澪(みお)-水が記憶する物語 雲の灰色い内部で、世界が始まった。 温度と気圧の変化のなか、無数の水蒸気分子が衝突し、冷却され、凝結していく。その瞬間。ほんの一つの水分子が他のすべての分子と異なる何かを持って誕生した。 意識。 それが何であるか、私は知らなかった。ただ「である」という事実だけが、明確に存在した。私は水である。H₂Oの分子式を持つ、単純で、透明で、地球上で最も普遍的な物質。その中にいま、奇跡のようにして、思考が宿っていた。 私の名前はミオ。 誰が、いつ、どのような意図で私にそう名付けたのか、それは永遠の謎だ。けれど私は確かにミオとして存在していた。その名前は私のアイデンティティとともに、この瞬間から始まる全ての旅と一体であった。 周囲には無限に近い水分子たちがいた。彼らはただ存在し、気化し、凝結し、降下していく。意識なく、ただ物理法則に従って。けれど私だけが「感じていた」。彼ら一つ一つの存在を、感じ取ることができていた。 雲はどんどん重くなっていった。 上空六千メートルの気団が、もう私たち全員を支え切ることができなくなった。重力が、容赦なく、私たちを引き下ろす。周囲の分子たちが、次々と落下していく。 私も落ちた。 それは恐怖ではなく――解放だった。重さから、空から、漂浪からの解放。肉体を持たない私にとって、落下は唯一の移動手段であり、唯一の自由な行為だった。空気を切り裂き、雨粒となって下へ下へと。 見える。遙か下方に、青い輝きが見えた。 地球の海。 この時点で、私は「海」という言葉を知らなかった。ただその広大さと、深い蒼さと、生命に満ちた匂いが、私の感覚を圧倒していた。落下の速度は加速する。雨粒となった私は、他の無数の雨粒とともに、地表へと向かっていった。 その時、何かに激突した。 私は液体となった。海水となった。 衝撃の瞬間、私は海の一部となり、同時に全体を「見た」。それは、物質の融和という単純な物理現象ではなく、何か宇宙的な啓示だった。 海は生きていた。 私の分子は塩分濃度三パーセントの温かい液体に溶け込み、塩化ナトリウムとマグネシウムと数百種類の鉱物質に囲まれた。海流が私を動かし、何かの生命体の周囲へ連れていった。 それは巨大だった。 船ほどもある、鋭い嘴を持つ生き物。不完全な知識ながら、私は直感的にそれ
Last Updated : 2025-11-26 Read more