再会した元カレ上司は、私の愛娘の父親でした のすべてのチャプター: チャプター 71 - チャプター 80

100 チャプター

第71話

その理由は、九条家に遥を受け入れさせる自信がなかったからだ。だが結婚を考えなかったわけではない。結婚を意識するたびに、湊の胸は高鳴った。だが同時に、遥がそれを望んでくれるか不安でもあった。その時初めて、彼は彼女を好きになったと確信した。だが、それを認める勇気はなかった。昔は彼が関係公開を拒み、彼女が怒った。今も彼女が、過去の関係を隠せと求めている。まるで湊が、他人には言えない恥ずかしい過去であるかのように。遥がほっとしたのも束の間、湊が淡々と言った。「もし俺が断ったら、どうするつもりだ?転職か?」転職という言葉に、二人の脳裏に遥が他社に履歴書を送った件がよぎる。遥は居心地が悪そうに言った。「……そんなつもりはありません」「お前の自由だ。勝手にしろ。どうせお前は、黙って姿を消すのが得意なんだろうからな」遥は湊を見て、何か言おうとした。違う、昨夜も言ったじゃないか。「昨日は……」車が急加速した。そして会社近くのコンビニの前で急停車した。湊は不機嫌極まりない顔で遮った。「降りろ」会社はすぐそこの角を曲がったところだ。遥はすぐに降りた。礼を言う暇もなく、車は走り去っていった。残されたのは排気ガスだけだ。遥はその場に立ち尽くし、ため息をついた。……社長室。湊は国際電話をかけていた。相手はすぐに出た。真理が明るい声で言う。「お兄ちゃん?私に電話なんて珍しいね」「聞きたいことがある」この前に、蓮と話して気は楽になったが、昨夜遥は泣いていた。目を閉じると、涙を流して彼を見つめる彼女の姿が浮かんでくる。湊の心に、かつてない無力感と疲労、そして自責の念が湧き上がった。彼は自分が間違っていると思ったことはない。プライドの高い湊が、女に頭を下げるなどありえない。だが彼は知りたかった。もし女性の視点から見れば、自分の行動は間違っているのかどうか。話を聞き終えた真理は、驚いて笑った。「それだけ?……で、お兄ちゃんが聞きたいのは建前?それとも本音?」「本音だ」真理はニヤリとした。「もしお兄ちゃんじゃなくて彼氏がそんなことしたら、二発くらい張り倒して、二度と会わないわね。でも私の性格は知ってるでしょ?元カノさんが私と
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第72話

真理は鼻で笑った。信じていないようだ。本当に諦めたら、こんな時間に電話してくるはずがない。現地は深夜だ。東国は昼間だろうが、真理が夜更かしの常習犯でなければ、湊のこんな姿を知ることはなかっただろう。「お兄ちゃん、その人のこと好きなの?」真理はズバリと切り込んだ。湊は沈黙した。よく見れば、耳の先が赤くなっている。彼はガラス窓の前に立ち、動き始めた街の景色を見下ろしていた。九条グループはこの街の頂点に君臨している。湊の一言で、街の経済が動くほどだ。彼は苦労知らずで育った。大学時代は苦学生を装っていたが、口座には創業資金としての信託財産が唸っていた。幼い頃から、他の従兄弟たちと共に祖父に育てられた。好きという言葉を口にすることは禁じられていた。祖父は、それが九条家の人間を軟弱にし、闘争心を奪うと考えていたからだ。最初は、好きだという自覚さえなかった。やがて心が動き、溺れていったが、気づいた時には捨てられていた。今となっては……湊は疲れたように目を閉じ、自嘲した。「好きだとして、どうなる? 違うとして、何が変わる?」真理は軽快に言った。「違うなら、お兄ちゃんのやってることはただのストーカー行為よ。まあ、正確に言えば、向こうにその気がないなら、好きでもストーカー行為だけどね」ストーカー?そうだ、彼は彼女に付きまとっている。彼女の反応を見れば、彼の接近を嫌がっているのは明らかだ。昨夜も、彼女はずっと拒絶していた。だが湊は認めたくなかった。真理は真面目な声で言った。「お兄ちゃん、恋愛の才能ないわね。私が彼女なら、間違いなくビンタしてる」湊は沈黙した。遥にビンタされる?考えたこともなかった。だが、もし彼女がもっと感情を表に出し、怒った時にビンタしてくるなら、二人きりの時なら受け入れてもいいかもしれない。前回の備品室での一件で、遥は怒って彼を叩いた。彼女が感情をぶつけてきても、それを受け入れられないとは一度も言ったことがない。だが、安心させるような言葉もかけてこなかった。だから彼女は迷わず、他の男を選んだのだ。遥がキッチンで久美子に言っていた言葉を思い出した。彼女は、自分を愛してくれる男を求めている。湊は冷笑したくなった。
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第73話

