All Chapters of 月給80万円の偽装花嫁: Chapter 161 - Chapter 170

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第160話

翌朝、蓮さんは早く出社した。私が起きた時には、もういなかった。朝食の残骸が、テーブルに置いてあった。蓮さんが、一人で食べていったのだろう。いつもより少ない量だった。私は一人で朝食を食べながら、昨夜のことを何度も頭の中でなぞった。言い過ぎただろうか。でも、言いたかったことは、間違っていなかった気もした。「……萌花に電話しよう」スマートフォンを手に取り、萌花に電話した。『咲希?どうしたの』「……喧嘩した」『え、蓮さんと?新婚なのに』「うん」思い返してみれば、喧嘩なんて初めてかもしれない。どんな喧嘩だったか話すと、萌花はしばらく黙っていた。『咲希は、何が嫌だったの?』「帰りが遅いこと、じゃなくて……一人でいる感じがすることかな。私の話を、ちゃんと聞いてもらえなかったこととか。蓮さんが何を抱えているのか、教えてもらえないこととか」『なるほど。それ、ちゃんと蓮さんに伝えた?』「途中で、言えなくなった」『そうか。……蓮さんは、きっと必死になってるんだよ。でも咲希の気持ちも正しいと思う』「そうかな?」『喧嘩できるって、仲がいい証拠だよ。我慢して言えない方が、よっぽど怖い』萌花の言葉に、少し肩の力が抜けた。「……ありがとう、萌花」『早く仲直りしてね。蓮さん、絶対昨夜から後悔してると思うよ』電話を切った後、窓の外を見た。6月の空が、曇っていた。蓮さんは今、何を考えているだろうか。あのクマを作った目で、何と
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第161話

数日後。蓮さんから「パーティーに同席してほしい」と言われた。「仕事関係の会食だ。俺の妻として、君にも顔を出してもらいたい」「分かりました」頷きながらふと、あのメッセージのことが頭をよぎった。『先日はお時間をいただけて、光栄でした。またぜひ、ご一緒できれば嬉しいです。──凛』差出人の名前は、見たことのない女性のものだった。仕事上の付き合いだろうと自分に言い聞かせても、胸の奥に小さな棘が刺さったままだった。当日、私は蓮さんが選んでくれた深いネイビーのドレスに身を包んだ。「似合っている」蓮さんの短い言葉に少しだけ救われたが、鏡に映る自分は、どうしても「氷室蓮の妻」という大役を演じている役者のように見えて仕方がなかった。◇パーティー会場は、都内の高層ホテルの宴会場だった。華やかな照明、洗練されたゲストたち。シャンパンの泡が、あちこちのグラスで静かに弾けている。私はかつて、コンシェルジュとしてこういった場に慣れていたはずだった。それでも「蓮さんの妻」という立場は、また別の緊張感を連れてくる。蓮さんと並んで挨拶をこなしながら、私は少しずつ、その場に自分を馴染ませようとしていた。ある取引先の方に名刺を渡された時、蓮さんが自然に私の背中に手を添えた。ただそれだけのことで、少しだけ呼吸が楽になった。コンシェルジュとして鍛えた観察眼が、ここでも静かに働く。相手の目線、声のトーン、グラスを持つ手の力の抜け具合。次に何を聞けば会話が弾むか、どのタイミングで蓮さんに繋げばいいか。体が、自然に動いた。「奥様は、ご一緒されるのは初めてですか?」取引先の方が、私に話しかけてくれた。「はい。不慣れなことも多いかと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします」「いやあ
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第162話

翌朝。蓮さんは早くから出社した。私は一人、リビングで朝食を食べた。昨夜、結局何も言えなかった。言えるわけがない。「蓮さんには、もっと対等に話せる人の方が合っているんじゃないか」なんて。でも、心の中にある言葉は、消えなかった。窓の外、6月の空が曇っていた。コーヒーを一口飲んで、カップを置いた。蓮さんが私を選んでくれた事実は、変わらない。それでも、桐嶋さんの隣に立つ蓮さんの横顔が、頭から離れなかった。答えは、出なかった。◇その夜。蓮さんが、いつもより早く帰ってきた。「ただいま」「おかえりなさい」夕食を食べながら、二人とも静かだった。食後、蓮さんがリビングのソファに座り、私を隣に呼んだ。「咲希、昨夜の話の続きをしよう」「……はい」「桐嶋さんのことが、気になっていたんだろう」私は頷いた。「言っておくが、桐嶋さんとは仕事の話以外はしていない。もし君がメッセージを見て不安になったのなら、今後は連絡手段も神崎を通すように徹底する」「蓮さん、そこまでしなくても……」「する」蓮さんが、私を見た。「だが、君が気にしていたのは桐嶋さんのことじゃなく、自分自身のことだろう」私は黙った。「俺には分かる。君が自分を責めている時の顔は、家政婦として来た頃から変わらない」「……蓮さん」「聞いてくれ」「はい」「俺が咲希を選んだのは、誰かと比較して優れているからじゃない」蓮さんの声は低く、静かで、確かだった。「君がいないと、俺の生活は立ち行かない。ただの抜け殻に戻るだけだ」「蓮さん……」「昨夜、隣で眠れない君がいることに気づいた時、俺が
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第163話

