All Chapters of 妊娠中に追放された皇太子妃ですが、無骨な武将に溺愛されています: Chapter 41 - Chapter 50

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42. 戻るべき場所

宮城へ近づくにつれ、空気が変わっていった。都の街路にはまだ火事の騒ぎが残っている。桶を抱えて走る者、戸を閉める者、空を見上げながら不安げに囁き合う者。人々は混乱していたが、それでもなお、“日常の延長”として振る舞おうとしていた。だが宮城だけは違う。高い城壁の向こう側から、すでに戦の気配が漏れ出していた。怒号。警鐘。駆け回る兵の足音。普段なら厳格な静けさに包まれているはずの宮門は、今や崩れかけた堤のように騒然としている。楚凌は、その石段を一気に駆け上がった。背中が痛む。火傷した皮膚へ汗が染み込み、走るたび焼けるような熱が広がる。だが、その痛みがかえって意識を研ぎ澄ませていた。門兵たちが一斉にこちらを振り向く。その顔へ、驚きが広がる。「楚凌将軍――」反射的に出た呼び名だった。男は慌てて言い直す。「……楚凌殿!」楚凌は何も答えない。だが、その呼び名を否定もしなかった。宮門をくぐった瞬間、混乱の熱気が一気に押し寄せてくる。兵が走っている。伝令が叫んでいる。泣きながら奥へ逃げていく宮女たちの衣が、慌ただしく視界を横切った。遠くでは黒煙が立ち昇り、火の粉が夜風へ舞っている。火は、すでに宮城内部へ回っていた。「何が起きている」楚凌は近くを走っていた兵の腕を掴む。兵は息を乱したまま答えた。「南側の倉庫が燃えております! それに、宮中へ賊が紛れ込んだと――」「黄色い布か」兵の目が見開かれる。「な、なぜそれを……」やはりそうだ。楚凌の胸の奥で、嫌な予感が確信へ変わる。反乱は、もう宮中へ入り込んでいる。その時だった。奥から怒号が響いた。「違う! 南門を閉じろ!」別方向では、別の声が飛ぶ。「北門の兵が足りません!」「伝令が戻りません!」命令が錯綜していた。誰もが動いている。だが、その動きが繋がっていない。楚凌は周囲を見回した。兵たちの顔には焦りが浮かんでいる。何を優先すべきか分からなくなっているのだ。その光景を見た瞬間、身体が勝手に動いていた。「西側通路へ兵を回せ! 火が広がれば内殿まで燃えるぞ!」低い声が回廊へ響く。場が、一瞬静まった。楚凌自身、その瞬間まで自分が命令を発したことに気づいていなかった。だが兵たちは反射的に動いた。「はっ!」「西側へ回れ!」「急げ!」人が一斉に走り出す
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43. 揺らぐ玉座

