All Chapters of 明日、私は誰かの妻になる: Chapter 131 - Chapter 140

311 Chapters

第131話

「お母さん、引き続きあの時の女の子の件も、ウォーカーヒルの件も、両方調べて」「問題はそこなの。ウォーカーヒルを調査するとなると、あのとき恩人の候補に入れていた少女のリストに、もう一人名前を加えなければいけなくなるわよ」直美が深刻な声で釘を刺した。絵美里はギリッと奥歯を噛み締めながら、その忌々しい名前を吐き出した。「西園寺茜」「そう。他の誰よりも、条件が合っているの。でもあの娘は、十四の頃から柏原家にずっといたんだから、諒助さんが知らないはずがないのよね」直美は根本的な疑問を口にした。だが、今の絵美里にはそんな細かい矛盾を気にしている余裕などなかった。今や茜の名前を聞くだけで、嫉妬と怒りで頭に血が上る。「どっちでもいいわ。あの子はもう、私にとって目障りな邪魔者なのよ。お母さん、一緒に動いて」「……わかったわ」電話を切ると、絵美里はスマホのアルバムを開いた。そこに収められたある写真を眺めながら、口の端に冷ややかな悪意に満ちた笑みを浮かべた。……翌日。茜は身支度を整え、いつも通りバス停に向かって仕事場のあるウォーカーヒル方面のバスに乗った。目を閉じて少しうとうとしようとした時、鞄の中でスマホがひっきりなしに震え始めた。疲れで重い目の端を押さえながら画面を開くと、星羅からのメッセージが大量に届いていた。【茜ちゃん、おじさんに何があったの!?おじさんの写真が、ネット中に広がってる!茜ちゃん、なんでおじさんにケーキを無理やり食べさせてるの?】「ケーキ」という文字を見た瞬間、茜の眠気が完全に吹き飛んだ。震える手でネットを開くと、「天罰」というセンセーショナルなタイトルのネットニュースがトレンドのトップに躍り出ていた。【天罰!殺人犯・西園寺雲海の獄中生活は道化そのもの!】記事には、連続で五枚の写真が並んでいた。口の周りをクリームだらけにした父の顔。頬や唇に盛られたクリームが、誰かの手によって面白おかしく渦巻き状に塗りたくられていた。滑稽なチョビ髭のような形に描かれているものもある。焦点の定まらない虚ろな目、苦しげにもがく表情――それは間違いなく、悪意を持ってもてあそばれる「道化」の顔だった。写真を見た瞬間、茜の耳の奥で鋭い耳鳴りが響いた。頭の中が真っ白になる。立ち上がろうとしたが、足
Read more

第132話

茜は、自分の手首を掴んでいる手を見た。長くて白い指が、静かに、しかし確かな力で食い込んでいる。手の甲には筋が浮き上がり、静かな威圧感を放っていた。背後に、冷え切った気配が近づいてくる。振り返らなくてもわかった。和久だ。茜が手首を動かそうとすると、和久は握る力をわずかに強めた。低く、感情を抑え込んだ声が耳元で囁かれた。「他人の過ちで、自分を罰するな」その言葉を聞いた瞬間、茜の鼻の奥がツンと熱くなり、強張っていた右手がゆっくりと弛んだ。茜は振り向いて、和久を見上げた。「和久お兄様……」和久は短く頷き、いつも通り静かに言った。「隣の待合室へ行こう」そのまま茜の手を引き、迷いなく歩き出した。茜は外に群がる記者たちのことが気になって、振り返って入口を確かめた。すると、いつの間にか停まっていたマスコミの車は、一台残らず跡形もなく消え去っていた。待合室に入ってしばらくすると、ひどく焦った様子の院長が現れた。「柏原社長、突然のお越し、大変失礼いたしました」「用件だけ話せ」和久の声が冷たく響いた。院長は茜をちらりと見てから、すぐに取り繕ったような笑みを浮かべた。「ご安心ください、ただちに写真の削除を手配いたします。ただ相手側も何らかの圧力をかけてきているようでして、少々お時間をいただくことになりますが……」この言葉の裏に何が隠されているかは、茜にもはっきりと聞こえた。「相手側の手」という言葉は、おそらく和久に対するただの言い訳に過ぎない。となれば、写真の件は諒助とも無関係ではないはずだ。すべてが、一本の線に繋がった。写真は絵美里が撮った。それがネットに上がることを、諒助が知らないはずがない。彼はそれを、ただ黙認していただけだ。病室で絵美里が雲海を弄んでいたときも、諒助は止めることなく脇で見ていたではないか。しかも、彼は和久の実の弟だ。院長は当然、和久が弟に不利な処分を下すはずがないと信じ込んでいる。結局、この写真の件は適当にうやむやにされる――そういう流れなのだ。茜は深く息を吸い、煮えくり返る怒りを必死に落ち着けながら、突破口を探した。和久が静かに目を上げ、淡々と言った。「何も言うことがないのか?この院長には、どうせ本気で動く気などなさそうだが」その言葉
Read more

