ホーム / 恋愛 / 月給80万円の偽装花嫁 / チャプター 31 - チャプター 40

月給80万円の偽装花嫁 のすべてのチャプター: チャプター 31 - チャプター 40

90 チャプター

第30話

1月1日、元日。年が明け、新年が始まった。私は朝早くから、キッチンに立っていた。おせち料理を用意するためだ。昨日から少しずつ準備していた、黒豆、数の子、田作り、紅白なます、伊達巻。それらを一つ一つ、丁寧にお重に詰めていく。実家でのお正月は、いつも忙しかった。旅館に泊まっているお客様のために、母と一緒におせちを作った。あの頃を思い出しながら、私は残りの料理を続けた。10時を過ぎた頃、氷室様がキッチンに現れた。黒いセーターに、グレーのパンツ。「おはようございます。あけましておめでとうございます」私は、笑顔で言った。「ああ、おめでとう」氷室様は、キッチンを見回した。テーブルには、おせち料理が並んでいる。「わざわざ用意しなくても……」「お正月ですから」私は、最後の一品を盛り付けた。「やっぱり、おせちがないと新年を迎えた気がしません」氷室様は、少し驚いたような顔をした。「そうか」「どうぞ、召し上がってください」◇リビングのテーブルに、おせち料理を並べた。お雑煮も作った。白味噌仕立ての、関西風。氷室様は、席に着いた。私も向かいに座り、二人で食卓を囲む。ここで初めて迎えるお正月、穏やかな時間。「いただきます」氷室様が、箸を取った。黒豆を一つ、口に運ぶ。「……美味い」小さく呟いた。「ありがとうございます」私も、箸を取った。お雑煮を一口。温かくて、優しい味。実家を思い出す。母と一緒に、よく作ったお雑煮。父が、美味しいと言って食べてくれた。懐かしい。リビングのテレビには、今朝の初日の出の様子が流れている。富士山から昇る、美しい朝
続きを読む

第31話

その夜、私は自室のベッドで天井を見つめていた。おせち料理を囲んで笑い合った時間。氷室様の「変わりたい」という言葉。そして、『君がいてくれて、よかった』という温かな声。幸せな一日だった――はずなのに。午後に盗み聞いてしまった、あの会話がすべてを掻き消していく。『婚約者を、近々紹介します』氷室様の声が、何度も頭の中で響く。無意識に、首元のネックレスに触れた。クリスマスに彼がくれた雪の結晶。「君に似合うと思って」あの時、私はこのペンダントが特別なものだと思ってしまった。二人だけの、何か。……馬鹿みたい。氷室様には婚約者がいる。それは喜ぶべきことで、当然のこと。私はただの家政婦。彼の人生という舞台に、立つ資格なんて最初からない。「っ……」頭では分かってる。嫌というほど、分かってるのに。窓の外、冬の夜空に星が瞬いている。新年の夜。すべてが新しく始まる夜なのに、私の心だけが暗い。明日、神崎さんから「大切な話」を聞く。一体、何を言われるんだろう。――もしかして、婚約者の話?私が家政婦として、どう振る舞うべきかの説明?それとも……もう、ここには来なくていいと?不安が、喉元まで這い上がってくる。逃げるように目を閉じたけれど、眠れない。何度も寝返りを打つ。知らない女性の顔が、頭に浮かんでくる。美しくて、聡明で、氷室様に相応しい人。上品な笑顔で、彼の腕を取る姿。幸せそうに微笑む氷室様。婚約者の手を優しく握る氷室様――。その光景を想像した瞬間、胸の奥が引き裂かれそうになった。「……やだ」小さく呟いた声が、暗い部屋に消える。どうして、こんなに苦しいの?どうして、息ができない
続きを読む

