幼馴染を選ぶはずの彼の心に、私が残っている のすべてのチャプター: チャプター 151 - チャプター 160

177 チャプター

第151話

明乃は呆然とした。「あ……あなた、どうしてお兄さんが彼のところへ行くって分かったの?」「ただの推測だ」湊は横顔を向け、くっきりとした輪郭に淡い影を落とした。「お前の兄は俺たちの婚約にあれだけ激しく反対している。このまま黙って見ているはずがない。今のところ、ヒカリスバイオに十分なダメージを与えられ、動機とやり遂げれる能力を兼ね備えているのは、義正しかいない」「それで相手の手に乗ったの?」明乃は少し理解したようだった。「ああ」湊はうなずいた。「あのやつ、確かに俺を死に追いやろうとした。長年争ってきた彼は誰よりも、ヒカリスバイオのプレIPOが成功すれば藤崎家と高田家の差がさらに開き、高田家には挽回の余地がなくなることを知っている」彼は少し間を置いた。「だが彼はもっとよくわかっている。俺と正面からぶつかっても勝ち目は薄いってな。敵になるより、利益を得られる仲間になる方が明らかに得策だ」「それであなたたちは……」明乃はただただ信じられないという表情だった。「手を組んで芝居を打ったの?あの実名告発は……」「本物の告発だし、証拠も本物だ。ただし、『加工』された証拠だ」湊は淡々と語った。「警察が重視して調査を開始し、世論を騒がせるには十分だったが、実際に有罪とするには不十分だ。目的は蛇を穴からおびき出すこと。ついでに……ヒカリスバイオ内部の不穏な連中を一掃するためだ……」明乃は呆然として聞いていた。つまり……「データ改ざん」騒動も、連行調査も、すべて湊が仕組んだ芝居だったの!?目的は社内の粛清!?湊は明乃の表情の変化を見て、手を伸ばしそっと彼女の手のひらを包み込んだ。「驚いたか?」彼は声を低くして尋ねた。明乃は顔を上げ、複雑な眼差しで彼を見た。「あなた……とっくに全てを計画していたの?」道理で幸之助も賢人も、自分に手出ししない方がいいって言っていたのね……なのに自分はわざわざ首を突っ込んだ。湊は一瞬黙り、それから彼女の額の前髪を耳にかけた。「正直、お前の態度には驚いたよ……」彼は先ほどよりさらに低い声で語り始めた。明乃は呆然とした。湊は深々と明乃を見つめ、その漆黒の瞳には彼女には理解できない複雑な感情が渦巻いていた。「誰もが俺が負けると思っていた時に、お前はまだ俺を信じてくれた。俺の側に立ってくれた……」彼
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第152話

「実は俺もよくわからないんだ……」湊は淡々と言った。「……」明乃は言葉を失った。信じられるわけないでしょ!この2人って!犬猿の仲じゃなかったの?今になって二人とも同じように口を濁して!いったい何を隠してるの?湊は明乃のうつむいた小さな頭を見下ろし、薄い瞼の下でクルクルと動く瞳を見て、この小狐が自分の言葉を信じず、一人で考え込んでいるのがわかった。彼の目に微かな笑みが浮かんだ。彼は突然手を伸ばして温かい指先で彼女の小さな顎を優しくつまみ、顔を上げさせた。「何か考え込んでるのか?」低く響く声にはかすかな甘さが含まれ、彼は親指で彼女の顎をそっと撫でた。明乃の胸は高鳴り、彼の指先に触れて彼女は微かに震え、無意識に顔をそらそうとしたが、彼に少し強く固定された。「別に何も!」強がる声とは裏腹に、頬は勝手に熱を帯びていった。「離してよ……」「別に何も?」湊は低く笑い、言葉を引き伸ばしてから嘲るように続けた。「じゃあ当ててみようか……俺とお前の兄の間に、人には言えない過去があるんじゃないかって考えてたんだろ?そうだろ?」最後の「そうだろ?」は鼻にかかった声で、吐息が彼女の耳元をかすめ、くすぐったい感覚をもたらした。明乃は息を詰まらせ、心を見透かされて恥ずかしさと悔しさでいっぱいになったが、動きを封じられてしまい、潤んだ瞳で彼を睨むしかなかった。「藤崎さん!勘違いしないで!そんなどうでもいいことに興味なんてないから!」「興味ない?」彼は眉をつり上げ、整った顔をもっと彼女に近づけた。「じゃあどうして俺が話し始めたら、顔が熟れた桃みたいに赤くなるんだ?」湊の視線は明乃の紅潮した頬と微かに開閉する唇に注がれ、瞳の色が次第に深くなっていった。「……ついかじりたくなるな」「……やめてよ、このバカ!」露骨な言葉に明乃の顔は一気に赤くなり、首筋まで染まった。明乃は手を伸ばして湊を押しのけようとしたが、手首は簡単に捕らえられ、背後に押さえつけられた。この姿勢は彼女をさらに彼に寄り添わせ、彼の胸から伝わる規則正しい心臓の鼓動と、灼けるような体温を感じられるほどだった。「これだけでバカって呼ばれなきゃいけないのか?」湊は彼女の恥じらいと憤りが入り混じりながらも逃れられない様子を見て、瞳の奥の笑みをさらに深めた。彼は身をか
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第153話

