All Chapters of 月給80万円の偽装花嫁: Chapter 171 - Chapter 180

182 Chapters

第170話

先週、蓮さんと森川荘を訪れ、父に法人化の計画を話した。父は黙って全部聞いて、最後にただ一言「頼む」と言った。その一言が、まだ胸の奥に温かく残っている。9月の、晴れた午後。空は高く、秋の気配を含んだ風が街を通り抜けていく。ここ数日、波のように押し寄せていたつわりが、今日は嘘のように穏やかだった。蓮さんは今朝、珍しく「午前中に会社に行って、午後には戻る」と言い残して出かけていった。具体的な用件は言わなかったが、その横顔には、仕事の時とは違う、どこか厳粛な響きがあった。そんな時、私のスマートフォンに神崎さんからメッセージが届いた。『今日は、亡くなられた先代・隆一郎様の命日です。氷室様にとって、人生で最も大切な日の一つです。蓮様は一人で行くつもりでしょうが、よければ、そばにいてあげてください』添えられていたのは、都内の霊園の名前と区画番号。「……一人で背負おうとするのは、蓮さんの癖ですね」私は、急いで身支度を整えた。◇石畳を踏みながら、私は花束を持って歩いた。木々の間から、秋の光が差し込んでいる。遠くに、人影が見えた。蓮さんだった。墓石の前に、一人で立っていた。花と線香を供えて、ただ立っている。私は足音をできるだけ立てないようにしながら、近づいた。砂利が鳴った。「……来たのか」振り返らずに蓮さんが言った。背後から聞こえる私の足音だけで、分かったらしい。「神崎さんから、今日だと聞きました。……勝手に来て、すみません」「いや。……いつかは、紹介しなくてはいけないと思っていた」蓮さんは、墓石に刻まれた『氷室隆一郎』という文字を見つめていた。私は持ってきた季節の花を供え、深く頭を下げた。「ご挨拶が遅くなりました」小さく、墓石に向かって言った。「咲希と申します
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第171話〜神崎柊吾side〜

【神崎柊吾side】8月のある朝、俺は珍しい光景を目にした。少しだけ開いた社長室の隙間から、デスクで氷室蓮が本を読んでいるのが見えた。仕事の資料ではない。表紙には『はじめての妊娠・出産 パパのための完全ガイド』と書いてある。俺は一度居住まいを正し、あえて聞こえるようにノックをしてから入室した。「失礼します。氷室様、10時のアポの確認です」「ああ」蓮は本を閉じた。閉じたが、机の引き出しにしまう前に俺はしっかり見た。付箋が、何枚も貼られていた。色違いの付箋が、びっしりと。「……その本、いつから読んでいるんですか」「咲希の妊娠が分かった翌日から」「……そうなんですね」俺は書類をデスクに置いて、一歩引いた。完璧に、表情を保った。完璧に。◇それから数週間、俺は蓮の変化を近くで見続けた。まず、帰宅時間が変わった。以前は深夜まで残っていた蓮が、18時には席を立つようになった。「氷室様、まだ懸案事項が」「明日やる」「明日は役員会が」「朝一番に繰り上げろ。午後の予定はすべてキャンセルだ」「……かしこまりました」無茶苦茶だ。だが、今のこの男に正論は通じない。すべては、咲希さんの夕食に間に合わせるためだ。それは分かる。分かるが。2年前、「帰宅は何時でもいい」と言っていた男と同一人物とは思えなかった。……まあ、あんなに幸せそうな顔をされては、秘書としても友人としても、黙って従うしかないのだが。◇数日後。社長室の環境が変わった。デスク脇に、新しい本が増えた。『妊婦のための栄養学』『つわりを和らげる食事レシピ』『胎教に良い音楽100選』
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第172話

