Semua Bab 黎明の風と永遠の指輪ー夜の世界で出会った二人、危険で甘い約束ー: Bab 111 - Bab 120

130 Bab

第百十一話

食卓テーブルの向こうでその光景を見ていた龍一は、静かにナイフとフォークを置いた。  宗一郎が玲華を抱き寄せ、涙を拭ってやる――そんな光景は、世間の誰も知らない。  十八会の頂点、日本経済の頂点と謳われる桐嶋宗一郎が見せる「父親の顔」など、家族以外の誰も見られるはずがなかった。(日本経済のトップ、十八会のトップの会長のこんな姿は、家族しか見ることができないな) そう心の中で呟き、龍一はワイングラスの縁を指でなぞる。  その仕草にはどこか懐かしさが滲んでいた。 ――龍一の記憶の中には、父の桐嶋宗一郎が、夜の街で相沢瑛斗を拾って来た日のことが思い浮かんでいた。 あの夜も今日と同じように、どこか空気がざわついていた。  いつも通り遅い時間に父が帰ってくるはずが、階下から聞こえてきた声は普段と違う、妙に柔らかいものだった。  何が起こっているのかと興味を持った龍一は、自室のドアをそっと開け、廊下の手すりに肘を掛けながら階下を覗き込んだ。 足音に気づいたのだろう、向かいの部屋のドアが少しだけ開き、玲華も顔を覗かせた。  幼い玲華は、兄の龍一の様子を見てから、同じように階段の踊り場へ出て、玄関を見下ろす。 玄関のドアが開く音が響き、宗一郎が入ってきた。  そのすぐ後ろには―― 龍一と同じくらいの年の男の子が、戸惑ったように立っていた。 男の子は一瞬その場に立ち止まり、広い玄関ホールをキョロキョロと見回した。  次の瞬間、ふと視線が上へ向き、龍一と目が合った。 その瞳は怯えでも反抗でもなく――必死に何かを訴えるような、深い暗さと静けさがあった。 だが、その視線はすぐに玲華にも気づき、玲華と目が合った瞬間に頬が赤く染まった。そして恥ずかしそうに俯いてしまった。 ――その少年が、相沢瑛斗だった。 あの日から、瑛斗は桐嶋の家で「家族」として育った。  宗一郎は彼に本当の息子と同じ愛情を注ぎ、龍一は時に兄として、時に友として支えた。 瑛斗とは何でも分け合い、時には助け合い、一緒に育ってきた。  彼の生い立ちも、その過程も龍一は聞いていた。  どれほど過酷で、どれほど不条理で、どれほど血の気のない孤独を味わってきたかを。 それでも瑛斗は前を向いた。  桐嶋に拾われた恩を一生忘れない、と何度も口にしていた。 そして――瑛斗が18歳を迎えた
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第百十二話

 龍一が過去の記憶に沈んでいる間も、宗一郎はずっと玲華の背を撫で続けていた。  娘を包み込むその腕には、かつて瑛斗を抱きしめた日と同じ温度がある。 龍一は椅子にもたれ、静かに目を閉じた。  その胸の奥に浮かび上がるのは、幼い頃の瑛斗の姿だった。 ――あの少年は、泣き虫ではなかった。むしろ涙を見せない子だった。  誰よりも我慢強く、誰よりも自分の感情を押し殺すタイプだった。 それを知っていたからこそ、龍一は彼に言葉以上のものを感じていた。 龍一の視線が玲華へ向く。 瑛斗は、玲華を守った。  命を張って守った。 自分の身を盾にしてまで。(あいつは……玲華を……) 問いは胸の中に沈んでいく。 その時、ソファで宗一郎の胸に寄りかかっていた玲華が、小さく鼻をすすった。 宗一郎は娘の頭を撫で、静かに言う。「……もう泣くな。お前が惚れた男が本物なら、きっと戻ってくる。挽回してみせるさ。」 その言葉に、龍一の眉がわずかに動いた。 龍一は宗一郎の横顔をじっと見つめた。 「……もしもこのまま諦めて消えるのなら、それまでの男ってことだ」 宗一郎が続ける。 龍一は苦笑するように息を吐いた。(そうだな。父さんは昔から、甘やかす時は徹底的に甘やかすが……突き放す時も容赦ない) 玲華は父の胸に頭を預けたまま、かすかに震えながら言った。「うん。……もし、本当にもう一度信じることができたら、ちゃんとパパに紹介するね」宗一郎は頷き「明日のパーティーではうちの娘が世界で一番美人だってことを証明してくれよ。」と玲華の頭を撫で、立ち上がって「おやすみ」と寝室へと消えていった。 玲華は龍一の方を見たが、龍一は微笑みを返すだけだった。宗一郎が寝室へと消えていくと、リビングには小さな静寂が訪れた。  照明の柔らかな光が、玲華の頬に残る涙の跡を淡く照らし、息を呑むほど儚い表情を浮かび上がらせる。 玲華は龍一の方を見た。  その瞳にはわずかな不安と、今にも揺れそうな決意が宿っていた。  龍一は、それを受け止めるように静かに微笑む。「……兄さん、私……明日、ちゃんと笑えるかな」 かすかな声。  震える肩。  龍一はゆっくり立ち上がり、玲華の頭に大きな手をそっと乗せた。「笑えるさ。玲華が選ぶ未来なら、どんな形であれ間違いじゃない」「……うん」 玲華
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第百三話 