亮が送り込んだスパイや、騒動の中で最も得意げになり、混乱に乗じて利益を得ようとした上層部たちも、例外なく根こそぎ一掃された。湊は彼らに弁明の機会すら与えなかった。彼はこの危機という名の自作自演を利用して、亮がヒカリスバイオに伸ばしていた悪の手を完全に断ち切った。この一件で亮は大きく勢力を削がれ、何もかも失う結果となった。仕方なく、彼は幸之助の元へ駆け込み、憤慨しながら悔しさを訴えた。「お父さん!湊を見てくださいよ!あまりにもひどくないですか!?俺は湊の実の叔父なんですよ!俺が彼に嫌がらせをするわけがないじゃないですか!俺はただ彼のことが心配で、会社をちゃんと見てやろうと思っただけです!それなのに、彼はわざと罠を仕掛け、自分だけ責任から逃れて、逆に俺の仲間たちを全員排除したんですよ!情けも何も……これではあまりにもひどすぎます!俺のことを家族だと思っていないのと同然ですよ!」幸之助は湯呑みを手に、まぶたすら上げず、微動だにしなかった。逆に、そばで見ていた千紗子は、とうとう黙っていられなくなった。長男は早くに事故で亡くなった。そして亮は彼女が高齢出産の末に生まれた子で、彼は幼い頃から甘やかされ、みんなに可愛いがられた存在だった。亮は妻と非常に仲が良く、二人で子供を持たないと決めていたため、彼女は「自分の息子である亮ばかりが損な役回りを押しつけられた」と感じ、ますます彼に愛情を注ぐようになった。亮がこんなに悔しがっているのを見て、千紗子はついに口を開いた。「今回のやり方は、あまりにもひどすぎるわ!家族同士なのに、どうしてきちんと話し合えないの?わざとこんな芝居を打って、その隙に敵対勢力を排除するなんて。藤崎家は世間からどう思われるだろうね?叔父が甥を陥れたなんて?みっともないわ!」千紗子は話せば話すほど胸が痛んだ。彼女は亮の手を握りながら、幸之助を睨みつけて言った。「あなた、何か言ってよ!亮が仮に間違っていても、彼は湊の実の叔父なのよ!湊のやり方は、あまりにも情がなさすぎるわ!話し合いで解決できないの?」幸之助はうるさい千紗子にいら立ち、湯呑みを強く置いて「カン」と鋭い音を立てた。「話し合い?何を話し合うんだ?」幸之助は冷ややかに笑い、悔しそうな表情の亮を鋭い目で見た。「ヒカリスバイオをどうやって潰すかを話し合うのか
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第154話

