All Chapters of 名家の恥と捨てられた娘は、契約結婚先で花開く: Chapter 301 - Chapter 310

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 強風が建物を揺らすたびに、実加の肩が強張った。「大丈夫ですか、実加さん」 翔吾が隣に座り、声をかけた。「……平気だ。ちょっと風の音がうるせえだけだ」 実加は強がって見せたが、その声はかすれている。呼吸のリズムが不自然に乱れていた。 いつも威勢のいいヤンキー娘の面影はない。 暗闇と逃げ場のない密室という状況が、彼女の精神をじわじわと削り取っている。「チビ……怖がってねえかな……」 実加の口から、消え入りそうな声が漏れた。 翔吾は眼鏡を押し上げ、毅然とした口調で答える。「シッターさんの家は、最新の免震構造と自家発電システムを備えたマンションだとデータにあります。理玖君の安全は、確率論から言っても100パーセント保障されています」「……確率論とか、そういうのいいから」「事実を述べているだけです。あなたも、無駄な心配で体力を消耗するのは非効率ですよ。……この地域よりも、東京の方が台風の被害予想が軽い。停電も起きていないようです。何も心配はありません」 憎まれ口を叩くような翔吾の物言いに、実加は少しだけ顔を上げて小さく息を吐いた。「相変わらずだな、お前。……でも、なんかちょっと落ち着いたわ。サンキュ」 少しだけ空気が和らぐ。 その時だった。 ――バキィィィィィッ!! 風の音を圧倒するように、とてつもない轟音が響き渡った。 巨大な金属がねじ曲がり叩きつけられるような、破壊の音。 古い木造のせせらぎ亭が発する軋みとは、全く異なる異音だ。「な、なんだ今の音!?」 実加が弾かれたように顔を上げる。 従業員たちが一斉にざわめいた。「すごい音だった」「まさか土砂崩れ?」「でも、金属が曲がるような音だったけど」 翔吾
last updateLast Updated : 2026-05-09
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「ヒッ……!」 仲居の1人が悲鳴を飲み込む。「だ、誰だ!? こんな嵐の夜に!」 板前が懐中電灯を手に立ち上がった。 雨と風の轟音に混じって、外からくぐもった声が聞こえてくる。「開けろ……! 頼む、開けてくれ!」 翔吾と実加は顔を見合わせた。 2人は同時に立ち上がり、玄関へと走った。 分厚い木製の引き戸に手をかけ、力を込めて横へスライドさせる。 戸が開いた瞬間、凄まじい風圧と雨粒がロビーに吹き込んできた。 ランタンの炎が激しく揺らぐ。「うわっ!」 実加が顔を庇う。 外の暗闇の中から、数人の男たちが転がり込むようにしてなだれ込んできた。 男たちは皆、高級なスーツや作業着を泥水で真っ黒に汚していた。髪からは雨水が滝のように滴り落ちている。 バランスを崩し、濡れた床にずるずると座り込む者。 壁に肩を預けて荒い呼吸を繰り返す者。 飛来物が当たったのか、額から血を流している者もいる。「おい、大丈夫か!」 番頭が駆け寄り、男の1人に肩を貸す。 翔吾は、男たちの中心にいる人物から目を離せなかった。 2人の部下に両脇を支えられながら、荒い息を吐いている男。 つい先日この宿を「泥舟」と嘲笑い、圧倒的な資本を見せつけて去っていった男。 グラン・ヘリックス日本支社長、御子柴玲二だった。 御子柴の濃紺のオーダースーツは泥まみれになり、無惨に破れている。 髪は雨で顔に張り付き、かつての隙のない姿は見る影もない。 しかし瞳の奥にある鋭い眼光だけは、決して失われていなかった。「……御子柴」 翔吾の口から、低い声が漏れた。 御子柴が顔を上げる。 暗いロビーで、2人の視線が激しくぶつかり合った。「……こんなボロ宿に、世話になるとはな」 御
last updateLast Updated : 2026-05-10
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294:嵐の夜2