そして翌日――。 磨き抜かれた大理石の床に煌めく照明が反射し、まるで星空を逆さに映したように会場全体が光に包まれていた。格式あるシャンデリアの光が降り注ぎ、数百名の招待客の衣装がきらめき、場はすでに熱気と緊張を孕んでいた。 そのざわめきを切り裂くように、一段と強いスポットライトが入口へと向けられた。  招待客たちの視線が一斉に吸い寄せられ、そして――。 龍一が玲華をエスコートして姿を現した瞬間、会場の空気は劇的に変わった。 息を呑む音が、はっきりと聞こえるほどだった。 玲華がまとうドレスは、深い瑠璃色に淡い銀の刺繍が施され、動くたびにまるで月明かりの波が揺れるように光を帯びた。肩に添えられた龍一の手は確かで、二人の歩みは洗練された貴族のように優雅だった。 ドレスの裾が揺れるたび、蓮の胸は苦しく締め付けられた。 失ったと思った。  もう二度と、目の前に現れない――そう覚悟したはずだった。 それなのに。 ――蓮の視界に、玲が鮮やかに蘇る。 昨日まで自分が手放しかけた存在が、まるで夢から引き戻されたかのようにそこに立っている。だが、今夜の玲華はなぜか桐嶋龍一の腕に支えられていた。 その光景は、蓮にとって息を呑むほど眩しく、同時に――刺すように痛かった。 胸の奥が焼けるようだ。  蓮は自分でも抑えられないほど心がざわつくのを感じていた。  昨日まで「終わった」と言い聞かせ、いつかは諦めなければと必死に理性で蓋をしようとしていたのに。 その鼓動は、ひとつたりとも嘘をついていなかった。  蓮は、玲を失っていない。心がそう叫んでいた。 知らず知らずのうちに、蓮は歩幅を大きくしていた。  前席へ向かう足取りは鋭く、まるで引き寄せられるように早まっていく。 隼人はそんな蓮の後ろを歩きながら、いつでも支えられる距離を保ち続けていた。  焦りを見せず冷静に、しかし蓮の背中から溢れる決意をはっきりと感じ取っていた。 会場のざわめきは次第に熱を帯び、空気が重くなる。 龍一と玲華が、ゆっくりと壇上へと向かう。  龍一の表情はいつものように落ち着いていたが、視線は観客の反応を読みながら玲華をしっかりと守っているようにも見えた。 その瞬間に合わせるようにして――蓮はさらに早足になった。 隼人は蓮の背中を見つめ、胸の中でそっと言葉を継ぐ。(社
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第百十四話

