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第4話

Author: たちばな林檎
出国までのカウントダウンが、日を追うごとに目に見えて減っていく。それなのに、肝心の離婚届にはまだ誠のサインがない。

正面から切り出しても、きっとはぐらかされるだけだ。だから私は、昔の自分なら絶対に選ばなかった方法を選ぶしかなかった。

その日、私はわざとシルクのキャミワンピに着替えた。

露出多め、誠好み。

ソファにゆるくもたれ、これ見よがしな甘えたポーズで誠の隣に身を寄せる。スマホを自撮りモードに切り替えて、誠との距離ギリギリの曖昧なカットを何枚も撮った。

すべて撮り終えたあと、それをまとめて花音に送りつけた。

狙いどおり、数秒も経たないうちに誠のスマホが鳴り出した。

顔をしかめた誠は、通話を切ろうとする。その手を押さえて、私はそのまま通話ボタンをタップした。

「ゆい……?」

驚いたように、誠が私を見る。

私はまっすぐ見返して、やさしく言った。

「出てあげて。もしかして、急用かもしれないし」

誠は少し黙り込んでから、通話をミュートに切り替えた。何かを言いかけては、私の表情を確かめるように口を閉じる。その動きを、何度も繰り返した。

私が静かなまま彼を見つめていると、誠はようやく観念したように息を吐いた。

「……ちょっと電話出てくる。すぐ戻るから」

私はテーブルの上のポテチをつまみながら、「うん」とだけ答える。

目はテレビのほうを向いていても、耳は完全に廊下のほうに向いていた。

壁越しに、花音の泣き声がずっと続いているのが分かる。それに対して、誠は根気強く、優しく何かを言い聞かせている。

電話がやっと切れた頃、誠は気まずそうな顔で部屋に戻ってきた。

私が先に口を開く。

「何かあったなら、そっち優先でいいよ。無理に付き合ってなくても平気だから」

「本当に怒ってない?会社だって、やっと軌道に乗ってきたとこでさ……」

言い訳の続きは、最後まで聞いてあげたくない。

「分かってるよ。大変なのも、忙しいのも。……だから、行ってきて」

私が遮るように言うと、誠はそれ以上何も言えなくなる。ドアに向かう前、ふいに振り返って、真面目な顔で告げた。

「ゆい、一週間だけ時間をくれ。一週間で全部片付けるから。

終わったら休み取って、前から言ってたあの雲ヶ丘市に、一緒に旅行に行こう」

……

まだ両親が生きていた頃、私たちはしばらくの間、雲ヶ丘市で暮らしていたことがある。

だからあの街は、私にとって半分「故郷」みたいな場所だ。

誠と付き合い始めてから、何度も「あの街に一緒に行ってみたい」と口にしてきた。そのたびに返ってきたのは「今は仕事が忙しいから」「落ち着いたらな」という曖昧な答えだけ。

けれど、私は知っている。

花音のSNSのタイムラインには、誠と一緒に雲ヶ丘市を旅行していた写真が、ちゃんと残っている。

そういえば、一週間後には、花音のお腹の子ももう妊娠三ヶ月のはずだ。つまり、そろそろ安定期に入る頃だ。

お腹の子が落ち着いて、やっと余裕ができたから──

私との旅行の約束なんてものも、切り出してきたのだろう。

そんなの、もう今さらだ。

俯いたまま笑って、私は形だけ頷いた。

誠が家を出て、しばらくすると、さっそく花音からメッセージが届いた。

【どれだけ色気振りまいたってムダだよ。誠が選ぶのは、結局私だから】

そんなつまらないことに、返事をする気にはなれなかった。代わりに、誠がまだ移動中のうちに、花音に電話をかけた。

「花音。沢村家の奥さんになりたいのね?

一つ頼み事を聞いてくれたら、ちゃんとその席、譲ってあげる」

受話器の向こうからは、弾んだ声がそのまま返ってくる。花音は、それを隠そうともしない。

私が約束を反故にしないか不安だったのだろう。誠が着いたとたん、彼女は二人のラブラブ写真を、ひっきりなしに送りつけてきた。

ベッドの上。

レストラン。

ホテルのロビー。

送られてくる写真を、私は黙々と保存していった。

夜十時過ぎ、誠は予想どおり、酒臭い息を吐きながら帰ってきた。玄関を開けるなり、ふらつく足取りで私に抱きついてくる。

「ゆい、本当にごめん……俺、ゆいのこと大好きだからさ……」

けれど、その首元に残るキスマークや、シャツのよれ具合が、どこで何をしてきたかを雄弁に物語っている。

それでも私は、いつもとは違って、穏やかに彼の背中を撫でた。

「うんうん、知ってるよ。誠はやさしいもんね」

予想外の反応だったのか、誠の目にじわっと涙が滲む。

「ゆいはさ、ほんとにいい子だよな……

君が欲しいって言うなら、空の星だって取ってきてやるよ」

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが静かにカチリと噛み合った。

——今だ。

テーブルの引き出しから一枚の書類を取り出し、子どもをあやすみたいな声で誠に言う。

「じゃあ、これにサインして?」

疑いもせず、誠はペンを取る。ふらつく指で、離婚届に自分の名前を書き込んだ。

ペンを置いたところで、誠はようやく違和感に気づいたようだ。

「これ……何の紙?」

私は素早く書類を取り上げ、そのまま封筒に滑り込ませる。

「さあ?小切手みたいなものだよ。

ほら、星を取ってきてくれるって約束してくれたでしょ?これがその証拠」
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