Alle Kapitel von 幼馴染を選ぶはずの彼の心に、私が残っている: Kapitel 451 – Kapitel 460

482 Kapitel

第451話

明乃は驚いた顔になった。哲也は、明乃と同い年のはずだ。「前は、あいつが妻や子どもの写真を上げるたびに、正直よくわからなかった。自由でいるのが一番だろうって。わざわざ自ら縛られる必要がどこにあるんだ、と思っていた」湊はそこで少し言葉を切った。指の腹が、明乃の少し腫れた唇をそっとなぞる。その目は深く、まるで彼女を吸い込んでしまいそうだった。「でも今は、俺は気が狂いそうなくらい羨ましい」明乃は、呆然と湊を見つめた。「お前だと決めた日から、ずっと考えていた」湊の声が、さらに低くなる。「いつになったら、お前は自分の妻だと、俺は堂々とみんなに言えるんだろうって。いつか百年先に同じ場所で眠って、来世でもまた会おうと約束できるのは、いつなんだろうって」明乃の鼻の奥が、ふいに熱くなった。湊は彼女の腰に回していた手を離した。明乃が不思議そうに見つめる中、彼はポケットに手を入れる。次の瞬間、開かれた掌の上に、一つの指輪が静かに横たわっていた。プラチナ製。凝った装飾はなく、清潔なほどシンプルな輪に、一粒のダイヤモンドが留められている。けれど、それはありふれた白い輝きではなかった。青だった。静かで、深く、夜の海のような青。そして、今の湊の瞳にも似ていた。明乃は、そのブルーダイヤを知っている。少し前、ファッション雑誌の表紙を飾っていた、伝説的な鉱山から採れた希少なブルーダイヤ。予想落札価格の時点で、すでに想像もつかないほどの金額だった。あのとき明乃は、徹に冗談めかして言ったのだ。最後はどこのコレクターの手に渡るんだろう、と。まさか……「明乃」湊は目を上げた。彼女をまっすぐに見つめ、一語一句、はっきりと、そして厳かに告げる。「俺と……結婚してくれるか?」リビングは、互いの鼓動まで聞こえそうなほど静かだった。明乃はその指輪を見つめた。それから、湊の強ばった顎のラインと、その瞳の奥に濃くにじむ期待と不安を見た。ふいに、彼女は笑った。けれど涙は、何の前触れもなく頬を滑り落ちた。明乃は手を伸ばした。指輪を受け取るためではなかった。湊の顔を両手で包み、自分から口づけた。そのキスは、さっきよりもずっと長かった。涙のしょっぱさと、ようやくすべてが収まるところに収まったような、優しさと確かさを帯びていた。キスが終わると、
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第452話

3月。弦の塚の春は、少し遅れてやってきた。春に入ってからというもの、明光法律事務所に舞い込む案件は少しずつ増えていた。その日、受付が一人の中年女性を案内してきた。依頼人は50代の女性で、柳田美代子(やなぎだ みよこ)という。市場で魚介類を売る露店を営んでいる人だった。息子の治療費を工面するために高利貸しに手を出し、わずか半年で600万円の借金が3000万円にまで膨れ上がった。取り立て屋は毎日のように押しかけ、店にペンキをぶちまけたり、露店を壊したりした。老夫婦は、とうとう飛び降りまで考えるほど追い詰められていた。「もう生きていけません……」美代子は法律事務所の応接室に座り、ひび割れた荒れた指で紙コップを握りしめて震えていた。「昨日、あの人たちが主人を階段から突き落としたんです。足を折って、今も病院に寝たきりで……」明乃は借用書のコピーに目を通しながら、眉間の皺を深くしていった。利息はあまりにも法外だった。違約金の条項も、まるで蜘蛛の巣のように細かく張り巡らされ、どこを見ても罠だらけだった。「警察には相談しましたか?」「しました。けど、警察の方は来ても、『民事の金銭トラブルだから、法律の手続きを取ってください』って言うだけで……」美代子の目から涙がこぼれ落ちた。「でも、私たちにはそんなこと何もわからなくて。あの人たちは本当に怖いんです。裁判で判決が出たって無駄だ、いくらでも覆せる方法はあるって……」明乃はファイルを閉じた。「この案件、引き受けます」美代子は呆然とした。「で、でも……私たち、弁護士費用なんて払えません……」「大丈夫です。法律扶助という形で進めましょう」明乃はかすかに口元を上げた。「明光法律事務所には今年、公益案件の枠があります。美代子さんはこの条件に当てはまります」隣で記録を取っていた徹が、その言葉を聞いて顔を上げ、明乃を見た。美代子が何度も頭を下げながら帰っていったあと、徹はようやく口を開いた。「ボス、こういう高利貸し案件が一番面倒なんすよ。勝っても回収が難しいし、負けたらこっちまで面倒に巻き込まれる。あの手の貸金業者って、だいたい裏に……」「裏に誰がいるの?」明乃が目を上げる。「この『新源(しんげん)ファイナンス』の社長は、佐伯大吾(さえき だいご)って男っす。昔は山田さんの下に
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第453話