第133話

目を開けたとき、茜の瞳に冷ややかな光が宿っていた。「院長、カメラは本当に故障しているんですか?」院長は茜の目も、和久の鋭い目も直視できなかった。歯を食いしばって力強く頷いた。「はい、誠に残念ですが、ちょうど故障しておりました」「そうですか、わかりました。これ以上、無理は言いません」院長がほっと息を緩めた次の瞬間、茜は冷徹に続けた。「私には、当時の会話の録音があります。確たる証拠を提供しますので、院長には直ちに写真の完全削除をお願いします。父のためであり、ひいてはこの施設の評判を守るためでもある。院長が断る理由はないと思いますが……それとも、副院長お二人を交えて、この問題を公式に協議しますか?それとも和久お兄様に、諒助さんの件を直接処理していただきますか?」精神科病棟の二人の副院長が、現在の院長の椅子を虎視眈々と狙っていないはずがない。でも、院長を本当に震え上がらせたのは、和久が直接動く可能性だった。二方向から完全に挟み撃ちにされ、院長にはもう逃げ道がない。それにしても、この若さでこれほど容赦なく相手を追い詰めるとは。院長は茜を見て、そして和久を見て、すべてを悟ったように肩を落として言った。「……わかりました。今すぐ対処いたします」「ありがとうございます」茜は院長がそそくさと出ていくのを見送った。表情は落ち着いていたが、握りしめた手のひらは冷や汗でびっしょりだった。振り返ると、和久の黒い目がまっすぐに注がれていた。和久は立ち上がり、ゆっくりと茜へ近づいてきた。一歩、また一歩と、茜を机の端まで追い詰める。少し身をかがめ、表情は静かなのに、息が詰まるような威圧感があった。「……俺の力、存分に使えたか?」茜は机の縁に手をつき、唇を噛んで黙った。院長があれほど素直に従ったのは、背後に和久が控えていたからだ。それは茜自身にも痛いほどわかっていた。和久は片手で机に寄りかかり、茜の顔にさらに顔を近づけた。低く囁くように言う。「今は、誰かに誤解されても気にしないのか?」その熱い吐息が触れ、茜は一瞬息が止まった。「あ、私は……」「喜ぶのは、まだ早い」和久は唐突に、冷水を浴びせるように言った。茜には、その言葉の真意がすぐにはわからなかった。だが数時間後、その理由が明らかになった
Read more

