All Chapters of 月給80万円の偽装花嫁: Chapter 151 - Chapter 160

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第150話

翌朝。4月14日。台所で母の朝食準備を手伝っていると、廊下に足音がした。振り返ると、作務衣姿の蓮さんが立っていた。髪は整えられているが、いつもより早起きしたのか、目元がわずかに眠そうだった。「おはようございます」「おはよう」「今日は、何から始めればいいですか」母が驚いた顔をした。「え、蓮さん自ら?」「昨日の客室掃除が、不十分でした。源さんに指摘を受けました」「まあ……」母が申し訳なさそうにしたが、蓮さんは穏やかだった。「正しい指摘です。今日はやり直します」それだけ言って、蓮さんは掃除道具を取りに向かった。私は、その背中が廊下の角を曲がるまで見送った。◇午後。蓮さんは源さんに頼み込み、皿洗いをさせてもらっていた。「邪魔になるだけだ」と源さんは渋ったが、蓮さんは黙って流し台に立った。配膳の合間に、厨房の扉が少し開いていた。私はそこから、そっと中を覗いた。蓮さんが、無言で皿を洗っている。慣れない手つきだった。でも、急がない。雑にしない。一枚一枚を確かめるように、丁寧に。源さんが横目でそれを見ていた。何も言わなかった。それが、かえって試されているようだった。◇夕方、配膳を終えて厨房に戻ると、源さんの声が聞こえた。「皿は、縁から洗え」蓮さんの手が止まる。「客が口をつける場所だ。そこに汚れが残っていたら、板前の恥になる」「……承知しました」蓮さんはすぐに、スポンジを縁に当て直した。正確な動作で、皿を回す。たった
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第151話

夜。客室に戻ると、蓮さんは手のひらを開いて眺めた。「見せてください」私が手を差し出すと、蓮さんは少し迷ってから、その手のひらをこちらへ向けた。二日間の慣れない作業で、皮膚が赤くなっていた。薬指と中指の付け根に、小さな水ぶくれができていた。「痛くないですか?」「これくらい、なんでもない」「でも……」私は洗面台から救急箱を持ってきた。ガーゼと絆創膏を取り出し、蓮さんの手のひらに向き合う。「借ります」蓮さんが何か言う前に、水ぶくれの上にそっとガーゼを当てた。「……」「じっとしていてください」「分かった」テープを丁寧に貼りながら、蓮さんの手をまじまじと見る。普段は高価なスーツに包まれた、ペンとスマートフォンを握るための手。それが今、古びた雑巾と皿の重さで赤く変わっている。「なぜ、ここまでするんですか」「何が」「皿洗いも、掃除も。こんなに手が荒れるまで」蓮さんが、少し考えてから言った。「君が守ってきた場所を知るためだ」「……知るだけなら、話を聞くだけでも」「それでは足りない」蓮さんが、私の目を見た。「頭で理解するのと、体で知るのは違う。源さんが三十年かけて守ってきたものを、俺は数日触れただけだ。それでも、少しは分かった気がする」「……何が分かりましたか」「ここの重さだ」短い言葉だったが、それで十分だった。私は絆創膏を貼り終え、ゆっくりと蓮さんの手を両手で包んだ。「この程度で、音を上げるつもりはない」「分かっています」私の目が潤んだのに気づいたのか、蓮さんが小さく笑った。「泣くな」「泣いていません」「目が潤んでいる」「……蓮さんのせいです」蓮さんが今度は声を出して笑った。珍しい笑い声に、私も釣られてしまった。
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第152話

私は廊下で、扉の横の壁に背中を預けた。中から、出汁の香りが漂ってくる。昆布と鰹の、深くて静かな香り。子供の頃から嗅いできた、この旅館の匂い。しばらくして、源さんの声が聞こえた。「……あんたが昨日、ロビーで男を追い返したのを見ていた」蓮さんは何も言わなかった。「氷室グループの代表が、作務衣を着て皿を洗い、客を追い出す。……普通じゃない」「普通ではないかもしれません」蓮さんの声は、落ち着いていた。「だが、ここは俺の家族の場所です。守るのは当然です」源さんが、低く息を吐いた。「……一つだけ、聞かせろ」「はい」「あんたは、この旅館をどうしたいんだ」厨房に、静寂が落ちた。「金儲けの道具にするつもりなら、今すぐ出ていけ。どんな肩書きを持っていようと、俺はこの旅館と、ここの味を守るためにここにいる。それだけは譲らん」蓮さんが、正面から源さんを見ているのが、扉の隙間から分かった。「道具にするつもりはありません」「……ほう」「俺が守りたいのは、妻が愛し、誇りに思っている『この場所』そのものです」源さんの手が、止まった。しばらく、間があった。「……なら、これを飲んでみろ」源さんが、小皿を蓮さんに渡した。「この出汁は、30年かけて作ったものだ。昆布は羅臼。鰹は土佐。水は裏山の湧き水だ」「それだけですか?」蓮さんの声。「それだけじゃない。火加減と時間だ。マニュアルなんてない。体で覚えるしかないものだ」沈黙があった。出汁の香りが、廊下まで流れてくる。長い、静かな間。蓮さんは何も言わなかった。その静けさが、かえって何かを伝えているような気がした。「どうだ」「雑味がない」蓮さんの声は、迷いがなかった。「徹底した温度管理の結果ですね。0.1度の狂いも許さない
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第153話