 開け放たれた玄関から、冷たい雨のがロビーへ容赦なく吹き込んでくる。 ランタンの炎が激しく揺らめいて、壁に映る人影を映し出していた。 御子柴玲二は泥と雨にまみれ、肩で息をしている。 先日までの自信と傲慢さは、どしゃぶりの雨で洗い流されてしまったかのようだ。 黒崎翔吾は彼らを見下ろしたまま動かなかった。 脳内では、目まぐるしく計算が繰り返されている。(備蓄の米、根菜。カセットコンロのガスボンベ。これらは、僕たちが数日間生き延びるためのリソースだ。追加で4名を受け入れれば、生存可能期間は一気に40パーセント減少する) 翔吾の瞳の奥で数字が弾き出される。 相手はこの宿を潰しにきた宿敵だ。情をかける理由など、論理のどこを探しても見つからない。「……館内へ招き入れることはできません」 翔吾の声は、風の音に負けないほど低く冷たかった。「は?」 御子柴の隣にいた部下が、驚きの声を上げる。「現在、当館は孤立しており、資源は限られています。部外者を受け入れる余裕はありません。経営的にも、生存戦略としても、極めて非合理的な選択です」 翔吾は眼鏡を中指で押し上げ、続けた。「ですが、さすがに人命救助を放り出すわけにはいきません。裏の物置なら雨風はしのげます。あとは毛布くらいは貸し出しましょう。嵐が過ぎるまで、そこで耐えてください」(これが僕に出せる最大限の妥協案だ。これ以上は、せせらぎ亭の安全を脅かす) 御子柴が薄い唇を噛み締めた。 濡れた前髪から滴る雨水が、彼の険しい顔を伝う。「……フン。泥舟の分際で偉そうな口を叩く。情けを乞うつもりはない。だが私の命に何かあれば、君たちの雇用主……黒崎隼人への政治的ダメージは計り知れないぞ。災害の現場で助けを求めた人間を見殺しにした、と」「死にはしませんよ。物置であれば雨風も飛来物も防げる。今の僕には、目の前の資源管理の方が優先順位が高い」 2人の間に一
last updateLast Updated : 2026-05-11
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 実加は鬼のような形相で続ける。「そんなの、アタシの辞書にはねえんだよ! 喧嘩の時だって、弱ってる奴に追い打ちはかけねえぞ!」 実加の叫び声は、腹の底から絞り出されたような力強さがあった。 彼女の大きな瞳には、翔吾に対する純粋な憤りが見て取れる。「てめえ、人の命がかかってる時まで計算かよ! そんなに数字が大事か!?」「……計算しなければ、全員が共倒れになる。それがあなたの望みですか?」「共倒れになんてさせねえよ! ウチが自分の分を削ってでも、こいつらに食わせてやる! だから、今すぐ中に入れろ!」「感情論でリソースは増えません」 翔吾が反論しようとした時、一際大きな雷鳴が轟いた。 全員が思わず黙り込むほどの大きな音だった。 地響きとともに、せせらぎ亭の建物がみしみしと音を立てる。「翔吾さん」 小夜子が、静かな足取りで2人の間に入った。 彼女は騒ぎ立てることもなく、ただ御子柴の部下の1人に視線を向けた。 その男は飛来物が当たったのか、怪我をしたようで左足を引きずっている。顔面を蒼白にさせていた。「彼らの状態を見てください。あの物置では、この冷え込みに耐えられません。最悪、命に関わります」「……ですが、総支配人」「窮地にある方を救うのは、ホテルマンのプライド以前に、人としての義務です」 小夜子は一歩前に出て、力強く言った。「サンクチュアリの総支配人として、そしてせせらぎ亭の女将として、私は彼らの受け入れを決定します。皆様、どうぞ奥へ。すぐに乾いたタオルを用意させます」「助かった……」 御子柴の部下の1人が弱々しく言った。(小夜子さんがそう言うなら、僕に拒否権はない。……だが、資源の枯渇はどうするんだ? 嵐が長引けば共倒れになるだけなのに) 翔吾は不満げに口をつぐんだ。 実加は「最初からそう言
last updateLast Updated : 2026-05-11