容赦ない。「すぐに手配します」……美代子の案件は、思った以上に早く進んだ。明乃は徹と兼光を連れ、3日続けて市場に通い詰めた。最初のうち、露店の人たちはみな避けるようにしていた。視線は泳ぎ、誰も多くを語ろうとしない。だが、兼光が露店をひっくり返そうとしたチンピラを叩き出してから、ようやく証言してくれる人が現れた。それと同じ頃、経済犯罪対策課には匿名の方による新たな有力な情報が届いた。新源ファイナンスがこの5年間で動かしていた数十億円近い違法資金の流れ、脱税の証拠、さらに暴力的な取り立てで軽傷者を出した複数の記録。どれもこれも、証拠は揃っていた。立件は、想像していたよりも順調だった。裁判所が受理したあと、財産保全の決定も下りた。大吾の会社口座は凍結され、関連するいくつかの個人口座も対象に入った。明乃は民事訴訟の訴状を提出した。借入元本を600万円と確認し、法的に保護される範囲を超えた利息と違約金は無効だと求めたのだ。立件当日、経済犯罪対策課が踏み込み、新源ファイナンスの会社口座と事務所をそのまま差し押さえた。大吾は連行されるときまで喚いていた。目玉が飛び出しそうなほど目を剥き、明乃を指差して罵る。「おい安藤!覚えてろよ!必ず潰してやるからな!」明乃は警察車両が走り去るのを見送った。顔には、ほとんど表情がなかった。隣の徹は大きく息を吐いたが、それでもまだ少し青ざめていた。「ボス、佐伯さんはしぶといタイプっすよ。入ってもそんなに長くは出られないでしょうし、出てきたら絶対に仕返ししてきますって」「何を怖がる必要があるの?」明乃は振り返った。「今すぐ、佐伯さんの最近の周辺を調べて。見慣れない人物が出入りしていないか。特に、女性ね」徹は一瞬ぽかんとした。「ボス、あいつが先に口座の中身を逃がしたって疑ってるんすか?」「用心しておくに越したことはないわ」「了解っす」……ほどなくして、審理は終わり、判決も下った。借入元本は600万円と確認。4倍のLPRを超える利息の取り決めは無効。美代子の家が返済すべき金額は、合法的な元利を合わせて720万円余りにとどまった。一方、新源ファイナンスについては、暴力的な取り立てと脅迫行為の疑いで、別件として処理されることになった。美代子はその場で明乃に跪こうと
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第454話

