All Chapters of 月給80万円の偽装花嫁: Chapter 51 - Chapter 60

90 Chapters

第50話

翌日、1月9日。今日は、呼び方の練習だ。氷室様のことを、『蓮さん』と呼ぶ。「昨日お知らせした通り、今日は呼び方の練習をします」神崎さんが言った。「咲希さん、氷室様のことを『蓮さん』と呼んでください」「……っ」氷室様を見る。彼も、私を見ている。「さあ、どうぞ」「れ……」喉が、渇く。「れん……さん」小さな声。でも、確かに言えた。氷室様の目が、わずかに見開かれた。「……もう一度」低い声。「れん、さん」氷室様の目が、揺れた。「……いい」その声が、優しかった。「他人に呼ばれるのは不快だが、君の声で聞く俺の名前は……悪くない」「それでは、森川さん。色々な場面を想定して、練習しましょう」神崎さんに促され、私は氷室様の名前を、何度も何度も呼んだ。「蓮さん、コーヒーいかがですか?」「蓮さん、今日の予定は?」「蓮さん……」最初は恥ずかしかったけれど、だんだんと慣れてきた。その響きが、だんだん自然になっていく。「完璧です!」神崎さんが拍手した。◇「では次に、難しい質問の練習です」神崎さんが、真剣な顔になった。「難しい質問……ですか?」「はい。パーティーでは、意地悪な質問をする方もいらっしゃいます。『本当に愛し合っているんですか?』とか」その質問に、私は息を呑んだ。本当に、愛し合っているか。私は、本当に氷室様を愛している。だけど、氷室様は──。「そういう質問には、どう答えればいいんで
Read more

第51話

1月10日。ついに、総合リハーサルの日を迎えた。私は、朝から胸の奥がざわついて、何度深呼吸しても鼓動が速いままだった。今日は──キスの練習。氷室様と、唇を重ねるなんて。想像しただけで、頬の内側がじんわり熱くなる◇午前10時。神崎さんがリビングにやって来た。「お二人とも、おはようございます」「おはようございます、神崎さん」いつもの挨拶。けれど今日は、言葉の間に微妙な間があった。神崎さんも、どこか落ち着かない様子だ。ソファに座る氷室様は、背筋を伸ばし、硬い表情をしている。冷静な仮面の奥に、張り詰めた緊張が垣間見えた。「では……今日は、総合リハーサルです」神崎さんは一瞬、視線を泳がせてから続ける。「手を繋ぐ、会話する、そして……」一拍置いて。「キス、の練習をします」その言葉が、部屋の空気を一瞬で張り詰めさせた。「パーティーで、キスをする場面は少ないかもしれません。ですが、もし必要になった時に戸惑わないよう、一度だけ練習しておきましょう」一度だけ。けれど、その一度が──偽物の関係を、壊してしまいそうで。「氷室様、森川さん、よろしいですか?」神崎さんが、私たちを見た。「……ああ」低く、喉の奥で響く声。「森川さんは?」「は、はい」私は、震えをごまかすように答えた。「では、始めましょう」◇氷室様が立ち上がり、私の前に来る。近い。肌と肌の間に、ほとんど隙間がない。「咲希」「はい」「もし嫌なら、断ってくれ」柔らかい声だった。「無理はしないでくれ」私は、首を横に振る。「大丈夫です」心臓
Read more

第52話

しばらくして、神崎さんがキッチンから戻ってきた。「森川さん、キスのほうはどうでしたか?」「はい……なんとか、できました」そう答えるものの、唇の熱がまだ引かない。神崎さんは、書斎のドアを見つめた。「氷室様は?」「書斎に……」「そうですか」神崎さんは、少し考え込むような表情をしたあと、小さく微笑んだ。「森川さん」「はい?」「氷室様は……とても器用な方です。感情を表に出さないことにかけては、誰にも負けません」「……」「ですが」神崎さんは、私を見た。「完璧に隠しているように見えても、必ず小さな変化があります。それは、彼が『演技』ではなく、『本心』で動いた証拠です」小さな、変化。手の震え。硬い背中。「森川さんは、気づきましたか?」神崎さんの問いに、私は頷いた。「はい……手が、少し震えていました」「そうです」神崎さんは、微笑んだ。「あの方は今、戸惑っているんです。自分の行動と、抑え込んできた感情の間で」「戸惑い……?」「はい。自分の気持ちを、認めることが怖いんでしょう」過去に傷ついて、人を信じられなくなった。だから、自分の気持ちを認めることも、怖い。「ですが、森川さんになら……」神崎さんは、私を見た。「きっと、少しずつ心を開いてくださいますよ」その言葉に、胸が温かくなった。少しずつ、焦らずに。私は、氷室様を待つ。◇しばらくして、書斎のドアが開き、氷室様が出てきた。その表情はいつもと同じ。冷静で、完璧。だけど──私には分かる。奥底で、何かが変わり始
Read more