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 ロビーの中央では、小夜子が御子柴と向き合っていた。 御子柴は浴衣に着替えたものの、寒さのせいか、それとも極度の緊張のせいか、膝の上に置かれた指先が青白く硬直していた。「失礼します」 小夜子が救急箱を広げて、消毒液を浸したガーゼを取り出した。 彼女は御子柴の額にある傷を、一切の迷いなく拭い始める。「……チッ」 御子柴の口から、微かな声が漏れた。 彼は痛みに耐えるように奥歯を噛み締めている。小夜子の手つきは驚くほど優しく、そして淀みがない。 翔吾は少し離れた場所から、その様子を観察していた。 あんなに冷酷で、最新のAIや圧倒的な資本で武装していた男が、今はただの一人の無力な人間に見える。 小夜子の指先が触れるたび、御子柴の肩が小さく跳ねる。(どんなに偉そうなことを言っても、結局は血の通った人間なんだな。寒ければ凍えるし、怪我をすれば痛がる。……当たり前のことなのに、なぜか不思議な気分だ) 翔吾は自らの内にあった敵意が、妙な形に波打つのを感じていた。 そこへ奥から香ばしい出汁の匂いが漂ってきた。「はいよ! 出来立てだ。熱いうちに食いな!」 板前が、カセットコンロで熱せられた大きな土鍋を運んできた。 蓋を開けた瞬間、真っ白な湯気が立ち上って大地の香りがロビー全体を満たした。 それは先日集めた『里山の宝物』の残りを使った雑炊だった。 細かく刻まれた原木椎茸と甘みの強い大根、彩りの良いカブの葉。それらが、透き通った出汁の中で宝石のように輝いている。 ぐつぐつと湯気の立つ鍋は、いかにも美味しそうだ。「……何だ、これは。せせらぎ亭は物資不足ではないのか?」 御子柴が、警戒するように土鍋を見つめた。(物資不足を知っている。やっぱりこの前の業者の差し止めも、御子柴の仕業か) 翔吾は苦い思いを抱きながらも、表情にでないように注意した。「雑炊ですよ。この山で
last updateLast Updated : 2026-05-12
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「生き返る!」「ああ、芯から温まるよ」 彼の部下たちも、むさぼるように雑炊をかき込んでいる。 翔吾も自分の分の茶碗を手に取った。 一口食べると、出汁の深い旨味が五臓六腑に染み渡る。 極限状態だからこそ食事の温かさは価値を持つ。 どんなに高度な計算式を積み上げても導き出せない、温かな満足感だった。 ◇  夜更けになった。 雑炊で人心地ついた御子柴たちは、配られた毛布にくるまって少しずつ落ち着きを取り戻していた。 御子柴はランタンの灯りを見つめたまま、ふと口を開いた。「……なぜ私を助ける」 その声はかつての威圧感を失い、どこか虚ろだった。 小夜子が手を止めて、彼の方を向く。「君の義弟の言う通り、物置に追いやって切り捨てればよかったはずだ。そうすれば君たちはより効率良く嵐がすぎるのを待てる。……ビジネスとしては、それが正解だ」 御子柴の問いに、翔吾も耳を傾けた。 自分の信じていた「論理」を、敵に突きつけられた気分だった。 小夜子はくすりと微笑む。穏やかだが迷いのない瞳で答えた。「目の前の1人を救えない人間に、大勢のお客様を幸せにすることはできません」「……何?」「私たちはホテルマンです。命を預かり、寛ぎを提供するのが仕事です。たとえ相手が誰であろうと、窮地にある命に最善を尽くす。それが、私たちの掲げる最高の『効率』――いえ、『プライド』です」 小夜子の言葉には一切の妥協がなく、信念が感じられる。「ホテルはお客様の家。家にいる家族を、どうして見捨てることができましょうか。少しでも安全に、安心して過ごせるように力を尽くす。それ以外にありません」 御子柴は絶句した。 彼は何かを言い返そうと口を開きかけたが、結局何も言わず、空になった雑炊の器をじっと見つめ続けた。(&hell
last updateLast Updated : 2026-05-13