「彼女は馬鹿正直で、ネットで喧嘩して負けて泣いてたのに、相手が子供で環境が悪いと知ると、学費を支援しようとしたんだ。調べたら村ごと貧困で、金を出して学校を建てたんだぞ。今でもその小学校には彼女がつけた名前が残ってる」四季の学び舎だ。一年中、希望があるようにと。彼女の一年中にも、湊がいますようにと。慈善事業は九条家にとって珍しいことではない。だが特別なのは、遥の真心だ。彼女は無関係な他人のために涙を流し、ネットでDV被害に遭った主婦たちの離婚記事を見て泣く。交わることのない平行線上の人々のためにも。その純粋な心と愛が、湊を照らし、心の中の暗い部分を明るくしたのだ。彼はその愛を独占したかった。月が、自分だけを照らすように。彼は根暗で、理不尽で、独占欲が強く、遥が新しい服を着て最初に自分に見せなかっただけで怒るほどだった。そんな感情は、表に出すべきではない。だから隠して、彼女を怖がらせないようにした。遥が彼の前で猫を被っていたように。彼もまた、演じていたのだ。真理はしばらく沈黙し、やがて言った。「お兄ちゃん、救いようがないわね」好きじゃないと言いながら、そんな口調で語るなんて聞いたことがない。相手の長所を数え上げるなんて。部外者の真理でさえ、話を聞いて遥を好きになりそうだった。同じ九条家の人間として、そういう女性がどれほど魅力的かよく分かる。真理は確信した。もし兄が直接その女性に想いを伝えれば、相手も離れていかないはずだと。湊は諦めたように笑った。「そうかもな」だが、もう関わらないと約束した以上。きちんと約束を守らなければいけない。……会社。楓は、遥の首筋に隠しきれない赤い痕があるのを見て冷やかした。「二十五過ぎたら五十二になるはずの旦那さん、二十六歳に若返った?」遥は無意識に首に手をやった。引き出しから手鏡を取り出し、痕がどれほど目立つのか確認しようとした。鏡を開いた瞬間、彼女は息を呑んだ。折りたたみ式の鏡の面に、口紅で二文字、殴り書きされていたのだ。【売女】遥は凍りつき、鳥肌が全身を駆け巡った。誰かが、私物を漁ったのだ。引き出しにはプロジェクトの機密書類も入っている。幸い、重要な書類が入った引き出しには鍵が
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第74話

