Alle Kapitel von 幼馴染を選ぶはずの彼の心に、私が残っている: Kapitel 471 – Kapitel 480

482 Kapitel

第471話

岳の胸が、ギュッと強く締めつけられた。「明乃……」彼の声は震えていた。自分でも抑えきれないほど、恐ろしかった。だが、岳が何か言うより先に、明乃の冷たい声が落ちる。「まだ何か言いたいの?」「あの日……あの日のことが、たとえ俺じゃなかったとしても……」掠れた声で、岳は呻くように言う。「君への気持ちは、本物だった!助けたのが嘘でも、想いだけは本物だ……!明乃、君は……」「本物?」明乃が口角を歪めた。その笑みには、容赦のない嘲りが滲んでいる。「人の命の恩を盗み取って、私を5年ものあいだバカみたいに騙し続けて。それが、あなたの『本物』なの?その嘘で何度も何度も私を縛りつけて、罪悪感で身動きが取れないようにして、それがあなたの『本物の気持ち』なの?」彼女は前に一歩踏み出す。岳もそれに合わせて後ずさった。「俺は……俺にも、事情が……」「あなたはいつもそうなの」明乃が遮った。その瞳は、氷のように冷たい。「いつも誰かに追い詰められて、仕方なかったって言うの。あなたはもう28歳でしょう?もう小学生じゃないのよ?全部あなたが自分で決めてきた道でしょ?」そこで彼女は言葉を切り、一字一句、刻みつけるように告げた。「だから、もう『本気だった』なんて言葉で、私を不快にさせないで」岳はその場に立ち尽くし、全身から力が抜けていく。明乃の目には、怒りも恨みもなかった。ただ、冷たい嫌悪だけがあった。心臓を見えない手で握りつぶされたかのような痛みが走り、岳はほとんど息ができなくなった。それは、どんな罰よりも残酷だった。もう恨まれてすらいない。責められてすらいない。彼女はただ……軽蔑しているだけなのだ。恨む価値もない相手として。「さっさと失せろ」湊が低く言った。声に怒鳴るような激しさはない。だからこそ、余計に冷たかった。「二度と明乃ちゃんの前に現れるな」岳は口を開いた。けれど、何も出てこなかった。肩が落ち、背中が丸まる。岳はふらつく足で廊下の奥へ歩いていった。足取りはおぼつかなく、後ろ姿はみじめだった。まるで逃げ出すように……明乃はその場に立ったまま、岳が消えていくのを見送った。胸の中は、驚くほど静かだった。怒りも、悲しみもない。5年間ずっと背負っていた重い荷物を、ようやく下ろせたような気がした。同時に、ひどくくだら
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第472話

「湊」明乃は小さく彼の名を呼んだ。「ん?」「どうして、今まで何も言ってくれなかったの?」湊は、明乃の鼻先を軽くつついた。その仕草は優しく、どこか呆れていたようでもあった。「まさかお前、そんな理由であんなに一生懸命ほかの男についていってたなんて、思わなかったんだ」明乃の鼻の奥が、つんと熱くなった。「私……知らなかったの……」湊は彼女の頭をそっと撫でた。「もういい。今はその話は終わりだ。家に帰って、お風呂に入ったらゆっくり休め」明乃はまだ胸が苦しくて、反射的にうなずいた。だが、すぐに彼の言葉の意味に気づき、ぽかんと顔を上げる。「え?」湊の口元が、わずかにつり上がった。明乃はようやく自分の姿を見下ろした。服は汚れ、全身から煙と煤の匂いがする。たしかに、先にお風呂に入るべきだった。ただ……「もしかして、私のこと、汚いって思ってる?」明乃は思わず湊を睨んだ。湊はわざとらしく鼻をひくつかせ、いかにも真面目な顔でうなずいた。明乃はむっとして、彼の腕に抱きついた。そのまま自分についた煤と煙の匂いを、わざと彼の服になすりつけた。湊は避けなかった。彼女の好きにさせていた。明乃がそろそろやめようとした時、湊がいきなり腰を抱き上げた。驚いた明乃は、慌てて彼の首にしがみつく。「何するのよ!早く下ろして……」「下ろさないよ」周囲の視線が集まってくる。明乃は顔を赤くし、湊の首元に顔を埋めた。頭上から、低い笑い声が聞こえた。駐車場に着く頃になって、明乃はようやく降りようともがいた。湊は素直に下ろしてやり、そのまま彼女の手を引いて車へ向かった。ほどなくして、車は駐車場を出た。湊はゆっくり運転していた。明乃はシートにもたれ、まぶたが重くなっていくのを感じていた。「眠いのか?」湊の声は低かった。「うん」明乃は小さく返事をした。病院では気を張っていたが、ふと緩んだ途端、どっと疲れが押し寄せてきた。腕の傷がずきずきと疼き、首筋もひりひりする。湊は手を伸ばし、車内の温度を少し上げた。「少し寝てて。着いたら起こすから」明乃はもう何も言わず、目を閉じた。車内は静かだった。聞こえるのは、エンジンの低い音だけ。湊は無意識に隣の明乃へ目をやった。その寝顔を見た瞬間、口元がほんの少し緩む。
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第473話