「いい加減にしろ!」幸之助は低い声で制止し、眉をひそめた。「明乃は良い子じゃないか!物分かりが良く、道理をわきまえ、いざという時も湊を信頼している。それで十分じゃないか!根も葉もない噂は、今後一切口にするな!」千紗子は怒鳴られて震え上がり、幸之助が本気で怒っているのを見て、しぶしぶ口を閉ざしたが、依然として不服そうな表情を浮かべていた。幸之助は千紗子の様子を見て、心の中でため息をついた。彼女が亮を心配していること、そして明乃のことをちゃんと理解していないがために偏見を持っていることはわかっていた。しかし、湊と明乃の結婚話について、幸之助は大賛成だ。明乃は目が澄んでおり、強い芯を持っている。湊の相手にはちょうどいい。若者同士の確執や因縁などについては……一線を越えなければ、自分はわざわざ口を挟むつもりもないし、湊がうまく対処できると信じている。今の幸之助は、ただ湊に早く結婚してもらい、この沈んだ空気を一日も早く払ってほしいと願っているだけだった。「湊と明乃の婚約を早急に進めろ」幸之助はそれで決まりだと言わんばかりに言い切った。「これこそが今の藤崎家にとって一番重要なことだ!」千紗子は口を尖らせ、何も言わなかったが、心の中ではその腹黒い未来の孫の嫁への嫌悪感をさらに強めていた。「旦那様、湊さんがお戻りになり、書斎でお待ちです……」ちょうどその時、お手伝いさんが伝えに来た。「わかった」幸之助は杖をついて立ち上がり、書斎の方へ向かった。その頃、書斎にはお茶の香りが立ち込めていた。幸之助は向かい側に座る冷静な湊を見て、ため息をついた。「叔父のことを気にする必要はない。自分のやりたいようにやれ。千紗子のことは気にするな。年を取って、ちょっとボケてきているからな」湊は湯呑みの飲み口を指でなぞり、まつげを伏せて目元の深い表情を隠した。「わかってる」「ただな、湊」幸之助は重々しい口調で言った。「義正という男は非常に腹黒い。彼と組むのは、リスクを伴う」「それもわかっている」湊は目を上げた。幸之助は彼の様子を見て、これ以上言う必要はないと悟り、話題を変えた。「明乃との婚約パーティーは来月の8日が良い。その日にしよう」湊の指先が微かに止まり、脳裏に明乃の愛らしい顔が浮かぶと、唇の端がかすかに緩んだ。「わかっ
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第155話

彼女は鼻で笑った。どうせただの嫉妬だろうとたかを括り、あごをしゃくり上げて、いっそう高慢な態度を見せた。ちょうどその時、スマホの画面が明るくなった。新着メッセージの通知だ。彼女は無造作に画面をスワイプすると、それは電子送達の通知だった。【名誉毀損訴訟……反訴……原告:安藤明乃……】彼女はだるそうに見ていたが、最後の一行で目が止まった。【精神的苦痛に対する慰謝料:20円】「20……円?」美優の瞳が大きく見開かれ、勝ち誇ったような笑みが一瞬で凍りついた。その時、店内で噂話をしていた人たちも異変に気づいたようで、互いに目配せをしながら、隠しきれない嘲笑を浮かべていた。美優はスマホを握りしめ、爪が画面に食い込むほど指先に力を込めた。明乃、あの卑怯者が!よくもやってくれたわね!!美優は靴を履かせてくれていた店員を乱暴に突き飛ばすと、よろめきながら立ち上がった。彼女はハイヒールを履き替える余裕もなく、逃げ出すようにセレクトショップを飛び出した。背後からは、それまで抑えられていた客たちの嘲笑が一気に溢れ出した。……「バン!」水南にある高級マンションの一室で、限定品のハンドバッグが壁に激しく叩きつけられた。美優は肩を上下させて荒い息をしながら、ソファに座ってこめかみを揉んでいる香織に向かって、真っ赤な目で叫び散らした。「お母さん!明乃が私をどう辱めたか、聞いてよ!?20円よ!たったの20円で賠償請求するなんて!今や私は、水南の笑いものよ!みんなの笑い種にされたのよ!」彼女は腕を振り回し、ヒステリックに喚いた。「もう嫌だわ!お母さん、何とかしてあの女を地獄に落としてよ!今すぐ!すぐに!彼女の人生をめちゃくちゃにして!私の前で跪いて許しを請わせたいの!」香織は美優のうるさい騒ぎ声に頭を抱え、眉をひそめて手を下ろした。「美優!落ち着きなさい!何度言ったらわかるの、感情的になってはいけないって!」「落ち着けって言うの!?どうやって落ち着けっていうのよ!?」美優の目から一気に涙が溢れ出した。「笑いものにされたのはお母さんじゃないわ!みんなの前で恥をかかされたのもお母さんじゃないわ!だからお母さんはそんなに冷静でいられるのよ!私のことなんて、もうどうでもいいと思ってるんでしょ!?」「お母さんが助けてくれないなら
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第156話