正殿は、すでに戦場だった。広間の中央には大きな地図が広げられ、その周囲を武官と文官たちが慌ただしく行き交っている。伝令が駆け込み、怒号が飛び、火急文書が次々と机へ積み上げられていく。誰もが声を張り上げているのに、不思議と空気は重かった。焦りが、場そのものへ染み込んでいる。「南側倉庫の火勢、未だ収まらず!」「西門付近で暴徒化した民が兵と衝突しております!」「北側へ送った伝令が戻りません! 城壁上の兵とも連絡が取れぬと――!」報告が飛び交う。その中心に、景炎は立っていた。机へ両手をつき、広げられた地図を見下ろしている。顔色は悪い。目の下には深い影が落ち、唇の色も薄くなっていた。だが、その目だけはまだ死んでいない。「北側城門の兵を増やせ。王都の門は閉じたまま維持しろ。民は外へ出すな」景炎が低く命じる。すぐに武官の一人が顔を強張らせた。「ですが殿下、このまま王都の門を閉ざせば、火を恐れた民がさらに暴れます!」「開ければ景衡軍が雪崩れ込む」短く言い切る。その声音には、迷いがなかった。武官は言葉を呑み込む。周囲にいた者たちも、顔を見合わせながら沈黙した。景炎は視線を地図へ落としたまま、さらに続ける。「城下の火災は囮だ。混乱を広げ、門を開かせるためのものだろう。避難経路を限定しろ。民衆の流れを一方向へ絞れ。兵を分散させるな」静かな声音だった。静かすぎるほどに。だが、その静けさが逆に場を支えていた。武官たちは慌ただしく散っていく。景炎は、その背を見送りながら小さく息を吐いた。肺が重い。香が、まだ身体へ残っている気がした。雪瓔を斬った瞬間の感触が、今も掌にこびりついて離れない。血。柔らかな肉を裂く感覚。そして。――子を斬ったわね。あの声。景炎は一瞬だけ目を閉じた。頭の奥が鈍く痛む。雪瓔の言葉が、今も耳の奥へ残っている。もう子はできない。毒が身体へ染み込み、血脈は絶たれたのだと。ならば。蘭珠の腹にいる子だけが、自分の子になる。景炎の喉が、かすかに動く。どうして、信じなかった。あれほど真っ直ぐに自分を慕っていた女を。薬に侵され、思考を歪められていたとはいえ、どうして最後まで蘭珠の言葉を聞こうとしなかったのか。楚凌と何もないのだと、涙を堪えながら訴えていたあの女の顔を思い出すたび、胃の奥が焼けるように痛
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44. 門番の目

正殿の広間は、一瞬だけ静まり返った。血と煤にまみれた楚凌の姿を前に、誰もが言葉を失っている。背中の衣は焼け焦げ、肩からは血が滴っていた。火傷と斬り傷、その両方を負いながらも、楚凌は背筋を伸ばしたまま景炎を見据えている。景炎は静かに楚凌を見つめた。「……生きていたか」短い言葉だった。だが、その一言には安堵と、自責と、さまざまな感情が滲んでいた。楚凌は深く頭を垂れる。「ご心配をおかけしました」「蘭珠は」景炎は、それ以上堪えられなかった。皇太子としてではない。一人の男として、口を開いていた。楚凌は一瞬だけ目を伏せる。「紙問屋の屋敷へ避難しております。医師も診ておりますので、命に別状はございません」景炎は小さく息を吐いた。その吐息は誰にも気づかれないほど静かだったが、張り詰めていた肩からわずかに力が抜ける。生きている。その一言だけで十分だった。だが、その安堵は長く続かなかった。すぐに景炎の表情は引き締まり、皇太子の顔へ戻る。「報告を」楚凌は頷こうとした。その瞬間、足元がわずかによろめく。「楚凌殿!」侍医が慌てて駆け寄る。「まず傷の手当てを! このままでは――」楚凌は首を横へ振った。「後で構いません」「しかし!」「今を逃せば、さらに多くの血が流れます」その一言で、侍医は言葉を失った。肩から流れた血が床へ落ちる。それでも楚凌は気にも留めず、広げられた王都の地図へ歩み寄った。武官たちが自然と道を開ける。誰も命じていない。だが、その背中には、人を従わせるだけのものがあった。楚凌は地図の一点を指差した。「こちらです」細い路地が複雑に入り組む、西側の一角だった。「水路沿いで、不審な集団を発見しました」景炎は黙って耳を傾ける。「町人に紛れておりましたが、動きが不自然でした。互いに距離を取りながらも、目配せだけで意思を通じ合わせていたのです」「黄色い布か」景炎が低く問う。「はい」楚凌は頷いた。「腕に黄色い布を巻いていました。同じ布を巻いた者同士で連絡を取り合い、放火を繰り返しております」正殿がざわつく。武官の一人が声を上げた。「では、やはり城下の火事は!」「すべて計画の内です」楚凌は静かに答える。「狼煙を上げ、民を混乱させ、門へ押し寄せさせる。そして、その隙に景衡王爺軍を王都へ招き入れ
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45.  罠の門

