All Chapters of 幼馴染を選ぶはずの彼の心に、私が残っている: Chapter 181 - Chapter 190

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第181話

彼の指先には、風呂上がり特有の微かな冷たさが残っていた。それが彼女の火照った肌に触れると、明乃の体には細かな戦慄が走った。不甲斐なくも、明乃の心臓の鼓動は再び速まり始めた。彼女は無意識に視線を逸らしたが、その先にあった別の写真が、ふと目に留まった。「あれ?」明乃はその写真の隅を指さした。「ここにも……私が写ってない?」彼女は不思議そうに首を傾げた。世界ってこんなに狭いの?あまりにも偶然すぎない?だけど、記憶をいくら手繰り寄せても、湊との接点などどこにも見当たらないわ……湊は彼女の傍らに立ち、写真を深い眼差しで見つめていた。喉仏を微かに動かしたが、結局は聞き取れないほどの低い笑い声を漏らすだけで、何も答えはしなかった。返事を待ちきれず、怪訝そうに振り返った明乃は、そのまま彼の深い瞳に吸い寄せられた。その瞳には、見る者の魂を絡め取るような何かが潜んでいるようだった。「何笑ってるの?」心臓がまたドクンと跳ね上がった。「つまり……」彼は身を乗り出し、鼻先が触れそうな距離まで顔を近づけると、低く艶のある声で囁いた。「こういう結論に至ったわけか?俺が……あの時からお前に片思いしていた、と」近すぎる。湯上がりの湿り気を帯びた彼の香りが、強引に彼女の五官を支配した。明乃は一気に頭に血が上り、酸欠状態で思考が完全に麻痺してしまった。「デタラメ言わないで!そんなこと一言も言ってないわ!」彼女は恥ずかしさのあまり、彼を押し返そうとした。薄いシルクのパジャマ越しに、硬く熱い胸板の感触が鮮明に伝わってきて、心臓が爆発しそうだった。「もう帰る!」彼女の耳の付け根まで真っ赤なのを見て、湊は、これ以上からかえば彼女が本気で噛みついてくると悟った。彼は潮時と見て身を起こすと、抵抗する彼女の手をそのまま優しく握り、楽しげに口角をつり上げた。「わかった。家まで送ってやるよ」……翌日、明光法律事務所にて。明乃が仕事に追われていると、徹が書類を手にドアをノックした。「ボス、新規の案件っす。目を通してください」「どんな案件?」「医療トラブルっす。依頼人は高齢の女性で、病院で投与された薬の副作用で重篤な症状が出たと主張しているんですが、病院と製薬会社が責任を擦り付け合っている状態でして」徹が資料を差し出した。「証拠が複雑なうえ、
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第182話

明乃は眉をひそめて中を覗き込むと、案の定、岳が険しい表情を張りつかせて立っていた。彼のジャケットには少し埃がついており、普段の隙のない姿とはかけ離れたものだった。彼の目の前には、箒を握りしめて目を怒らせた年寄りが立っている。岳も彼女に気づいたようで、無意識に唇を動かしたが、老人の怒号にかき消された。「助けるだと?ふざけるな!前の弁護士もそう言いやがって、結局どうなった?金を持ち逃げをしやがったんだ!お前らみたいに小ぎれいな格好してる奴らは、ろくなもんじゃねえ!」老人は興奮して箒を振り回し、今にも岳に殴りかかりそうだった。「私たちは明光法律事務所の者です。以前ご連絡させていただきました……」状況を見た明乃は足早に歩み寄り、「まず資料を拝見して、詳しい状況を把握させてください。もし私たちがふさわしくないと思われたら、いつでもお引き取りしますから」と告げた。彼女が現れたことで老人の動きが止まり、濁った瞳で彼女を品定めするように見た。「お嬢ちゃんか。お前も弁護士なのか?」明乃は慌てて頷いた。傍らで涙を拭っていた老婆が、「もう……このお嬢さんにみてもらおうよ。ほかに手立てがないんだから……」と声を漏らした。老人は鼻を鳴らし、依然として警戒の色は崩さなかったが、ようやく箒を下ろした。岳はその隙に、明乃へ小声で囁いた。「思った以上に厄介だ。以前騙された経験があって、相当警戒されている。事情もなかなか複雑で、おそらく……」彼が言い切る前に、それまで陰鬱な顔で黙り込んでいた男性が突然爆発した。「弁護士なんて詐欺師ばっかりだ!金を取ることしか考えてねえ!俺たちのことに関心なんてないんだ!この吸血鬼どもめ!出て行け!全員帰れ!」男は激昂し、その目は赤く充血していた。「前の弁護士は勝てるなんて大見得を切りやがって、結果はどうだ?全くの役立たずだ!俺たちからあんなたくさんのお金を騙し取って!俺の母さんの病気はさらに悪化した!お前ら弁護士はどいつもこいつもペテン師だ!金を巻き上げることしか考えてねえんだ!」「落ち着いてください。私たちは力になりたくて……」徹がなだめようとした。「力になるだと!」男は徹を激しく突き飛ばした。「病院や製薬会社とグルじゃないなんて、誰が証明できる!出て行け!」場面は一気に混乱に陥った。明乃は眉をひそめた
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第183話