「美優、明乃はあなたを怒らせようとしているのよ」香織は一語一句、冷たい声で言った。「あの子はわざとこんな方法で挑発して、あなたがカッとなって理性を失うのを待っているの。今みたいに自分を見失って、向こう見ずに突っかかってくるのをね」「あなたが我慢できなくなることなんて、すでにお見通しなのよ」香織は目を細めた。「あなたが動けば、必ず隙が生まれる。そうなったらもう終わりよ。あなたを足がかりに、私たち全員が引きずり出されるわ!」香織の言葉を聞くうちに、美優の顔はみるみる青ざめていった。彼女は決して救いようのないほど愚かではない。ただ、怒りと見栄で目がくらんでいただけだ。香織に核心を突かれ、彼女は一瞬にして冷や汗をかいた。「あの女……よくも……!」美優の声は、恐怖で震えていた。「あの子にできないことなんてないわ」香織は冷笑した。「あの子は今や湊さんの婚約者で、藤崎家と安藤家の両方を後ろ盾にしている。それに比べて私たちはどうかしら?あなたのお父さんはヒカリスバイオで失敗したばかりで、自分の身を守るので精一杯。当分は身動きが取れないわ。私たちは一番の頼みの綱を失ったのよ!」香織は、痛みを感じるほど強く美優の手を握った。「美優、お母さんの言うことを聞きなさい。今は我慢の時よ!今我慢しないと、全部台無しになるわ。この悔しさを飲み込んで、じっとしていなさい!明乃には空振りさせておけばいいの。私たちが動かなければ、あの子は弱みを掴めないし、時間が経てば、自然と忘れられるわ」香織の目に浮かぶ深い懸念と断固とした拒絶を前に、美優は下唇を強く噛みしめ、口の中に血の味が広がった。悔しいわ!死ぬほど悔しいわ!だが、お母さんの言うことが正しいことも分かっている。あの女、あまりにも狡猾すぎる!「……分かったわ、お母さん」長い沈黙の後、美優はかすれた声でようやく言葉を絞り出した。彼女はうつむき、長い髪でその歪んだ憎悪を隠した。「ちゃんと考えて動くわ。だから安心して」香織は美優の表情を注意深く観察し、本当に聞き入れたようだと分かると、ようやく少しだけ胸をなでおろした。そして、そっと彼女の手の甲を叩いた。「いい子ね。辛い思いをさせたわね。ほとぼりが冷めて、お父さんが状況を立て直したら、必ず私がやり返してあげるから!」美優は素直に頷き、香織の
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第157話

来た!美優はすぐさまスマホを取り出すと、誰かと通話しているふりをした。わざと声を張り上げ、そこには深い悲しみと憤りが込められていた。「……そうよ!私は亮さんの娘だけど、何か?そんなの、私が選んだことじゃないわ!」彼女はそう言いながら、高級車が止まりそうな場所へと歩み寄り、自分の声がはっきりと届くように調整した。「亮さんが、二十年以上も私を放ったらかしにしておいて、今さら私が大人になったからって引き取りたい?ふざけないでよ!?」「言っておくけど、私にはそんなもの必要ないわ!あんな人、父親だなんて思ってないわ。この二十年間、あの人がいなくたって立派にやってきたんだから!」彼女の声は次第に涙声に変わっていった。「あの人に伝えておいて、もう諦めてって!私は絶対に藤崎家に戻らないって!彼を自分の父親だなんて認めたりしないわ!最初から、父親なんていなかったものとして生きていくから!」入念に準備した台詞を言い終えると、彼女は感情が抑えきれなくなったかのように突然電話を切り、肩を小刻みに震わせた。まるで声を殺して泣いているかのようだった。そして顔を覆ったまま、高級車とは反対の方向へ足早に立ち去っていった。その一連の芝居は、ちょうど車を降りてサロンに入ろうとしていた千紗子の目に、寸分の狂いもなく焼き付けられていた。千紗子は今日、友人と約束していて、気分も上々だったはずだった。しかし、美優の放った言葉はあまりにも衝撃的過ぎて、彼女はその場で立ち尽くした。手に持っていた携帯が、指先から滑り落ちそうになった。亮の娘?二十年以上も放置していた?藤崎家に連れ戻す?これらの言葉が頭の中で結びついた瞬間、千紗子の心臓は胸を突き破らんばかりに激しく鼓動した。「今の……あの子……」千紗子は声を震わせ、そばにいたお手伝いさんの腕を掴んだ。「あなた聞こえたよね?あの子、自分のこと亮の娘だって言った?」お手伝いさんも驚愕の表情を浮かべ、慌てて頷いた。「私にも……確かにそう聞こえました……」「今すぐ調べなさい!」千紗子は顔を蒼白にし、荒い息をつきながら命じた。「今すぐよ!今すぐ調べなさい!あの女性は何者なのか!母親は誰なのか!亮と一体どんな関係があるのかをね!!」子どもは作らないと公言していた亮に、二十代の隠し子がいるだなんて!?
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第158話

