あなた、この結婚を終わらせましょう のすべてのチャプター: チャプター 41 - チャプター 50

100 チャプター

第41話

日が変わり、絵理は体調が回復しないまま再び働き始めた。時折、目眩や咳の発作に襲われていた。彼女は早朝のシフトに入り、夕方には退勤して病院へ治療に向かうという生活を続けていた。診察室で、宗介は真剣な面持ちで絵理の額にそっと触れた。「また頭が痛むんだろう?」「ほんの少しだけよ」絵理は自分の頭に手を当てて答えた。宗介が開け放たれた曇りガラスのドアの方へ視線を向けると、同僚の医師が絵理の検査結果のファイルを持って入ってきた。「桐谷(きりだに)先生、経過はどうですか?」宗介が尋ねる。「また悪化していますね」医師の桐谷は沈痛な面持ちで答えた。宗介は深くため息をつき、検査着のまま静かに横たわる絵理を見つめた。宗介は頷いた。ここ数日と比べても著しく悪化している彼女の病状に、彼もまた頭を悩ませていたのだ。「分かりました。私から患者に話します」と同僚に告げる。「ええ、お願いします」宗介は無言で検査結果を見つめた後、医療用のキャップとマスクを外し、再び絵理の傍へと歩み寄った。軽く目を閉じていた絵理は、彼が戻ってきた気配に気づいてそっと目を開けた。「もっと休息をとる必要があるよ、絵理。状態が悪くなっている」宗介は彼女の片手を優しく握りしめた。「疲れが溜まってるのよ。ずっと夜更かしもしてたし……」絵理は力なく呟き、青白い唇を引き結んだ。宗介は痛ましげな瞳で彼女を見つめた。絵理が何か別の問題を隠していることなど、彼にはお見通しだった。常に他人に気を使う彼女は、新しい悩みを打ち明けてこれ以上彼に負担をかけたくないのだ。だからこそ、宗介も無理に聞き出そうとはしなかった。治療を終え、病室で数時間休んだ後、絵理は宗介に肩を支えられながら病院を後にした。今夜も宗介が絵理を家まで送り届ける。道中、彼は絵理の気を紛らわせようと、ずっと冗談を言って彼女を笑わせようとしていた。やがて車は、絵理の家へと続く路地の前に到着した。「着いたよ」宗介が振り返る。絵理はバッグを手に取り、宗介を見つめた。「家まで送ってくれてありがとう、宗介。家に着いたら連絡してね」絵理は愛らしく微笑んだ。「ああ。玄関まで送るよ」絵理が車のドアを開けようとしたその瞬間、頭をかち割られるような激痛が走り、彼女の動きはピタリ
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第42話

SNS上であっという間に拡散された自分と宗介の捏造記事を目にし、絵理は激しいショックと深い悲しみに打ちのめされていた。世間の冷たい目が彼女に向けられ、心無い嘲笑が浴びせられる。今の職場でさえ、周囲からの憎悪に満ちた視線と陰口に晒され、絵理はいたたまれない気持ちでいっぱいだった。「本当に恩知らずな女ね!神崎社長みたいな素晴らしい旦那様がいながら、不倫するなんて!」同僚と連れ立って歩く女性が、あてつけのように吐き捨てた。「ええ、見てごらんなさいよ。お金持ちの奥様だったのに、今はホテルのピアノ弾きに成り下がってるわ。本当に恥知らずね!」その女性は絵理を蔑むように睨みつけた。容赦のない罵詈雑言が、絵理の胸を深くえぐっていく。一人一人に事情を説明して回ることなど、到底不可能だった。一秒ごとに息が詰まるような苦痛を感じる。ただでさえ病に蝕まれているというのに、なぜ次から次へと新しい災難が降りかかってくるのだろう。どうして瑛司は、これほどまでに残酷な仕打ちができるの?一体何が目的なの?いきなり現れて強引にキスをしたかと思えば、今度はこんな捏造記事を流すなんて!一体どういうつもりなの、瑛司……?絵理は心の中で泣き叫んだ。自分をこんな目に遭わせた瑛司への憎しみが、胸の奥で渦巻いていた。仕事が終わると、沙也加がいつものようにオフィスで絵理を待っていた。絵理が部屋に入ると、沙也加は心配そうな眼差しを向けた。「絵理さん、今の状況、本当に辛いでしょう?」沙也加は立ち上がり、彼女に歩み寄った。絵理は少しの間黙り込み、やがて弱々しく微笑んで首を横に振った。「あのフェイクニュースを否定するために、みんなに事情を説明して回るなんて無理な話ですものね、沙也加さん。私と宗介の間には、本当に何もないのに……」絵理は恥ずかしそうに俯いた。沙也加は優しく微笑んで頷いた。彼女は絵理の言葉が真実だと初めから知っていた。実のところ、沙也加は宗介の単なる友人ではなく、彼の従姉だったからだ。ウェーブのかかった美しい沙也加は、絵理の肩をそっと撫でた。「分かっているわ、絵理さん。この騒ぎが落ち着くまで、しばらく家でゆっくり休んだ方がいいわ」沙也加はそう言って、絵理の給料が入った白い封筒を手渡した。絵理はそれを受け取り、沙也加に微笑みかけた。
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第43話