その言葉で徹はようやく我に返ると、「救急車を呼べ!」と怒鳴りながら、腰を抜かして座り込む男を取り押さえた。現場は騒然となり、大混乱に陥った。明乃は床に膝をついて岳を支え、溢れ出る傷口を必死に押さえて止血を試みた。だが指先は氷のように冷たくなり、激しく震えて止まらなかった。ドクドクと指の間から鮮血が溢れ出し、彼の服も彼女の手も、見る間に赤く染まっていった。岳は彼女の腕の中に力なく身を預け、意識は朦朧としているようだった。額にはびっしりと冷や汗が浮かび、呼吸は浅く、今にも途絶えてしまいそうに弱々しい。「明乃……」彼はようやく、消え入りそうな声を絞り出した。「今度は……やっと……君を、守れたな……」明乃の心臓は見えない手に強く握りつぶされたかのように、窒息しそうなほどの痛みが広がった。彼女は何かを言おうと口を開いたが、一言も言葉が出てこなかった。遠くから近づいてくる救急車のサイレンの音が、次第に大きくなっていく…………病院の廊下には、鼻を突くような消毒液の臭いが充満していた。明乃は釘付けにされた人形のように、手術室の扉を直視したまま動けずにいた。扉が開閉するたびに、心臓が跳ね上がり、また底知れぬ不安へと叩き落とされる。徹が買ってきたスープは、手付かずのまま冷めきっていた。彼女は無理やり数口飲み込んでみたものの、胃が激しく拒絶し、トイレに駆け込んで何度も吐いた。外に出た時には、足に力が入らず崩れ落ちそうになった。「ボ……ボス!」徹は恐怖で声が裏返った。その時、背後から伸びてきた腕がしっかりと彼女の体を支えた。聞き慣れた気配に、心臓がドクンと跳ねた。明乃が顔を上げると、湊の深い瞳がすぐそばにあった。彼は顎のラインを厳しく強張らせ、あまり機嫌の良くなさそうな表情のまま、彼女の膝裏に腕を差し込んでひょいと横抱きにした。「藤崎さん?」明乃は呆然とした。「どうして……きたの?」湊は答えず、彼女をベンチに下ろすと、その場に跪いた。大きな手で彼女の細いふくらはぎを掴み、適度な力加減で揉みほぐし始める。彼の指先の熱が伝わり、足の痺れがゆっくりと引いていった。そこでようやく彼は顔を上げ、暗い瞳で彼女を射抜いた。「電話は繋がらないし、事務所にもいない。あやうく行方不明者として警察に届けるところだったぞ」明乃
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第184話