彼女の鼻先が硬い胸にぶつかり、痛みで一気に涙がにじんだ。耳の奥では、甲高い耳鳴りがしている。エアバッグが開いた鈍い音、金属がひしゃげる嫌な音が、まだ頭の中で反響していた。世界がグルグルと回っているようだった。どれくらい経ったかわからないが、ようやくすべてがゆっくりと静まっていった。明乃はめまいで頭がくらみ、胸がむかついて吐きそうだった。それでも必死に顔を上げる。視界はぼやけていた。「湊……湊?」声は震えていた。返事はない。心臓が、一気に沈んだ。明乃は必死に目を見開いた。湊は明乃にもたれかかるようにして、目を閉じていた。額から血が流れ、ぽたりと明乃の顔に落ちる。温かくて、ぬるりとしていた。「湊!」明乃の声が跳ね上がった。泣き声が混じる。「目を覚まして!湊!」湊の頬を叩こうとして、指先が額の傷に触れた。血が明乃の指を赤く染める。湊のまつげがかすかに震えた。そして、ゆっくりと目が開く。視線は少しぼやけていたが、すぐに明乃へ焦点を合わせた。湊は明乃を見つめ、かすれた声で言った。「……怪我は?」その一言で、明乃の涙が一気にあふれた。彼女は首を振った。何度も、何度も。けれど、声が出なかった。湊は少しだけ息をついたようだった。彼は体を動かそうとして、低く呻く。眉間に深い皺が寄った。「動かないで!」明乃は慌てて湊を押さえた。「怪我してるんだから、無理に動かないで!」それでも湊は聞かなかった。彼は歯を食いしばって体を起こし、まず明乃の状態を確かめた。腕のガーゼには血が滲んでいた。首にも擦り傷がある。だが、どれも見たところ大きな傷ではなかった。「私は大丈夫……」明乃は湊の手をつかんだ。「あなたは?怪我したの?」湊は首を横に振り、額の血を手の甲で拭った。「かすり傷だ」そう言って、シートベルトを外す。しぼんだエアバッグを押しのけ、ドアを開けた。冷たい風が車内に流れ込む。植え込みの土と草の匂いがした。湊はふらつきながら車を降り、助手席側へ回ると、ドアを開けた。「歩けるか?」明乃はうなずき、自分でシートベルトを外した。だが、足が地面についた瞬間、膝から力が抜ける。倒れそうになった体を、湊がすぐに支えた。その腕は力強く、明乃をしっかりと受け止めてくれる。
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第474話