すっかり日が暮れても、絵理は家の中に引きこもっていた。ほんの数分前、宗介が彼女のために夕食を買ってくると言って出かけていったばかりだ。世間の心無い好奇の目から彼女を守るため、宗介は絵理に一歩も外に出ないよう強く言い含めていた。その時、玄関のチャイムが鳴った。リビングに座っていた絵理は、弾かれたようにドアの方を向いた。「宗介……」小さく呟き、急いで立ち上がる。彼女は足早に玄関へ向かい、ドアを開けた。しかし、そこに立っていたのは宗介ではなく、今や絵理が最も憎悪する男だった。瑛司は、泣きはらしたばかりの絵理の赤い顔をじっと見下ろした。「ここに何をしに来たの?もう二度と私の前に顔を見せないで!」絵理は瑛司を追い払おうと声を荒げた。そのまま勢いよくドアを閉めようとしたが、彼女の力ではどうにもならなかった。瑛司はやすやすとドアを押しのけ、強引に家の中へと上がり込んできた。絵理の瞳には、かつてのような怯えはなく、明確な敵意が宿っていた。「一体何のつもりなの、瑛司?自分が流したあの捏造記事で、ボロボロになった私を嘲笑いに来たんでしょ!?」絵理は目に涙を浮かべ、震える声で叫んだ。「絵理――」瑛司が口を開きかけたが、絵理が「近づかないで」と両手を前に突き出したのを見て、不快げに太い眉を寄せ、口を閉ざした。「あなたは本当のことなんて何も分かってない。私が誰とも不倫なんてしていないって、どれだけ必死に説明しても、あなたは絶対に信じようとしなかった」絵理は絶望したように首を横に振った。瑛司は苛立ちを堪え、黙って彼女の言葉に耳を傾けた。絵理は木製の椅子の背もたれにすがりつき、怒りと悲しみの入り混じった瞳で瑛司を睨みつけた。その目には、彼に対する深い失望の涙が溢れていた。「こんな手の込んだ嫌がらせをするくらいなら、私が渡した離婚協議書にさっさとサインすればよかったじゃない!何もないことをあるようにでっち上げて、嘘の記事をばら撒くなんて……宗介はただの友達よ。それ以上でも以下でもないわ……」「俺があんな記事を流したわけじゃない」瑛司は低く、威圧感のある声で遮った。絵理はハッとして涙を止めた。瑛司がゆっくりと距離を詰め、絵理の背中が冷たい壁にぶつかるまで追い詰める。「言っておくが、俺はあんな三流の真似はしない
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第44話