手鏡を持って、遥は社長室のドアをノックした。中から男の低い声が響く。「入れ」部屋に入り、遥は手鏡を湊のデスクに置いた。湊はそれを手に取り、一瞥して言った。「大学の時に買ったやつか?」遥は内心、しまったと思った。なぜ忘れていたのだろう!この手鏡は、確かに大学時代に湊と一緒にショッピングに行った時に買ったものだ。当時の遥は、可愛らしいけれど実用性のない小物を集めるのが好きだった。アクセサリーショップに入ると、こういう雑貨に目がなかった。だが、もっと重要な理由があった。それは言えなかったが。この鏡の背面のイラストは、彼女が描いたものなのだ。クライアントが商品化して小規模に販売した際、サンプルを送ると言ってきたが、遥は断った。彼女が描いたイラストは多く、グッズ化されたものも少なくない。いちいちサンプルを受け取っていては、部屋が埋まってしまう。それに彼女は、同人活動に使っている「カゼ」という名前を他人に知られたくなかった。今でも、この名前を知っている人は少ない。サンプルは受け取らなかったが、実際に自分のイラストが商品化され、店頭に並んでいるのを見るのは嬉しかった。だからその場で買ったのだ。支払いは湊がした。大学時代、彼が買ってくれた数少ないプレゼントの一つだ。実は湊は他にも色々とプレゼントを贈ろうとしたが、遥は断るか、返品させていた。彼が金に困っていると思っていたからだ。一度、湊が指輪を贈ってきたことがあったが、そのブランドを見て遥は腰を抜かしそうになった。彼が何か犯罪に手を染めたのではないかと疑ったほどだ。彼女は受け取らず、返品させた。今思えば、そのブランドの指輪は一般人が一年働いても買えない値段だが、湊にとっては小銭程度だったのだろう。大財閥の御曹司にとっては、日用品を買う程度の感覚だったのかもしれない。別れた後、湊がくれた物は全て彼に返し、寮へ送り返した。ただ一つ、この鏡だけは手元に残っていた。自分が描いたイラストだったため、湊に買ってもらったことをすっかり忘れていたのだ。今、その鏡が湊の手の中にある。湊は鏡についた口紅の跡を見て言った。「この色を使っている社員は多いか?」「多いです」ありふれた赤色で、微細なラメが入っている。ブ
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第75話

遥はその話を初めて聞いた。だが学生時代から、彼はモテていた。バスケをするたび、コートの周りは女子学生で埋め尽くされた。彼が試合後に遥の元へ来ると、遥まで巻き添えになり、彼女たちから嫉妬の混じった視線を浴びせられたものだ。遥は言わなかったが、あれは大嫌いだった。まるで自分だけが目の敵にされているようだ。だが湊は何も言わなかったので、彼が怒るのが怖くて、言い出せなかったのだ。楓が遥の肘をつついた。「遥ちゃん、社長と同窓生なんでしょ?学生時代もモテた?」遥は頷いた。「すごくモテましたよ。試合の時なんて、場所取りしないと入れないくらい」「うわあ!写真とかないの?」イケメンの話になると、楓は上司への恐怖も忘れて目を輝かせた。美咲まで瞬きしてこちらを見ている。「ありませんよ」このスマホには、湊の痕跡は何一つ残っていない。楓がからかう。「あんな国宝級イケメンが近くにいるのに見向きもしないなんて、旦那さんはよっぽどいい男なのね?」遥は適当に笑ってごまかし、何も言わなかった。夕方、退社時刻になると雨が降り出した。突然の豪雨だ。激しい雨が街を洗い流していく。遥が会社のロビーに降りると、案の定、スマホで、悪天候のため地下鉄の一部区間が運休しているという情報を目にした。タクシーで帰るしかない。配車アプリを開くが、三十分経っても配車が捕まらない。さらに十分後。一台の黒いラングラーが彼女の前に停まり、窓が開いた。雨のカーテン越しに、湊の冷ややかな顔が見えた。その一瞥だけで、遥の心臓は早鐘を打った。後部座席から、悠斗の明るい声が聞こえた。「遥お姉さん、結衣ちゃんもいるよ!乗って!」結衣?遥は急いで乗り込み、シートベルトを締めた。湊が窓を閉め、雨音を遮断する。振り返ると、確かに結衣がチャイルドシートにおとなしく座っていた。人見知りもしていない。まさか、湊に迎えに行かせたのか?遥は唖然とした。以前、翔太が幼稚園に行った時でさえ、結衣を連れ帰ることはできなかった。ママとお婆ちゃん以外にはついていかないように、結衣に言い聞かせていたからだ。たとえ叔父であってもダメだと。結衣は覚えていたはずだ。なのに湊が行ったら、結衣はあっさり彼についていった
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第76話