自宅に戻ると、明乃はすぐにお風呂に入ろうとした。だが、湊はそのまま明乃を抱き上げ、洗面台の上に座らせた。「手、まだ怪我してるだろ。水に濡らすな」明乃はひんやりした天板に腰を下ろしたまま、袖をまくって湯加減を確かめる湊の横顔を見つめた。水の音がサラサラと響く。浴室に、少しずつ湯気が満ちていく。湊が振り返ると、明乃はまだぼんやりしていた。彼は手を伸ばし、彼女の目の前で軽く振る。「何を考えてるんだ?」明乃は我に返り、首を振った。今日は、あまりにもいろいろなことが起きすぎた。自分の母がさらわれたこと。倉庫の火事。岳の嘘が暴かれたこと。そして、さっきの肝が冷えるような事故。どれも重く、頭の中はまだぐちゃぐちゃだった。それなのに、こうして湊が自分のために動いてくれている姿を見ていると、不思議と心が落ち着いていく。「服、脱いで」湯加減を確かめ終えた湊が、明乃を見た。彼女の顔が熱くなった。もっと深いところまで肌を重ねてきた仲のはずなのに、こうして明るい灯りの下で、湊にじっと見つめられながら服を脱ぐだなんて……「自分でやるから……」彼女は小さく言った。湊が眉をつり上げる。「手はもう痛くないのか?」明乃は言葉に詰まった。腕の傷はそこまでひどいものではない。けれど、水に濡れれば痛むのは確かだった。明乃は唇を引き結び、ゆっくりと服のボタンに手をかけた。湊は急かさなかった。腕を組み、壁にもたれて、ただ彼女を見ていた。その視線はまっすぐだった。だからこそ、余計に熱った。明乃は見られているだけで耳まで熱くなり、指先までぎこちなくなった。ようやくボタンを外し終えると、明乃は襟元をつかんだまま、そこで動きを止めた。湊が近づいてきた。明乃が握っていた手をそっと外し、衣服の前をゆっくり左右に開いた。中には、淡い色の下着だけだった。明乃の肌は白く、浴室の柔らかな灯りの下で、しっとりとした艶を帯びていた。細く綺麗な曲線をした鎖骨。湊の視線がそこに落ち、少しだけ止まった。それから、平らな腹部へ。そして、さらに下へ……湊の喉仏が小さく動いた。すぐに視線をそらす。「後ろ向いて」声が少しかすれていた。明乃は素直に背を向けた。湊の手つきは、終始やわらかかった。腕や首の傷に触れないよう、慎
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第475話

「俺は退院してから、お前に会いに行ったんだ。ついでに、岳を一発殴ってきた」湊は口元をわずかに歪めた。「その時にはもう分かってたんだ。俺は、一歩遅れてしまったんだって」彼は明乃の髪をそっと撫でた。「俺にとって大切な子の心には、もう別の男がいるってな。そこで俺がお前の前に現れて、『本当は俺が助けたんだ』なんて言って、何になる?お前を余計に混乱させて、もっと苦しませるだけだろ?」「俺が欲しかったのは、お前の感謝の気持ちでも、罪悪感でもない」湊は明乃を見つめた。その瞳は深く、静かだった。「お前に、心から俺を好きになってほしかった」明乃の鼻の奥が、また熱くなった。当時の湊が、どんな気持ちで自分が別の人のもとへ向かうのを見ていたのか、想像もできなかった。あれほど誇り高い人なのに。胸の奥にある独占欲も、狂おしいほどの執着も、すべて押し込めていた。ただ、自分の心に別の人がいたから。「それで……ずっと待ってたの?」明乃の声は震えていた。「うん、待ってた」湊は少し身をかがめ、明乃の髪に口づけた。「人生はまだ長い。いつかお前が振り向いてくれるかもしれないだろ?」「もし……私がずっと振り向かなかったら?」湊は少し黙った。それから、かすかに笑った。「なら、一生待つ」明乃の目から、また涙がこぼれた。彼女は顔を上げ、湊に口づけた。今度は、そっと触れるだけのキスではなかった。強く、そして必死なキスだった。まるで、自分ごと湊の中へ溶け込ませたいとでもいうように。彼は一瞬だけ動きを止めた。けれどすぐに、明乃のうなじを抱き寄せ、主導権を奪い返した。病院で交わしたものより、ずっと熱く、ずっと深いキスだった。生き延びた安堵と、長年の願いがようやく報われた思いが、そこにはあった。空気が一気に熱を帯びていく。乱れた息が重なる。湊の手が明乃のパジャマの裾から入り、腰の肌に触れる。そこからゆっくり上へ滑っていくたび、明乃の体の奥に小さな火がともっていった。息が苦しいほど口づけられ、体から力が抜けていく。それでも明乃は、もっと湊に近づこうとした。指先が無意識に、湊のパジャマのボタンを外していく。開いた胸元に掌を当てた。そこにある傷跡に触れた瞬間、ざらりとした感触が指先に伝わり、明乃の胸が
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第476話