明乃はまつ毛に涙を溜めたまま、呆然と彼を見つめた。「本当に?」「ああ」湊は顔色一つ変えずに答えた。実は嘘だ。自分は運良く急所を外れただけだ。生死を分かつ危うさなど、誰よりも熟知している。岳が乗り越えられるかは、本人の運次第だ。その時、手術室の明かりがついに消えた。明乃は弾かれたように椅子から立ち上がり、心臓が口から飛び出しそうなほど緊張した。医師がマスクを外して現れたが、その表情は比較的穏やかだった。「手術は無事成功しました。ハサミが心臓の主要な血管を逸れていたのは、不幸中の幸いです。ただ、出血がひどいのと肺にも軽い傷があるので、二十四時間は経過観察が必要です」張り詰めていた明乃の心がようやく安堵で満たされ、膝の力が抜けてよろめいた。湊が後ろからしっかりと彼女の腰を支えた。「先生、ありがとうございます」……数時間後、岳はVIP病室に運ばれた。麻酔がまだ切れておらず、彼は青白い顔をしてベッドに静かに横たわっていた。唇にも血の気はなく、かすかに上下する胸元だけが、辛うじて生きていることを証明していた。明乃はベッド脇の椅子に座り、複雑な思いに駆られていた。自分を庇って迷いなく飛び込んできた岳。ハサミが体に突き刺さった時のあの鈍い音。倒れる直前に彼が口にした言葉。それらを思い出すたびに、見えない手で心臓を握りつぶされるような、疼くような痛みが走った。湊は入口の壁に寄りかかり、コートのポケットに両手を突っ込んでいた。別の男のために憔悴しきっている明乃を、底の知れない瞳でじっと見つめていた。彼は中に入ることも立ち去ることもせず、ただ少し離れた場所から明乃を見守っていた。時間は静かに流れ、窓の外が次第に明るくなってきた。岳の麻酔がゆっくりと切れ始め、眉間にわずかな皺が寄った。どうやら目が覚めたようだ。明乃は身を乗り出し、低い声で呼びかけた。「岳?」岳のまぶたが震え、ゆっくりと開いた。視線は最初こそ定まらなかったが、次第に彼女の顔に焦点が定まった。「明……乃……」乾ききった掠れ声は、聞き取るのがやっとだった。「私よ」明乃は慌てて傍らの綿棒を取り、水に浸して彼の唇を丁寧に湿らせた。「動いちゃだめ。先生が安静にしていなきゃいけないって言ってたわ」岳は近距離にある彼女の顔を見つめ、その瞳の
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第185話

湊は彼女をじっと見つめたが、何も言わなかった。ただ手を伸ばすと、指先で頬にかかった髪をそっと撫でた。その仕草はあまりに親密で、自然だった。「腹は減っていないか?適当にちょっと買ってくるよ」明乃には今、食欲など微塵もなかった。だが彼にそう聞かれ、ベッドに横たわる岳の顔色の悪さが目に入ると、重苦しい空気に息が詰まりそうになり、取り繕うように頷いてみせた。湊は彼女の指を軽く握ると、ようやく病室を後にした。彼が立ち去ると、病室の空気はようやく流れ始めたように感じられた。明乃が安堵の息を漏らして振り返ると、岳の深淵のような瞳と視線がぶつかった。「彼とは……」岳の声は相変わらず掠れており、隠しきれない苦渋が滲んでいた。「本当に婚約するのか?」明乃は唇を噛んだ。真正面からは答えず、ただこう告げた。「今は体を治すことが先決よ。他の話はまた今度ね」だが岳はそれを聞き入れず、執拗に彼女を見つめた。「彼に強要されているのか。それとも……本当に好きなのか。どっちだ?」その問いに明乃の心は乱れ、苛立ちが込み上げた。「岳、今そんなことを聞いて何になるの?」「意味はある」岳の瞳が熱を帯びる。「もし彼に強いられているなら、あるいは何か別の理由があるなら、俺は……」「『もし』なんてないわ」明乃は彼の言葉を遮った。無意識のうちに声に焦燥が混じる。「これは私自身が決めたことよ」岳の瞳の光が徐々に消えていった。彼は目を閉じ、喉仏を苦しげに動かすと、それきり口を閉ざした。病室には窒息しそうなほどの沈黙が流れた。明乃は彼の白い横顔と結ばれた唇を見つめ、胸の中をかき乱されるような落ち着かない心地になった。自分を救うために彼の胸に刻まれた、あの古傷のことを思い出す……そして今、また彼に借りができてしまった……「明乃……」岳は深く息を吸い、彼女を仰ぎ見た。「もし、湊がいなかったら……俺たちの間に、少しでも可能性はあったか?」明乃は眉をごくわずかにひそめた。「岳、私たちの問題は、藤崎さんとは関係ないわ……」岳の体は瞬時に強張った。そうだ、彼女が迷いなく自分のもとを去った時、彼女の傍らに湊という男はまだ存在していなかった……「なら……」彼は辛うじて唾を飲み込んだ。「二度も君を救ったことに免じて、もう一度だけチャンスをくれないか?」明乃は不意
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第186話