「……続きを聞こう」景炎の言葉が落ちると、先ほどまで怒号に満ちていた正殿は、再び静まり返った。敵を王都へ入れるなど、常識では考えられない。武官たちの顔には反発と疑念が浮かんでいたが、景炎が楚凌の話を聞くと決めた以上、誰もそれ以上声を荒らげることはできなかった。楚凌は地図へ視線を落とし、西側の小門を指したまま口を開く。「この門は、城外から運び込まれる荷を通すために使われています。人の出入りを想定して造られたものではなく、道幅も狭い。一度に通れるのは、荷車一台か、横に並んだ二人ほどです」指先を小門の内側へ移していく。「門を抜けた先には、荷を改めるための細長い区画があります。両側は高い石壁で囲まれ、正面にはもう一枚、内側の門がある。そこを閉ざせば、外から入った者は前にも後ろにも進めません」景炎は地図へ目を落とした。王都の外壁に設けられた小門と、その内側にある細長い検分所。敵が押し寄せても、一度に入り込める人数は限られるうえ、中の様子は城外からほとんど見えない構造になっている。「敵を、そこへ閉じ込めるのか」「はい。ただし、最初から討つつもりはありません」楚凌がそう答えると、武官の一人が怪訝そうに眉をひそめた。「では、何のために入れる」「生け捕りにします」楚凌は顔を上げ、正殿に集まった者たちを見渡した。「今、我々が把握しているのは、黄色い布を目印にした者たちが王都の内部で動いていることと、景衡王爺軍が城外に待機していることだけです。誰が門を開く手筈になっているのか。どの合図をもって景衡軍が動くのか。陸曜将軍がどこに布陣しているのかまでは、分かっておりません」陸曜の名が出た瞬間、正殿の空気がわずかに重くなった。景衡は皇族であり、反乱軍に正統性を与える旗印ではある。だが、臆病で決断力に欠けるあの男が、ここまで周到な軍略を自ら組み立てたとは考えにくい。実際に軍を動かし、王都の内応者と連絡を取り合っているのは陸曜だろう。景炎もまた、その可能性を考えていた。「陸曜を失えば、景衡は軍をまとめられぬ」低く呟くと、楚凌は深く頷いた。「私もそう考えております。王爺は反乱の旗にはなれますが、戦を指揮する男ではありません。陸曜将軍を捕らえるか、少なくとも指揮から引き離すことができれば、景衡軍は大きく揺らぎます」「だが、最初に小門へ来るのは雑兵であろう
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46. 静かな夜

侍医が楚凌の肩へ新しい包帯を巻き終える頃には、正殿の空気も少しずつ落ち着きを取り戻していた。怒号が消えたわけではない。だが、それは混乱から生まれる悲鳴ではなく、命令を伝え、兵を動かすための声へ変わっている。景炎は地図を前に立ったまま、武官たちへ次々と指示を飛ばしていた。「西の荷門は平時どおりの警備を続けろ。門番を総入れ替えするな。黄色い布を巻いた者を見つけても、こちらから捕らえる必要はない。監視だけに留め、決して敵へ異変を悟らせるな」「はっ!」武官たちは一斉に頭を下げ、それぞれの持ち場へ散っていく。その中で、一人の門番頭だけが足を止めた。白髪混じりの老兵は、納得できないという表情で楚凌を見る。「楚凌殿。門番にとって、門を守ることは何よりの務めです。敵が門を開こうとしていると知りながら手を出さぬなど、若い者たちは戸惑いましょう」楚凌は静かに頷いた。その気持ちは痛いほど分かる。三か月前の自分なら、同じことを口にしていただろう。「見逃すのではありません」穏やかな口調で答える。「敵が勝ったと思う、その一瞬だけ待つのです。景衡軍は内応が成功したと信じなければ動きません。ならば、その油断を利用します」門番頭は腕を組み、しばらく考え込んでいた。やがて深く息を吐くと、ゆっくり頭を下げる。「承知いたしました。若い者たちにも、そのように伝えます」楚凌は小さく頷いた。老兵が去ると、侍医が困ったような顔で包帯を結び直す。「これで終わりです。ですが、火傷も肩の傷も決して浅くはありません。どうか無理だけは……」楚凌は肩をゆっくり回した。鈍い痛みが走る。それでも腕は上がった。剣も握れる。「十分です」短く答えると、侍医は諦めたように肩を落とした。「戻られたら、今度こそ安静にしていただきます」「約束します」楚凌は穏やかに笑い、壁際へ置かれていた装束へ歩み寄る。武官の一人が恭しく将軍鎧を差し出した。「楚凌殿。こちらをご用意いたしました」銀の飾り金具が灯火を受けて静かに輝いている。かつて幾度となく戦場で身につけた鎧だった。楚凌はそれを見つめたあと、静かに首を横へ振る。「必要ありません」武官が驚いたように目を見開く。「ですが、この戦は――」楚凌はその言葉を遮ることなく、隣へ置かれていた門番の装束を手に取った。質素な衣だった。
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47. 開かれた小門