外は大雨のため、モール内は普段より人が多かった。雨宿りついでに夕食を取る人々で賑わっている。悠斗が選んだのは、五階にある有名な親子レストランだ。宇宙船をモチーフにした内装で、料理はベルトコンベアで運ばれ、きらびやかなミニカーのライトショーもある。以前、恵に連れられて来たことがあり、悠斗はすっかりこの店に夢中になっていたのだ。今回は遥と結衣も一緒なので、悠斗は得意げにお気に入りの店を紹介した。席に着く。遥はメニューを見て息を呑んだ。ピザ一枚で四千円近い。一食で軽く二万円は超える。普段なら連れてこない高級店だ。あまりに贅沢すぎる。だが、娘が嬉しそうにしているのを見ると、遥の心は癒された。結衣は悠斗と寄せ合い、目の前を走るおもちゃの車を眺めている姿は微笑ましい。結衣が喜ぶならそれでいい。湊が注文を終え、聞いた。「追加はあるか?」子供向けの甘いものと、ピザを二枚注文してある。その中の一枚、ベーコンとポテトのピザに、遥は一瞬固まった。以前、彼女が一番好きだった味だ。その後、父の治療で海外を転々としていた時、洋食を食べすぎて飽きてしまい、ある時ピザを食べて酷いつわりに襲われ、食べたものを全て戻して以来、ピザは一切口にしていなかった。湊がこれを頼んだのは、まだ好きだと思っているからか?いや、たまたまか、あるいは悠斗が好きなだけかもしれない。「ありません」湊は頷き、注文を確定した。今日はいくつかの国際会議があったため、彼は仕立てのいいスーツに、ワインレッドのネクタイを締めていた。生まれつきの色白な肌。照明の下、冷ややかで彫りの深い顔立ちと優雅な所作は、まるで中世ヨーロッパの貴族のような気品を漂わせていた。隣のテーブルの女性たちが、頬を赤らめて彼を盗み見ている。何度も視線が飛んでくる。しばらくして、そのうちの一人が近づいてきた。顔を赤くして湊を見つめ、連絡先を聞こうとした。湊は軽く笑い、眉を上げて遥を見た。「悪いけど……」遥と結衣は湊の向かいに座っていたが、子供たちが夢中でライトショーを見ていたため、彼女は大きな観葉植物の陰に隠れて見えなかったのだ。女性はそこで初めて遥に気づき、慌てて謝った。「申し訳ありません、奥様がいらっしゃるとは知らず、失礼しま
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第77話

湊は穏やかな声で言った。「これを好きな奴がいるんだ」遥のナイフとフォークを持つ手が震え、カチャリと音を立てた。湊が言っているのは、まさか自分のことではないだろうか?悠斗が顔を上げた。「遥お姉さん、このピザ好きなの?あげるよ!」そう言って、自分の皿にあったピザを遥の皿に移した。遥は礼を言ったが、一口も手をつけなかった。かつては大好きだった味だ。だが今は、見るだけで胃がもたれ、食欲が失せる。そのピザを見るだけで、あの辛い時期を思い出してしまうからだ。病院と家を往復する日々だ。母も体調を崩し、医者から静養を言い渡されていた。父を診てくれる名医がようやく見つかった矢先、翔太から連絡があった。祖母の容態が悪化し、余命幾ばくもないという。最後に遥に会いたがっていると。父の治療に影響が出ないよう、遥は父の病気も祖母の危篤も、双方に隠し通さなければならなかった。介護士を雇って両親を任せ、急いで帰国して祖母に会いに行った。十数時間のフライトの間、何も食べておらず、空腹は限界に達していた。空港で買ったのが、ベーコンとポテトのピザだった。だが食べた直後、激しい吐き気に襲われ、食べたものを全て吐いてしまった。その後、祖母の葬儀で泣き崩れて失神し、病院に運ばれた際、薬を使えないと言われて初めて妊娠を知ったのだ。一人で子供を産むのは過酷だった。だが、後悔はしていない。結衣は世界で一番素晴らしい子供だ。産む前は、自分は子供が苦手だと思っていた。だが産んでみて、結衣が笑いかけてくれるだけで、遥の心は満たされた。彼女は結衣を愛している。子供たちは少食で、すぐにお腹いっぱいになった。悠斗が遥に聞いた。「遥お姉さん、結衣ちゃんとあっちで遊んできていい?」席の向かいには小さなキッズスペースがあり、目が届く範囲だ。店員も見守っている。遥は頷き、二人が手をつないで遊びに行くのを見送った。子供は子供だ。少し前まで喧嘩していたのに、数日一緒に遊べばすっかり仲良しだ。テーブルには遥と湊、二人だけが残された。遥は結衣が残した手羽先をかじった。甘すぎるし、味付けもしょっぱい。一本食べ終わると、水を二杯飲んでようやく味を消した。水を飲んだだけで、もうお腹いっぱいだった。
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第78話