その後数日間、明乃はほぼ毎日病院に通った。何しろ、岳は彼女を庇って刺されたのだ。仕事が終わると、彼女は病院へ向かった。しかし、病室のドアを開けた途端、彼女は足を止めた。空気中には消毒液の匂いと、それから……どこか微かな花の香りが漂っている。彼女の視線は自然とベッド脇のテーブルに向いた。昨日まで空だったガラスの花瓶に、今は生き生きとした……花がいけてある?明乃は沈黙した。誰が持ってきたんだろう?ベッドに横たわっている岳も、当然その花には気づいており、先ほどよりもさらに顔を険しくして、唇を一文字にひき結んでいた。「この花……」明乃は指を差し、複雑な表情を浮かべた。岳は一度目を閉じ、掠れた声で言った。「湊が……さっきまで来ていたんだ」明乃はすぐに悟った。さすがだわ!「湊は……優しいね」岳は何とか言葉を絞り出した。感謝というより、もはや呪いの類に聞こえた。明乃は気まずそうに口角を歪め、持ってきたりんごを花からなるべく遠い場所に置いた。岳は彼女を見つめ、少し声を和らげた。「あき……安藤さん、見舞いに来てくれてありがとう」「今日の調子はどう?先生は何て言ってた?」「まあまあだ……」彼は一度言葉を切り、彼女の顔を見つめた。「ただ、傷がまだ少し痛むんだ」明乃は「そう」とだけ短く返し、それ以上は続けなかった。空気は気まずく淀んでいる。岳は好機と見たのか、低い声で囁いた。「昔、俺が病気になった時、君はいつもスープを作ってくれたよな……」「それは昔の話よ」明乃は無表情に遮り、白湯を汲みに行こうと立ち上がり、この話題を終わらせようとした。しかし、彼女がポットを手に取った瞬間、病室のドアが再び開いた。湊が戻ってきたのだ。彼は袋を持っていた。彼は岳の表情が一瞬で強張ったのをまるで見なかったかのように、真っ直ぐ明乃のそばへ歩み寄った。ごく自然に彼女の手からポットを受け取り、ついでに彼女のこめかみにかかった髪を優しく耳にかけた。「ここにいると思ったよ」低く響く声には、微かな温もりが滲んでいた。「まだ飯を食っていないだろう。弁当を買ってきた」手元の袋を軽く揺らしてから、彼は初めてその場違いな花に気づいたかのように、冷淡な視線を向けた。「その花は気に入ってもらえたか?この部屋にはよく似合うと
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第187話

「明乃は今、俺の婚約者だ」湊は一歩前に出て、岳を見下ろしながら言い放った。「昔は彼女の真心を塵みたいに踏みにじっておいて、失ってから今さら一途な愛を演じるのか。遅すぎると思わないか?」彼が吐く一言一言は、岳の急所を容赦なく打ち据えた。岳の胸は激しく上下し、呼吸は乱れ、傷口のガーゼにはうっすらと血が滲み始める。「君に何がわかるんだ!?俺と彼女の五年間の絆が……」「五年間?」湊はとんでもない冗談を耳にしたかのように言葉を遮った。その瞳には隠そうともしない嘲弄が浮かんでいる。「五年間の無視?それがお前の言う絆か?お前にその言葉を口にする資格があるのか?」彼はわずかに身を屈め、さらに声を低く落とした。だが、その言葉は一文字ずつ、残酷なまでに岳の心を抉っていく。「俺は彼女に自分の全てを捧げ、少しの屈辱も与えてこなかった。彼女のためなら、何でもしてきた。彼女が眉をひそめれば、その不快の元凶をこの世から消し去ってきた」湊は背筋を伸ばし、傲然と言い放った。「お前にできるか?」岳は問い詰められて返す言葉もなく、心臓を突き刺す激痛は、傷口のそれよりも遥かに凄まじかった。反論したかった。自分にもできると言いたかった。だが、積み重ねてきた五年間の怠慢と慢心が重い枷となり、弁明の余地すらなかった。湊と比べて、自分には何があるというのか。岳が絶望に染まり、今にも飲み込まれそうになったその時。「バン!」病室のドアが外から乱暴に押し開けられた。その衝撃でドアが壁に叩きつけられ、凄まじい音が響き渡る。続いて、焦燥しきった中年女性が美優に支えられながら、嵐のように駆け込んできた。「岳!」梅は息子の青ざめた顔と胸元に滲む血を見るなり、声を震わせてベッドに縋り付いた。「どうしたの?どうしてこんな酷い怪我を負ったの!?心臓が止まるかと思ったよ!?」彼女の乱入はあまりに唐突で、二人の男の間に漂っていた一触即発の空気を一瞬で霧散させた。岳は梅の姿を見て呆然としたが、すぐさまその隣で心配そうに佇む美優に視線を移すと、険しく眉を寄せた。「お母さん?どうして来たんだ?美優、君が……」美優は慌てて、いかにも情に訴える口調で言った。「あなたが怪我したって聞いて、心配でたまらなくて、どうしても今すぐ顔を見たいって言ったのよ!私……どうしても止められ
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第188話