「疲れただろう」「まあね」明乃はシートベルトを締めた。「今日の裁判、勝ったの」どれだけ疲れていても、それだけの価値はあった。「うん、聞いたぞ」湊はエンジンをかけ、車を流れに乗せた。「うちの藤崎夫人は、本当にすごいな!」「……」明乃は耳の奥が少し熱くなり、顔をそむけた。あえてその言葉には乗らなかった。赤信号で車が止まったとき、明乃はふと思い出したように口を開いた。「そういえば、今日の案件の被告、佐伯大吾って人、知ってる?」「ああ、聞いたことはある」「徹が今日調べたんだけど、佐伯さんって、秦さん親子を同時に囲っているらしいの」明乃は唇を軽く引き結んだ。「あの二人、本当に落ちるところまで落ちたわね。そんなことまでできるなんて……」だが湊は、かすかに口元を上げただけだった。横目で明乃を一瞥する。「じゃあ、大吾がどうして美優たちに目をつけたかは知ってるか?」「え?」明乃は不思議そうに瞬きをした。そして、何かに気づいたように眉を寄せる。「つまり……誰かがわざと、二人を大吾のところへ追い込んだってこと?」湊は笑って頷いた。「誰?」「誰?」湊は少し間を置いた。視線は前方のフロントガラスに向けたままだった。「岳だ」車内の空気が、一瞬だけ固まった。明乃の呼吸が、ほんのわずかに止まる。「今……何て?」「裏で流れを作ったのは、岳だ」湊の声に大きな起伏はなかった。「あいつは大吾が女好きで、特に親子に目がないことを知っていた」明乃は湊の横顔を見つめた。喉が少し乾く。「彼が……わざとやったの?」「そうじゃなきゃ、何だと思う?」湊は前を見据えたまま言った。ネオンの光がその横顔を明滅させ、声は天気の話でもしているかのように淡々としていた。「岳は、表向きこそ品行方正な顔をしているが、腹の底は陰湿で容赦がない。香織たちがあいつを馬鹿にして5年も弄んだんだ。あいつが簡単に許すと思うか?」「徹底的に潰すつもりなのね」明乃は小さく言った。「ああ」湊は否定しなかった。「大吾みたいな男は、一度関わったら簡単には切れない。美優たちは一度あの泥沼に落ちたら、もう一生、きれいには抜け出せない」そこで言葉を切り、湊は横目で明乃を見た。「やり過ぎだと思う?」明乃は数秒、黙っていた。「あの人たちは自業自得よ」彼女のその
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第455話

「バンッ――!!!」安っぽいガラスのコップが、テレビ画面に叩きつけられた。画面一面に蜘蛛の巣のようなひびが走り、映像が何度か歪んだあと、完全に真っ暗になった。ガラスの破片が床一面に飛び散る。美優はその破片の前に立ち尽くしていた。胸は激しく上下し、目は大きく見開かれている。血がにじみ出しそうなほど真っ赤だった。着ているのは、しわだらけの寝間着。脂っぽい髪が顔に張りついている。テレビが消える直前、画面には明乃の顔が映っていた。あの女は上品なスーツを身にまとい、湊の隣に立って、カメラに向かって微笑んでいた。落ち着いていて、優雅で、まばゆいほど輝いていた。それに比べて、自分は?自分は、まるでドブの中のネズミだった。カビ臭い安アパートに身を隠し、体には吐き気を催すような匂いが染みついている。どうして!?美優の全身が震えた。爪が掌に深く食い込み、血の跡が残っても痛みすら感じなかった。あの女が、華々しく藤崎家に嫁ぐ?誰もが羨む藤崎夫人になる?そんなこと、許せるわけがない!美優は勢いよく振り返り、狭く汚れた洗面所へ飛び込んだ。蛇口をひねる。冷たい水を顔に浴びせると、その刺激に体がびくりと震えた。鏡には、やつれ果て、歪んだ顔が映っている。その目の奥には、狂気じみた憎しみが宿っていた。美優は鏡の中の自分を睨みつけ、口角を引きつらせた。泣き顔よりもひどい笑みだった。明乃……次の瞬間、美優は手を振り上げ、拳を鏡に叩きつけた。「ガシャン――ッ!」鏡が割れた。破片が手の甲を裂き、血が一気にあふれ出す。それでも痛みは感じなかった。ただ、焼けつくような狂気が血の中を駆け巡っていくのを感じるだけだった。美優の胸に燃え上がった炎は、一晩中消えなかった。そして翌朝、まだ夜が明けきらないうちに、美優は早々に家を出た。昔ながらの商店街。地面は濡れていて、一晩たった汚水の酸っぱい悪臭が漂っていた。美優は上着をきつくかき合わせ、帽子のつばを深く下ろす。そして、看板の角が欠けたビリヤード場へ入っていった。中は煙でむせ返っていた。上半身裸の男たちが数人、腕いっぱいに刺青を這わせながら金を賭けている。怒鳴り声と汚い罵声が入り混じっていた。美優はまっすぐ、一番奥の台へ向かった。顔に傷のある男が、ち
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第456話