数日にわたってネット上を騒がせていた捏造記事の騒動。ついに今日、瑛司の部下たちが記事を拡散した実行犯を捕らえ、彼の前へと引きずり出してきた。社長室で、瑛司は鋭い眼光で見知らぬ男を見下ろしていた。その男は、まるで自分は無実だと言わんばかりに反抗的な態度を見せている。「離せ!」男は暴れて叫んだ。「黙れ!」城田が男の膝裏を蹴り飛ばし、無理やり床に跪かせた。男は両手を後ろ手に拘束された。彼が城田に抵抗しようとしたが、やがてゆっくりと歩み寄ってくる瑛司を睨み上げた。「お前か……」瑛司は感情のない声で告げた。「俺の家庭の事情をあることないことネットに書き込んだのは」見知らぬその男――楠田岳人(くすだ がくと)は、瑛司を見上げた瞬間、先ほどの反抗的な態度から一転して顔面を蒼白にさせた。「な、何のことですか!?俺は何も知らない、そんなことやってません!」岳人は必死に弁解した。「正直に吐け!楠田岳人」城田が拘束する手に力を込める。「楠田岳人……」瑛司はその名前に聞き覚えがないか記憶を辿ったが、全く見当がつかなかった。「もはや言い逃れはできないぞ。一生後悔したくなければ、誰の差し金か、何の目的でやったのかすべて吐け」瑛司は、背筋が凍るような冷酷な声で言い放った。部屋の空気が一気に凍りつき、跪いている岳人を恐怖で震え上がらせた。デニムジャケットを着た岳人は、それでも固く口を閉ざしている。「本当に、何のことだかさっぱり……!」彼はまだしらばっくれた。瑛司は一歩踏み出し、楠田の着ている白いTシャツの胸ぐらを強く締め上げた。頑なに口を割らない男を前に、瑛司は怒りをこらえるように唇を固く結んだ。「いいか、俺の部下が人違いをするはずがない!」瑛司は射殺すような目で威圧した。「ですが、本当に俺じゃないんです!そんな馬鹿な真似をして、俺に何の得があるって言うんですか!」楠田は怯えた様子で目を泳がせながら叫んだ。瑛司は忌々しげに手を離した。身を起こして数歩後ずさると、床に這いつくばる男に背を向けた。「選択肢を与えてやる。今すぐ吐いて自由の身になるか。それとも……このまま口を閉ざし続け、刑務所にぶち込まれるかだ」瑛司の声は静かだったが、その我慢はすでに限界に達していた。楠田は生唾を飲み込
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第45話

翌日、絵理はいつものように仕事へ向かった。しかし、彼女の期待に反して、今日の職場は昨日よりもさらに居心地の悪い、異様な空気に包まれていた。記事が消えれば平穏が戻ると思っていたが、それは大きな間違いだった。むしろ、彼女に対する容赦ない非難はさらに激しさを増していたのだ。あのニュースが完全に削除されたにもかかわらず、こんな事態になるなんて思いもしなかった。どうして、みんなあんな目で私を見るの?昨日の夜、記事は全部消えたはずなのに……絵理は心の中で自問しながら、動揺を悟られまいと必死にピアノの演奏に集中した。すると、絵理がピアノを弾いているすぐ近くの席に、上品なドレスに身を包んだ女性たちのグループが腰を下ろした。「神崎社長って、本当に心が広くていらっしゃるのね。あのふしだらな奥様の不倫記事を、わざわざ揉み消してあげたんですって」真っ赤なドレスを着た女性が口を開いた。「本当よね。あんな浮気妻を許してあげるなんて、なんて素晴らしい男性かしら」別の女性が相槌を打つ。その会話が耳に入った瞬間、絵理の指先から力が抜け、ピアノの旋律がふっと途切れた。「絵理さんも、よく厚顔無恥に人前に出られるわよね。神崎社長に感謝すべきだわ!あんなに優しくて立派な旦那様なのに。でも不運よね。あんな最低な女を奥さんにもらうなんて!」絵理は唇を強く噛み締めた。その理不尽な非難に胸が張り裂けそうだったが、今の彼女にはどうすることもできない。周囲から遠慮なく飛んでくる冷笑が心を無惨に切り刻んでいく中、絵理は必死にピアノを弾き続けた。ただうつむき、誰の顔を見ることもできなかった。今、この場にいる全員が彼女を罪人として裁くような目を向けているからだ。やっぱり、記事を消したのは瑛司だったのね。でも――事態が収束するどころか、世間は「不倫をした妻を許し、不祥事を揉み消してあげた心優しい夫」として瑛司を英雄扱いしているのだ。そして絵理は、さらに逃げ場のないどん底へと追い詰められ、ゴミのように蔑まれている。「どうして……こんなことになっちゃうの?」絵理は微かな声で呟いた。絵理は逃げるようにピアノの演奏を切り上げた。弾かれたように立ち上がり、冷たい嘲笑と好奇の視線を背に受けながら、足早にその場を後にした。誰もいない静かな廊下に、絵理の足音だけが
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第46話