第53話

1月11日の夜。私は、ベッドの中で何度も寝返りを打った。時計を見ると、午前1時。明日──いや、日付が変わったからもう今日だ。朝が来たら、いよいよ氷室グループの新年パーティー。氷室様の婚約者として、200名の前に立つ。緊張で、心臓がバクバクと鳴っている。目を閉じても、全然眠れない。私は、ベッドから起き上がった。温かいものでも飲もう。そう思い、リビングへと向かった。◇リビングのドアを開けると──誰かが、ソファに座っていた。「……っ」私は、思わず息を呑む。氷室様だった。ここには私たち二人しか住んでいないから、当然なのだけれど。彼は、窓の外を静かに見つめている。「氷室様?」私の声に、氷室様が振り向いた。「咲希……眠れないのか?」「はい……明日のことを考えると」私は、正直に答えた。氷室様は、少しだけ笑った。「俺もだ」その一言が、夜の静寂に溶けていく。重圧を背負っているのは自分一人ではないのだと分かり、強張っていた肩の力がふっと抜けていくのを感じた。「座ってくれ」氷室様が、隣のソファを示した。私は、腰をおろした。氷室様との距離は、1メートルほど。でも、夜の静けさの中では、とても近く感じる。「お茶、淹れましょうか?」「いや、いい。このままで」氷室様は、窓の外を見た。「夜景を見ていると、落ち着く」私も、窓の外を見つめた。東京の夜景が、キラキラと輝いている。無数の光が、暗闇を照らしている。「綺麗ですね」「ああ」氷室様は、小さく頷いた。「この景色を見ていると、自分の悩みが小さく思える」その声は、いつもより柔らかかった。
Read more

第54話

1月11日。パーティー当日の朝。私は、いつもより早く目を覚ました。時計を見ると、午前6時前。今日──ついに、この日が来た。氷室グループの新年パーティー。200名の前で、氷室様の婚約者として立つ。深呼吸をしたけれど、緊張は収まらない。私は、ベッドから起き上がった。◇朝食の準備をしていると、氷室様がリビングに現れた。「おはよう、咲希」「おはようございます」いつもの挨拶。でも、今日はいつもと違う。氷室様も、少し緊張しているように見えた。「今日は……よろしく頼む」「はい」私は、頷いた。「私も、精一杯頑張ります」氷室様は、少しだけ微笑んだ。「君なら、大丈夫だ」その言葉が、嬉しかった。◇午後2時。美波さんとヘアメイクの方が、ペントハウスにやって来た。「咲希さん、今日は完璧に仕上げますよ!」美波さんが、張り切っている。私は、椅子に座った。美波さんが、丁寧にメイクを始める。ファンデーション、アイシャドウ、アイライン。一つ一つが、私を別人に変えていく。「はい、完成です」美波さんが、手鏡を渡してくれた。鏡を見ると、別人がいた。目元がはっきりして、頬がほんのり赤く染まっている。「素敵ですよ」美波さんが、微笑んだ。「氷室様も、きっと驚かれますよ」◇髪をセットし、ドレスに着替えた。深い青のイブニングドレス。あの日、氷室様が「似合っている」と言ってくれたドレス。鏡の前に立ち、「大丈夫」と小さく呟く。「私は、氷室様の婚約者。自信を持って」首元のネックレスに触れる。雪の結晶。氷室様がくれた
Read more