美優は声を極限まで低く抑え、どこか媚びながら、そっと高津戸の腕に手を置いた。「あなた……欲しくない?」高津戸は目を細め、美優をじろじろと眺めた。しばらくして、彼は手を伸ばし、美優の顎をつかんだ。「まずは何の仕事か言え。殺しや放火なら、その金じゃ足りねぇぞ」「殺しじゃないわ」美優は高津戸を見つめた。「一人、拉致してほしいの」「誰をだ?」「安藤加奈子よ」高津戸の指がぴたりと止まり、その目つきが一瞬で変わった。「お前、頭おかしくなったのか?安藤家の人間に手を出すって?しかも湊の未来の義母だぞ?」「怖いの?」美優は口元を歪めた。「あなたたちみたいな人って、お金のために動くんでしょう?300万円よ。抵抗もできない年配の女を一人連れてくるだけ。難しくないでしょう?安藤家は今でこそ華やかに見えるけど、中身はもうボロボロなの。それに、あなたたちは人を連れてくるだけでいい。湊がどれだけすごくても、四六時中そばで見張っていられるわけじゃないでしょ?」高津戸は美優を放し、自分の顎を撫でながら考え込んだ。そばにいた痩せ型で背の高い男が身を乗り出す。「この仕事……リスクが高すぎますよ。安藤家も藤崎家も、敵に回すにはまずい相手です」「大金は危ない橋を渡った先にあるものよ」美優はすぐさま言葉を継いだ。声には焦りが滲んでいる。「加奈子さんは毎日午後、必ず病院に行くの。何があっても欠かさない。運転手が地下駐車場まで送って、そこから加奈子さんは一人でエレベーターに乗る。駐車場の監視カメラには死角があるし、エレベーターから診療フロアまでの廊下にもカメラはない。車を降りてから中に入るまで、長くても3分。3分あれば十分でしょ」美優はビニール袋をテーブルの上に置いた。中には、隠し撮りした加奈子の写真が数枚入っていた。さらに、手描きの地下駐車場と病院周辺のルート図もあり、目印まで細かく書き込まれている。高津戸は写真を手に取り、目を通した。写真の中の加奈子はきちんとした服装で、穏やかな品のある雰囲気をまとっていた。ちょうど黒い車から降りてくるところだった。「本当にあの女一人だけか?ボディガードはいねぇのか?」「いないわ」美優はきっぱりと言った。「義男さんが倒れる前なら、いたかもしれない。でも今の安藤家に、そこまで手が回ると思う?そばにいるのは運転手一人だ
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第457話

加奈子は淡いグレーのカシミヤのセットアップを身にまとい、保温ボトルを手に車から降りた。少し疲れているように見え、目元には細かな皺も浮かんでいたが、それでもきちんとした立ち居振る舞いは崩れていなかった。「私は車でお待ちしております」加奈子はうなずき、エレベーターへ向かって歩き出した。そのときだった。隣に停まっていたSUVが突然エンジンをかけ、ヘッドライトが勢いよく点灯した。眩しい光がまっすぐ加奈子に浴びせられる。彼女は反射的に手を上げ、目をかばった。「奥様、危ない!」運転手が異変に気づき、声を上げたその瞬間。灰色のワゴン車が暴れ馬のように柱の陰から飛び出し、急ブレーキをかけて、正確に加奈子の目の前へ横づけされた。車のドアが、ガラリと音を立てて開く。キャップを目深にかぶり、マスクをした男が二人車から飛び降り、加奈子へ一直線に襲いかかった。「ちょっと!何をするのよ!?」加奈子の瞳孔がぎゅっと縮む。身を翻して逃げようとしたが、その腕はすでに男の手によってがっちりとつかまれていた。「助けて――!」悲鳴が漏れた瞬間、刺激臭のする薬品を染み込ませたハンカチが、加奈子の口と鼻をきつく塞いだ。強烈なエーテルの匂いが鼻腔に流れ込む。加奈子は目を見開き、必死にもがいた。爪が男の腕に食い込み、いくつもの痕を残す。だが、力の差はあまりにも大きかった。息苦しさとめまいが、波のように一気に押し寄せてくる。視界がぼやけ始め、耳元には自分のくぐもった声と、運転手の叫び声だけが残った。「奥様!早く離せ!誰か、助けてくれ――!」運転手は目を血走らせ、止めようと駆け寄った。だが、横から高津戸に腹を蹴りつけられ、低くうめいてその場にうずくまった。すべては、わずか十数秒の出来事だった。加奈子の体から力が抜け、すぐさまワゴン車の中へ引きずり込まれる。ドアがバンッと閉まった。エンジンが荒々しい唸り声を上げる。ワゴン車のタイヤが地面を擦り、耳障りな音を立てながら勢いよくバックし、そのまま矢のように上り坂へ向かって走り出した。やがて地下駐車場の出口の光の中へ消えていく。停車してから人をさらって走り去るまで、2分もかからなかった。駐車場に残されたのは、地面に倒れ、苦しげにうめく運転手だけだった。運転手はほかのことなど構っ
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第458話

