All Chapters of 月給80万円の偽装花嫁: Chapter 61 - Chapter 70

91 Chapters

第60話

14時。私が約束のカフェに着くと、神崎さんはすでに席に座っていた。「森川さん」神崎さんが、ひらひらと手を振る。「こんにちは」私は、神崎さんの向かいに座った。「お忙しいところ、ありがとうございます」「いえ」神崎さんは、コーヒーを一口飲んだ。そして、真剣な表情になった。「森川さん。昨日は、お疲れ様でした」「ありがとうございます」「素晴らしかったですよ。皆さん、お二人の婚約を祝福していました」その言葉に、少しだけ安心した。「ですが──」神崎さんの表情が、曇った。「メッセージでもお伝えした通り、立花椿のことで話があります」私は、身を乗り出した。「椿さんのこと……教えていただけますか?」神崎さんは、頷いた。「彼女は今、実業家として成功しています」「実業家……」「はい。投資会社を経営していて、かなりの資産を持っています」それなのに、どうして氷室様の前に現れたの?「ですが」神崎さんは、真剣な目で私を見た。「彼女の、氷室様への執着は消えていません」「……っ」「昨夜も、わざわざパーティーに現れた。氷室様を動揺させるために」私の手が、震えた。「森川さん」神崎さんが、私の手を握った。「気をつけてください」「え?」「椿は、手段を選ばない人です」その声が、低く響いた。「あなたにも、危害が及ぶかもしれない」危害──。その言葉に、背筋が凍った。「私……どうすれば」「氷室様のそばにいてあげてください」神崎さんは、優しく微笑んだ。「彼は強がっていますが、本
Read more

第61話

『邪魔をしないでね』カードの文字を見つめたまま、私は固まっていた。差出人は不明。でも──この花束を送ったのが誰なのか、なんとなく分かる。椿さん。昨夜、パーティーで会った、あの女性。氷室様の、初恋の人。「……っ」手が、震える。これは、私への脅し?それとも、警告?私は、花束をそっとテーブルに置いた。真っ赤な薔薇。綺麗だけれど、不気味。このまま置いておくのは、嫌だった。このことは、氷室様に報告すべき?いや……氷室様は、今朝も疲れていた。昨夜、椿さんのことで動揺していた。これ以上、余計な心配をかけたくない。私は大きなゴミ袋を取り出すと、溢れんばかりの薔薇を乱暴に押し込んだ。美しいはずの真紅が、ビニールの中で無残にひしゃげていく。薔薇を袋に押し込む際に、指先に棘が刺さったけれど、胸の奥の疼きに比べれば、そんな痛みはどうでもよかった。口をきつく縛り、カードもその隙間に放り込んだ。私は、シンクの隅に追いやった袋を睨みつける。けれど、どれだけ厳重に封をしても、リビングにはまだ、あのむせ返るような薔薇の香りが微かに残っている気がした。「……これで、おしまい」震える声でそう自分に言い聞かせたけれど、喉の奥に苦い後味がこびりついて離れなかった。◇その日の夕方。私は、何かに追われるようにリビングの床を磨いていた。氷室様は、まだ会社。しんと静まり返った部屋に一人でいると、色々なことを考えてしまう。椿さんのこと、氷室様のこと。そして、私のこと。私は、氷室様の偽装婚約者。1年後には、この契約は終わるけれど──私の気持ちだけは、変わらず本物。私は氷室様のことが、好き。愛してる。でも、その『本物』の気持ちが、今は一番私を苦し
Read more

第62話

どうしよう。氷室様に、聞くべき?でも──疑っているみたいで、なんか嫌だ。【彼には隠し子がいる】先ほどのメッセージの文字が、脳裏にこびりついて離れない。以前、契約を結んだ日に彼が言っていた。アメリカでスキャンダルがあった、と。あの時は「事実無根だ」という彼の言葉を、ただの契約条件として聞き流していた。けれど、目の前にある写真の彼は、あまりにも穏やかに微笑んでいて──。その時、またスマホが震えた。今度は、着信。友人の萌花からだった。私は、慌てて電話に出た。「もしもし、萌花?」『咲希、久しぶり!元気?』明るい声。その声を聞いただけで、少し安心した。「うん……元気だよ」もちろん嘘だった。全然、元気じゃない。『うそ。声、暗いよ?何かあった?』萌花は、すぐに気づいた。さすが、親友。「実は……」私は、今日あったことを全部話した。花束のこと。匿名メッセージのこと。写真のこと。「萌花、あのね……。これは守秘義務で、本当は誰にも言っちゃいけないことなんだけど、あなたにしか相談できなくて」『わかってるって。咲希が、あの氷室蓮のところで働いてるなんて、墓場まで持ってくから。ていうかその話、完全に嫌がらせじゃん!』萌花が、驚いた声を上げた。「うん……でも、どうすれば」『咲希、それ絶対に罠だって!』萌花の声が、真剣になった。『信じちゃダメ!氷室様のこと、信じなきゃ』「でも……」『でも、じゃない!』萌花が、強く言った。『本人に直接聞いてみなよ』「え?」『あんた、もう彼のこと好きなんでしょ?』その言葉に、私は黙った。好き
Read more