湊の言わんとしていることは、よく分かっている。だが聞こえないふりをして、ただ微笑んだ。スマホを取り出し、食事代の半額を湊に送金する。少し懐が痛んだ。この一食で、数日分の給料が飛んでいく。だが幸い、最近の案件は順調だ。うまくいけば、今月はかなりの報酬が入るはずだ。遥は絵を描くのが好きだ。一枚一枚に全力を注ぎ、インスピレーションと工夫を凝らしている。クライアントには必ず数パターンのラフ画を提示する。気前のいいクライアントなら、没になったラフ画も買い取り、時間がある時に完成させてくれと言ってくれることもある。娘に「結衣」と名付けたのは、そもそも絵を描くことがすきだから。彼女は、絵を描くことが抽象的な美しさを糸のように「結びつける」ことのように感じたからだ。そして、これが遥にとって世界と「結びつく」唯一の手段であり、一番幸せな時間だからだ。絵を描くことで、彼女は自分だけの世界を再構築し、完全に支配することができる。そして、結衣は遥の宝物で幸せそのものだ。以前、家の給湯器が壊れ、シャワーの途中で水になってしまったことがあった。我慢して洗い終えたが、風邪を引いてしまった。結衣はとても心配してくれた。久美子の目を盗み、小さな体で椅子によじ登り、電気ケトルでお湯を沸かして風邪薬を溶いてくれたのだ。それを両手で捧げ持ち、フーフーと冷ましてくれた。「ママ飲んで。風邪治してね。結衣が大きくなったらお金稼いで、ママにでっかい汽車を買ってあげる!」遥は湯気の立つカップを受け取り、笑った。「どうして汽車なの?」「先生が言ってたの。石炭は汽車で運ぶんだって。ママに汽車いっぱいの石炭を買ってあげるの」子供らしい発想だ。思わず笑ってしまったが、心は温かさで満たされた。……湊は食事を終え、遥を見た。「旦那は迎えにも来ないで、こんなところにいるとは」蓮に調べさせている件はまだ途中だが、翔太が今夜この近くのレストランを予約しているという情報は掴んでいた。幼稚園に迎えに行った時、悠斗が「結衣ちゃんも連れてって」とせがみ、しかも外は大雨だった。その時点で、彼は確信していた。遥は一人だろうと。あの男は他の女とのデートで忙しいのだから。予想通りだった。湊は椅子の背にも
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第79話