明乃は唇を引き結んだまま、こっそり笑った。彼女はそれ以上は動かず、湊の腕の中で静かに横になっていた。彼がもう眠ったのだろうと思い始めた頃、明乃がふいに口を開いた。「湊」「何だ?」「もう寝た?」湊は一瞬、無言になった。どうやら、彼はすぐには眠れそうにないらしい。湊は体の向きを変え、明乃を腕の中へ抱き寄せた。声は低く、少しかすれていた。「どうした?まだ今日のことを考えてるのか?」明乃は唇を噛み、隠すことなく、小さく「うん」と返した。「どうしても、分からないの……どうして?」明乃は眉を寄せた。「たとえ幸之助さんが、あなたが自分に逆らったことを快く思っていなかったとしても、今の藤崎家を任せるなら、あなた以上にふさわしい人なんていないでしょ?」最後まで明乃が言い終える前に。湊が彼女の手を握った。声は淡々としていた。「陸のためだ」あまりに久しぶりに聞く名前で、明乃は一瞬、反応が遅れた。陸?「陸さんって……もう海外に行ったんじゃなかったの?」「行ってない」湊の声が少し低くなる。「あいつは自衛隊に入った。最近昇進したらしいんだ」明乃は思わず眉を寄せた。陸とは、しばらく一緒に過ごしたことがある。だからこそ、彼がどれほど頭の切れる人間なのかも知っていた。法律のことなどそれまで一度も触れたことがなかったはずなのに、たった数日で条文をほとんど暗記してしまったほどだ。「幸之助さんは……陸さんのために道を作ろうとしているの?」「道を作る?」湊は短く笑った。「違う。後継者を差し替えたいんだ」「でも、陸さんは本家筋じゃないでしょ?藤崎家の事業を、そんな簡単に……」「おじいちゃんが認めれば、どうにでもなる」湊の声は冷たかった。「養子にするなり、方法はいくらでもある。ましてや陸にも、藤崎家の血が半分流れている」湊は目を伏せ、明乃を見た。窓の外から差し込む月明かりが、彼の横顔に淡く落ちている。引き締まった顎の線が、暗がりの中でくっきり浮かんでいた。「あの人はずっと、俺は扱いにくいと思っていた。でも陸は違う。荒っぽいところはあるが、情に厚い。そこを突けば、容易くコントロールできる」「じゃあ……」明乃の声がこわばる。「幸之助さんは昔、亮さんがあなたのお父さんを害したことを見逃しただけじゃなくて、今度は同じやり方で
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第477話

翌朝早く、湊のもとに藤崎家の実家から電話が入った。今夜、食事を一緒にしようとの連絡だった。湊が電話を切るのを見て、明乃はぽつりと言った。「どう見ても、何かあるわ……」湊は笑い、明乃の形のいい鼻先を軽くつついた。「さすが、賢いな」「……」明乃はむっとして、湊を睨む。「真面目な話をしてるのよ!」湊は明乃の手を取り、指を絡めた。「怖いのか?」「何を?」明乃は眉をつり上げた。「出たとこ勝負よ。来るなら受けて立つだけ」湊は口元をわずかに上げ、明乃の腰を抱き寄せた。「なら、行くか」夕方6時。車は藤崎家の実家へ入っていった。屋敷は以前と変わらない。重厚な門構えに、奥行きのある庭。古い家特有の静けさが、敷地全体に沈んでいる。太田が玄関先で待っていた。湊の額の傷を見ると、わずかにまぶたを動かしたが、すぐに目を伏せる。「坊ちゃん、明乃様。旦那様がお待ちです」家の中は明るく灯りが入っていた。幸之助は上座の椅子に腰かけており、足音に気づくと、ゆっくりとまぶたを上げる。灯りの下で顔色はやや黄ばんで見え、目元は落ちくぼんでいる。濁った眼差しなのに、人を見る時だけは妙に鋭く、引っかかるような圧があった。隣には千紗子が座っていた。彼女は数珠を指先で繰り、目を半ば閉じたまま、口元だけを不機嫌そうに下げている。食卓にはすでにいくつかの料理が並んでいた。箸はきちんと揃えられ、空気には出汁の香りと、この家に染みついた白檀の匂いが混じっている。「いらっしゃい」幸之助が口を開いた。低く、かすれた声だった。「まあ座れ」湊は椅子を引き、まず明乃を座らせてから、自分もその隣に腰を下ろした。近すぎず、遠すぎない。けれど、幸之助の視線の大半を自然に遮る位置だった。「湊」幸之助の目が、湊の額へ向く。「大した怪我ではないのか?車はずいぶんと派手にやられたと聞いたが」「ただのかすり傷だ」湊の声は淡々としていた。「心配かけてすまなかったな」「大したことではないから大丈夫」彼は付け加えた。「かすり傷か」幸之助は口元をわずかに歪めた。「ブレーキが利かず、植え込みへ突っ込んだそうだな。もう少し速度が出ていれば、かすり傷では済まなかっただろう」含みのある言い方だった。明乃は箸を握る指に、思わず力を込めた。湊は顔色ひとつ変えず、湯呑みを手
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第478話