第32話

1月2日の朝。私は氷室様と並んで、タクシーの後部座席に座っていた。目的地は氷室本邸――氷室様の祖父、厳造様のお屋敷。新年の挨拶に伺うのだという。でも、いまいち納得がいかない。「あの、氷室様……」私は、恐る恐る口を開く。「なぜ、私も同行することに?」「祖父に会わせたい」短い答え。それ以上は何も言わない。祖父に、会わせたい?家政婦を?意味がわからなかった。氷室様は窓の外を見たまま、それ以上何も語らなかった。◇タクシーが停まったのは、重厚な門構えの前だった。黒い瓦屋根。立派な門松。まるで時代劇の世界だ。門が開き、長い石畳の道を進んでいく。両脇には手入れの行き届いた日本庭園。松の木の濃い緑と、池の静かな水面が、この家の歴史を物語っていた。玄関に近づくと――。「お帰りなさいませ、若様」黒い着物の女性たち、黒いスーツの男性たちが一列に並び、深々と頭を下げた。わかさま……。令和の時代に、本当にこんな言葉を使う場所があるなんて。ここが、氷室様の育った世界なんだ。タクシーを降りようとした時、神崎さんが私の袖を掴んだ。「森川さん」小声で、真剣な顔つきだ。「今日、厳造様に何を言われても、驚かないでください」「え?」「そして……できれば、氷室様を支えてあげてほしい。彼には、もう時間がないんです」時間がない。昨夜のメッセージと同じ言葉。「それって、どういう……」「柊吾、何をしている」氷室様の声に、神崎さんは私の袖を離した。答えは、聞けなかった。タクシーを降りると、一人の老執事が近づいてきた。「若様、お待ちしておりました」「ああ。祖父は?」
続きを読む

第33話

「……そうです。彼女が、私の婚約者です」世界が止まった。ドクン、と心臓が跳ね、耳の奥で自分の鼓動がうるさく鳴り響く。今、この人はなんて言ったの……?婚約者?私が、氷室様の!?「……嘘」小さく呟いた声は、誰にも届かなかった。離れたところに控える神崎さんをちらりと見ると、彼は驚いた様子もなく、ただ静かに……覚悟を決めたような目で私たちを見つめていた。まさか、神崎さんも知っていて私をここに連れてきたの?厳造様は、満足そうに頷いた。「ようやくか。待ちくたびれたぞ、蓮」「申し訳ございません」氷室様が、深く頭を下げる。私も、慌てて頭を下げた。だけど、頭の中は真っ白だった。どういうこと?なぜ、氷室様は否定しないの?「咲希さん」厳造様が、私の名を呼んだ。「よろしく頼む。蓮は不器用な男だが、悪い人間ではない」「あ……はい」震える声で答えるので精一杯だった。◇その後、私たちは厳造様に促されるまま、庭を散策することになった。広い日本庭園。池に鯉が泳ぎ、冬の陽光が静かに降り注いでいる。すれ違う使用人たちが、次々と声をかけてくる。「若様、おめでとうございます」「お綺麗な奥様ですね。お幸せに」奥様――その言葉が、胸に突き刺さる。嘘なのに。本当の婚約者は別にいるはずなのに。「あの……」もう我慢できなかった。「氷室様、どういうことですか?なぜ、私が婚約者だなんて……」氷室様は立ち止まり、私を見た。「すまない」「すまないって……!」声を荒げ
続きを読む

第34話

ペントハウスに戻った時、窓の向こうはすっかり暗くなっていた。東京の夜景が輝いている。いつもなら美しいと思えるのに、今日は何も心に響かなかった。『本当の、契約内容』氷室様の言葉が、頭の中で繰り返される。リビングに入ると、氷室様はコートを脱いでキッチンへ向かった。「コーヒーを淹れる」「あの、私が……」「いい。俺がやる」その声は、いつもより重い。私は、ただ黙って頷いた。コーヒーメーカーが動き出す。豆を挽く音が、静寂を埋めていく。私はソファに座り、手を膝の上で握りしめた。しばらくして、氷室様が二つのカップを持って戻ってきた。テーブルに置き、向かいのソファに座る。「飲んでくれ」氷室様が淹れてくれた、初めてのコーヒー。カップを持ち上げようとしたが、手が震えてうまく持てない。氷室様は自分のカップを手に取る。一口飲んで――ゆっくりと口を開いた。「咲希」「……はい」「俺は、君に嘘をついていた」その言葉が、胸に突き刺さった。氷室様は窓の外を見た。「祖父は、俺に結婚を迫っている。家の存続、世間体……様々な理由をつけて」「……」「だが、俺には……結婚する気がなかった。今も、ない」その声に、わずかな苦しみが滲んでいる。「3年前、アメリカでスキャンダルがあった」「スキャンダル……」「ある女性と、ホテルで同じ部屋にいたところを撮られた。罠だったが、証明できなかった」氷室様の拳が、固く握られる。「その女性は、俺の子を妊娠したと主張した」「……っ」子ども?「事実無根だ。しかし、誰も信
続きを読む