西の荷門は、火事から逃れようとする民で溢れていた。夜になっても王都のあちこちでは火の手が上がり、赤黒い煙が空を覆っている。炎が直接ここまで迫っているわけではない。それでも、人は恐怖に追われる。子どもを抱いた母親、荷を背負った老人、家族の名を叫ぶ者たちが閉ざされた門へ押し寄せ、どうか外へ出してくれと声を張り上げていた。「門を開けてくれ!」「このままでは焼け死ぬ!」「子どもがいるんだ! 頼む!」門番たちは槍を構えていたが、民へ刃を向けることなどできない。押し寄せる群衆を肩で押し返しながら、将棋倒しが起きぬよう必死に門前の空間を保っている。楚凌は少し離れた場所に立ち、その光景をじっと見ていた。身にまとっているのは将軍の鎧ではなく、いつもの門番の装束だった。腰には剣を帯びているが、背中の火傷は包帯の下でなお熱を持ち、肩の傷も動くたびに鈍く疼く。それでも、視線だけは冴えていた。見るべきものは、目の前の騒ぎそのものではない。民衆の中に紛れ込んでいる者たちだ。一人。二人。三人。腕に黄色い布を巻いた男たちが、人混みの中へ散らばっている。服装は町人と変わらない。だが、動きが違った。火を恐れている様子がない。外へ逃がしてくれと門へ殺到するでもなく、周囲の者と声を合わせて助けを求めるでもない。民衆の関心が、閉ざされた門をどうにか開けてもらうことへ集中している中で、彼らだけは門番の人数や配置、小門へ続く脇道、警備の薄い場所を注意深く窺っていた。楚凌は目を細める。(……やはり、ここだ)彼らは逃げようとしているのではない。門を開けようとしている。その確信は、もう揺らがなかった。「楚凌殿」隣に控えていた若い門兵が、低い声で呼ぶ。「黄色い布の者が増えております」「分かっている。まだ動くな」門兵が息を呑んだ。今なら捕らえることは難しくない。だが、ここで内応者を押さえれば、城外に待機している景衡軍へ異変を悟らせるだけだ。相手に計画が露見したと知られれば、別の門を狙うか、力攻めへ切り替える可能性もある。必要なのは、敵に勝ったと思わせることだった。その時だった。群衆の中央から、突然大きな声が上がる。「門を開けろ!」黄色い布を腕へ巻いた男だった。「俺たちを閉じ込めて殺すつもりか!」その声に、恐怖で張り詰めていた民衆が一斉に反応する。「
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48. 青い狼煙