 玲華が龍一と会場へ入って行く少し前のことだった。 パーティー会場へ直行せず、玲華は控室でひとり待っていた。  “後で迎えに来る” と言って兄の龍一がドアを閉めて出て行ってから、すでに1時間ほどが経っていた。 鏡台の前に座ると、鮮やかに仕上げられた自分が映っていた。  けれど、その目の奥だけは誤魔化せない。(……綺麗に見えるといいな。今日だけは、ちゃんと立っていたい……) 玲華はそう自分に言い聞かせ、口紅をひき直す。  手元が震えるほどではない。ただ、胸の奥でつかえているものが時折息苦しさをつくる。 その時──コン、コン、とドアがノックされた。「どうぞ」 返事をすると、静かにドアが開いた。 龍一だった。「玲華、準備はできたか?」 龍一は一歩部屋へ入り、玲華の姿を見てほんの少し眉を上げた。  美しい、と表には出さないが、そう思ったのだというのが表情の端に浮かんだ。「兄さん……」 玲華が立ち上がると、龍一は自然に腕を差し出した。  玲華がその腕に自分の腕を絡めた瞬間、龍一の視線が一度だけ柔らかく揺れた。「行くぞ」 その声とともに、ふたりは控室を後にした。 会場の入り口まで来ると、龍一の部下たちが何人も配置についていた。  招待客には見えない位置で、彼らは目に見えない壁のように立っている。 その一番前で頭を下げた男の顔を見た瞬間、玲華は絶句した。「………瑛斗くん…」 声にならないほど小さな声。それでも彼には届いた。 玲華は驚いて兄の顔を見上げる。 龍一は玲華を一瞥すると、「瑛斗は、俺の部下だ」と言った。 玲華の胸に、何かがゆっくりと落ちていく感覚があった。  混乱でも衝撃でもない。  “理解” だ。 もう一度瑛斗の方を見る。  その後ろには──大地がいた。「大地くん?」 大地は笑顔になって、ビースをして見せた。 瑛斗も微笑し、静かに言う。「とても綺麗です、玲華様」 その瞬間、玲華は悟った。 バリで偶然知り合ったように装い、玲華と麻美を見守り続けてくれていた、瑛斗と大地が、実は兄の部下であったということを。 自分を守るために、そして──蓮に関係する“何か”を見極めるために。「兄さんは……ホントに優しいね」 玲華が小さな声で呟いた言葉に、龍一はほんの少し、誰にも分らない程度に口角を上げた。 その顔
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第百十五話 ―桐嶋宗一郎、娘を公にする―

  会場では、すでにパーティーが中盤へ差し掛かり、豪華絢爛な光景と熱気が満ちていた。高い天井から吊るされた巨大なシャンデリアは、無数のクリスタルが光を受けて細かな虹色を散らし、その下で談笑する政財界、芸能界、国際的VIPたちの衣装を鮮やかに照らしていた。グラスが触れ合う澄んだ音が、穏やかなクラシックの生演奏の間をすり抜けるようにしてリズムを刻み、場を一層華やかにしている。 その煌びやかな空間の中で――  桐嶋宗一郎はただ一人、別種の緊張をまとうように静かに佇んでいた。 娘を、公にする。  この一日の重みは、宗一郎自身にしか分からない。 どれほどの権力と財力を握る男であっても、  “娘”という存在を世に示すのは、父としての覚悟を伴う。  娘がいると知られれば、それは同時に“隙”となる。 そこを標的にしようとする者は必ず出る。  敵対勢力にとっては、交渉の材料にもなる。  宗一郎は長い年月をかけて桐嶋家を守り抜いてきたが、  だからこそ彼は、この瞬間まで玲華を表の世界に出さなかった。 だが――今日は違う。 自身の誕生日であり、桐嶋コンツェルン創業記念という節目でもある。  この日を境に、桐嶋家は新たな時代へ進むのだと、宗一郎は腹を括った。(玲華……お前は今日から、俺の誇りだ) その想いを胸の奥深くで噛みしめたその瞬間だった。 会場の入り口付近で、微かなざわめきが起きた。  最初は小さな波紋だったが、すぐに大きな波となって周囲へ広がっていく。 宗一郎が振り返ると―― 龍一にエスコートされ、玲華がゆっくりと歩いて来る。 その瞬間、宗一郎の表情に柔らかい光が宿った。  玲華の姿は、どこから見ても気品に満ち、凛としていながらも優しい。  深い色のドレスは、まるで夜空の一部を切り取ったかのように美しく、  そこに添えられた龍一の手が、玲華を一層輝かせているようだった。(今日がその時か……) 誇らしさと覚悟が、宗一郎の胸を静かに満たす。 周囲の客たちも次第に色めき立ち始めた。「会長のなに? 奥様?」 「いや、社長の奥様なんじゃないのか?」 「は? 社長、独身だってさっき……」 さまざまな憶測が飛び交い、目の前の光景にざわめきが加速する。  秀麗な令嬢が龍一に伴われて姿を現せば、誰もが関係を知りたがる。  噂好きな客
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第百十六話 ―突き動かされるままに―