第35話

「ええ。卑怯です」正直に答えると、氷室様は少しだけ目を伏せた。「……すまない。だが、他に方法がない」私は唇を噛んだ。「もし引き受けてくれるなら、報酬は上乗せする。月給150万でどうだ」「え……」「足りないか。なら200万」「そういう問題じゃ……」私は混乱していた。頭の中が、ぐちゃぐちゃになっている。金、金、金って。私の誠意も、この家で過ごした時間も、彼にとっては全て数字で解決できるものだったんだ。目の前のこの人は、私を「心を持った人間」として見ていないの?「君の家族のことも、考えた」氷室様は、続けた。「旅館の修繕費。父親の薬代。全て、俺が負担する」「……っ」「1年後、契約が終わったら君は自由だ。好きなところで、好きな仕事をすればいい」氷室様の目は、真剣だった。でも、どこか寂しそうだった。私は、言葉が出なかった。喉が詰まって、胸が苦しい。婚約者のフリ……そんなこと、私にできるのだろうか。「最終的な選択肢は、君にある。嫌なら、断ってくれて構わない」私は、カップを握りしめた。手が震えている。偽装婚約者。クリスマスのプレゼント。おせちを一緒に食べたこと。『君がいてくれて、よかった』という言葉。あれは全部、この契約のため?「咲希」氷室様が、私の名を呼んだ。「返事は、急がなくていい。だが、もし引き受けてくれるなら……俺は、君に感謝する」その言葉に、胸が痛んだ。感謝。たったそれだけ。私は、氷室様にとって――問題を解決するための、駒。「少し……考えさせてください」立ち上がった私に、氷室様は頷いた。「ああ。急がせるつもりはない」「今日は、もう休みます」私は、自分の部屋へと向かった。後ろから氷室様の視線を感じたけれど、振り返れなか
続きを読む

第36話

翌朝、1月3日。鏡の前に立った私の目は、少し腫れていた。昨夜、たくさん泣いたから。でも、その奥に宿る光は、昨日までと違う。決意の光。私は、自分の頬を軽く叩いた。「よし。行こう」氷室様に、伝えるんだ。「お引き受けします」と。そして──この1年で、偽物を本物に変える。深呼吸をして、私はキッチンへと向かった。◇朝食の準備をしながら、私は何度も心の中でリハーサルをしていた。『お引き受けします』『ただし、条件があります』どう切り出そう。どんな顔で。緊張で、手が震える。卵焼きを焼きながら、フライパンを握る手に力が入りすぎた。落ち着いて。落ち着いて、咲希。7時。リビングに、足音が聞こえた。氷室様だ。「おはようございます」笑顔で言ったが、声が少し震えていた。「ああ、おはよう」氷室様が席に着く。そして、私を見た。「昨夜は……眠れたか?」「はい。少しだけ」嘘だった。ほとんど眠れなかった。「そうか」氷室様は、テーブルに並んだ朝食に視線を移す。和食。ご飯、味噌汁、焼き魚、卵焼き、ほうれん草のお浸し。「いただきます」箸を取り、食べ始める。私も向かいに座ったが、喉が詰まってご飯が飲み込めない。静かな朝食の時間。でも、昨日までとは違う空気。なかなか言い出せないまま、氷室様が食べ終えた。「ごちそうさま」「お粗末さまでした」氷室様は、立ち上がった。でも、すぐには出て行かなかった。私を見ている。「咲希」「はい」私も立ち上がった。心臓が、激しく鳴っている。「昨夜の話だが……決めてくれたか?」来た。
続きを読む