伝令が正殿へ向かって走り去ったあとも、西の荷門を取り巻く騒ぎは収まらなかった。第一陣を捕らえたことに気づいているのは、作戦に加わった兵たちだけだ。大門の前では相変わらず民衆が外へ出してくれと訴え、黄色い布を巻いた者たちがその不安を煽っている。遠くでは火の手が上がり、夜空を赤く染めていた。楚凌は、手の中にある小さな煙筒へ目を落とした。――荷門確保後、青煙二筋。短い書付には、それしか記されていない。第一陣の役目が荷門の確保なら、青い狼煙はその成功を知らせる合図と考えて間違いないだろう。しかし、その後に何が起きるのかまでは分からない。次の部隊が荷門から入ってくるのか、それとも内応者が大門を開くまで外で待機するのか。陸曜がどこまで前へ出てくるのかも、まだ分からなかった。「楚凌殿」声をかけられ、楚凌は顔を上げる。先ほど捕虜の収容を命じた門兵だった。「捕らえた者はすべて拘束しました。内通していた兵も別にしております」「死者は」「おりません。矢を射かけようとした者が一人、取り押さえる際に腕を負傷した程度です」「そうか」楚凌は小さく頷いた。敵兵を生かして捕らえられたのは大きい。だが、喜んでいる暇はなかった。城外の敵からすれば、第一陣を送り込んでからそれほど時間は経っていない。今ならまだ、計画が予定どおり進んでいると思っているはずだ。時間を置きすぎれば、逆に怪しまれる。「楚凌殿!」今度は別の声が飛んできた。振り返ると、正殿へ送った伝令が息を切らしながら戻ってくるところだった。「殿下よりご命令です」男は楚凌の前で膝をつく。「青い狼煙を上げることを許す。ただし、敵の動きを確認するまで大門は決して開くな。西側の守備については、引き続き楚凌殿の判断に任せる、と」景炎らしい命令だった。楚凌の策を認めながらも、王都そのものを賭ける最後の一線だけは越えさせない。「承知した」
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49. 白旗三度

青い狼煙が二筋、夜空へ立ち昇った。王都の西側では、なお火の手が上がっている。赤黒い煙の向こうに混じる青はひどく異様だったが、それこそが敵にとっては待ち望んでいた合図だった。楚凌は城壁の上から、城外に並ぶ松明を見つめていた。やがて、その一角が動く。「来ます」隣にいた門兵が低く告げる。暗闇の中から、まとまった兵の列がこちらへ進み始めていた。先頭に数騎の馬があり、その後ろを歩兵が続いている。人数はおよそ三百。第一陣よりはるかに多いが、城外に残された本隊全体が動いたわけではない。陸曜は、まだ慎重に様子を見ている。楚凌はそう判断した。「大門前の民は」「すでに別の通りへ誘導しております。火から離れた場所へ避難させました」「よし」楚凌は城壁を下りる。西の大門へ向かう間にも、門番たちは慌ただしく動いていた。だが、その動きは城外から不自然に見えぬよう抑えられている。内応者の一部はすでに捕らえていたが、敵にはまだ知られていない。今夜、最も重要なのはそれだった。相手に、こちらが何も気づいていないと思わせる。そして、勝利したと思わせる。大門の前へ着くと、楚凌は巨大な扉を見上げた。この門を開く。将軍だった頃なら、敵兵が目前に迫る中でそんな命令を出す自分など想像もしなかっただろう。だが、門番となった今は違う。門は閉ざすためだけにあるのではない。人を通し、止め、その流れを変えるための場所でもある。毎日ここへ立ち続けたからこそ、どこまで開けば隊列が滞らず、どこへ誘導すれば城外から姿が見えなくなるのかも分かっていた。「開門の準備を」楚凌が命じた。門番頭の顔に緊張が走る。「全て開きますか」「敵が疑わぬ程度までだ。三百が滞りなく入れる幅を確保する」「承知しました」閂へ兵たちが取りつく。何人もの男が力を合わせ、太い木材を持ち上げる。重い音が響き
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50. 早すぎる陣痛