蓮の胸の奥では、激しい鼓動が一瞬たりとも止まらなかった。  まるで心臓そのものが、玲の名を呼び続けているかのように、苦しいほどに脈打っていた。 玲の姿が視界に入った瞬間から、周囲の音がすべて遠のき、熱にゆらぐ水の中に沈んだように、世界がぼやけた。  聞こえていたはずの拍手も、談笑も、乾杯の音も、もはや意味を成さない。(……玲) その名を心の中で呼ぶたび、胸の奥で焼けるような痛みが走る。  痛みなのに、懐かしさと切なさが入り混じり、崩れ落ちそうになる。 失ったと思った。  あの日、離れていった背中を見送ったあの瞬間、もう二度と目の前に現れることはないのだと、覚悟した。 それなのに──今、そこにいる。 会場の灯りを受けて輝き、誰よりも美しく、そして少しだけ寂しげに。  そして今夜は、龍一の腕に支えられながら。 それが胸に突き刺さった。  彼の隣に立つ玲の姿が、どうしようもなく痛い。  だが、その痛みさえ、蓮を前へ押し出す原動力になっていた。 蓮は歩幅を大きくする。  意識して速めたというより、身体が勝手に“彼女へ向かっていた”。  歩くというより、吸い寄せられるように進んでいた。 その後方から隼人がついてくる。  警戒する視線を四方に走らせながらも、蓮の背中から一瞬たりとも目を離さない。 隼人の表情には焦りも驚きもなかった。  今の蓮を誰にも止められないと理解している男の、静かな覚悟だけがあった。(社長……これが決断なんですね) 隼人はゆっくりと息を吐き、蓮の進路を守るように歩く。  会場のあちこちで、客たちが蓮に気づきざわめき始める。「え……柊 蓮じゃないか?」 「何しようとしてるんだ?」  そんな憶測など、蓮の耳にはもはや雑音でしかなかった。  今の蓮の世界には、玲ただ一人しか存在していない。 ふと、蓮の視界の中心にいる玲の横顔が見える。  照明の光で浮かび上がる横顔は、あまりにも綺麗で、そしてどこか影を落としていた。 胸が締め付けられる。  痛いほどに。(……玲。) 呼びたい。  名前を呼んで、振り返ってほしい。  でも、この距離からでは届かない。  だから、もっと近くへ。 蓮の足はさらに速くなる。  意志ではなく、本能が玲へと向かわせていた。 周囲の空気が熱を帯び、舞台へ向かう道が
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第百十七話 ―再会

 宗一郎の前に立った玲華は、静かな微笑をたたえながら、はっきりとした声で言った。「お父様、お誕生日おめでとうございます」 その声音は透き通っていて、会場のざわめきの中でも不思議とよく響いた。  宗一郎が振り返り、ゆっくりと微笑み返す。その眼差しには、父としての誇りと、今この瞬間だけは表に出すことを許した深い慈しみが滲んでいた。 その親子の姿に、会場のあちこちで人々が息を呑む。  ささやき声が連鎖し、波紋のように広がっていった。「誰だ……? 会長の奥様? いや、もっと若い……」「いや、社長の奥様じゃないのか? …でも独身だって……」 好奇の視線が一斉に玲華へ向けられ、その美しさと気品に、一瞬あたりが静まり返る。照明が反射し、白いドレスの裾がゆっくりと揺れるたび、皆の視線が吸い寄せられる。 玲華が宗一郎の横へ移動しようとした、その瞬間だった。 玲華の視界の端に、黒い影が動いた。「玲!!」 鋭い声が、空気を裂いた。 振り返るより早く、蓮が目の前まで来ていた。  会場の喧騒が止まり、人々がざわめきを飲み込み、視線が一点に集中する。 蓮は迷いなく手を伸ばし、玲華の腕を取ろうと──した、まさにその瞬間。 玲華と蓮の間に、すっと大柄な影が滑り込んだ。 瑛斗だった。 長身の男が、一歩前に出るだけで空気が変わる。  警備という枠を超え、まるで“壁”のように蓮の前に立ちはだかった。 瑛斗は人差し指を軽く上げ、蓮を制するように静かに言う。「落ち着いてください」 その声は低く、衝突を避けるための冷静さを保っていたが、瞳の奥には揺るぎのない警戒があった。 蓮は瑛斗を見上げるように見据え、そして堂々と言い放つ。「彼女と話がしたい」 その声は震えていない。  ただ、強く真っ直ぐだった。 瑛斗はほんのわずか目を伏せ、次に龍一の方を向く。  この場で蓮を通すか否か、判断を仰ぐかのように。 龍一は顎をわずかに上げ、宗一郎へ声を掛けた。「会長?」 宗一郎は、蓮と玲華の顔をゆっくりと交互に見つめた。  まるで二人の間に流れる何かを確かめるように。 そして静かに言う。「瑛斗、下がれ」 瑛斗は即座に一礼し、一歩下がった。  蓮との距離はまだ近いままだが、妨げる姿勢は解かれた。 宗一郎は蓮の方へ体を向け、重々しく言葉を紡ぐ。「柊 蓮殿、娘
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第百十八話 —静かに閉ざされた扉の向こうで—