明乃は入り口に立ち尽くし、進むことも引くこともできず、ただこめかみがピクピクと引きつるのを感じた。岳の顔色は鉄のように青ざめ、傷の痛みよりも頭痛が勝っていた。「お母さん!少し黙っていてくれ!」梅は息子に怒鳴られ、悔しさで目元をさらに赤くしたが、息子の蒼白な顔を見て、結局は心配が勝った。「ただあんたが心配で……」と小さく呟いた。「落ち着いてください。岳は今、安静が必要だなので……」美優は梅の腕を支えながら、その視線をそれとなく明乃へと向けた。「明乃さんも心配で見舞いに来てくれたのです。何しろ、あの一突きは彼女の代わりに受けたものですから」一見なだめているようだが、実は火に油を注ぐようなものだった。案の定、梅はその言葉に誘導され、明乃を見る目にいっそう不満を募らせた。ずっと傍らで静観していた湊が、ようやく動いた。彼は梅や美優には目もくれず、前に出て明乃の隣に立つと、ごく自然な動作で彼女の腰を引き寄せ、自分の懐に囲い込んだ。その流れるような立ち振る舞いには、強い独占欲で溢れていた。「岳のお母さんですね?」彼は口を開いた。その声は低く、平静だ。「ご安心ください……」「彼の勇気ある行動は、実に見事でした。治療費、療養費、休業補償はすべてヒカリスバイオが全額負担します。さらに、感謝の印として多額の見舞金を支払わせていただきます」わずか数言で、岳の身を挺した救出劇を純粋な「善行」と定義し、すべての私的な情愛の入り込む余地を断ち切った。岳は胸が詰まり、呼吸がわずかに荒くなった。傍らの梅は一瞬呆然とし、口を半開きにして困惑の表情を浮かべた。「あなたは……」湊の薄い唇が、わずかに弧を描いた。「藤崎湊です。明乃の婚約者です」梅の頭の中で、何かが激しく鳴り響いた。藤崎湊?あの藤崎家の、藤崎湊?ヒカリスバイオの実権を握る人物?彼女はただ、明乃が息子と別れて水南地方へ行き、その後婚約したと聞いて、内心笑っていたのだ。せいぜい、表に出せないような成金か小金持ちとしか婚約できないだろうと。だが、目の前のこの男は……背筋は真っ直ぐに伸び、容姿は驚くほど端正だ。全身から漂うのは、長年人の上に立つ者が持つ気品と冷徹さ。その深い眼差しに射すくめられると、無形の圧迫感に襲われ、彼女でさえ、まともに目を合わせることができな
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第189話