4月16日、夜。「咲希。今夜も、露天風呂貸し切りにしてあげるから」夕食のあと、母がこっそり声をかけてくれた。「せっかくの新婚旅行なんだから。二人でゆっくり温まりなさい」「ありがとう、お母さん」母に背中を押され、私は昨夜の蓮さんの言葉を思い出して、顔が熱くなる。──容赦しない、なんて。もしかして、今夜も?期待と緊張が入り混じったまま、私は彼と夜の石畳を歩き出した。露天風呂は、旅館の裏手にある。石造りの湯船に、山の湧き水を使った温泉。お湯の質の良さは、近隣でも評判だ。「蓮さん、手」私が言うと、蓮さんが少し目を向けた。「何だ」「繋いでいいですか。石畳、暗くて」「暗くもないだろう」「暗いんです」蓮さんが、小さく息を吐いた。それから、何も言わずに手を差し出した。石畳を、二人で並んで歩く。足元に灯籠の光が揺れていた。◇脱衣所で着替えを済ませ、湯船に足を踏み入れると、温かさが全身を包んだ。「気持ちいい……」思わず声が漏れた。蓮さんも、隣で目を閉じた。その横顔が、珍しくほぐれていた。「蓮さん、疲れが取れますか?」「ああ」「良かった」しばらく、二人で黙って空を見上げた。山梨の夜空は、東京とは全然違う。星が、数えきれないほど瞬いていた。「咲希」「はい」蓮さんが、私の手を取った。その手を持ち上げ、手のひらを見る。「これを見ろ」蓮さんが、自分の手のひらを示した。3日間の作業で、赤くなった手のひら。「痛くないですか?」蓮さんが私を見た。「君が守りたかった場所を、今度は俺がこの手で守る番だ」その言葉に、涙が出そうになった。「……一人じゃないですよ」「そうだな」
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第154話

4月17日。旅館滞在最終日。朝から、蓮さんは父と話していた。縁側で向き合う二人を、私は母と一緒にキッチンから眺めた。父が、真剣な表情で蓮さんの話を聞いている。蓮さんが、ノートを開いて何かを説明していた。「何の話をしてるのかしら」母が、お茶を淹れながら言った。「旅館のことだと思う」しばらくして、父が深く頷いた。その顔が、珍しく晴れやかだった。昨夜のことが、まだ胸に引っかかっていた。蓮さんは今、あの時と同じ顔で父と話しているのだろうか。それとも、また別の顔をしているのだろうか。「咲希」母が、私に向き直った。「あのね、源さんが今朝……蓮さんのこと、悪くないって言ってたわよ」「本当に?」「うん。『あの坊ちゃんは、本気だ』って」源さんが誰かをそう評するのは、滅多にないことだと母は言った。「良かった」私は、窓の外の縁側を見た。蓮さんが父に何かを見せている。スマートフォンの画面だった。デジタルに不慣れな父のペースに合わせ、一歩引いて、でも確実に未来を提示する。その立ち居振る舞いは、冷徹な経営者ではなく、一人の『息子』のようだった。昨夜「甘い」と言った人と、同じ人とは思えなかった。◇昼食の後、父が私を呼んだ。「咲希、少し話があるんだが」縁側に座ると、父が静かに切り出した。「蓮さんから、旅館のホームページの案を見せてもらった」「はい」「SNSでの発信、温泉の質のアピール、地元食材の特集ページ……全部、的を射てる」父が、手元のメモを見た。「蓮さんは、本当に真剣に考えてくれてるから」「分かった」父が頷いた。「正直、俺は長い間、諦めかけていた。でも……」父の目が、遠くなった。
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第155話