6月中旬。蓮さんの帰りが遅い夜に、仕事関係の打ち合わせが入った。相手は、旅館のSNS運用を手伝ってくれているウェブデザイナーの佐野さん。30代前半の、気さくな男性だった。待ち合わせは、ペントハウス近くのカフェだった。「氷室さん、このデザインどうですか?」佐野さんが、ノートパソコンを向けた。旅館のSNS用に作ったバナーデザインが、画面に並んでいた。「綺麗ですね。源さんの料理の写真が映えています」「ありがとうございます。氷室さん、写真のセンスが良くて、素材がいいんですよ」「そんな、スマートフォンで撮っているだけで」「それが自然な感じで良くて。あ、あとここ、コピーを考えてもらいたくて」佐野さんが、画面を指した。「こういう感じのキャッチコピー、咲希さんなら書けそうだなって思って」「咲希さん、って」「あ、すみません。氷室さん、って呼ぶのがまだ慣れなくて。最初に、咲希さんって名前で認識したので」「大丈夫ですよ。どちらでも」「じゃあ、咲希さん、このコピーなんですけど」会話が弾んだ。佐野さんは旅館への愛着を持って仕事をしてくれていて、話していると自然と笑いが出た。打ち合わせが終わったのは、2時間後だった。「またよろしくお願いします」「こちらこそ」カフェを出て、夜風の中を歩きながら、久しぶりに仕事の充実感を味わっていた。旅館が、少しずつ動いている。自分の手で、形にしている。その手応えが、足取りを軽くしていた。ふと、視線を感じた気がして振り返った。でも、人通りの多い歩道には、帰宅する人たちが流れているだけだった。気のせいか。そのままペントハウスへ向かった。◇蓮さんが帰ってきたのは、夜11時過ぎだった。「ただいま」「おかえりなさい。疲れましたか?」「少しな」蓮さんがジャケットを脱ぎながら、私を見
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第164話

数日後の朝。蓮さんが会社へ行った後、何気なくスマホを開いた私は、息が止まった。ネットニュースのトップに、見覚えのある写真があった。『氷室グループ若き社長の妻、早くも不倫か?謎のイケメンと深夜の密会』あの夜のカフェ。佐野さんがノートパソコンを指して、私が身を乗り出して覗き込んでいる瞬間。角度のせいで、まるで二人が顔を寄せ合い、親密に囁き合っているように見えた。あの夜、視線を感じた気がしたのは──気のせいじゃなかった。記事には、私が「元・家政婦」であることも誇張して書かれていた。『シンデレラは不満だったのか。格差婚の果てに見つけた、自由な恋──』「……違う。こんなの、全然違う!」指先が震えて、スマホを落としそうになった。佐野さんは、ただの仕事仲間だ。旅館のSNSを手伝ってもらっているだけだ。それなのに。私の不注意が蓮さんを、氷室グループを傷つけてしまった。「ごめんなさい」誰もいないリビングで、一人で呟いた。◇蓮さんから連絡があったのは、昼過ぎだった。『今すぐ迎えを出す。マンションの下に記者が来ている。一歩も外に出るな』短く、事務的な文面だった。怒っているのだろうか。呆れているのだろうか。もし、信じてもらえなかったら。画面を見つめたまま、動けなかった。神崎さんからも連絡が来た。『法的対応を進めています。咲希さんは、何もしなくて大丈夫です』その一文が、かえって胸に刺さった。膝を抱えて、ソファに座った。しばらくして、スマホを手に取った。旅館のSNSアカウントを開く。最新の投稿に、コメントが届いていた。『素敵な旅館ですね、行ってみたいです』『温泉、気持ちよさそう』記事のことを知らない人たちが、今日もそこにいる。私がやっていることは、正しい。佐野さんと積み上げてきたものは
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第165話