第134話

茜は、画面に映し出されたその身勝手なメッセージをずっと見つめていた。これまでのいくつもの場面が頭の中を駆け巡り、最後に諒助と一緒に事故に遭った、あの瞬間で止まった。あのとき、何かが決定的に壊れた気がした。今この瞬間、その欠片すらもう残っていなかった。ぼんやりとしている間も、スマホは震え続けていた。ネットの罵詈雑言がどす黒い波のように押し寄せ、茜を次々と飲み込んでいく。一人で立ち尽くしたまま、茜はそれを一つひとつ目で追った。一文字追うごとに、顔から血の気が引いていった。十四歳より前は、誰もが羨むお嬢様の暮らしをしていた。しかし十四歳を過ぎたあの日から、天国から地獄へ真っ逆さまに落ちて、他人の家に身を置きながら、何もかも自分一人の力でやるしかなかった。長い年月の間に、他人の悪意や罵倒にはすっかり慣れたつもりでいた。でも今、自分は思っていたほど強くはなかったのだと痛感した。ほんの一瞬だけ――もし、父と母がまだいてくれたなら、私を絶対にこんな風に傷つけさせはしなかったのに、と思った。そのとき、骨格のしっかりした形の良い手が、スマホの画面を上から覆い隠した。男の指の腹が画面を押さえ、無機質な光が遮断された。周囲の世界が、しんと静まり返ったように感じられた。和久は静かに目を伏せた。「それが、向こうの求める結果じゃないのか?」茜は頭を強く叩かれたように、暗い水底に沈みかけていた意識が引き戻された。和久の言う通りだ。他人の不幸を笑いものにしたがっている人間が、この世にはあまりにも多すぎる。ここで私が崩れ落ちるわけにはいかない。無実の父が、まだ私を待っているのだから。そう思い直したとき、諒助から着信が入った。和久は画面を一瞥してから、静かに手を離した。「出ろ」茜は短く頷くと、少し背を向けて電話に出た。口を開く前に、諒助の露骨な苛立ちが耳に飛び込んできた。「茜、五分だけ時間をやる。今すぐあの録音を消して、公開の場で絵美里に謝罪しろ」茜は感情を交えずに、淡々と言い返した。「拒否したら?」「名誉毀損の重さは、お前だってわかっているだろう。俺の力なら、最短でお前を刑務所へ送り込んでやれるぞ」有無を言わせぬ、傲慢な口調だった。自分がこうして助け舟を出してやっているのに、茜が素直に
Read more

第135話

とんだ笑い話だ。茜には、諒助と絵美里の恋愛ゲームの都合のいい道具になる気など、これっぽっちもなかった。「警察に届けます。通報の前に、手塚さんには公開謝罪をしてほしいと伝えてください」諒助は電話の向こうで大きく息を吸い込み、凍りつくような低い声で言い放った。「……本当にわからないやつだ。どうしてもやると言うなら、やってみろ」プツリと、通話が切れた。冷たい沈黙が、しばらく茜の耳に残った。スマホに目を落としたとき、諒助が言った「やってみろ」の真の意味がわかった。事実無根の噂に悪質な尾ひれがつき、瞬く間にネット上に拡散されていた。あまつさえ、彰人本人がその書き込みに意味深な笑顔の絵文字で反応している。柏原家の威光を借りている彼が、今の地位を失うまいと諒助に媚びを売っているのは明白だった。茜がこの四年間、血のにじむような努力で積み上げてきたものが、一瞬で崩れ去った。枕営業でのし上がった卑しい女――世間ではすでにそういうことになっていた。諒助は茜の急所を誰よりも知り尽くしており、そこへ向かって一刀、また一刀と正確に刃を突き刺してくる。過去四年間、いや、青春のすべてが、単なる笑い話として消費されてしまった。茜は目を強く瞬かせ、込み上げてくる熱いものをなんとか押さえ込もうとしていると、目の前に一杯の温かいお茶が差し出された。陶器の温もりが冷え切った指先に伝わり、ほんの少しだけ生きる力が戻ってくるような気がした。顔を上げると、深く静かな黒い瞳と目が合った。湯気の向こうで、茜の目もじわりと熱くなった。「……ありがとうございます」「ああ」和久の声は穏やかで、まったく揺れがなかった。どんな嵐を見ても決して動じない人のように。茜は俯いてお茶を飲みながら、自分は余計なことを考えすぎていると思った。自分のトラブルで、他人をこれ以上煩わせるいわれはない。一口飲んで、少しだけ感情を落ち着かせる猶予を与えた。警察に届けるなら、また新たな戦いになる。万全の準備が必要だ。茜が目を伏せて思考を巡らせていた間、和久は部屋の入口に控える若彰へ視線を向けた。その黒い瞳の底に赤黒い光が滲んだ瞬間、本物の殺意が静かに広がり、室内の空気が一段と冷え込んだ。若彰は小さく身を縮めて頷き、音もなくその場から消えた。茜が
Read more