4月18日、金曜日。山梨から東京へ戻る車の中、私は蓮さんの肩に寄りかかっていた。窓の外、新緑の山々が後ろへ流れていく。「蓮さん」「ん?」「源さん、見送りに出てくれましたね」「ああ」出発の朝、源さんは無言で玄関に立っていた。見送りの言葉はなかった。でも、蓮さんが頭を下げると、短く頷いてくれた。あの源さんが。「嬉しかったです」「俺もだ」蓮さんが、静かに答えた。車が高速道路に入ると、景色が変わった。山の緑が遠ざかり、コンクリートの灰色が増えていく。「これから、新婚生活ですね」「ああ」蓮さんの手が、私の手の上に重なった。「楽しみか?」「はい。とても」「俺もだ」東京の空が、窓の向こうに広がっていた。◇ペントハウスに帰ると、見慣れた部屋なのに少し違って見えた。家具店で選んだソファと、ペアのマグカップ。気づけばこの部屋のあちこちに、二人で選んだものがある。旅館で過ごした5日間が、ここにある「私たちの日常」を、以前より愛おしく見せていた。「ただいま」「おかえりなさい、旦那さま」私が呟くと、蓮さんが少し目を細めた。「……その呼び方は、慣れないな」「練習します」蓮さんが、苦笑した。◇荷物を解いて、夕食の準備をした。エプロンを結んでいると、蓮さんがキッチンに入ってきた。「手伝う」「ありがとうございます。玉ねぎを切ってもらえますか?」蓮さんが包丁を手に取った。真剣な顔で玉ねぎに向かう。ト、トト、ト……。ぎこちないけれど、等間隔に刻もうとする規則正しい音。しばらくして、蓮さんが振り返った。目が、うっすら
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第156話

翌朝、蓮さんを送り出してから、私はソファに座ったままコーヒーカップを両手で包んだ。コンシェルジュ責任者。昨日の電話の言葉が、まだ頭の中に残っていた。一度は諦めたはずの世界。それでも、私の名前を覚えていてくれた人がいた。その事実だけで、じわりと熱くなるものがあった。その夜、私は蓮さんに話した。「……そうか」蓮さんは、しばらく黙っていた。「咲希が決めればいい」「蓮さんは、どう思いますか?」「働きたいなら、応援する。君の才能を眠らせておくのは、もったいない」言葉は短かったが、迷いがなかった。私は、蓮さんのネクタイをそっと整えながら言った。「お断りしようと思っています」「本当にいいのか」「はい」私は、山梨で見た父の背中を思い出した。節くれだった手。震えながら私の頭に置かれた、あの大きな手の重み。「あの旅館を、蓮さんと一緒に再生させたい。それが今の私の『コンシェルジュ』としての仕事だと思っています。いつかあそこを継ぐのが、私の夢ですから」蓮さんが、私を見た。「……ありがとう」「感謝されることじゃないです。私がそうしたいんだから」蓮さんは何も言わなかった。ただ、私の手を取った。その手の温もりが、答えだった。◇翌週末。二人で実家の旅館を訪れた。父と母が出迎えてくれた。「おかえり。蓮さんも、よく来てくれた」「お邪魔します」蓮さんが深く頭を下げた。ロビーに通されると、蓮さんがノートパソコンを開いた。「森川さん、先日お話したホームページの件ですが」父が、画面を覗き込んだ。「おお……」刷新されたホームページが、画面に広がっていた。プロのカメラマンが撮影した旅館の写真。温泉の湯気、庭の緑、源さんの料
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第157話