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 外では依然として台風が猛威を振るい、雨粒が窓を激しく叩き続けている。 窓の外は真っ暗で、この嵐がいつ終わるのかも分からない。 しかしランタンの小さな灯りに包まれたせせらぎ亭のロビーには、不思議な連帯感が生まれていた。 敵対していた者たちが今は同じ屋根の下で、同じ温かい食事を分け合い、肩を並べて夜を明かそうとしている。 翔吾は毛布にくるまって浅い寝息を立てる実加や、疲れ切って目を閉じる御子柴たちを静かに見つめた。(僕の計算式は、徹底的にリソースを節約し、敵を排除することで『目先の生存確率』を最大化しようとした。だがもしあの時、彼らを物置に追いやっていたらどうなっていた?) 翔吾の脳内に、もう1つのシミュレーション結果が浮かび上がる。 一時的に物資は守られたかもしれない。 けれども見殺しに近い行為に加担したことで、実加との信頼関係は大きな亀裂が入っただろう。 従業員たちの心には拭い去れない罪悪感が残ったはずだ。 彼らは人間の熱と信頼を大事にして、チームを結束させてきた。 それが敵とはいえ人を見捨てたとあれば、せせらぎ亭のチームは、嵐が去る前に内部から瓦解していたに違いない。(小夜子さんの示した『目の前の命を救う』という信念。それは一見、非効率でリスクの高い選択に見えた。しかし、その高いプライドを全員で共有し貫き通したことで、我々の組織はどんな予測不能な脅威にも揺るがない、強固な結束を手に入れたんだ) 数字で守れるのは、物理的な箱と資源だけだ。 しかし人間の持つ確固たる信念と誇りは、その箱の中にいる人々の心を守り抜く。結果的に組織全体の生存力を極限まで高める最大の防御力となる。 自分の信じていた非人間的で無機質な論理の限界と、小夜子が体現した「おもてなしの真髄」。 翔吾はその方程式の答えを、今、確かな実感として心の底から理解していた。(目の前の命を救う。お客様の安全を守る。ここにいていいのだと、「居場所」を提供する……) 彼はかつて、どこにも居場所を見つけられないで
last updateLast Updated : 2026-05-13
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299:新しい朝

 激しい嵐の夜が明け、朝になった。 まさに台風一過。昨夜の猛威が嘘のように、せせらぎ亭の周辺には眩しい朝日が降り注いでいた。 雲一つない青空の下、鳥のさえずりが山の木々から聞こえてくる。 木漏れ日がきらきらと輝いて、木の葉に溜まった雨粒を光らせている。 嵐はすっかり過ぎ去った。 せせらぎ亭の里山は、美しい風景を取り戻していた。「うおおおっ! すっげえ、屋根も壁も無事だぞ!」 山内実加が、玄関前で歓声を上げた。元気よく水たまりを飛び越えている。 黒崎翔吾もタブレットを片手に外へ出て、建物の外観を鋭い視線でチェックする。 瓦が数枚ズレて落ち、庭の木の枝が折れている箇所はあるものの、致命的な損傷はどこにも見当たらなかった。「日本の伝統的な木造建築は、強風や地震の力を柳のように受け流す柔軟性を持っています。事前の補強データと照らし合わせても、建物の耐久性は見事に機能しましたね」「眼鏡の若旦那の言う通りだ! 俺たちが昨日、米の字に貼ったテープのおかげで窓ガラスも1枚も割れてねえ!」 番頭が作務衣の袖をまくり上げ、誇らしげに胸を張る。 仲居たちも「よかった、本当に無事だったのね」と顔を見合わせて、安堵の笑みを浮かべていた。「せせらぎ亭は無事だった。でも……」 翔吾は視線を山の斜面へと移した。 木々の隙間から見えるグラン・ヘリックスの巨大リゾート建設現場は、一夜にして瓦解していた。 2階建てプレハブ事務所は、土台のコンクリートだけをむき出しにして、建物そのものが丸ごと消滅している。 最新の資材で組み上げられて、非常に頑丈だったはずなのに、だ。 周囲の斜面には、飴細工のようにねじ曲がった太い鉄骨が散らばっている。 バキバキにへし折られた外壁パネルや、引き裂かれたグラン・ヘリックスのロゴ入り防音シートが、数百メートルにわたって散乱していた。(ひどい有様だ……) あまりの惨状に、翔吾は思わず息を吐き出した。
last updateLast Updated : 2026-05-14