第136話

長年諒助の傍にいた茜には、彼が打つ一手を読めば、その次の手まで鮮明に見えた。最初の一手――茜の世間的な信頼を完全に失墜させ、その声を潰す。次の一手――唯一の証拠である録音を消し去り、茜の行動を単なる「誹謗中傷」として法的に確定させる。そうなれば、茜に残された道は、諒助が用意したたった一本の道だけだ。公開の場で絵美里に謝罪し、諒助にひれ伏して頭を下げること。彼が頭が良く、同時にどこまでも自分勝手な人間であることは前からわかっていた。彼は他人に逆らわれることを極端に嫌う。ただ、以前の茜は彼を甘く見ていた。愛情が人を変えると思っていたし、諒助の冷酷な独善は、ビジネスの場でしか出ないものだと思い込んでいたのだ。自分には関係ないと。私には、あれだけ優しくしてくれたのだから。でも実際は、ずっと少しずつ、真綿で首を絞められるように、諒助の引いたレールに乗せられていたのだ。ただ今まで、茜は諒助が引いた「一線」を踏み越えたことがなかった。だから、情け深い男という仮面に騙され続けてきたのだ。彼にとってのその一線とは、絵美里のことだ。だから、絵美里の致命的な弱みを、茜の手元に残しておくはずがない。素直に証拠を差し出させるための最も確実な方法――それが、権力を使って警察を動かすことだった。見透かされた警察官は、もはや取り繕うこともやめ、冷笑を浮かべながら不遜に言った。「西園寺さん、さっき手塚さんを陥れて、今度は警察まで陥れるつもりですか?一度目の警告です。おとなしく捜査に協力してください」「力ずくで奪うつもりですか?」茜は怯まずに問い返した。「二度目の警告!」声は厳しかったが、その目の底には茜を嘲る笑いがはっきりと滲んでいた。触れてはいけない巨大な相手に触れて、身の程知らずな愚かな女を見る目だった。茜はもう一度確認した。「私を助けに来たんじゃなく、証拠を勝手にもみ消しに来たんですね?」「だったら何です?西園寺さん、三度目の警告。これより直接、実力行使に移ります」男の太い手が、茜に向かって無遠慮に伸びてきた。だが、その手が茜に触れる前に、背後から勢いよく引き捩られた。「あっ!」同僚の警察官二人が慌てて助けに入ろうとして――茜の後ろに立っている男の顔を見た瞬間、その場に凍りついたように足が止
Read more

第137話

諒助は満足そうに言った。「……それでいい」以前とまったく同じだ。茜は、何があっても最後には自分に従う。それが、自分を愛しているということの証なのだ――諒助は心からそう信じ込んでいた。茜は冷たく静かに言い返した。「他に何かありますか?なければ切ります」「公開の場で謝罪することを忘れるなよ」「忘れません。あなたも、今の言葉を覚えておいてくださいね」公開で謝罪するのがどちらになるか、まだわからないのだから。茜は電話を一方的に切った。用を済ませた警察官たちも、無言で席を立って待合室を出ていった。でも茜は、まだ気が抜けなかった。録音のデータだけでは、狡猾な絵美里を完全に追い詰めるのは難しい。彼女が「私はそんなこと言っていない」と否定し続け、諒助が裏で根回しをすれば、世間的には結局揉み消される可能性が高い。「……茜」低く、落ち着いた声が鼓膜を打った。「はい」反射的に返事をしながら、ふいに漂ってきたタバコの香りで我に返り、顔を上げた。和久が、窓際に静かに立っていた。長い指の間に火のついたタバコを挟み、窓から差し込む陽光が、立ち上る白い煙の軌跡をくっきりと際立たせていた。伏せられた冷淡な目元が、張り詰めたような美しさを醸し出していた。和久は言った。「困ったときは俺を頼っていい」静かな間が流れた。次の瞬間、和久の冷えた気配が、すっと近づいてきた。茜は少し戸惑いながら言った。「お兄様……いいんですか?」和久の端正な口の端が、かすかに上がった。声が一段低くなり、茜の耳にだけ届くように言った。「構わない」茜の胸の奥が、小さく跳ねた。それから三十分後。警察から、録音データの鑑定結果が速やかに出された――編集の痕跡なし、本物と認定された。絵美里はそこまで素早く鑑定が下りるとは予想していなかったらしく、自身のSNSに動画を上げて涙ながらに無実を訴え、呪詛を吐くかのような勢いで「あの録音は茜の偽造だ」と叫んでいた。だが、その動画が上がってから十分も経たないうちに。一本の防犯カメラの映像が、ネット中を駆け巡った。録音は嘘かもしれないと疑う者もいる。でも、映像は嘘をつけない。カメラにはっきりと映っていた当時の光景は、茜が公開した録音の音声と、恐ろしいほど完全に一致していた
Read more

