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第2話

Autor: たちばな林檎
誠は振り返りもせず、相変わらず私の肩にもたれたまま答えた。

「二次会はパス。ゆいの『お薬タイム』だから、今日は一緒に帰る」

亮太が、分かりやすく舌打ちをする。

「ほーら!やっぱ出たよ、嫁第一宣言。はいはい、愛妻家お疲れさま」

それ以上突っ込まず、亮太は勝手に去っていった。おそらく、そのまま二次会に向かったのだろう。

ちょうどそのとき、私のスマホが震えた。

画面に浮かんでいたのは、たった二行のメッセージ。

【今夜誠はどっちか、当ててみる?

『お薬タイム』で素直に帰る?それとも、私と遊びに来る?】

私の視線は、そこで固まった。

足が止まったのに気づいたのか、誠が顔を寄せてくる。

「ゆい?どうした」

慌てて画面を消して、私は何でもないふりで笑ってみせた。

「ううん、何でもない。泥棒猫からの挑発メッセージが来ただけ」

「……は?」

誠の眉がぴくりと寄る。

私の手の中のスマホを取ろうと、彼の指先が伸びてきた、その瞬間。

今度は、誠のスマホが鳴り出した。耳に刺さる、聞き覚えのある音。

あれは花音専用の着信音だ。

私は自分のスマホを、わざと彼の目の前に差し出した。

「こっちは見たい?それとも電話に出る?」

見上げた先で、誠の目がかすかに震えた。そして甘えるみたいに、私の首筋に顔をすり寄せてきた。

「ゆい……いじめないで」

私はその頭を押し返し、平坦な声音で告げた。

「電話、ずっと鳴ってるよ。出てみたら?」

ようやく誠は体を起こし、「ちょっと外で」とでも言いたげに口を開きかけた。

しかしその言葉を聞く前に、私は先に店の入口へと向かった。そこには、すでに運転手が待機していた。

誠の目に、一瞬だけ驚きが走った。

けれど、電話の向こうから聞こえてきた甘い声に、彼の表情はすぐにいつものものへと戻っていく。

車の中から、ガラス越しにその様子がはっきりと見えた。

その目は、さっきまで酔っていた人とは思えないほど、きらきらと輝いていて、しっかりとした光を宿していた。

視線を窓から引き剥がし、私は胸の奥に湧き上がる痛みを飲み込んだ。

今夜、誠が家に帰ってくることはない。そんな確信だけが、妙に冷静に胸の底へと沈んでいった。

案の定、通話が切れた直後、またメッセージが届いた。

【はーい!ゆいさんの負け。

今の誠が一番大事にしてるのは、やっぱり私とこの子だから】

読み終わった瞬間、涙が一筋、頬を伝った。

ちょうど同じタイミングで、反対側のドアが開いた。車内に入ってきた誠が、私の顔を両手で掴み、彼のほうへ向かせた。

「もしかして、泣いてる?どうした?」

その声音は、いつもと同じ優しい夫のものだった。だからこそ、胸が軋む。

深く息を吸い込んで、私はまぶたを伏せた。

目の奥に滲んだ色を隠しながら、できるだけ何でもないように言った。

「ちょっと……疲れただけ。今夜くらいは、一緒に帰ってくれる?」

誠は、安心させるみたいに笑って、私の頭をくしゃっと撫でた。

「俺だって、本当はゆいと帰りたいよ。でもさ、会社で急用が入っちゃったんだ。

できるだけ早く片付けて戻るから。機嫌直して?な?」

そう言いながら、私の頬にそっと顔を寄せてきた。

指で彼の唇を制し、私は視線を外に向けた。

「亮太が動画撮ってるよ。後でネタにされてもいいなら、そのままでもいいけど?」

ドアガラスの向こうで、亮太がスマホを構えてニヤニヤしているのが見える。

肩を押して誠を車から追い出すと、私はすぐにロックをかけて、運転手に声をかけた。

「早く出して」

車が動き出してまもなく、今度は私のスマホが鳴った。

表示された名前は、花音。

通話ボタンを押した途端、耳にまとわりつくような甘ったるい声音が響いた。

「ねえ、ゆいさん。誠とキスするって、気持ちどうだった?

あの人ね、実は私のこと、ぜーんぶキスしてくれたんだよ。額から──」

その先は言葉にならなかった。代わりに、喉の奥で笑い声だけがくすぶり続けた。

震える指で通話を切り、「路肩に停めてください」と運転手に言った。

指はひどく震えているのに、自分でも驚くほど、その声音は妙に静かだった。

車を降り、近くのガードレールにつかまって、すべてをひっくり返すみたいに、私は吐いた。

……

日付が変わっても、誠が帰ってくる気配すらなかった。

スマホの画面を何度も点けては消したが、通知欄に新しいメッセージが増えることはなかった。

花音からの挑発も、それきりだ。

つまり、そういうことなんだろう。

二人で、今ごろ気持ちよくベッドをきしませている。

「……だよね」

自分の口からこぼれた声は、驚くほど乾いていた。

ベッドから降りると、裸足のままクローゼットの前にしゃがみ込んだ。誠からもらったプレゼントを、一つひとつ取り出していく。

どれもこれも、見ただけで値段が分かるようなものばかりだ。

そう。付き合い始めた頃から、ずっとそうだった。

私が少しでも長く見ていただけで、欲しいなんて一言も言わなかったものまで、誠は次々と買ってきて、私の前に並べていった。

「結衣が好きそうだったから」

その一言が、当時の私には世界で一番甘い言葉に聞こえていた。

私はきっと、この世界で一番幸せな女なんだって。

──本気で、そう思っていた。

しかし今、その幻想は跡形もなく崩れている。

私はスマホを取り出し、宅配便アプリを開いた。一週間後に到着するように、集荷の予約を入れた。

段ボール箱の中には、かつて「愛の証」だと信じていた高価な品々。

その送り先の欄に、私は花音の住所を打ち込んだ。
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