第55話

高級ホテル『グランドパレス東京』タクシーを降りると、目の前には荘厳な建物が聳えていた。赤い絨毯の両脇に報道陣とカメラの列。フラッシュの光が、夜の闇を白く切り裂く。「っ……」私は、思わず立ち止まってしまった。カメラのフラッシュが、眩しい。「大丈夫。俺を見てくれ」見上げると、氷室様──いえ、蓮さんが微笑んでいる。その笑顔に、足元の頼りなさが消えていくのを感じた。「行こう」蓮さんの優しい声に導かれ、私は彼の腕に手を添えて歩き出す。「氷室社長!その方は婚約者ですか?」「お名前は?」「お仕事は何を?」矢継ぎ早に飛んでくる質問。蓮さんは何も答えない。ただ、真っ直ぐ前を向いて歩いている。私も彼に合わせて、一歩一歩。緊張で足が震える私を、蓮さんの腕が支えてくれた。私たちはエレベーターに乗り込む。扉が閉まる直前──。「立花椿さんとの関係は!?」一人の記者が、叫んだ。立花、椿──?扉が完全に閉まり、静寂が訪れた。私は、蓮さんに目をやった。彼の顔から、一瞬で血の気が引いていくのが分かった。握られた手が急激に熱を失い、氷のように冷たくなる。「蓮さん?」「……」問いかけても、返事はない。ただ、彼の指先がわずかに震えているのが、繋いだ手から痛いほど伝わってきた。「蓮さん?大丈夫ですか?」「……あっ、ああ」彼は一拍遅れてそう言ったけれど、明らかに何かある。立花椿──その名前が、蓮さんを動揺させた。一体、誰なの?不安が、胸に広がる。だけど、今は聞けない。私は、蓮さんに寄り添った。エレベー
Read more

第56話

振り返ると──。会場中の視線が、入口の一点に吸い込まれていた。深紅のドレスをまとった女性。艶やかな黒髪、白い肌。まるで、おとぎ話から抜け出してきたような美しさ。だけど、その美しさは毒を含んでいた。触れたら火傷するような、危険な美しさ。「……椿」蓮さんの声が、震えた。初めて聞く、動揺を隠しきれない声。私の心臓が、嫌な予感で激しく脈打ち始めた。椿──。エレベーターに乗る直前、記者が叫んだ名前。蓮さんの顔から血の気を引かせた、あの名前。まさか、本当に現れるなんて。「蓮、あなた、相変わらずね。人前では完璧に演じるところも」心臓が跳ねた。まさか、私たちの関係を見抜かれているの?椿と呼ばれた女性が、ゆっくりとこちらに近づいてくる。会場の人々が、道を開ける。まるで、女王様が歩いているかのように。深紅のドレスが、揺れる。その姿は、美しくて怖い。蓮さんの腕の力が、強くなった。まるで、私を守るように。それとも、自分自身を支えるために?女性が、私たちの前で立ち止まった。そして、蓮さんを見て微笑んだ。その微笑みは、美しいのに鋭い。「……椿。どうして」低い声。いつもの冷静な声だけれど、その奥に、緊張が滲んでいた。「どうしてって?」椿さんは、首を傾げた。「新年のパーティーに呼ばれたからよ」「……」蓮さんは、何も言わなかった。椿さんは、私に視線を移した。鋭い目。値踏みするような、視線。「あら。もしかして、あなたが新しい彼女?」その声は、甘いのに棘がある。新しい──?それは、まるで。昔、蓮さんの隣にいたのは自分だったと言わんばかりの口ぶり。「初めまして」私は、できるだけ冷静に答えた。「森川咲希と申します」椿さんは、少しだけ目を細めた。「森川……咲希さん」私の名前を、ゆっくりと繰り返す。まるで、味わうように。「可愛らしい方ね」その言葉は、褒め言葉には聞こえなかった。むしろ、侮蔑。まるで『こんな子が蓮の隣に?』と言っているような。私は、本能的に危険を感じた。この人は、蓮さんに何か特別な感情を持っている。そして、私を敵だと思っている。「椿」蓮さんが、口を開いた。「帰ってくれ」その声は、氷のように冷たかった。「ここは、君がいる場所じゃない」椿さんは、少しだけ眉を上げた。「冷たいのね」そ
Read more