第138話

会う?茜には、諒助とこれ以上話すことなど何一つ残っているとは思えなかった。でも断る間もなく、諒助はもう自分勝手に決めていた。「直接話し合おう。今、精神病院にいるんだろ?すぐ着く」「いえ――」プツリと通話が切れた。諒助の目的がまったく読めなかった。一方には、絶対的な力で自分を助けてくれた和久がいる。もう一方の壁の向こうには、ようやく危機を脱した父がいる。自分と諒助の泥沼の愛憎劇に、これ以上誰かを巻き込みたくはなかった。考えた末、茜は下の階へ行き、和久の姿を探した。「和久お兄様、先に戻っていてください」ちょうど手続きの用を済ませて戻ってきた若彰が、その言葉を聞いて信じられないという顔で茜を見た。言葉には出さなかったが、その目が雄弁に語っていた。散々助けてもらっておいて、用が済んだらポイ捨てですか?本当に薄情な……!茜は若彰の視線にぎょっとして、慌てて弁明した。「諒助さんがここへ来ると言っていまして。もし私と一緒にいるところを見られたら、諒助さんを陥れるために和久お兄様を利用したと、世間や会社に誤解を招くのではないかと思いまして」「俺を口実にして、君への追及をかわそうとするということか?」和久の口調はいつも通り淡々としていたが、その黒い目はやはり底が見えず、それでいて茜の核心を一言で射抜いてくる。茜は小さく頷いた。柏原家のドロドロとした内紛に、自分のような部外者が関わりたくはなかったのだ。でも、和久は言った。「それは、俺が決めることだ」「……」茜がその言葉の真意を考える間もなく、諒助が現れた。高級車を降りながら、スーツの襟を整えている。濃紺のスーツにサファイアのカフスボタン――絵に描いたような、傲慢な御曹司の面構えだ。茜を見ると、わずかに目を上げた。驚いたことに、その目には信じられないほど余裕の笑みが浮かんでいた。「おじさんに会えたか?」穏やかで、ひどく柔らかい口調だ。ほんの数時間前に、ネットで私を晒しものにしようとした人間とは、とても思えない。茜は黙ったまま、反射的に隣に立つ和久の横顔を見た。諒助はそこで初めて和久の存在に気づき、その目の底に一瞬、暗い光が走った。そして茜を横目で見て――責めたのだ。そう、なぜ兄と一緒にいるのかと、目で責めた。諒
Read more