「外野ですって?」千紗子の胸が大きく上下した。「私はあなたの祖母よ!」「それが?」湊は眉をつり上げた。「それならなおさら、俺が無事だったことを喜ぶべきでしょ。ここで遠回しに嫌味を言って、濡れ衣を着せるんじゃなくてな」言い方はあまりにも直接的で、耳に痛かった。「何よそれ!」千紗子は言葉に詰まり、顔を真っ赤にした。幸之助が、重い音を立てて箸を置いた。「もういい」低い声が、会話を断ち切る。「食事中だ。余計な話はするな」千紗子は不満げに口をつぐんだ。幸之助は深く息を吸い、スープをゆっくりと口に運ぶ。飲み込んでから、彼はようやく湊を見た。「湊」その声は穏やかで、感情が読めなかった。「千紗子も、お前のことを心配しているだけだ。最近は確かに物騒だからな。用心するに越したことはない」湊は口元をわずかに歪めた。「用心は確かに必要だ。俺の車のブレーキが細工されていたからな。あんな手口、誰にでも思いつくものじゃない」幸之助がスープをすくう手が、ほんのわずかに止まった。スプーンが器の縁に触れ、かすかな音を立てる。「誰の仕業か、分かったのか?」声は相変わらず平坦だった。「今、調べてる」湊は幸之助の目を見た。「病院の駐車場から洗えば、何かしら痕跡は出るでしょう。それに、この手口……どうにも見覚えがあるんだ」ふっと静まり返った。聞こえるのは、キッチンで小さく鍋が煮立つ音だけだった。幸之助はスプーンを置き、ティッシュで口元を拭った。「見覚えがある?」顔を上げ、湊と視線を合わせる。「どういう意味だ?」湊はすぐには答えなかった。彼は箸を取り、魚の白身を一切れつまむ。丁寧に骨を取り除いてから、明乃の皿に乗せた。そこまでして、ようやくゆっくり口を開いた。「十数年前、父さんが事故に遭った時も、ブレーキは同じように故障していた」彼の声は大きくないが、低く冷えていた。「あの時、警察は部品の劣化で事故だと言っていた」湊は幸之助を見た。「おじいちゃんは、それを信じたのか?」空気が死んだように静まった。千紗子は数珠をつまんだまま、手を宙で止めている。息さえひそめていた。幸之助の頬の筋肉が、かすかに引きつった。濁った目の奥に、複雑な感情が揺れる。「湊」幸之助の声が低くなった。「口にしていいことと、悪いことがある」
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第479話