その後、瑛司は予想以上に最悪な時間を過ごすことになった。絵理から激しい怒りをぶつけられて以来、彼は一睡もできず、あらゆることに対して苛立ちを募らせていた。今朝も、リビングで無言のまま座り込む瑛司の後ろに、城田が静かに控えている。「社長、書斎の片付けが完了いたしました」不意に城田が声をかけた。瑛司は数秒間無言だったが、やがて口を開いた。「……今日は何もする気になれん」とだけ短く返す。「かしこまりました」玄関から誰かが入ってくる足音が聞こえた。しかし、瑛司は誰が来たのか確かめようともしなかった。姿を現したのが梨沙だと確認すると、城田はすぐさま二人の邪魔にならないようその場を退出した。「おはよう」梨沙が甘く微笑みながら声をかけた。曇った朝の庭をただじっと見つめている瑛司のそばへと歩み寄る。「瑛司、朝食を持ってきたわ。私が自分で作ったのよ」梨沙は紙袋をテーブルの上に置いた。瑛司は何も答えなかった。ひどく思い詰めたようなその横顔を見て、梨沙はさらに距離を縮めた。「……何か悩み事かしら?」梨沙は瑛司の肩を優しく撫でた。「昨日の、絵理さんの不倫記事のことよね?分かるわ……あなたもあのニュースのせいで恥をかかされたんだもの。絵理さんは本当に酷いことをしたわ。でも――」「その話はするな」瑛司が鋭く遮った。梨沙は一瞬、隣にいるいつもと違う瑛司を見つめた。瑛司の態度は氷のように冷たく、その顔には明らかな失望の色が浮かんでいた。梨沙は瑛司の手を取り、両手で包み込んだ。「あなたなら、きっと正しい決断を下せるって信じてるわ。瑛司、私はいつだってあなたの傍にいて、あなたを支えるからね」「一人にしてくれ」瑛司は梨沙の手から自分の手を引き抜いた。梨沙は言葉を失った。だがすぐに立ち上がり、瑛司の横顔をじっと見つめてから、部屋を出て静かにドアを閉めた。瑛司は長いため息を吐き、天井を仰いだ。思考は泥のように濁っている。おまけに、いつも自分の視界をうろつく梨沙の存在が彼をさらに苛立たせていた。だが、梨沙をむげに追い払うわけにはいかない……瑛司は目を閉じた。……でも、絵理は……瑛司は、そう簡単に梨沙を自分の人生から切り離すことはできなかった。彼女には多大な恩があるのだ。自分がどん底にいた
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第47話

ドアを何度もノックされる音が、絵理の中に深い恐怖を呼び起こした。また瑛司が押しかけてきたのではないかと、怯えていたのだ。薬を飲んでベッドに横になったばかりだったが、ドアを叩く音を聞いて、絵理はとても休む気にはなれなかった。「絵理……家にいるのかい?絵理……!」その声は宗介のものだった。絵理はすぐにベッドから降り、ホッとして玄関へと向かった。白い木製のドアを開けると、予想通りそこに立っていたのは宗介だった。「宗介……」絵理は彼を見つめて小さく名前を呼んだ。彼はいつものように優しく微笑み、手に提げた紙袋を両手で持ち上げてみせた。「ランチを買ってきたよ」「もう、宗介ったら。毎日こんなことしなくてもいいのよ。私だって自炊くらいするんだから」絵理はそう言いながら、ドアを開けて彼を招き入れた。宗介は絵理の言葉を気にする素振りも見せず、家の中へと入って紙袋をテーブルに置いた。その時、リビングのテーブルの上に置かれている絵理の薬瓶が、宗介の目に留まった。彼が瓶を手に取って確認すると、中の薬はあと数錠しか残っていなかった。本来なら、まだ数日分は残っているはずの量だ。ここ最近、絵理の発作が頻発しているのは間違いなかった。「どうしたの?」薬瓶を見つめて立ち尽くす親友の腕を、絵理がそっと引いた。「この薬、どんなペースで飲んでるんだい?」宗介が尋ねた。無理な服薬を咎めるような怒りの色はなく、ただ純粋な心配だけがその顔に浮かんでいた。「あなたの言われた通り、痛む時だけよ。でも心配しないで、宗介。もうずっと良くなったから」絵理は安心させるように甘く微笑んだ。宗介は絵理に言いたいことが山ほどあった。しかし、この親友がどれほど頑固で気遣い屋であるかも知っていた。何より、今の絵理には、自分以外に信じて頼れる人間が一人もいないのだ。時折、宗介はどうすれば絵理を縛り付けているすべての苦しみから解放してやれるのかと、深く悩むことがあった。彼女を蝕む最大の要因である、瑛司という男からも。できることなら、君をこの街から遠くへ連れ去ってしまいたい……宗介は買ってきたランチボックスを開け、絵理に手渡した。「まずはご飯を食べよう」宗介はソファに腰を下ろして言った。「うん、ありがとう、宗介」絵理も微笑んで受け取っ
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第48話