第139話

営業の仕事を長くやってきて、茜は自分のことを、ある程度は図太く立ち回れる人間だと思っていた。でも今は、穴があったら入りたいくらい恥ずかしかった。和久の顔を、とてもまともには見られない。茜が抵抗を諦めたのを見て、諒助は茜の激しい動揺にまったく気づいていないどころか、その口元の笑みをさらに深めた。「兄さんは長年海外にいたからご存じないでしょうが、茜のそばにいたのは、ずっとこの俺なんだ。ちょっと痴話喧嘩があって、あいつが素っ気なくしてただけで……女心ってやつは、なかなか難しくてね」まるで、茜と今でも何か秘めた男女の関係があるかのような、見せつけるような言い方だった。確かに、以前はあった――でも、それは完全に過去の話だ。和久は静かに目を伏せて、何も言わなかった。ちょうど聡史が車を回してきて、二人の前に停めた。「行こう」諒助は自分の世界で勝手に話を進めながら、茜を抱えるようにして強引に車へ向かった。茜はもう我慢の限界で、諒助が車のドアを開けようと体の向きを変えた一瞬の隙に、ようやく口を開けた。「諒助お兄様、自分で歩けます」諒助との関係をこれ以上曖昧に誤解されたくなくて、「諒助お兄様」という呼び方をわざと強調した。二人の現在の立場を、明確にするために。諒助の動きがピタリと止まった。肩を抱く手の力がギリッと増したが、顔には笑みを保ったままだ。「……乗れ」その声の底に、ひやりとした凄みが潜んでいた。茜は素直に後部座席に乗り込んだ。諒助と決着をつけなければならないことは、確かにある。父のことだ。諒助が自分をどれほど嫌っていようとも、彼らの恋愛ゲームに父を巻き込んでほしくなかった。車が滑り出すとき、茜は窓の外から、突き刺さるような視線を感じた。何となく気が散って、諒助が横で何を偉そうに語っているのか、まったく頭に入ってこなかった。……一方、車の外。若彰は走り去る高級車を呆然と見送りながら、むしゃくしゃして言った。「ボス……西園寺さんは、本当に諒助様にほいほいとついて行ってしまったんですか?ひどすぎませんか?」和久は自身の車がある駐車場へ向かって歩き出しながら、淡々と言った。「あれは、俺に説明していたんだ。あいつを『兄様』と呼んでいただろう」若彰はその場で固まった。「ボス……正直な
Read more

第140話

怒らないでくれ、だと?諒助がその言葉を口にしたのとほぼ同時に、ウェイターが大きな花束を運んできた。茜が四年間の交際の中で、彼からただの一度も受け取ったことのない花束だった。昔、花束を贈ってほしいと諒助に頼んだことがあった。記念日に、一度だけでいいから、と。諒助はいつも「忘れていた」と言った。何度かそれを繰り返され、茜はもう何も言わなくなった。後になって、絵美里のSNSの投稿を見て気づいたのだ――諒助は絵美里に会うたびに、必ず白いバラを持って行っていたということに。忘れていたのではない。私には、したくなかっただけなのだ。二人の関係も、それとまったく同じだ。恋人らしい痕跡を何一つ残さなければ、ずっと周囲に隠れた都合のいい関係のままでいられる。諒助はいつでも、何のリスクも負わずに抜け出すことができる。今、貸し切りのレストランは煌々と明るく、ピアノの甘い音色が静かに流れ、目の前には美しい白いバラが揺れていた。まるで、恋愛ドラマのロマンチックなワンシーンのようだ。以前の茜なら、嬉しくてすぐに立ち上がり、笑顔でその花を受け取っていただろう。でも今の茜は、口元を軽く手で覆っただけで、冷ややかに言った。「白バラは、アレルギーがあって……」嘘だ。アレルギーなんてない。諒助は、それを知っているはずだ。だが諒助はほんの一瞬だけ迷う素振りを見せ、すぐにウェイターへ顎でしゃくった。「下げてくれ」「…………っ」茜はグラスの水を一口飲み、自嘲気味に笑った。やはり、私のことなど一度も気にかけてもらえたことなどなかったのだ。これ以上時間を無駄にしたくなくて、茜は真っ直ぐに諒助を見た。「諒助さん、ご自分がやりすぎたと認めるのなら、いつ手塚さんが私と父に対して公開謝罪をしてくれますか?」諒助は一瞬動きを止め、言い聞かせるような根気強い声で言った。「絵美里はただ、ああいう病気の人に興味があっただけで、ほんの少し度が過ぎてしまっただけなんだ」「殺人犯の心理に興味があるからといって、実際に自分も人を殺してみる人間はいませんよね。わざとか偶然か、あの監視映像を見たネットユーザーたちはもう十分に判断しています。諒助さんほど賢い方が、本当にそれがわからないんですか?それとも、手塚さんが満足するなら、他人の命などどうでもい
Read more
PREV
1
...
1213141516
...
32
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status