水南地方の冬は、湿り気を含んだ寒さが骨の髄まで染み込む。明乃はコートをしっかりと着込み、法律事務所へと急いだ。しかし、入り口のドアを開けようとした瞬間、彼女は通りの向こう側にふと目を向け、足を止めた。向かいにあった空き店舗が、いつの間にか改装を終えていたのだ。磨き上げられた大きなガラス窓の向こうには、シンプルかつ機能的なオフィスが広がっている。そして、何よりも目を引いたのは、入り口に掲げられた金色の看板だった――「明岳法律事務所(水南地方支部)」明乃は言葉を失った。後ろをついてきていた徹は、手に持っていたコーヒーをこぼしそうになり、声を上ずらせた。「ボ……ボス!向かい側!向かい側を見てください!霧島……霧島弁護士が……」「見えているわ」明乃は淡々とした口調で事務所のドアを押し開けた。「気にしなくてもいいわ」そのあまりの冷静さに、徹は言葉を失った。天都から戻って以来、明乃の何かが変わったような気がしてならない。まるで……心の中にものを根こそぎえぐり取り、その傷跡さえ残していないかのようだ。「でも、嫌がらせにもほどがありますよ……」徹がブツブツと言った。明乃はコーヒーカップを置くと、再びパソコンの画面に意識を戻した。「他人を気にする暇があるなら、秦さんの反訴の件の証拠をもう一度整理しなさい。20円だって立派なお金よ。裁判所には白黒はっきりつけてもらわなきゃ」徹には返す言葉がなかった。まあ、さすがボスだ。……慌ただしい一週間を終え、週末の休みを利用して、明乃は飛行機で弦の塚の実家へと戻った。早朝、明乃は柔らかなカシミアのカーディガンを羽織り、リビングのソファに体を丸めていた。毛足の長い絨毯に足の指を沈め、膝に置いた法学雑誌をとりとめもなくめくっていた。両親の元に戻ると、体中の力が抜けていくような心地よい安らぎを感じた。「帰ってくるなら、前もって言いなさいよ。あなたの好物をたくさん用意させたのに」加奈子は小言を言いながらも、その目尻には隠しきれない喜びが浮かんでいた。「ふいうちで帰ってきて、お母さんとお父さんが私に内緒で美味しいものを食べてないか確かめたかったの」明乃は目を細め、珍しく甘えるような表情を見せた。老眼鏡をかけて新聞を読んでいた義男は、それを聞いて鼻で笑った。「単に食いしん坊
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第159話