その笑い声はかすれていて、また深い疲れをにじませていた。「湊」幸之助はゆっくりと口を開いた。「お前も随分と成長したな」湊は何も言わなかった。「過ぎたことは、もう過ぎたことだ」幸之助は目を閉じ、眉間を揉んだ。「いつまでもこだわっていても、お前のためにはならない」「俺のためになることって何だ?」湊は問い返した。「何も知らないふりをして、次にまたブレーキが利かなくなるのを待てと?」湊は一語ずつはっきりと言った。「おじいちゃん、俺は父さんとは違うんだ」その言葉は、あまりにも重かった。幸之助は勢いよく目を開けた。二人の視線がぶつかる。湊の目は静かだったが、そこには揺るぎない決意と警告があった。幸之助にはそれが分かった。胸の奥に残っていた力が一気に抜け、幸之助は一瞬で10歳も老け込んだように椅子の背にもたれた。視線もぼんやりと宙をさまよう。「もういい……」幸之助は手を振った。声はほとんど聞こえなかった。「とりあえず食べよう」食事中は、息が詰まるほど重苦しかった。後半は、誰も口を開かなかった。聞こえるのは、茶碗と箸が触れるかすかな音だけだった。千紗子は青ざめた顔で何度か口を開こうとしたが、そのたびに幸之助が目で制した。彼女は腹立たしげに箸を置き、そのまま席を立った。足音が遠ざかっていく。三人だけが残された。幸之助はゆっくりと汁物を口に運んでいた。一口、また一口と、まるで飲み込みづらいものを味わうように。しばらくして、幸之助はお椀を置いた。「湊」幸之助は口を開いた。声はひどくかすれていた。「来月8日の結婚式は、予定どおり挙げろ」湊が目を上げた。「藤崎家として、きちんと華やかに用意するから」幸之助は続けた。その声からは怒りも喜びも読み取れなかった。「必要なものは、何一つ欠かさせないから」湊は口元をわずかに歪めた。「わざわざありがとう」「ただし」幸之助は話を変え、明乃に視線を走らせてから、また湊へ戻した。「結婚したら、少しは腰を据えろ。藤崎家の大黒柱に、そろそろなってもらう必要があるからな」湊は何も答えなかった。幸之助も無理に返事を求めず、明乃へ視線を移した。「明乃」幸之助はそう呼んだ。先ほどより少し柔らかい声だったが、見下ろすような響きは消えていなかった。「藤崎家に嫁ぐ
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第480話

あっという間に、5月に入った。5月8日の結婚式まで、もう一週間を切っていた。明乃は湊と、ウェディングドレスの試着に出かけた。ドレスは湊がフランス人のデザイナーに特注したもので、長く伸びるトレーンに、裾には細やかなダイヤがちりばめられ、照明の下でキラキラと輝いている。明乃が着替えて出てきたとき、湊はちょうど鏡の前でスーツの袖口を整えていた。足音に気づいて、湊が振り返る。そして、そのままその場で固まった。じっと見つめられて、明乃は少し落ち着かなくなり、ドレスの裾を引っ張った。「ちょっと……派手すぎないかしら?」湊は、何も言わなかった。彼は歩み寄って、明乃の前で立ち止まる。視線が、ゆっくりと撫でるように、その顔と肩、そして腰のラインを辿っていく。それからそっと手を伸ばし、耳元のほつれ毛に軽く触れた。「綺麗だ」低い声には、ため息にも似た優しさが滲んでいた。明乃の耳が、かっと熱くなる。視線を逸らし、横のハンガーに掛けられた別のドレスを眺める。指は、無意識のうちに裾のサテンを握りしめていた。「あなたが選んだものなんだから、綺麗じゃないわけないでしょ?」湊が低く笑い、手を伸ばして、裾を握りしめていた明乃の手をそっと包んだ。「緊張してるのか?」「してないわ」明乃は強がった。「手が冷たいぞ」「……」湊は明乃の手を掌の中に包み込み、ゆっくりと温めていく。「怖がるな」湊が言う。「ただの形式上の儀式だ。お前が俺のものだと、皆に知らしめるためのな」明乃が顔を上げて、湊を睨んだ。「誰があなたのものよ?」「お前だ」湊は迷いなく言い切ると、顔を寄せて耳元で囁いた。「そうだろ?藤崎夫人」温かい吐息が耳にかかり、明乃の全身がじんと痺れた。湊の胸を押し返す。「外にまだ人がいるのよ……」「何を怖がっている?」湊は後ずさるどころか、逆に距離を詰めてくる。明乃の腰に腕を回し、ぐいと胸へと引き寄せた。「俺が嫁を抱きしめるのは、当たり前のことだろ?」「まだ結婚してないでしょう!」「もうすぐだ」湊は明乃の頭のてっぺんに顎を擦り寄せた。「あと何日か、ちゃんと数えてるぞ」明乃は湊の胸に身を預けたまま、もう抗わなかった。窓の外の陽射しは穏やかで、掃き出し窓から差し込む光が二人の上に降り注ぎ、まばゆく輝い
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