「咲希、どうした?」キッチンに立とうとした瞬間、冷蔵庫から漂う匂いに思わず口を押えた。昨日まで気にならなかった食材の匂いが、今朝は鼻の奥を刺す。「少し、胃の調子が悪くて」「病院に行け」「大丈夫です」「俺が大丈夫かどうかを判断する」「……蓮さん、ほんと過保護です」蓮さんが、黙ってキッチンに入ってきた。「座っていろ」「でも、朝食が──」「俺が作る」有無を言わさない声だった。私はダイニングの椅子に座り、蓮さんがキッチンに立つのを見ていた。慣れない手つきで、トーストを焼く。具のないシンプルなスープを温める。「こんなに早くから、ありがとうございます」「黙って食べろ」不格好だったが、胃に優しい味がした。◇蓮さんを送り出した後、リビングで一人、カレンダーを確認した。生理が、来ない。コーヒーが苦手になった。この吐き気。全部を並べると、答えは一つしかなかった。まだ、確かめていない。確かめるのが、少し怖かった。でも、このまま一人で抱えているのも、もう限界だった。その日の午後、私は薬局へ向かった。棚の前に立ち、検査薬を手に取った。もし違ったら……期待した分だけ、がっかりする。でも、もし合っていたら。蓮さんの顔が浮かんだ。あの人は、どんな顔をするだろう。喜んでくれるだろうか。それとも、まだ早いと思うだろうか。「どちらでも、伝えよう」声に出してみたら、少し気持ちが落ち着いた。深呼吸をして、商品をカゴに入れた。◇翌朝。蓮さんが出社した後、私はリビングで一人、向き合った。震える手で、検査薬を手に取る。結果は──。陽性。しばらく、その場に立ち尽くした。音が、遠くなった。
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第166話

蓮さんが、封筒をゆっくりと開けた。中から、エコーの写真を取り出す。しばらく、動かなかった。「これは……」「赤ちゃんです」私の声が、震えていた。「私たちの、赤ちゃん」蓮さんは、写真を見たまま顔を上げなかった。「本当か?」「はい」「妊娠……しているのか」「13週目に入ったところです。出産予定日は、1月11日」蓮さんが、ゆっくりと顔を上げた。その目に、涙が浮かんでいた。あの蓮さんが。「蓮さん……」彼が立ち上がり、私を抱きしめた。強く、でも壊れ物を扱うような腕だった。「ありがとう」蓮さんの声が、耳元で震えた。「ありがとう、咲希。本当に……ありがとう」「私の方こそ……」しばらく、そのまま抱き合っていた。蓮さんの鼓動が、いつもより速かった。少し経って、蓮さんが私をそっと離した。「1月11日か……」「はい」蓮さんが、静かに呟いた。「どうかしましたか」「……あの日に、君を初めてパーティーへ連れて行ったな」「覚えています。緊張で、倒れそうでした」私が言うと、蓮さんは少し遠くを見た。あの夜のことは、今でも鮮明に覚えている。初めて「蓮さん」と呼んだ夜。椿さんが現れて、蓮さんの顔から血の気が引いた夜。あの一日が、私たちの始まりだった。「来年の同じ日に、もっと大きな奇跡が起きる」蓮さんが、私のお腹をそっと見た。声には出さなかったが、その目が全てを語っていた。「体調は?」「朝は少し辛かったですが、今は大丈夫です」「いつ気づいた」「1週間ほど前から、おかしいとは思っていました」「なぜ、すぐに言わなかった」「ちゃんと確かめてから、伝えたかったんです」蓮さんが、私の頬にそっと手を当
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第167話