第57話

ペントハウスに戻ると、氷室様はすぐに書斎へと向かった。「おやすみ」も言わずに。ばたん、とドアが閉まる。ついさっきまで、あんなに近くで彼の体温を感じていたのが、嘘みたいだった。彼が去った後のリビングには、ひりつくような静寂だけが居座っている。窓の外は、いつもと変わらず東京の夜景が輝いているけれど。今日は、その美しさが目に入らない。私は、ソファに座った。さっきから、ずっと胸が苦しい。あの人のことが、頭から離れない。椿さん……氷室様の、過去の人。でも、どんな過去?『昔は優しかった』って。それは、どういう意味?椿さんは、氷室様の恋人?それとも──。「……っ」あれこれ考えていると、涙が溢れそうになった。泣いちゃダメ。これは、契約。偽物の婚約なのだから。私には、氷室様の過去を詮索する権利なんてない。それなのに、胸が苦しい。氷室様のことを考えると、椿さんのことを考えると……。どうしようもなく、胸が痛い。この感情は、嫉妬?私は、椿さんに嫉妬しているの?氷室様の過去に?私は、首元のネックレスに触れた。雪の結晶。氷室様がくれた、私の宝物。『これ……つけてくれたんだな』パーティー前、氷室様が言った言葉。嬉しそうな、顔。あの時の氷室様は──本当に、嬉しそうだった。「氷室様……」小さく、呟いた。私は、あなたのことが好き。愛してる。だけど──。もし、あなたの心に、まだあの椿さんがいるなら。もし、私の入る隙間がないなら。それでも、私は──。書斎のドアが、開いた。氷室様が、出てくる。
Read more

第58話

「……」私は、何も言えなかった。氷室様は、続けた。「あいつは、優しかった。少なくとも、俺にはそう見えた」その声が、少しだけ震えた。「だが……ある日、真実を知った」「真実?」「あいつは、俺の会社の機密情報を競合他社に売ろうとしていた」「……っ」息を呑んだ。「全て、金のためだった。俺への愛情も、優しさも……全部、嘘だった。俺が愛していたのは、あいつが作り上げた虚像だったんだ」氷室様の拳が、固く握られた。「証拠を突きつけたら、あいつは何も言わずに去っていった」「……」「それ以来、俺は人を信じられなくなった」その声が、あまりにも苦しそうで。私は、胸が痛くなった。「辛かったんですね……」氷室様は、少しだけ驚いたような顔をした。「……ああ」小さく頷く。「あれから7年。もう過去のことだと思っていた」氷室様は、私を見た。「だが、今日――突然現れた。何が目的なのか、分からない」その目には、不安と恐れが滲んでいた。私は、そっと氷室様の手に触れた。氷室様は、驚いたように私を見た。「大丈夫です」私は、微笑む。「私が、あなたのそばにいます」氷室様の手が、私の手を握り返した。さっきまで冷たかった手が、少しずつ温かくなっていく。「咲希……」氷室様が、私の名を呼んだ。「君は……優しいな」その言葉が、嬉しかった。「私は……氷室様のこと、信じていますから」
Read more

第59話

1月13日。パーティーの翌朝。目を覚ました私は時計を見ると、午前5時過ぎだった。窓の外は、まだ夜のように真っ暗だ。昨夜は、ほとんど眠れなかった。頭の中で、何度も何度も椿さんのことを考えてしまう。氷室様が、初めて心を開いた人。7年前の、恋人。『俺が、人生で唯一、心から愛した女だ』って。それなのに、氷室様を裏切った人だなんて。私には、もう聞く権利はない。昨夜、氷室様は辛い過去を話してくれた。それ以上、詮索するのは失礼だ。でも、気になる。椿さんは、何が目的でパーティーに現れたの?氷室様に、まだ未練があるの?私には、少なくともそう見えたけれど……。私は、ベッドから起き上がった。考えても仕方ない。今は、いつも通りに過ごそう。キッチンへ行き、朝食の準備を始める。いつもの和食。焼き魚、味噌汁、卵焼き。氷室様の好きなもの。いつの日か覚えた、彼のプロフィールが頭に思い浮かぶ。氷室様……。私は、首元のネックレスに触れる。雪の結晶。このペンダントが、私に勇気をくれる。◇7時。いつも通り、氷室様がリビングに現れた。「おはようございます」「……ああ、おはよう」氷室様は、食卓に出されたいつもの焼き魚を、ただ見つめていた。疲れた表情。目の下に、うっすらとクマができている。昨夜は、あまり眠れなかったのかもしれない。「お疲れのようですね」「少し……あまり、眠れなかった」氷室様は、席に着いた。私も、向かいに座る。朝食を食べながら、無言が続く。いつもなら、世間話とか、何か話すのに。今日は、お互いに何も言えない。
Read more
PREV
1
...
456789
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status