10月の、よく晴れた午後。旅館のSNSを開いて、新しい投稿の準備をしていた。工事前の客室の写真、庭の秋景色。文章を考えながら、お茶を一口飲んだ。コーヒーの香りが苦手になったのはつわりのせいで、今も麦茶を飲んでいる。こういう小さな変化が、自分の中に新しい命がいる証拠なんだと思うと、不思議な気がした。スマートフォンに、母からの着信が入った。「お母さん、どうしたの」『咲希、元気?今、大丈夫?』「うん、全然大丈夫。つわりも落ち着いてきて」『本当に良かった。……それでね、聞いてほしいことがあって』母の声が、少し弾んでいた。「何?」『今日ね、源さんが、厨房で一人でいるところを見たんだけど』「うん」『笑ってたのよ』私は、手を止めた。「……源さんが?」『そう。新しい厨房を見回して、小さく笑って。気づいたら独り言みたいに言ってたの。「悪くない」って』私は、しばらく何も言えなかった。『咲希?』「……ごめん、ちょっと、嬉しくて」『私もよ。あの源さんがね。厨房が新しくなってから、仕込みの時間が長くなったって、お父さんも言ってたわ』「そうなんだ」『きっと、新しい設備でやりたいことが増えたんでしょうね。蓮さんが説得してくれたおかげよ。お母さん、感謝してるの』「……私も、蓮さんに伝えます」『うん。伝えてあげて』電話を切った後、しばらくスマートフォンを握ったまま動けなかった。源さんが、厨房で笑った。あの源さんが。ここ数日で一番、胸が温かかった。◇その夜、蓮さんに話した。「母から連絡があって。源さんが、新しい厨房で笑っていたそうです」蓮さんが、少し手を止めた。「『悪
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第173話

数日後の夜。蓮さんは珍しく早く帰ってきたが、ベッドに入った途端に眠ってしまった。「旅館と、グループの件で少し進展があった。後で話す」と言いかけたまま、寝息を立てている。私は布団をかけて、横になった。気づいたら、私は泣いていた。理由は、よく分からなかった。蓮さんがまた何かを一人で抱えていることへの不安なのか、妊娠中のホルモンバランスのせいなのか、それとも両方なのか。自分でも整理できないまま、涙が出た。蓮さんを起こさないように、静かに枕に顔を押しつけた。その時、お腹がきゅっと鳴った。そういえば、夕食をあまり食べられなかった。「……チョコミントのアイスが食べたい」誰に言うわけでもなく、呟いた。「どこのだ」隣から声がした。「っ……蓮さん、起きてたんですか?」「今起きた」蓮さんが、体を起こした。「泣いていたのか?」「泣いていません」「声が鼻声だ」「……少しだけ」「理由は?」蓮さんが、私の顔を覗き込む。「理由は……ないんです。よく、分からなくて」しばらく沈黙があった。蓮さんが、私の頭を引き寄せた。「それでいい」「え?」「理由なんてなくていい。泣きたければ泣け」「でも……」「君が泣いていると、俺が落ち着かない。それだけだ」少し矛盾している気がしたが、その腕が温かかったので、何も言わなかった。「チョコミントのアイスが、食べたいです」「コンビニで売っているか?」「蓮さん、今何時だと思って……」「何時だ」「深夜の2時です」蓮さんが、ベッドから出た。「買ってくる」
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第174話

10月も後半になると、体がずいぶん自分のものに戻ってきた気がした。食欲が戻り、好きなものが食べられる。それだけで、朝の時間が全然違う。「今日は大丈夫か?」蓮さんが、出社前に確認してくる。「昨日より、全然楽です。ご飯も食べられそう」「何が食べたい」「お味噌汁と、白いご飯」「俺も手伝う」「大丈夫ですよ」「手伝いたいんだ」結局、二人でキッチンに立った。蓮さんが味噌汁の具を切り、私がご飯を炊く。「蓮さん、大根の切り方、上手になりましたね」「毎日練習していた」「毎日?」「君が食べられない時でも、俺は食べないといけないから」蓮さんが、手を止めずに続けた。「君が食べられるようになった時に、美味しいものを出せるように」私は、包丁を持つ蓮さんの横顔を見つめた。出社前に、毎日。料理が得意でもないのに、一人でキッチンに立っていた。私のために。「……ありがとうございます」蓮さんが、手を止めずに答えた。「……ああ。どういたしまして」いつもより素直に受け取ってくれた。それがかえって、胸に沁みた。◇10月下旬。産婦人科。「性別、知りたいですか?」医師が、エコーの画面を見ながら尋ねた。私は、蓮さんと顔を見合わせた。「はい」「男の子ですよ」しばらく、言葉が出なかった。「男の子……」「陽だな」蓮さんが、ぽつりと言った。「勘、当たりましたね」「ああ」医師が、エコーの画面を指した。小さな手が、画面の中で動いていた。「動いてる……」モノクロの画面の中で、思わず蓮さんに似た輪郭を探してしまう。この
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第175話