第63話

氷室様の顔から、みるみるうちに血の気が引いていった。その変化を目の当たりにして、私の心臓が激しく跳ねた。まさか──本当なのだろうか。いや、そんなはずはない。でも、この動揺は一体……。私が知っている彼は、いつだって冷静で……。それなのに、今の彼は、まるで足元が崩れていくのを必死に堪えている子供のように見えた。「氷室様……?」小さく呼びかけると、氷室様はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、普段決して見せることのない戸惑いが浮かんでいる。「これは……どこで手に入れた」声が、震えていた。あの氷室蓮が、声を震わせている。それだけで、この写真がどれほど彼の心を揺さぶったのかが分かった。「今日の午後、匿名のメッセージで送られてきました」私は、正直に答えるしかなかった。「『隠し子がいる』と……そう書かれていて。この写真も一緒に」氷室様は、スマホの画面を見つめたまま、何も言わなかった。リビングの空気が、一気に氷点下まで冷え込んだ気がした。時計の針が刻む音さえも、責め苦のように響く。凍りついたような彼の沈黙に、私の不安はどんどん膨れ上がっていく。氷室様のこと信じたい。でも……もし、本当に彼に子供がいたら?もし、この写真の女性が、今でも彼の心の中にいたら?嫌だ。そんなこと、考えたくない。だけど、沈黙が長引けば長引くほど、疑念の影は濃くなっていく。「氷室様……」「咲希」氷室様が、不意に私を見た。その目は――ひどく苦しそうだった。まるで、何かを失うことを恐れているような。「君は……これを見て、どう思った?」どう思ったか──。その問いには、私の答え一つで全てが決まってしまうかのような、切迫した響きがあった。氷室様は今、私を試しているのではない。私の答えを、心から必要としている。「私は……氷室様を、信じています」
Read more

第64話

3年前──。「この女性は、上原麻衣」氷室様は、スマホの写真を指差した。「彼女のほうから、俺に近づいてきた」私は、黙って聞いた。氷室様の声には、当時の記憶を辿る痛みが滲んでいる。「彼女は……優しくて、純粋に見えた」氷室様の声が、少しだけ苦しそうになった。「それに、信頼していた秘書の妹だったからな。俺は……少し心を許した」心を、許した。その言葉が、チクリと胸に刺さる。氷室様が心を許した女性──私ではない、誰か。でも、今はそんな嫉妬をしている場合ではない。私は何も言わずに、彼の告白を聞き続けた。「ある日、彼女が『妊娠した』と言ってきた」「……っ」思わず息を呑んだ。妊娠──。その言葉の重みが、私の胸に圧し掛かる。「結婚を迫られた。彼女は泣きながら、『あなたの子どもなの』と繰り返した」氷室様の拳が、テーブルの上で固く握られた。「だが……何か違和感があった」「違和感?」「ああ」氷室様は、遠くを見るような目で窓の外を見た。「彼女の言動に、矛盾が多かった。妊娠の証拠も曖昧で、病院の診断書も見せようとしなかった。それに……」そこで言葉を切り、私を見た。「俺たちの関係は、そこまで親密ではなかったんだ」……よかった。本当に、愛し合っていたわけじゃないんだ。そう思う自分に罪悪感を抱きながらも、私の胸は少しだけ軽くなった。「それで……?」「調べた。探偵を雇って、徹底的に」氷室様は、私を真っ直ぐ見つめた。「そしたら──全て、嘘だった」「嘘……」「彼女は、競合他社が送り込んだスパイだ
Read more