彼は少し間を置いてから付け加えた。「ついでに、義男さんや加奈子さんと婚約パーティーの詳細を相談しておこうと思って。昨日、電話で約束したんだ」「……」約束した?自分ひとりだけ知らされてなかったわけ?「藤崎さんはこんなにも忙しいのに、こんな些細なことでわざわざ来てもらうなんて恐縮だわ」彼女は作り笑いを浮かべた。「お前に関することで、些細なことなんて一つもないよ」明乃は言葉に詰まり、一瞬どう言い返せばいいか分からなくなった。義男と加奈子は顔を見合わせ、さらに笑みを深めた。明乃は湊に見つめられて耳の根が熱くなるのを感じ、顔を背けて紅茶を一口啜った。お手伝いさんがまたいくつかスイーツを運んできた。湊は義男と最近の経済動向について二、三言を交わし、加奈子とはヘルスケアの話題で盛り上がった。その受け答えは実に見事で、教養の高さを見せつつも、年長者への敬意を片時も忘れなかった。明乃はそばで聞き流し、時折話を振られた時にだけ、生返事で応じた。「……会場はいくつか候補を見て回りましたが、どれも素晴らしい場所でした。最終的には明乃ちゃんの好みで決めたいと思っています」湊は自然に話題を彼女へと戻した。明乃はマグカップを置き、そっけない口調で言った。「特にこだわりはないから、藤崎さんが決めてくれればいいわ」「どういう感じがいい?」彼は至って根気強く尋ねた。「何でもいいわ」「ドレスは?好みのデザインや、きにしているデザイナーはいるか?」「別にないよ」「招待状のデザインだけど……」「あなたに任せるわ」彼女は冷淡な返事で彼を容赦なく突き返した。湊は怒るどころか、その瞳の奥に宿る笑みをいっそう深め、彼女のわがままを慈しむように見守っていた。加奈子が見かねて、明乃の手の甲を軽く叩いた。「明乃、ちゃんと話をしなさい。湊を困らせちゃだめよ」明乃は目を見開き、自分の耳を疑った。自分が彼を困らせてる?一体どちらが被害者だっていうの!?湊の「俺は気が長いから、お前がどう振る舞っても構わないよ」と言いたげな態度に、明乃は腹を立て、無性に頭に血が上った。両親が池田に昼食の準備を指示するために顔を背けた隙を突き、彼女は湊の引き締まった腕を思い切りつねりあげた。柔らかいカシミアの生地越しに、硬い筋肉の感触が伝
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第160話

明斗は黒いコートを羽織り、外の冷気をまとってリビングへと足を踏み入れた。明乃の隣に座っている湊の姿が目に入ると、その歩みはわずかに止まった。瞳には氷のような冷たさが宿り、周囲の空気は一瞬にして凍りついた。「お兄さん、お帰りなさい」明乃が立ち上がった。明斗は「ああ」とだけ短く返し、明乃と湊の間で視線を往復させた。最後に湊を正面から見据え、感情の失せた笑みを浮かべた。「湊さん」湊も落ち着いた様子で立ち上がり、気品ある態度は崩さない。「お久しぶりだな」長身の二人の男が対峙する様は、一方は鋭利な刃のようで、もう一方は底知れぬ深淵を思わせるようなものがあった。表情こそ変えていないものの、その間には目に見えない火花が散っていた。一触即発の緊張感が部屋に満ちた。加奈子は鋭くその空気の変化を察し、笑顔で場を和ませようとした。「明斗、ちょうど良かったわ。湊と婚約パーティーの詳細を相談していたのよ。あなたも意見を聞かせてちょうだい」明斗はコートを脱いで池田に渡すと、明乃を挟んで湊とは反対側の一人掛けソファに腰を下ろした。長い脚を組んだその姿は一見くつろいでいるようだったが、その眼光は湊をじりじりと射抜いていた。「詳細か」彼は鼻で笑い、指先で肘掛けを軽く叩いた。「湊は実に見事な手腕の持ち主だ。あの義正を意のままに操り、その手で身内の粛清まで済ませてしまうとは。実に見事な戦いぶりだ。婚約パーティーの段取りなど朝飯前だろう」その言葉には、湊が先日ヒカリスバイオで巻き起こした騒動への皮肉が込められていた。明乃は眉をひそめ、思わず湊の様子を伺った。湊は、ほのかに熱を帯びたマグカップの縁を指先でなぞり、まぶたすら上げずに答えた。「安藤社長、それは買いかぶりすぎだ。ただ、余計なところにまで手を伸ばす者がいたので、少し整理しただけだ。安藤社長が陰で手を貸したことに比べれば、俺の自衛策なんて取るに足らない」彼は視線を上げ、静かだが圧のこもった目で見据えた。「そういえば、安藤社長には随分と助けてもらった。感謝しているよ」明斗の顔が瞬時に険しくなった。彼が義正を利用したのは事実だ。それを利用して湊を追い詰めるつもりだったが、湊の方が一枚上手だった。逆にその計略を逆手に取られ、自分と義正はまとめて罠にはめられたのだ。結果としてヒカリスバイオ内部の不穏分子
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