 宗一郎の命令が下された瞬間、会場の空気は一気に張りつめたものへと変わった。さっきまで蓮と玲華の周囲を取り巻いていたざわめきが、まるで潮が引くように静まり返っていく。  客たちは息をのみ、次に何が起きるのかと固唾をのんで見守っていた。 龍一は「こちらへ」と短く告げ、迷いなく二人に背を向け歩き出す。  その歩みに合わせて、瑛斗と数名の部下が蓮と玲華の周囲を囲むように動いた。その動作は緻密で無駄がなく、何年も訓練を積んだ者たち独特の“空気”をまとっていた。 彼らは視線を遮り、注目を散らし、ふたりを守りつつ導くための壁のようだった。  その中を、蓮は玲華の手に触れたい衝動を必死に抑えながら歩いた。  触れたらもう二度と離せなくなる—そんな予感が蓮の胸を支配していた。 玲華もまた深呼吸を繰り返しながら、龍一の後ろを歩く蓮に静かに歩幅を合わせていた。  ほんの数秒前まで胸を締めつけていた緊張が、まだ足先の震えとなって残っている。  蓮が隣にいる。その事実がどれほど心を揺さぶるのか、自分でも抑えようがなかった。 広い会場を抜け、スタッフ専用の廊下へ入った瞬間、急に静寂が訪れた。  さっきまで背中に突き刺さっていた無数の視線も、噂めいたざわめきも、扉の向こう側に置き去りにされていく。「こっちだ」 龍一はエレベーターの前で立ち止まり、カードキーをかざした。  電子音とともに扉が静かに開く。 普通の客が使うものではない。  ホテルのスタッフでも限られた者しか利用できない、最上階へ直通の特別なエレベーターだった。 扉が開くと同時に、龍一は蓮に視線を向けた。「……父上が言った以上、俺も従う。だが、お前が玲華を傷つけたなら、その時は容赦しない」 その言葉には、兄としての情も、桐嶋龍一という男の厳しさも、どちらも含まれていた。 蓮は真っ直ぐ龍一を見返し、静かに頷いた。「わかってる。もう二度と傷つけない」 その言葉の強さは、玲華の胸に深く染みた。  ほとんど無意識に、玲華は小さく息を呑む。  その肩がほんのわずか震えたのを、蓮は横目で捉え、喉が熱くなった。 エレベーターが音もなく上昇を始める。  わずか数十秒の時間が、蓮には永く、重く感じられた。 誰も話さない。 だが沈黙の中で、蓮の胸の内は嵐のように荒れていた。  息が荒いわけでも、
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-01-07
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第百十九話 —ようやく触れた温もり—