5月下旬。蓮さんの帰宅が、深夜になる日が増えていた。「お疲れ様」の一言を交わすだけで、精一杯の毎日。何か、彼のためにできることはないか。ずっとそう考えていた。仕事で疲れている彼を、とびきりの料理で元気づけたい。そう思い立ったのは、少し汗ばむような陽気の土曜日だった。「今日は、特別な料理を作ろう」いつも朝食は作っているけれど、夕食を二人でゆっくり囲む時間は減っていた。フレンチのフルコース。蓮さんが大切にしているものと同じくらい、私も本気でやってみよう。コンシェルジュ時代、高級ホテルの料理は毎日見ていた。料理のことは、分かっているつもりだった。◇スーパーで食材を揃え、午後3時、調理開始。前菜はスモークサーモンのカルパッチョ、スープはヴィシソワーズ、メインは牛フィレ肉のソテー、デザートはクレームブリュレ。我ながら、本格的な献立だった。まず、ヴィシソワーズのベースとなるポワローをカットした。これは、まあまあ上手くいった。次に、ソースに取り掛かった。「ブールブランソース……材料は、白ワイン、バター、エシャロット」鍋に白ワインを入れ、火をつけた。煮詰めてからバターを加えた瞬間、ソースが分離した。「え?」白く固まったバターが、鍋の中で浮いている。慌ててかき混ぜた。でも、どんどん分離していく。レシピを見直すと「必ず火を止めてからバターを少しずつ加える」と書いてあった。「最初から読むべきだった」◇次に、メインの牛フィレ肉に取り掛かった。フライパンに肉を置いた瞬間、盛大に煙が出た。熱すぎた。換気扇を全開にしても、煙がリビングまで流れていく。「大丈夫、まだいける」肉を返した。表面は綺麗に焼けているように見えた。しばらくして、切ってみると──固い。かなり固い。「焼きすぎた」牛フィレ肉が繊細な食材だということは、知っていた。
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第158話

「ソースも分離してるし、クレームブリュレは焦げているし……本当に、すみません」私は俯いたまま、絞り出すように言った。蓮さんはしばらく黙って、ゆっくりと咀嚼を続けていた。沈黙が、やけに長く感じられる。やがて、彼は口を開いた。「……美味い」「嘘です」食い気味に答えた私を、蓮さんは真っ直ぐに見つめた。「嘘じゃない」「だって、すごく固いじゃないですか。さっき、眉間に皺が寄っていましたよ」「……それは、どう攻略すべきか考えていただけだ。固いが、肉の旨みはしっかり閉じ込められている。悪くない」蓮さんはそう言って、分離して黄色い塊が浮いているソースをスプーンですくった。「このソース、バターが多い気がするが。わざとか?」「……分離したんです。何度やっても上手くいかなくて、バターを足せば繋がるかと思ったんですけど、逆効果でした」「なるほど。化学実験の失敗のようなものか」少し揶揄うような彼の口調に、緊張がわずかに解ける。蓮さんは次に、ヴィシソワーズを口に運んだ。「これは上手くできてる。滑らかで、店で出すものと遜色ない」「……ヴィシソワーズだけは、なんとかなりました」「デザートは」「……焦げました。見ての通りです」「見れば分かる。バーナーの使い方が、豪快だったんだな」「すみません……」「謝るな」蓮さんは、真っ黒に焦げたキャラメリゼの層をスプーンの背で割り、口にした。また、長い沈黙。私は指先をいじりながら、彼の反応を恐る恐る待った。「咲希」「はい」「なぜ、あえて難しいフレンチにしたんだ」「……特別な料理を作りたくて。最近、一
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第159話

6月に入った頃から、蓮さんの帰りがさらに遅くなった。『少し、面倒なことになっている』あの朝の言葉が、少しずつ現実になっていくようだった。新しいプロジェクトが動き始めたらしく、会社からの連絡が増えた。夕食中にスマホが鳴り、席を立つ日。帰宅してすぐ書斎に消える夜。最初は気にしなかった。蓮さんが忙しい人だということは、知っていた。でも、二人分作って一人分をラップで包む夜が、五日続いた。六日目も、七日目も。冷蔵庫の中に、タッパーが増えていった。「おかえりなさい」深夜に帰ってきた蓮さんに、私は声をかけた。「ただいま」疲れた顔をしていた。以前より、頬が少し削げている気がした。それを見た瞬間、言いたいことが喉の奥で詰まった。疲れているんだから、何も言わない方がいい。そう思う自分と、言わないと何も変わらない、と思う自分がいた。「夕食、温め直しますか?」「いや、いい。先に風呂に入る」それだけ言って、蓮さんは洗面所へ向かった。私は、冷めた夕食をラップで包みながら、口を引き結んだ。◇翌日も、深夜だった。『今夜も遅くなる』スマホに届いたのは、その一言だけだった。私はそのメッセージを、長い間見つめていた。返信しようとして、何度も文字を打っては消した。結局、『気をつけてください』と送った。既読がついたのは、2時間後だった。返信は来なかった。◇日付が変わった頃、彼が帰ってきた。「おかえりなさい」「ただいま」「夕食、どうしますか」「そこに置いておいてくれ。後で食べる」蓮さんが、鞄をソファに置きながら言った。私は一度、深く息を吸った。言おう。今言わないと、また飲み込む。「……最近、連絡
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