それは問いかけではなく、断定だった。明乃は彼に抱き寄せられ、鼻をくすぐる清涼なウッディの香りに、心の動揺が不思議と静まっていくのを感じた。彼女は岳に視線を返すことすらなく、小さく「……うん」と応じた。岳は、明乃が湊に連れ去られるのをただ呆然と見送った。彼女が振り返ることは、一度もなかった。背後では、岳がベッドシーツをきつく握りしめ、指の関節が白く浮き上がっていた…………湊は明乃を事務所へは送らず、そのまま水南地方にある新居の別荘へと車を走らせた。道中、二人の間に会話はほとんどなかった。湊は運転に集中し、夜の闇に照らされたその横顔は、いつになく冷厳な輪郭を描いている。明乃はシートに深く身を預け、流れる街灯を眺めながら、乱れた心を整理できずにいた。今日の病院での出来事は、彼女をひどく疲れさせた。きっぱりと縁を切るつもりだったのに、よりによってまた、大きな借りを一つ作ってしまった。車がガレージに入ると、湊は先に降りて彼女側のドアを開け、自然に手を差し出した。明乃は目の前の大きな手を見つめ、一瞬躊躇したが、その掌に自分の手を重ねた。湊の手は温かく乾いていて、彼女の冷えた指先を包み込むようにして別荘の中へと導いた。室内は煌々と明かりが灯り、柔らかな温もりが冬の寒さを一気に溶かしていく。湊はコートを脱いで無造作に掛けると、振り返りざま、明乃を玄関の壁際へとそっと追い詰めた。「……まだ、あいつのことを考えているのか?」彼は顔を寄せ、額を彼女のそれに預けた。触れ合うほど近い距離で、その低い声には、微かな、しかし逃しようのない硬さが混じっている。逃げ場のない空間に閉じ込められ、明乃は湊の体温と、そこから放たれる圧倒的な圧迫感を肌で感じた。彼女は顔を背けた。「そんなことないわ」「じゃあ何で放心状態なんだ?」彼の指先がそっと顎を持ち上げ、無理やり自分を見つめさせた。その瞳は夜の海のように深く、測り知れない感情が渦巻いていた。明乃は鼓動を跳ねさせ、反射的に言い返した。「誰が放心状態よ!別のことを考えてただけ!」「ならいいが……」湊は彼女の反論に満足したのか、口元をかすかに吊り上げた。指の腹で彼女の滑らかな顎先を撫で、どこか艶めいたむず痒さを残した。「でないと、俺が妬いてしまう……」「あなた…
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第190話

一瞬にして周囲の空気は燃え上がらんばかりの熱を帯びた。理性がその身を焦がす炎に完全に飲み込まれ、体が溶けてしまいそうだと明乃が感じたまさにその時。突然のスマホの着信音が鳴り出した!「ブーン、ブーン」湊のスマホだ。静まり返った玄関に、ひどく耳障りに鳴り響く。その音は、情欲に支配されていた明乃の脳を一瞬で現実に引き戻した。彼女はハッと我に返り、二人が今しがた絡み合っていた姿勢を自覚して、顔がカァッと一気に赤くなった。「で……電話よ!」明乃は慌てて顔を背けて熱い口づけを避け、両手で湊のたくましい胸板を必死に押し戻そうとした。だが、湊は離すどころか、さらに強く彼女を抱き締め、敏感な耳たぶを罰するように軽く噛んだ。その声は、原形を留めないほど低く掠れている。「構うな!」だが、その着信音は彼に挑むかのようにしつこく鳴り続け、出なければ決して止まらないといった勢いだった。明乃は彼が隙を見せた瞬間、全力で突き放し、揉みくちゃにされたセーターの裾を慌てて整えた。頬は赤く染まり、小さな耳たぶまで色づいている。「早く出てよ!」恥ずかしがる彼女を見て、湊は胸を大きく上下させた。だが、どうにかその衝動を押し殺し、大きく息を吸って、コートのポケットからスマホを取り出した。彼は着信表示すら見ず、そのまま通話に出てスマホを耳に当てた。喉の奥から絞り出すような声は低く、危ういほどの圧を帯びる。「賢人、命に関わる用事でないなら、もうかけてくるな!」「!!!」電話の向こうの賢人は、頭ごなしの怒声に完全に飲み込まれているのが、電話越しでも伝わってきた。冷や汗を流しながら、彼は慌てて報告を始めた。「ふ……藤崎社長!す、すみません!お邪魔しました!先日、霧島弁護士が安藤さんを救った件ですが……結果が出ました!……」湊の眉が瞬時に険しく寄せられ、声は氷のように冷たくなった。「言え」賢人は一字一句漏らさぬよう、必死に状況を報告した。「藤崎社長、徹底的に調査いたしましたが……奇妙なことに、私のあらゆる人脈を駆使しても、霧島弁護士が五年前、あるいはそれ以前に安藤さんを救ったという記録や噂は、ただの一つも見つかりませんでした……一度たりとも、です!」「……」湊の瞳が鋭く沈み、スマホを握る指先に無意識に力が入る。ない?一度も?なら、岳
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