「あら、いらっしゃい」美優の声は軽かった。「思ったより早かったじゃない」明乃は一歩前へ進み、倉庫の中に足を踏み入れた。足元にはべっとりとしたガソリンが広がっている。一歩踏み出すたびに、ぞっとするようなぬめりが靴裏にまとわりついた。「お母さんを今すぐ放して」明乃の声は平坦で、感情が読み取れなかった。「欲しいものがあるなら、話し合えるわ」「話し合う?」美優はおかしなことを聞いたと言わんばかりに、クスクスと笑い出した。「今さら私たちに話し合うことなんてあるのかしら?」美優が手の中のライターを掲げる。カチッ、と音がして、火が灯った。橙色の光が、美優の歪んだ顔を照らす。「私はもう何もいらないわ」美優は明乃を見つめた。目が恐ろしいほどぎらぎらと光っている。「ただ、あなたにも味わわせたいだけ……すべてを失うってどういうことなのかをね」加奈子はさらに激しくもがき、麻袋がこすれてガサガサと音を立てた。明乃は加奈子を見なかった。ただ、美優だけを見ていた。「私が憎いなら、私をやって」明乃は前へ進んだ。足取りはぶれなかった。「お母さんを放して。私がここに残るから」「ここに残る?」美優は首を傾げた。まるで本気で考えているようだった。「それで?湊が助けに来るのを待つの?それとも警察に通報するの?」美優は首を横に振った。笑みは残酷だった。「だめよ。私、そこまで馬鹿じゃないわ」美優は一歩後ろへ下がり、加奈子のそばへ寄った。ライターを、濡れた服の裾へ近づける。「私は、あなたに見せたいの」美優は一語一句、噛みしめるように言った。「あなたのせいで、お母さんが灰になるところをね」明乃の瞳孔がぎゅっと縮んだ。明乃は鋭く叫んだ。「やめなさい!」「どうしてやめなきゃいけないのよ!?」美優の声が一気に跳ね上がった。甲高く、耳を刺すようだった。「私はもう何もかも失ってしまったの!だから何だってできるわ!」美優の指がライターのレバーにかかり、かすかに力が入る。炎が揺れた。その時――倉庫の外から、急ブレーキの音が響いた。続いて、車のドアが開閉する鈍い音。さらに、こちらへ駆けてくる足音が近づいてくる。美優の顔色が変わり、勢いよく入口を振り向いた。明乃も一瞬、息を止めた。誰?湊?それとも……足音は入口で止まった。
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