実家での夕食を終えて帰宅した後も、瑛司は翔が以前からよく口にしていた不満——梨沙の翔に対する態度について、静かに考えを巡らせていた。瑛司はふと足を進め、翔の部屋へと向かった。ドアをそっと開けると、一人で遊んでいる息子の姿があった。「翔……」瑛司は声をかけ、部屋の中に入った。「パパ!」翔はすぐに立ち上がり、瑛司の方へ駆け寄ってきた。「パパ、どこいくの?」瑛司は、以前よりも少し痩せたように見える息子の小さな身体を抱き上げた。「どこにも行かないよ。お前と少しお話ししたくてね」瑛司はそう答えると、翔の部屋のドアを閉め、一階へと降りていった。翔は嬉しそうに微笑んで瑛司の首に腕を回し、その肩にコテンと頭を預けた。二人は書斎に入った。瑛司は椅子に座って翔を膝の上に乗せた。翔はすぐにデスクの上にあったペンと紙を手に取り、小さな手で楽しそうに落書きを始めた。瑛司は愛おしそうに息子の頭頂部にキスを落とした。「翔、パパから少し聞きたいことがあるんだ」と、優しく語りかける。翔は紙とペンを握ったまま、すぐに顔を上げた。「なあに、パパ?」無邪気な瞳をぱちぱちと瞬かせる。「どうして、梨沙ママのことが嫌いなんだ?」瑛司は、息子から明確な答えが返ってくることを期待して、静かに尋ねた。梨沙の話題が出た途端、翔は露骨に唇を尖らせた。「あのおばさんはママじゃないよ、パパ。おばさん、意地悪だもん。いつも怒って、翔のこと叩いたり、つねったりするんだよ。それにね、『あんたがいなければ、パパともっと仲良くなれるのに』って言ってた」翔の顔は、あっという間に暗く沈み込んだ。瑛司は俯いて息子を見つめた。翔の小さな指先が、瑛司の白いシャツのボタンを所在なげにいじっている。「ママとは全然ちがうの。ママは翔のこと、すっごく大好きだもん。一回も翔のことつねったりしなかったよ、パパ。あのおばさんとは違うの……」幼い顔がさらに悲しげに歪む。「でも、パパも翔のこと信じてくれないもん」翔の答えは、以前から全く変わっていなかった。瑛司は再び息子の頭をそっと撫でた。半信半疑のまま、瑛司の心は大きく揺らいでいた。翔はただ梨沙が気に入らないから、こんなことを言っているのだろうか?確かに、初めて梨沙に会った時から、翔ははっきりとし
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第49話