第37話

「氷室様の秘密を、全て教えてください」「……なに?」氷室様の声が、低くなった。明らかに警戒している。今まで見せてくれていた穏やかな空気は一瞬で消え去り、そこには氷室グループを率いる冷徹な若き首領の顔があった。「好きな食べ物、嫌いなもの、趣味、過去……」私は、氷室様の鋭い目を見据えた。ここで引いてはいけない。「そして、3年前のアメリカでのこと。あのスキャンダルの、本当の真相も」瞬間、氷室様の顔色が変わった。氷室様の瞳の奥に、触れられたくない過去への鋭い拒絶が走る。それは、土足で踏み込まれることを極端に嫌う、傷ついた獣のようでもあった。「……どうして、そんなことを聞く」「昨日、お話しされましたよね」私は、逃げ出したい衝動を抑えて真っ直ぐに言った。「でも、全部は聞いていません。本当は何があったのか。どうして今も、あなたを苦しめているのか。……氷室様が一人で、どんな暗闇を歩いてきたのかを」氷室様は、固く拳を握りしめた。その端正な顔が、苦痛に歪む。彼にとって、あのスキャンダルは単なる不祥事ではなく、信じていた何かに裏切られた、血を流し続けている傷口なのだ。「……そこまで、知りたいか。俺の醜い部分も、弱さも、すべて」「はい」私は、迷わずに頷いた。「婚約者のフリをするなら、氷室様の痛みを知らないと演じられません。本物のカップルなら、相手の傷も知っていて当然ですから」氷室様は、長い沈黙の後、深くため息をついた。張り詰めていた糸がふっと切れたように、彼の肩から力が抜ける。「……分かった」私を捉える視線が、わずかに潤んだように見えた。「少しずつ、話そう。今すぐには無理だが……君になら、話してもいいと思える」「ありがとうございます」私は、安堵とともに深々と頭を下げた。彼が私を「信じよう」としてくれたことが、何よりも嬉しかった。
続きを読む

第38話

『契約書を作り直そう』そう言って、氷室様は書斎へ向かった。私は、その背中を見つめた。氷室様の肩が、少し震えているように見えた。3年前のことを思い出して、苦しんでいる。私は、拳を握りしめた。大丈夫。私がそばにいる。氷室様は、一人じゃない。◇しばらくして、氷室様が新しい契約書を持って戻ってきた。それをテーブルに置く。「読んでくれ」私は、契約書を手に取った。***【婚約者契約書】期間:本日より1年間報酬:・月給80万円(家政婦業務)・追加報酬月20万円(婚約者役)・契約終了時ボーナス500万円業務内容:・氷室蓮の婚約者として外部に対して振る舞うこと・氷室家の行事、会食、パーティー等への同行・メディア対応(必要に応じて)条件:・誠実に役割を演じること・どちらかが辛くなった場合、即座に契約解除可能・守秘義務厳守特記事項:・契約終了後、森川咲希の実家旅館修繕費200万円を氷室蓮が負担・父親の医療費を契約期間中、氷室蓮が負担***私は、息を呑んだ。追加報酬月20万円。ボーナス500万円。そして──旅館の修繕費と、父の医療費。全て、氷室様が負担してくれる。「これは……」「君が『ただの飾りではない』と言ったからな。報酬で釣るような真似はもうしない」「氷室様……」「だが、家族のことは心配しなくていい。君の『誠実な仕事』に対する、正当な対価だと思ってくれ」その言葉に、胸が熱くなった。彼は、私の言葉をちゃんと聞いて、私の尊厳を守ろうとしてくれている。「ありがとうございます」私は、ペンを手に取った。手が震える。これ
続きを読む

第39話

「まず、君に俺のことを知ってもらう」氷室様は、ソファに座った。「好きなもの、嫌いなもの、趣味、過去」そして、私を見た。「本物のカップルなら、相手のことを知っていて当然だ」私も、氷室様の向かいに座った。「はい、そうですね」氷室様は、少し考えてから口を開いた。「まず、好きな食べ物」「……はい」「和食が好きだ。特に、君が作る卵焼き」その言葉に、胸が温かくなった。私の卵焼きを、気に入ってくれていたんだ。「嫌いなものは、採用面接で君が当てた通り、甘いものだ。特に、和菓子の餡は昔から苦手で……」氷室様は、少し困ったように眉を下げた。「ケーキなら付き合いで一口は食べられるが、それも君の観察通り、自ら進んで選ぶことはない」氷室様は、淡々と語る。「趣味は読書。ジャンルは問わないが、ミステリーが好きだ」「ピアノは……弾かれないんですか?面接の時、指を見て当てたはずですが」氷室様は少し驚いたように、自分の指先を見つめた。「……よく覚えていたな。最近は忙しくて触れていないが、気が向いた時にだけ弾くことがある。今度、君が希望するなら……聴かせてやってもいい」「はい、ぜひ!楽しみです」私が身を乗り出すと、氷室様は不意に視線を逸らした。耳たぶが、ほんの少し赤くなっているように見えた。私は、メモを取り始める。婚約者として、知っておくべきこと。「休日は?」「ほとんど仕事だ。だが、時々美術館に行く」「美術館……」「人が少ない平日の午前中に。静かに絵を見るのが好きだ」氷室様の意外な一面。私は、もっと彼のことを知りたくなった。「ご家族は…&helli
続きを読む
前へ
1234569
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status