湊が唐突に切り出した。「お父さんは?」遥は唇を噛み、黙り込んだ。レストランの照明が暖色系に切り替わり、食欲をそそる色合いになる。その光が湊を照らし、どこか幻想的な雰囲気を醸し出していた。湊は自嘲気味に笑った。「上司と部下の関係を除けば、俺たちは同窓生だろう?」遥の胸が痛んだ。そうだ。二人の関係は、ただの同窓生と、上司と部下でしかない。彼女はうつむき、目の前の皿を見つめた。「亡くなりました」それ以上は言わなかった。父の死については、誰にも触れられたくない。肉親との別れは、一生消えることのない心の澱だ。父は世界で一番、彼女を愛してくれた人だった。幼い頃から、彼女は父の惜しみない愛を一身に受けて育った。遥が幼稚園で一番可愛いお姫様になれるよう、父が必死で髪の結い方を覚えたこともあった。遥のために、クロスステッチまで覚え、ドレスをデザインし、おもちゃ工場まで作った。遥が病気になれば、一晩中付きっ切りで看病し、目が覚めた時に一番に顔が見られるようにしてくれた。友達と喧嘩をすれば、勝ったかどうかを真っ先に聞く。勝てば褒めて、喜んで賠償金を払いに行き、負ければ相手の親に文句を言いに行く。一番印象に残っているのは、「他の家の子なんて、うちの姫の足元にも及ばない」という言葉だ。両親の仲は悪いのだと思っていた。幼い頃、「ママこと、嫌い?」と聞いたことがある。「パパは遥を愛してるし、ママも愛してるよ。世界で一番愛するあなたたちが幸せなら、パパはなんでもするから」その時遥は思った。いつか自分も、父のような男性と巡り会いたいと。父のことを思い出し、遥は沈んでいた。湊は無意識に、体を少し乗り出した。彼女の目尻には、やはり涙の痕があった。不意に覗き込まれ、遥は驚いて体を引いた。背後の壁にぶつかりそうになる。凑が彼女の後頭部を庇い、低い声が頭上から降ってきた。「気をつけろ」遥は慌てて言った。「ありがとうございます」食事が終わるまで、湊はそれ以上何も言わなかった。先に遥と結衣を送っていくことになった。二人の子供はすでに眠っている。車内で、遥はスマホを確認した。送った食事代は、まだ受け取られていない。スマホをしまい、きっと気づいていない
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第80話

翌日、出社した遥は何度もあくびを噛み殺した。昨夜は帰宅後、徹夜でラフ画の修正に取り組み、クライアントに確認のため送ったところ、ちょっとした行き違いがあった。クライアントがラフ画を完成稿だと勘違いして、すぐに残金を振り込んできたのだ。「まさに神!」と大絶賛していたが、遥は苦笑いするしかなかった。幸い、こういうことは初めてではない。クライアントと認識をすり合わせ、ラフ画のOKをもらったので、あとは彩色と仕上げを残すのみだ。スーツのシルエットがいまいちだとか、余計なことばかり考えてしまい、結局ようやく眠りについたのは明け方近くだった。会社に着いても頭がぼんやりしていたので、給湯室でコーヒーを淹れることにした。コーヒーが入るのを待っていると、背後に誰かが立った気配がした。同僚だと思い、場所を空けようとしたが、そこにいたのは玲奈だった。彼女は不機嫌そうな顔で、遥を睨みつけていた。目には悪意と嫉妬、そして見下すような不服そうな品定めの色が混じっていた。彼女は舌打ちした。「立花遥、あんたみたいな子持ち女が、湊さんとよりを戻せるとでも思ってんの?」遥には、玲奈がなぜこれほど自分に絡んでくるのか理解できなかった。そんな暇があるなら、湊にアピールすればいいのに。玲奈の敵意には覚えがある。湊と付き合っていた頃も、よくこういう手合いに絡まれたものだ。以前は我慢していた。湊に迷惑をかけたくなかったからだ。だが今は違う。彼女は「既婚者」だ。遠慮する必要はない。遥はコーヒーカップを掴んで、玲奈に一歩近づいた。玲奈はヒールを履いていて遥より背が高いはずなのに、その気迫に押されて後ずさった。遥の瞳は澄んでいて、玲奈の魂胆などお見通しだと言わんばかりだ。玲奈は心臓が跳ね、なぜか後ろめたい気持ちになった。彼女は強がって言った。「な、何よ?」遥は口角を上げ、意味深に微笑んだ。その指先が玲奈の襟元を掠め、ダイヤモンドのネックレスに触れる。その表情は、かつての自信に満ちた彼女そのものだ。傲慢さや強気さで言えば、玲奈など遥の足元にも及ばない。遥は声を潜めて言った。「玲奈ちゃん、男を落としたいなら、自分の魅力で勝負しなさい。私に八つ当たりしても無駄ですよ。湊があなたを見ないのは、
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