「翔もママに会いたかったよぉ!ママ、どうしてお家に帰ってきてくれないのぉ……」泰造を家の中に案内した途端、翔は絵理に抱っこをせがんで甘え声を出した。泰造はリビングの椅子に腰を下ろし、絵理に甘える孫の姿を静かに見守っていた。ここ最近の沈み込んでふてくされていた表情は、今の翔からは完全に消え失せていた。「どうだ、ママに会えてすっきりしたか、翔?」泰造が笑いながら声をかけた。「うん、おじいちゃん!すっごくうれしい!えへへっ、ママぁ……」翔は絵理の膝の上に心地よさそうに座り、彼女をきつく抱きしめた。絵理は愛おしそうにクスクスと笑い、息子の頭頂部に何度もキスを落とした後、義父へと視線を向けた。「お義父様、ご無沙汰しております。お元気でしたか?」絵理は少し頭を下げて挨拶した。泰造はただ微笑んだ。言葉遣いも丁寧で、常に自分を敬ってくれる。絵理のその態度は、以前と何も変わっていなかった。「私は元気だよ、絵理。今日は翔を連れてきたんだ。この子がずっと君に会いたがっていたからね。君の家を探し回って、ようやく見つけたよ」泰造が答えた。絵理は嬉しそうに微笑み、膝の上に座る翔を見つめた。翔は唇を尖らせて絵理を見上げた。「翔、ずっとここでママと一緒にいるの!ぜったい!」と声を上げる。「ええ、いいわよ」絵理は翔のふっくらとした頬を撫でながら答えた。一方、泰造は絵理の家の中を見回していた。古い家だが、隅々まで手入れが行き届き、清潔に保たれている。まさか絵理が、こんな場所で一人暮らしをしているとは思ってもみなかった。泰造は絵理を不憫に思った。そもそも彼女をここへ連れてきたのは神崎家だ。それなのに、こんな悲惨な境遇に追いやられている今の彼女の姿を見ると、強い罪悪感を抱かずにはいられなかった。「ここに住んで、もうどれくらいになるんだい、絵理?」泰造が嫁の顔を見つめて尋ねた。「まだそれほど経っていません、お義父様。瑛司と離れることを決めてからですから」絵理は答えた。泰造は静かにため息をついた。彼女が今、どれほど過酷な状況に置かれているか、痛いほど理解できた。「すまないね、絵理。君がこんな場所で暮らしているなんて……君のお祖母さんに対しても申し訳が立たない。私の息子は、本当に身勝手な男だ」泰造は、絵理の悲
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第50話

ここ数日、翔と絵理は彼女の質素な家で一緒に時間を過ごしていた。もちろん、瑛司には内緒だ。この秘密の面会を知っているのは、彼ら二人と泰造だけだった。泰造が孫を迎えに来る頃には、すっかり夕方になっていた。祖父の姿を見るなり、翔は不満げに顔をしかめた。翔はすぐに絵理にきつくしがみつき、その背中に隠れようとした。「おじいちゃん、どうしてお迎えに来たの!翔、まだママと遊んでたいのに!」翔はいつものように怒って声を上げた。「また明日遊べばいいだろう。今日はもう帰る時間だ」泰造は椅子に腰を下ろして宥めた。抗議の表情を浮かべる翔を見て、絵理は思わず微笑んだ。彼女は翔の両頬を優しく包み込んだ。「翔くん、今日はおじいちゃんと一緒に帰ってね。明日、幼稚園が終わったらまたここに来て、いいわね?」絵理は翔の額にそっとキスをした。「うー……おじいちゃんのいじわる。翔、まだママと一緒にいたいのに」泰造は大きくため息をつき、翔が絵理との別れを惜しむのを黙って見守った。絵理の純粋な愛情と気遣いを見ていると、泰造もまた、この娘の傍にいる時が孫にとって一番安心できる時間なのだと実感できた。「絵理、一人で暮らし始めてから、仕事はどうしているんだい?」泰造が尋ねた。絵理は義父を見つめた。「レストランでピアニストとして働いています、お義父様。でも、ここ数日はお休みをいただいているんです。あのフェイクニュースのせいで、外に出ればみんなから奇異の目で見られてしまって……私のせいで、今の職場にまで迷惑をかけたくないですから」「では、あの騒動のせいで仕事に行けていないと?」泰造は驚いたように瞬きをした。絵理はこくりと頷いた。「はい、お義父様」泰造の胸に、絵理に対する深い同情が込み上げた。一人で生きていくために、彼女がここでどれほど孤独で辛い思いをしているか、想像に難くなかった。このまま放っておくわけにはいかない。何より、自分は絵理の祖母である房江に、彼女を守ると約束したのだ。「私が援助しよう、絵理。この近くで、何か自分の店でも開いてみてはどうかな」泰造が申し出た。絵理は青い瞳を瞬かせ、すぐに首を横に振った。「とんでもないです、お義父様。そんなお気遣いには及びません。こうして翔くんに会わせてもらえるだけで、私は十分に
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