エンジン音が、遠くから次第に近づいてきた。灰色のワゴン車が荒れた草むらを踏みつぶし、倉庫の入口に停まる。高津戸と二人の手下が車を降り、後部ドアを開けて、意識のない加奈子を引きずり出した。「ほらよ」彼は加奈子を美優の前へ突き出した。美優は反射的に受け止めたが、加奈子の体の重みでよろめいた。美優はうつむき、腕の中の加奈子を見つめた。指先がかすかに震えている。怖いからではない。興奮しているからだ。「金は?残りの分の金はどこだ?」高津戸が美優を睨む。彼女は持ってきた古びたキャンバスバッグから、新聞紙に包んだ小さな束を取り出し、放り投げた。高津戸はそれを受け取り、重さを確かめるように軽く持ち上げた。数えもせず、そのまま懐に押し込む。「行くぞ」彼は短く言い、手下を連れて車へ戻った。ワゴン車のエンジンがかかり、ほどなくして廃工場の細い道の先へ消えていった。倉庫の中には、美優と意識を失った加奈子だけが残された。周りが急に恐ろしいほど静まり返る。聞こえるのは、割れた窓を吹き抜ける風のうなりと、遠くからかすかに届く鳥の声だけだった。美優は荒い息をしながら、加奈子を倉庫の隅に積まれた古い麻袋の上まで引きずっていった。その動きは乱暴だった。加奈子の頭が床にぶつかり、小さくくぐもった声が漏れる。まつげが震え、目を覚ましそうな気配があった。美優はしゃがみ込み、バッグから前もって用意していた麻縄を取り出した。そして、加奈子の足首もきつく縛り上げる。それから、大きなプラスチックボトルを取り出した。中には透明な液体が入っている。ガソリンだった。美優がキャップをひねって開けると、刺すような匂いがたちまち広がった。美優はガソリンの入ったボトルを手に、倉庫の中を歩き始めた。乾いた木材、古い段ボール、破れた麻袋にガソリンをまき、壁沿いにいびつな輪を描いていく。ガソリンはトロトロと流れ、埃の上に黒っぽい染みを作っていった。最後に、美優は加奈子のそばへ戻り、そこで一瞬だけ足を止めた。そして、彼女はボトルを持ち上げた。残っていたガソリンを、加奈子の上からゆっくりと浴びせかけた。冷たく刺激の強い液体が、頭から一気に降りかかる。「んっ!」強烈な刺激に、加奈子はびくりと目を覚ました。目を開けても視界はぼや
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第459話