第65話

しばらく手を繋いだまま、沈黙が続いた。でも、それは心地よい沈黙。氷室様の手の温もりが、私をそっと包み込んでくれる。この時間が、永遠に続けばいいのに。「咲希」氷室様が、口を開いた。「今日送られてきたメッセージ……誰からだと思う?」「……椿さん、ですか?」氷室様は、静かに頷いた。「おそらく。こういう手口は、あいつの常套手段だ」「でも、どうして……」「俺たちの関係を壊すためだろう」氷室様の声が、低くなった。「あいつは、執着深い。昔からそうだった。自分が捨てたものでも、他の誰かが手に入れることは許せない」その言葉に、私は背筋が冷たくなるのを感じた。暖房が効いているはずのリビングに、どこからか隙間風が入り込んだような錯覚に陥った。窓の外では、街路樹の枝が風に煽られ、まるで巨大な黒い影がこちらを覗き込んでいるように揺れている。私は無意識に自分の二の腕をさすり、不安を振り払おうと強く目を閉じた。「気をつけてくれ、咲希。君にも、危害が及ぶかもしれない」その言葉に、私は少し怖くなった。椿さんは一体、何をしようとしているのだろう。「大丈夫です」私は微笑んだ。「氷室様が、守ってくれますから」氷室様の目が、優しくなった。そして、少しだけ驚いたような表情を見せた。「ああ。絶対に、守る」その言葉が、力強くて。私は、ほっとした。氷室様が、そばにいてくれる。それだけで、私は何も怖くない。その時──氷室様のスマホが、テーブルの上で鳴った。神崎さんからの着信。「すまない」氷室様は、電話に出た。「神崎、どうした?」『氷室様、大変です!』神崎さんの慌てた声が、スピーカーから聞こえた。普段冷静な彼が、こんなに取り乱しているなんて。「何があった?落ち着いて話せ」『会長が
Read more

第66話

1月15日、午前10時。前夜の宣言通り、氷室様は早朝から祖父への面会を申し入れた。驚いたことに、厳造様は即座に承諾し、「二人で来なさい」と私まで呼び出された。黒塗りのタクシーが氷室本邸へと向かう車内で、氷室様は窓の外を見つめたまま一言も発しなかった。その横顔には、普段の冷静さの下に、何か決意めいたものが滲んでいる。まるで、これから戦場に向かう兵士のような──。すぐ隣に座っているはずなのに、彼との間には物理的な距離以上の、見えない壁がそびえ立っているようだった。私は何度か声をかけようとしたが、そのたびに言葉が喉の奥で詰まった。今の氷室様に、私の言葉はどこまで届くだろうか。「氷室様……」ようやく絞り出した声に、氷室様がゆっくりと振り向いた。「今日の会談では、祖父が婚約発表の詳細を詰めてくるだろう」氷室様の低い声が、静寂を破った。「俺が何とかする。君は……」そこで言葉を切り、私の方を真っ直ぐ見た。「君はただ、そばにいてくれればいい」その言葉に込められた重みに、私は何も返せなくなった。氷室様は、また一人で全てを背負おうとしている。私にできることは、本当にただ「そばにいる」ことだけなのだろうか。タクシーは、静かに氷室本邸へと向かっていった。◇氷室本邸に着くと、使用人たちが丁寧に出迎えてくれた。「若様、咲希様、お待ちしておりました」咲希様──。婚約者としてそう呼ばれるたびに、胸の奥がチクリと痛む。私は、本物の婚約者じゃない。ただの契約相手。それなのに、まるで本当に氷室家の一員であるかのように扱われることが、時々怖くなる。長い廊下を歩くたび、古い木造の床が小さく軋んだ。その音が、まるで『お前はここに相応しくない』と囁いているようで、私は自分の足元が覚束なくなるのを感じた。
Read more

第67話

「もちろんです」迷わず答えた氷室様は、私の手を取った。突然の行動に、私は驚いて彼を見る。氷室様の手は、温かかった。「咲希は、俺にとってかけがえのない存在です」かけがえのない存在──。その言葉に、胸が熱くなった。本当に、そう思ってくれているの?それとも、これも演技?厳造様は、私たちが繋いだ手を、彫像のような鋭い眼差しでじっと見つめた。まるで、皮膚の温度や脈動の乱れから、その絆が偽りでないかを選別しているような──息が止まるほどの沈黙。やがて、彼はゆっくりと視線を上げた。「ならば良い」厳造様のその一言で、張り詰めていた部屋の空気がわずかに緩んだ。けれど、それは同時に、一ヶ月後の『決戦』が確定した瞬間でもあった。「咲希さん」厳造様は、優しい目で私を見た。その視線には、孫を思う祖父の温かさがあった。「蓮をよろしく頼む。あの子は不器用でな」「はい」私は、深く頭を下げた。「精一杯、お支えします」その言葉は、嘘じゃなかった。たとえ契約でも、私は氷室様を支えたい。本当に、そう思っている。厳造様は、慈愛に満ちた表情で微笑んだ。「頼もしい。蓮も、本当に良い相手を見つけたな」氷室様は、何も答えなかった。ただ、私の手を握ったまま。その手が──ほんの少しだけ、震えているような気がした。それは、祖父を欺いている罪悪感からなのか。それとも、後戻りできない場所へ私を連れてきてしまった後悔からなのだろうか。伝わってくるかすかな振動が、彼の悲鳴のように聞こえて、私は何も言わずにその手を握り返した。◇本邸を出て、私たちはタクシーに乗り込んだ。車内は、重い沈黙に包まれていた。二人とも、何も言わない。言えない。私は、窓の外を見つめていた。冬の景色が、流れていく。「1ヶ月後……」
Read more

