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愛の果ては、他人でした
愛の果ては、他人でした
Author: たちばな林檎

第1話

Author: たちばな林檎
友だちとの飲み会。

私は沢村結衣(さわむら ゆい)。テーブルの向こう側で、夫の友人、相原亮太(あいはら りょうた)がふいにフランス語を口にした。

「なあ、お前が外で囲ってるあの子さ、もう妊娠二ヶ月だろ。どうするつもりなんだ?」

その問いを向けられた相手、そして私の夫でもある沢村誠(さわむら まこと)は、ほんの少し口元を上げただけで、顔色ひとつ変わらなかった。「外で囲ってるあの子」というのは、恐らく坂井花音(さかい かのん)のことだ。

まるで聞き慣れた天気の話でもしているみたいに、私の皿に刺身を乗せてくる。

その手つきのまま、同じくフランス語でさらりと言った。

「ゆいは子ども嫌いだからさ。花音にはちゃんと産ませて、子どもごと海外に出すつもり。俺の跡継ぎってことで取っておくよ」

噛みしめたエビは、もう何の味もしない。ただ頬を伝うものだけが、やけに熱い。

「ゆい、どうした?」

すぐ隣で、慌てた東国語の声が響く。そっと涙を拭ってから、私はいつもの笑顔を無理やり貼りつけてみせた。

「このピリ辛ソース、ちょっと効きすぎたみたい」

本当は、しょっぱい醤油の味しかしない。

辛いのは舌じゃなくて、胸の奥。

涙の理由はただひとつ。

──私は、フランス語が分かる。

誠は、もう忘れてしまったのかもしれない。

私の専攻がフランス語だったこと。

そして、彼がフランス語を覚えた理由が、「私を落とすため」だったことも。

そこまで思い出したところで、私は現実に引き戻される。

顔を上げると、誠がテーブルに片肘をつき、じっとこちらを眺めていた。

「ボーッとして、何考えてた?」

視線だけ返して、言葉は飲み込む。代わりに、レモンティーのポットに手を伸ばして、自分のカップに注ごうとした。

しかしポットは、ふいに横からさらわれる。

「こういうのは自分でやることじゃない。言ってくれればいいんだ」

当然のようにレモンティーを注ぎながら、彼はいつもどおりの優しい夫を演じている。

向かいの席で、亮太が頬を押さえながら大げさに唸った。

「なあ、バカップル。人前でイチャつくの、そろそろ犯罪なんじゃない?独り身には刺激強すぎてさ、歯が浮くんだけど」

誠はちらりと彼を睨み、口の端だけで笑った。

「うちは嫁至上主義なんで、今さらだろ?嫌なら黙って食ってろ」

「へいへい、ごちそうさまーー俺は黙って飯食ってるから、続けて続けて」

口では素直に降参してみせながら、亮太の目は「これはいい見世物だ」と言っていた。

少しだけ顎を上げて、私は誠を見やった。

この瞳には、前みたいな柔らかさなんてもうみじんも残っていない。

けれど、それに気づく人は……

誰もいない。

誠は、いつもと同じように身を乗り出し、私の唇に軽くキスを落としてきた。

「どうしたの?そんなに俺のこと見つめて……もしかして、惚れ直したの?」

「うん、そうかもね」

私は笑ってそう答えてから、さらりと続ける。

「こんなに私を愛してくれてる人が、本当に一途かどうか、ちゃんと見極めておこうと思ってね」

一瞬だけ、彼の瞳が揺れる。

その動揺の色は、彼が飲み込んでしまう前に、たしかに見えた。

それでも彼は、すぐに表情を整える。次に向けられた視線は、溺れそうになるくらい甘かった。

「そんな冗談やめて。俺は、ゆいがいないと生きられないんだ」

その言葉と同時に、私の手が彼の胸元へと押しつけられた。

伏し目がちに笑い、私がそっとその手を引き抜いた。

──なんだ。ちゃんと覚えているではないか。

昔、私が言ったあの言葉を。

……

彼の告白を受け入れたあの日、私が出した条件はひとつだけだった。

裏切らないこと。

「もし、君の浮気に気づいたら、私は絶対に許さない」

慌てて私の手を握りしめた彼は、必死にこう誓ったのだ。

「俺は何年もかけて、やっとゆいを手に入れたんだ。絶対に悲しませるようなことはしない。もしそんなことしたら、俺は死ぬまで独りぼっちでいい!」

そういえば、この顔のせいなのか、「好きです」と言ってくる人が一度も途切れたことはなかった。

誠も、私と初めて会った瞬間から「この子を落とす」と決めていたらしい。

それでも、初恋で徹底的に傷ついた私は、ずっと「恋」というものを避けながら生きてきた。

そんな私のガードを、時間をかけて根気よくこじ開けてきたのが、彼だけだった。

もしかしたら、誠だけは、他の人とは違うのかも……

だから、一度だけ。

一度だけ、彼にチャンスを与えた。

それなのに、四ヶ月前、彼が外に若い女の子を囲っていることを、私は知ってしまった。

「誠だけは」と信じていた私の最後の支えが、音もなく折れた。

もっと泣き喚いて、責め立てて、取り乱すと思っていた。

けれど実際の私は、驚くほど静かだった。

静かに彼の隣に座り続けた。

静かに、彼という存在への依存を削っていった。

静かに、自分一人のための人生設計を練り直した。

あと一週間。

フランス行きのビザが下りるまで、残り七日。

それさえ手に入れば、私は誠から離れ、自分だけの新しい生活を始められる。

……

食事を終える頃、すっかり酒が回っていた誠は、私の肩にぐったりともたれかかっていた。

「そろそろ……帰ろっか」

ふらつく彼を支えながら店を出ると、背後から亮太の声が飛んできた。

「二次会、行かねえの?みんなはもう揃ってるぞ」
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