扉が閉まった瞬間、蓮の呼吸が浅くなった。  静寂が落ちる。その音さえ吸い込まれてしまうほど、この部屋は外界から切り離された世界だった。  これまで何百回も、いや何千回も想像した“再会の瞬間”が、ついに現実として自分の目の前にある。  しかし実際その瞬間に立ち会うと、胸がきゅっと苦しく締めつけられ、言葉がどこかへ消えてしまっていた。 玲華もまた、同じだった。  ただ立ち尽くし、蓮を見つめたまま、唇を震わせるだけで声にならない。  会いたかった。  だけど、どう言葉にしていいのかわからない。  距離はわずか二歩。  指を伸ばせば届くはずなのに、その二歩があまりにも長く、深い谷のように感じられた。「玲……」 蓮が小さく呼んだ。  たった一度の名呼び。  その声だけで、玲華の瞳から涙が一気に溢れた。  耐えていた緊張がほどけ、感情が堰を切ったように胸から溢れ出す。 蓮が一歩近づく。  その足音が、重く、確かに玲華の心に響く。  玲華もまた無意識のうちに一歩前へ。  まるで見えない糸に引き寄せられるように、二人の距離は埋まっていった。 そして— 次の瞬間、二人は声もなく抱き合った。  どちらが先に腕を伸ばしたのかはわからない。  言葉より先に、身体が動いた。  心と心が互いの温度を確かめ合うように、必死で抱きしめ合った。「……会いたかった……蓮……!」 玲華の涙まじりの声が、蓮の胸元に震えながら落ちる。  その小さな震えに、蓮の胸が焼けるほど熱くなる。  蓮は目を閉じ、玲華の背へそっと手を回し、そして離すまいと強く抱き寄せた。「俺もだ。ずっと……ずっと会いたかった」 どれほど努力しても忘れられなかった。  どれほど離れようとしても、心は勝手に玲華を探し続けた。  会いたい気持ちが、毎日胸のどこかに棘のように刺さり続けていた。  その棘が今ようやく抜け落ち、蓮は安堵と痛みが混ざった息を深く吐き出す。 離れたくなかった。  本能がそう叫んでいた。  抱きしめた腕が勝手に強くなる。  玲華もまた同じ力で蓮の背中を掴み、指先に力を込めて離そうとしなかった。 どれだけの時間がそのまま過ぎたのだろう。  数秒か、数分か。  二人にとってはどちらでもよかった。  ただ、確かな温もりを感じていられることが何より
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-01-08
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第百二十話 —閉ざされた扉の外で—

  スイートルームの外。  静まり返った最上階の廊下には、ホテル特有の柔らかな照明が落ち、床のカーペットが足音を吸い込むようにしんと沈んでいた。  その廊下の中央に、瑛斗は背筋を真っ直ぐに伸ばして立っていた。  まるで“柱”のように微動だにせず、外側からの雑音を一切寄せつけない、職務に徹した護衛の姿だった。 しかし静寂とは裏腹に、瑛斗の胸の内では荒れた海のような波が何度も押し寄せていた。  表情は平静を保っていても、その心の奥では、言いようのないざわめきが広がっていた。(……やっと会えたんだな、玲ちゃん) 胸の深いところで小さく息を吐き、瑛斗はそっと天井を見上げた。  広がる天井の白い光が、わずかに滲んだように見える。  それは決して涙ではない。  だが、胸の奥から何かがこぼれ落ちそうになる感覚に、瑛斗は喉を固く閉ざした。 あのバリの海沿いの夜。 天城の刺客から生き延びたこと。 バーベキューをした夜。 そのすべてが今、胸の奥で静かに疼き始める。 瑛斗は玲華を守るためにバリへ向かった。  それは職務であり、桐嶋家の人間として当然の任務だった。  だがその裏に、ほんのわずか──本当に、かすかな希望があった。(もし……玲華様が蓮を忘れて、俺を見てくれたら——) そんな都合のいい期待を、心のどこかで抱いてしまっていた。  自分でもわかっている。  叶うはずのない淡い想いだと。  しかし、あの孤独な夜、彼女の涙を受け止めるたび、その気持ちは否応なしに胸の奥で膨らんでいった。 だが現実は——。 扉の向こうで二人は再び向き合い、抱き合い、泣き合っている。  飛行機の中で「好きだよ」と伝えられたこと。それだけで20年の瑛斗の想いは伝えられた。それだけでよかった。先ほどの、蓮を見つめる玲華の瞳。それを目の当たりにした瞬間、自分の想いは泡となって消えた。(……でも、それでいいんだ。彼女がしあわせなら……それで) 自分に言い聞かせるように、瑛斗はゆっくり目を閉じ、深く呼吸を整えた。  護衛として、弟分として、そして家族として育ててもらった恩を思い返す。  玲華は、守るべき存在。それは変わらない。「瑛斗」 低く、しかし確かな響きを持つ声が、静かな廊下に落ちた。  龍一だった。  少し離れた場所で腕を組み、目を閉じてい
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