8月に入ると、体調の波が激しくなった。安定期に入れば楽になると思っていた。でも、猛暑のせいか、夕方になると吐き気の波が来た。においに敏感なのは相変わらずで、スーパーの鮮魚コーナーを通り過ぎるだけで顔色が変わった。朝は以前よりずっと楽になっていた。それでも、ふとした瞬間に胃がひっくり返るような感覚が来る日がある。「咲希」出社前の蓮さんが、キッチンに顔を出した。「今日の体調は」「昨日より、落ち着いています」「無理するな」「してません」「顔で分かる」「……蓮さん、毎朝チェックしてますよね」「当たり前だろう」迷いなく答えた。その真剣さが、おかしくもあり、ありがたくもあった。◇産婦人科で定期検診を受けた。「赤ちゃん、順調ですよ」エコーの画面に、着実に大きくなった小さな体が映っていた。「動いてる……」「初産ですし、胎動を感じ始めるのはもう少し先ですよ。18週前後になってからですね」まだ何も感じていない。でも、画面の中ではちゃんと動いている。私の体の中で、この子は一生懸命に生きているんだ。あなたのせいで辛いんじゃない。あなたがいるから、辛くても平気なんだ。心の中で話しかけながら、私はそっとお腹に手を当てた。◇8月の終わり頃、つわりの波が激しくなった夜があった。水を飲んでも胃が受け付けない。横になるしかなかった。蓮さんが帰ってきた時、キッチンには何もなかった。「咲希、夕食は」「……すみません、今日は」「いい」蓮さんが、ジャケットも脱がずにキッチンに入った。何かを切る音、火をつける音、出汁の香り。30分ほどして、蓮さんが器を持ってきた。卵雑炊だった。「食べられる
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第168話

それから2週間、蓮さんの帰りは深夜が続いた。妊娠が分かってからしばらくは早く帰ってきていた蓮さんが、また遅くなっている。『もう少しで、話せる』そう言ったまま、それ以上は何も言わない。カチカチと、時計の音だけが響くリビング。私は、冷めてしまったハンバーグにラップをかける。かつて彼が美味しいと言ってくれた料理が、今はただの無機質な塊に見えた。彼のことを、信じている。信じているけれど。こうして二人分作って、一人分をラップで包む夜が続いた。◇ある深夜1時を過ぎた頃、玄関が開いた。「ただいま」玄関に立った蓮さんのスーツから、夜の冷気と、知らない場所の匂いがした。タバコではない。お酒でもない。それは私が選んだ洗剤の匂いでも、彼が愛用しているシトラスの香水でもない。もっと甘くて、どこか都会的で冷ややかな──。誰かの存在を予感させる、知らない香りがした。……どこにいたんだろう。そんな疑問が頭の中を過ぎった瞬間、自分でも驚いた。こんなことを考えてしまう自分が、怖かった。聞けなかった。聞いたら、何かが変わってしまう気がして。「まだ起きていたのか。体に障る」「眠れなくて」「横になれ」「蓮さん」私は、蓮さんを見た。「最近、また帰りが遅くなっていますね」「仕事だ」「どんな仕事か、聞いてもいいですか」蓮さんが、動きを止めた。「……色々だ」「色々、って」「体調が悪い時に、余計な心配をするな」「余計な心配じゃないです」私の声が、わずかに震えた。「私はただ、蓮さんのことが心配なんです」蓮さんは、黙っていた。「もう少しで、話せる」「もう少し、って、いつですか」
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第169話

3日後の夜、蓮さんがいつもより少し早く帰ってきた。「咲希、話がある」蓮さんが、向かいに座った。「この2週間、遅くなっていた理由の一つを、話す」「一つ、ですか」「ああ。実は……森川荘の件で、動いていた」「実家の旅館の?」「ああ」蓮さんが、封筒をテーブルに置いた。「開けてくれ」中身を取り出すと、何枚かの書類だった。一番上の文字を見て、私は目を見開いた。『株式会社森川荘 設立計画書』「これ……」「旅館を、法人化する計画だ」蓮さんが、話し始めた。個人経営のままでは、融資が通りにくい。税制面でも不利な部分がある。法人化すれば信用力が上がり、設備投資の資金も集めやすくなる。「来年、森川荘の本格的な立て直しに入りたい。客室のリノベーション、温泉設備の更新、源さんの料理を売りにした宿泊プランの開発」「でも……なぜ、今まで言ってくれなかったんですか」「弁護士、税理士、投資家との交渉が続いていた。まだ確定していない部分を話すのは、心配をかけるだけだと思って」「……なぜ、氷室グループの名前を出さないんですか?」「君の旅館だからだ」蓮さんが、真っ直ぐ私を見た。「新婚旅行の時、君が言っていたことを考え続けた。氷室の名前で一気に変えるのではなく、あの旅館自身の力で立てるようにしたい」喉の奥が、詰まった。「あの旅館は、森川家の旅館だ。君が誇りを持って継ぐ場所だから」「……蓮さん」「この2週間の帰りが遅かった理由の一つは、それだ。不安にさせて、すまなかった」「……いいえ」私は首を横に振った。「私こそ。蓮さんを信じ切れなくなりそうになって」「なりそうに、か」「なりそうになった、だけです。あなたを信じると決めていましたから」蓮さんが、少し目を細めた。「そうか……強くなったな、咲
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