陽の性別が分かった翌週。父から電話が来た。『咲希、少し話があるんだが』「どうしたの、お父さん」『……リノベーション、来月から始められそうだ』私は、思わず立ち上がった。「本当に?」『蓮さんが手配してくれた業者が、スケジュールを調整できたらしい。来年の2月、オープンを目指したい』「2月……」『咲希、お腹の子のこともあるから、無理はしなくていい。ただ、報告したくて』「無理じゃないよ。私も関わりたいの」『そうか』父の声が、少し明るくなった。電話を切って、私はリビングの窓に目をやった。投資家が降りたという話を、父はまだ知らない様子だった。蓮さんは、代わりを探しながら、父への報告は変えなかった。あの人は、どこまで黙って動くのだろう。◇その夜、蓮さんに話した。「父に報告したんですね」「ああ。客室は、4部屋から始める。温泉の配管も一部更新する。源さんの厨房は、先に手を付けた。もう新しい設備で動いている」「投資家の件は、父に話さなかったんですか?」「今は、話す必要がない」「どういうことですか」「お義父さんに、余計な心配をかけたくなかった。それに……」蓮さんが息を吸い込む。「代わりの投資家との交渉が続いている。まだ確定はしていないが、見込みはある」「それなら、良かったです」「ただ……時間がかかるかもしれない。オープンに影響が出る可能性もゼロではない」私は、しばらく言葉が出なかった。「……どうして、私に言ってくれなかったんですか」「君に、負担をかけたくなかったから」「蓮さん」「なんだ」「過程を話すって、約束しましたよね?森川荘の法人化の計画書をもらった時に」蓮さんが、少し黙った。「……そうだったな」「次からは、ちゃん
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第176話

数日後の週末。ペントハウスのインターホンが鳴った。「配送業者です。氷室厳造様より、お荷物が届いております」蓮さんと顔を見合わせた。「そういえば、荷物が来るって言ってたな」「量が多い、って言っていましたよね」「ああ」蓮さんが扉を開けると、配送業者の方が二人立っていた。「大変失礼ですが、エレベーターを三往復させていただく形になります」「三往復」蓮さんが、低い声で繰り返した。その声が、わずかに低くなった気がした。◇1時間後。リビングには、大きな段ボールが山積みになっていた。「……開けてみますか」「ああ」一番大きな箱を開けると、中には高級ベビーベッドが入っていた。次の箱には、ベビー服が何セットも。その次には、おもちゃ。ベビーカー。哺乳瓶のセット。「祖父上……」蓮さんが、珍しく言葉に詰まった。「やりすぎだ」私は、こらえきれずに笑った。「嬉しいですよ。こんなに喜んでくれて」「喜んでいるのは分かるが、部屋が埋まっている」「電話してみます」私がスマートフォンを手に取ると、蓮さんが言った。「俺がかける」「私がかけます。怒らないでください」「怒っていない」「顔が怒っています」蓮さんが、少し黙った。「……頼む」◇「厳造様、ありがとうございます」『おお、咲希さんか。全部そろったか?』「そろいました。それで……少し多すぎるかもしれないと思いまして」『なんだ、足りないか?なら、まだ追加できるぞ』「足りないんじゃないんです。多すぎて」『多すぎることはない。ひ孫への先行投資に、制限はないんだよ』
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第177話