第68話

1月25日。婚約発表まで、あと20日。私と氷室様の偽装カップル生活は、いつの間にか日常に溶け込んでいた。最初は緊張で身体が強張っていたけれど、今では彼の気配を感じるだけで自然と笑顔になれる。いや、正確には自然すぎて、怖くなってきた。最初は演技だと割り切れていたはずなのに。今では、彼のふとした仕草や視線に、勝手に期待を抱いてしまう自分がいる。自室の鏡に映る私の顔は、契約相手に向けるものにしては、あまりにも熱を帯びすぎていた。◇朝、6時半。私は、いつものようにキッチンでコーヒーを淹れていた。豆を挽く音、お湯が沸く音。この朝の儀式が、いつの間にか私の大切な時間になっていた。氷室様のために淹れる一杯のコーヒー。それだけで、胸が温かくなる。氷室様は、まだ寝ているはず──。「いい匂いだな」「わっ!」背後から突然声がして、私は危うくコーヒーポットを取り落としそうになった。振り返ると、氷室様がすぐ後ろに立っている。あまりの近さに、彼のシャンプーの香りまで感じられるほどだった。「お、おはようございます」心臓の音が聞こえそうなほど緊張しながら挨拶すると、氷室様は少しだけ口元を緩めた。「ああ、おはよう。驚かせてしまったか」「ちょ、ちょっとだけ……」頬が熱くなるのを感じる。氷室様は、私の隣に立った。袖が触れ合うほどの距離。私の心臓は、もう限界だった。「いつもありがとう。朝から、こうしてコーヒーを淹れてくれて」「いえ、これが私の仕事ですから」「……そうか」氷室様の声が、ほんの少しだけ沈んだように聞こえた。私は彼の横顔を盗み見る。何か、言いたいことがあるのだろうか。でも、氷室様は何も言わず、ただ静かにコーヒーカップを手に取った。最近、氷室様がよく笑うようになった。前は、もっと冷たくて、近寄りがたい雰囲気があっ
Read more

第69話

午後、私たちは街に出た。冬の青空が広がっているが、風は容赦なく冷たい。吐く息が白く染まる。「手を繋ごう」氷室様が、自然な動作で私の手を取った。大きくて、温かい手。指が自然に絡み合う。この感触に、もう慣れてしまった自分がいる。慣れてしまったことが、怖い。「このくらい、自然にできるようになったな」氷室様が、満足そうに微笑んだ。「はい」そう答えたものの、繋いだ手に込めた力は、果たして「演技」の範疇に収まっているだろうか。指の隙間から伝わる彼の体温を、もっと深く、もっと近くで感じていたい。そんな、契約書には書いていない欲望が、胸の奥で音を立てていた。◇ショッピングモールに到着した私たちは、休日で賑わう店内を手を繋いだまま歩く。周りからは、きっと本当のカップルに見えているだろう。もし、本当にそうだったら──。そんな妄想が頭をよぎり、私は慌てて首を振った。「どうした?」「いえ、何でもありません」私たちは、色々な店を見て回った。ファッション、雑貨、インテリア。氷室様は意外にも、真剣にウィンドウを眺めている。「あ……」あるアクセサリーショップの前で、私の足が止まった。ショーケースの中に、細身のゴールドのチェーンに小さな月と星が揺れるブレスレットが飾られている。シンプルだけれど、夜空を閉じ込めたような美しさがあった。「欲しいのか?」氷室様が、優しい声で尋ねた。「いえ、綺麗だなと思っただけです」私は、慌てて首を横に振った。こんな高価なものを買ってもらうわけにはいかない。それに──。「買おうか?」「いえ、大丈夫です」私は、精一杯の笑顔で答えた。「見てるだけで、十分幸せですから」氷室様は、少しだけ不思議そうな顔をした。まるで、私の言葉の意味を測りかねているような。彼は何
Read more
PREV
1
...
5678910
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status