みを作った。「――ああ。あいつは“冷静”すぎる。血はつながっているが、考え方がまるで違う。だがまぁ、あの性格だからこそ、うちの経営は安泰だ」 その口調は穏やかだったが、言葉の刃は鋭く、誰も笑えなかった。 やがて、取
last updateLast Updated : 2025-12-04
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第四十話

しかし、次の瞬間――その決意が音を立てて揺らぐ。「ところで会長、娘さんの件はどうなりました? 随分お怒りとか」 酒気を帯びた老会長の言葉に、場が凍る。  宗一郎の口元がぴくりと歪んだ。  あの穏やかな微笑みが、ほんの一瞬で冷酷な仮面に変わる。「――勝手に婚約したと思ったら、どこかのあばずれに寝取られたか何かで家に帰ってきた。恥さらしもいいところだ。その“あばずれ”を探し出して、二度とこの国で名を名乗れぬようにしてやる」 低く、静かな声。  だが、その言葉の中には、明確な“殺意”があった。  あまりにも自然に放たれたその憎悪に、誰も息をすることができなかった。 蓮は反射的に息を呑んだ。  心臓が大きく跳ねる。  まるで、自分のことを言われたような錯覚。 (……まさか、俺と玲のことじゃないよな?) そう思いかけて、すぐに頭を振る。  そんなはずはない。玲の実家は、ごく普通の家庭。  サラリーマンの両親に育てられ、裕福でも特別でもなかった…。しかも苗字が“成瀬”だ。 ――少なくとも、玲はそう話していた。 だが、胸の奥に妙な違和感が残る。  宗一郎の話しぶりは、単なる噂話ではなかった。  “娘を傷つけられた”――その怒りが、本物の感情として宿っていた。 蓮は無意識のうちに指を組み、震えを抑えた。「会長。男の方は放置していいんですか?」十八会の重鎮の1人が聞くと、桐嶋宗一郎はニヤッと笑い、「ああ、うちの娘が選び間違えたとは思わんからな。我々も男だったらわかるだろう。たまには違う料理も味わってみたいものだ。それができない男の方が器が小さい」そう言って周りを見渡した。「その男には、一度会ってみたかったがな」桐島宗一郎はそう言って、酒の入ったグラスを掲げた。蓮は考え事をしていて、宗一郎が最後に言った言葉を聞いていなかった。 (……そういえば、関西から帰ったら、お互いの親に会おうって――玲と約束してたな) 彼女の笑顔が脳裏に浮かぶ。  どんなに忙しくても、彼女は必ず笑っていた。  コーヒーを淹れ、肩に触れ、「大丈夫」と微笑んでくれたあの優しい顔。  もう二度と、その笑顔に触れられないかもしれない。 胸の奥が、またずきりと痛んだ。  まるで何かがゆっくりと崩れ落ちていくような感覚。 ――限界だった。 蓮は静かに席を立っ
last updateLast Updated : 2025-12-05
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