「あなたが一番大事にしてるのは、あの宝物みたいな娘の明乃なんですよね?なら、安心してください……」美優は口を裂くように笑った。「ちゃんと、あの女もあなたのところへ連れてきてあげますから!」……その頃。明乃はちょうど裁判を一つ終え、裁判所から出てきたところだった。脇目も振らず、路肩に停めてある車へ向かって歩いていく。「明乃」斜め後ろから声がした。彼女は足を止めなかった。岳が数歩で追いつき、彼女の車の前に立ちふさがった。彼は、ピシッとしたグレーのスーツを着ている。表情はほとんど動いていなかったが、その目の奥には、複雑な沈みが押し込められていた。「何か用?」明乃は目を上げた。声はひどく淡々としていた。岳は彼女を見つめた。今日の明乃は、スモーキーグレーのスーツを身にまとい、長い髪をすっきりとまとめていた。白い首筋がのぞいている。左手の薬指にはめられたブルーダイヤの指輪が、日差しを受けて眩しい光を放っていた。岳の喉仏が上下する。声は少しかすれていた。「勝訴、おめでとう」明乃は表情ひとつ変えなかった。「ありがとう」の一言すら返さず、車のドアを開け、そのまま身をかがめて乗り込んだ。エンジンがかかる。岳はその場に立ち尽くし、明乃が窓を下ろすのを見ていた。彼女は顔を横に向けた。日差しが頬に落ち、その瞳は澄みきって冷たかった。「婚約、おめでとう」窓が上がり、外のすべてを遮断した。車が流れに乗って走り去る。岳はその車が交差点の向こうへ消えていくのを見つめていた。胸の奥に何かが詰まったようで、息ができないほど苦しかった。おめでとう。その言葉は、針のように胸に突き刺さる。岳はネクタイを軽く引っ張り、自分の車へ向かった。運転席に座ると、タバコに火をつけた。けれど吸うことはなく、ただ窓の外を見ていた。スマホがピコンと鳴った。夢花からのLINEだった。夜は何が食べたいか、新しく覚えた料理がある、と書かれている。岳は画面を数秒見つめ、それから消した。車を発進させ、目的もなく走り出す。気がついた時には、明乃の車の後ろについていた。その頃、彼女は前だけを見て運転していた。突然、電話が鳴る。彼女は反射的に着信表示に目をやった。唇の端がかすかに上がる。それから通話ボタンを押した。「
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第460話

倉庫の中では。ガソリンの匂いが、むせ返るほど濃く立ち込めていた。加奈子は全身ずぶ濡れだった。髪は顔に張りつき、カシミヤの上着はガソリンを吸い込んで肌にまとわりついている。刺すような冷たさだった。彼女は汚れた麻袋の山にもたれかかっていた。手足はきつく縛られ、口はテープで塞がれている。激しく乱れた呼吸に合わせて、胸だけが大きく上下していた。美優は加奈子の前へ戻ると、手の中のライターを弄びながら、見下ろすように彼女を眺めた。「カチッ!」「カチッ!」ライターの蓋が開閉し、単調な音を立てる。「知ってますか……?」美優の声は軽かった。まるで世間話でもしているようだった。「私、昔から明乃がすごく羨ましかったんです。家柄もいいし、綺麗だし、岳みたいに落とすのが難しい男にも、あんなに堂々と告白できたし……」美優はそこで言葉を切り、唇の端を奇妙に歪めた。「でも私は?母親は人の男にすがって生きてきた女。父親は……」その顔に、一瞬だけ冷たい光がよぎる。「私は、明乃から岳を奪えると思ってた!必死で岳をつかまえようとしたのに、岳も私を捨てた!」美優は腰をかがめ、加奈子に顔を近づけた。吐息が彼女の頬にかかる。「明乃よ!明乃が私のすべてを奪った!もうすぐ結婚するくせに、岳はまだ明乃のことを忘れられない!それに……私は藤崎家にも捨てられた……私にはもう、何も残されていない」加奈子の喉から、くぐもった声が漏れた。必死に首を横に振る。違う!明乃は何も奪っていない。美優が自分で、一歩ずつここまで来てしまっただけだ。美優はその目を読み取ったように、顔から笑みを消した。代わりに浮かんだのは、ぞっとするほど激しい憎しみだった。「私の自業自得ですって?そう思ってるんですよね?」美優は勢いよく加奈子の髪をつかみ、無理やり顔を上げさせた。「あなたたちはみんな、私の自業自得だって思っている!私には釣り合わないって!でも、私は絶対に証明してみせる――」美優は手を放して立ち上がると、倉庫の入口へ歩いていき、外を覗いた。「明乃がもうすぐ来ますよ」美優は振り返り、加奈子に向かって笑った。「来たら、三人で……ゆっくり話しましょう」明乃の車は猛スピードで、市の北側にある廃工業地帯へ入っていった。路面は穴だらけで、タイヤが砕けた石を踏みつけるたび
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