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 朝のロビーには、胃袋をわし掴みにするような良い香りが充満していた。「さあ、炊き立てだ! 火傷しないように気をつけて食ってくれ!」 板前が巨大な土鍋の蓋を開けると、もうもうとした真っ白な湯気が立つ。周囲には米の甘い匂いが弾けた。 彼は冷水で濡らした掌に粗塩をすり込み、艶やかに光る熱々のご飯をすくい取る。 米粒を決して潰さないようもに手早く、けれど空気を含ませるようにふんわりと、見事な手つきで三角に結んでいく。 表面にはうっすらと塩の結晶が光り、湯気を立てる大きめの塩むすびが、次々と大皿の上に積み上げられていった。 その横では、実加が大きな鍋の前でお玉を握っている。「はいよ、熱々の味噌汁! 冷えた体にはこれが一番効くからな!」 実加がたっぷりと注いだお椀の中には、出汁を吸って飴色に透き通った柔らかな大根と、鮮やかな緑色を残したカブの葉がゴロゴロと入っている。 カツオと昆布の濃厚な出汁に、地元特産の甘めの麦味噌が溶け合い、五臓六腑に染み渡るような深い香りを漂わせていた。「ほらよ、あんたも食いな」 実加が、御子柴玲二の前に塩むすびと味噌汁を置いた。 御子柴は毛布にくるまったまま、ロビーの椅子に座っていた。あれから結局、部下たちとロビーで一夜を明かしたのだ。 彼は無言のまま、ゆっくりと手を伸ばした。 温かいお椀を両手で包み込み、一口すする。 出汁の旨味と味噌のコクがじんわりと広がった。 続いて、大振りな塩むすびにかぶりついた。 米の一粒一粒が立っており、噛むほどに広がる優しい甘みを、粗塩のキレのある塩気が完璧に引き立てている。(……米と塩、それに根菜の味噌汁。ただそれだけのものが、これほど体に染み渡るとはな) 御子柴の喉仏が上下に動く。 極限状態を乗り越えた体に、温かい食事が強い生命力となって行き渡っていくのが分かる。(……悔しいが、美味い) 彼は自分の完全敗北を、その温もりとともに噛み締めていた。
last updateLast Updated : 2026-05-14
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301

 玉砂利を踏みしめる複数の車のタイヤ音が近づき、せせらぎ亭の門の前に3台の黒いワゴン車が停車した。「……我が社の緊急車両だろう。手回しが早い」 御子柴は安堵とも疲労ともつかない息を吐き、立ち上がった。 グラン・ヘリックスの危機管理チームならば、自社のトップを救出するために道路が開通した瞬間に一番乗りで駆けつけて当然だ。 彼がそう確信して玄関へ向かおうとした時のことだった。 先頭の車のドアが音を立てて開き、磨き上げられた革靴が的確に地面を踏みしめた。 降りてきたのは、御子柴の部下ではなかった。 嵐の爪痕が残る泥だらけの風景とは完全な対極にある、一切のシワもないスリーピースの高級スーツ。 高身長で均整のとれた体躯から放たれる、周囲の空気を一瞬で支配するような圧倒的なオーラ。 男はカフスボタンに軽くと触れて身なりを整えると、鋭くも底知れぬ深さを持つ瞳で、せせらぎ亭の建物を、そして玄関口で呆然と立ち尽くす御子柴を見据えた。「兄さん……いえ、黒崎社長!」 翔吾が弾かれたように声を上げる。 アーク・リゾーツ社長、黒崎隼人だった。 隼人の後ろの車からは、彼が自ら手配し、最速で駆けつけたアーク・リゾーツの精鋭スタッフたちが、大量の飲料水や食料、毛布などの救援物資を次々と下ろし始めていた。 それを見たせせらぎ亭の従業員たちが、歓声を上げる。「道が開通したと聞いて、急いで物資を積んで来たが……どうやら、皆無事のようだな」 隼人はロビーを見渡し、最後に、汚れた浴衣姿で立つ御子柴へと視線を定めた。「これは驚いた。グラン・ヘリックスの日本支社長殿が、うちの宿で寛いでおられるとは」「……嫌味な男だ。相変わらずな」 御子柴は忌々しげに顔をしかめながらも、言い訳を一切せずに隼人と真っ向から対峙した。「私の負けだ、黒崎社長」 御子柴の言葉に、番頭や板前たちが絶句する。
last updateLast Updated : 2026-05-15
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