11月下旬。「では、陣痛が始まった時の対処法をお伝えします」出産準備講座の助産師さんが話し始めた。隣で、蓮さんがノートを広げた。ペンを手に取り、真剣な顔で書き始める。「蓮さん、メモしてるんですか?」「している」「何を?」「呼吸のタイミングと、マッサージの手順と、病院に電話する目安の間隔」私はそのノートを覗き込んだ。几帳面な文字で、びっしりと書かれていた。「……すごい」「俺にできるのは、これくらいだ。本番で、君を一人にするわけにはいかないからな」その横顔が、真剣で、少し緊張しているように見えた。あの蓮さんが、父親になる準備をしている。◇沐浴の練習では、人形を使った。蓮さんが人形を抱くと、慎重に、丁寧に頭を支えた。「これで合っているか?」「はい、いいですよ」「……不安だが、頑張る」蓮さんが、人形を見たまま言った。「陽に、怖い思いをさせたくない」「大丈夫です。こんなに真剣に練習しているんだから」蓮さんが、しばらく黙った。「……そうか」◇12月上旬、ベビーショップで最終的な買い物をした。蓮さんが、棚から次々と商品を取っていく。「これも必要か?」「あると便利ですね」「なら入れよう」「蓮さん、ちょっと買いすぎですよ」「足りないよりいいだろう」「でも……」「陽のためだから、問題ない」会計でカードを出した蓮さんが言った。「君とこの子のために使う金だ。これ以上の使い道が他にあるか?」その一言に、もう何も言えなかった。◇クリスマスが近づいた頃、私の両親が東京に来た。「咲希、お腹大きくなったわね」「うん。最近、重くなってきて」父が、蓮さん
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第178話

「陣痛が……来たと思います」その言葉を言い終える前に、蓮さんはベッドから起き上がっていた。「間隔は」「今のが最初です。前駆陣痛とは違う感じで」「病院に連絡する」蓮さんが、スマートフォンを手に取った。事前に登録してあった病院の番号に、迷わずかけた。「氷室です。妻の陣痛が始まりました。間隔はまだ不規則ですが……はい、分かりました。すぐに向かいます」電話を切った蓮さんが、振り返った。「着替えを手伝う」「大丈夫です」「手伝う」有無を言わさない声だった。蓮さんの手が、私の背中をそっと支えてくれた。着替えながら、また痛みの波が来た。「っ……」思わず、蓮さんの腕を掴んだ。蓮さんは何も言わなかった。ただ、私が掴んだ腕を、じっと動かさなかった。波が引くのを待って、私は息を吐いた。「……行けます」「無理はするな」「無理じゃないです」「顔が白い」「蓮さんの顔も白いです」蓮さんが、一瞬固まった。「……そうか」「緊張していますか?」「している」「私も」「……商談の百倍は心臓に悪い」二人で、少し笑った。暗くて静かな寝室で、二人で笑った。その笑いが、不思議と力になった。◇玄関で荷物を持ち、ペントハウスを出た。エレベーターを待つ間、また波が来た。「っ……」「掴め」蓮さんが、腕を差し出した。私はその腕を両手で握った。廊下の蛍光灯が、白く照らしている。深夜のペントハウスは、しんとしていた。波が引いた。「大丈夫か」「はい」エレベーターの扉が開いた。乗り込む時、蓮さんが私の腰にそっと手を添えた。地下駐車場に降
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第179話

日が変わり、1月11日の午前2時。陣痛の間隔が、少しずつ縮まっていた。波が来るたびに、私はベッドの柵を掴んだ。指先が白くなるほど力を込めても、体の奥から突き上げてくる衝撃はいなせない。「っ……」痛い。でも、波は必ず引く。蓮さんが、私の背中に手を当てた。「ここか」低く、少しだけ掠れた声。その声を聞くたびに、バラバラになりそうな意識が、現実に繋ぎ止められる気がした。「少し上……そこです」蓮さんの手が、ゆっくりと円を描くように動いた。出産準備講座で練習したマッサージ。蓮さんは、あの時ノートに書いていた手順通りに、丁寧にやってくれていた。波が引いた。「ありがとうございます」「痛みは?」「今は大丈夫です」「次が来たら言ってくれ」「はい」蓮さんは、椅子を引き寄せて座った。私の手は離さなかった。◇午前5時。窓の外が、少しずつ白み始めていた。助産師さんが確認に来た。「子宮口、6センチです。順調ですよ」「あと少しですか?」「もう少し時間がかかります。でも、着実に進んでいますよ」「はい」「旦那様、ずっとそばにいてくださってますね」助産師さんが、蓮さんを見て言った。「お疲れ様です」「疲れていません」蓮さんが即答した。けれど、その目の下にはうっすらと隈が浮かび、いつも整えられている髪が、少しずつ乱れていた。助産師さんが、微笑んで部屋を出た。「蓮さん」「ん?」「何か食べてきてください」「いい」「廊下に自動販売機があります」「いらない」私は、蓮さんを見た。「
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