紙問屋の屋敷へ移ってから、どれほど時間が経ったのだろう。蘭珠には、もうよく分からなくなっていた。外では今も騒ぎが続いている。遠くで警鐘が鳴り、ときおり人々の叫ぶ声が夜の静けさを破る。窓は固く閉ざされていたが、どこかで燃えている火の臭いが、かすかに部屋の中まで入り込んでいた。それでも、先ほどまでに比べれば屋敷の中は落ち着いている。楚凌がここを離れる前に周囲の安全を確かめ、紙問屋の者たちも蘭珠が休めるよう奥の一室を用意してくれた。さらに、しばらく前には宮中から侍医と護衛の近衛まで到着している。皇太子が寄越したのだという。それを聞いた時、蘭珠の胸には複雑なものが込み上げた。景炎が自分の身を案じている。以前なら、それだけで心が満たされたのかもしれない。あの人が自分を気にかけてくれた、その事実だけで嬉しくなり、もう一度顔を見たいと願っただろう。けれど今は、その気遣いを素直に喜ぶことができなかった。「蘭珠様、お水を」声をかけたのは、これまで身の回りを手伝ってくれていた女だった。その隣では、紙問屋の娘である芳玉も、湯や布を運びながら落ち着かない様子で蘭珠を見守っている。「ありがとうございます。でも、本当に皆さんまで付き添ってくださらなくても……」蘭珠は申し訳なさそうに笑った。「私はもう十分にお世話になっています。お屋敷まで貸していただいて、そのうえ芳玉さんまで……」「そんなことを仰らないでください」芳玉はすぐに首を横へ振った。「蘭珠様には、私の縁を取り持っていただいた御恩があります。それに、今はそんな遠慮をなさっている場合ではありません」手伝いの女も、少し困ったように笑う。「そうですよ。私は元々、蘭珠様のお手伝いをするためにおりますから」二人にそう言われ、蘭珠はそれ以上断ることができなかった。ありがたい。だからこそ、余計に申し訳ない気持ちにもなる。自分の事情で、どれほど多くの人を巻き込んでしまったのだろう。蘭珠は寝台の上で、そっと腹へ手を置いた。子は無事だ。侍医にもそう言われた。足の傷も深刻なものではなく、しばらく安静にしていれば問題ないという。だから今は、待つしかない。楚凌が戻ってくるのを。「……また」腹の奥が、きゅっと縮んだ。蘭珠は眉を寄せる。先ほどから何度か同じ感覚があった。最初は強い痛みではない。腹が硬
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51. 閉ざされる門

城外から近づいてくる騎馬の列を、楚凌は城壁の陰からじっと見つめていた。白旗を三度振ってから、さほど時間は経っていない。それでも待つ時間は妙に長く感じられた。大門は開いたまま、門前には敵兵から奪った旗が掲げられている。捕虜の装束をまとった味方の兵も、外から見える場所に数人だけ配置していた。城外から眺める限り、王都の大門は完全に反乱軍の手へ落ちたように見えるはずだった。「先頭、騎馬十数騎」隣の門番頭が低く告げる。「後方にも兵が続いております。百……いえ、それ以上かと」「本隊ではないな」「はい」楚凌は小さく頷いた。陸曜は景衡軍すべてを連れてくるつもりではない。慎重な男だ。王都の大門を確保したとの報せを受けても、まずは自ら護衛を伴って入り、内部の状況を確認する。その後に本隊を動かすつもりなのだろう。それでいい。むしろ、その方が都への被害は少なくて済む。楚凌は城壁から降りると、門の内側に配置した兵たちを見回した。誰も声を出さない。槍を握る手に力が入り、弓兵たちも暗がりの中で息を潜めている。「陸曜本人を確認するまで動くな」楚凌は念を押した。「護衛だけが入ったところで門を閉じれば、外に本人が残る。それでは意味がない」「はっ」「それから、敵が入ってきても騒ぐな。最後尾まで十分に門を越えさせろ」門番頭が頷いた。楚凌は腰の剣へ手を添えた。背中が熱い。包帯の下では火傷が脈打つように疼き、肩の傷も先ほどの戦闘でまた開いたらしい。衣の内側へじわりと血が滲んでいるのが分かった。だが、不思議と身体は軽かった。痛みを感じないわけではない。それよりも、今まで散らばっていたものが一つの場所へ集まってくるような感覚があった。将軍だった自分。門番へ落とされた自分。蘭珠を妻として迎えた自分。そのどれもが、今夜この門
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