All Chapters of 明日、私は誰かの妻になる: Chapter 151 - Chapter 160

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第151話

絵美里は、ネット上で拡散され続ける動画に、苛立ちを募らせていた。どれだけ炎上を鎮めようとしても、動画は面白半分に拡散され続ける。表向きは世間を笑わせる娯楽コンテンツ。だがその実、どれも彼女の顔に泥を塗るものばかりだった。自身の体面を保つためには、諒助に頼るわけにもいかない。そこへ「茜が諒助を略奪しようとしている」という話まで耳に入り、絵美里はとうとう平静を保てなくなりかけた。あわや取り乱しそうになった、その時。スマホに小百合からのメッセージが届いた。内容を確認した絵美里の口角が、すうっと上がった。「千代さん、あなたの考えはわかってるわ。でも証拠もないことを、そう簡単には信じられないの」「必ず証拠を見つけてみせます」……スーパーで買い物を済ませた茜と星羅は、連れ立って寮へと戻った。洗顔や歯磨きを済ませ、ベッドに寝転がってスマホを開こうとした時、思いもよらないニュースの見出しが目に飛び込んできた。【野村家の御曹司・野村彰人、バーで暴力トラブルに巻き込まれ重傷!】添付された写真には、バーから担ぎ出される彰人の姿が写っていた。顔は血に染まり、両脚は完全に骨がなくなったかのように、ぐったりと力なく垂れ下がっている。身に纏うオーダーメイドジャケットがなければ、かつてあれほど羽振りの良かった彰人だとは到底信じられなかっただろう。ふと、レストランの外で耳にしたあの声が蘇った。若彰のスマホから漏れ出ていた、震えるような懇願の声。あれは彰人の声だったのかもしれない。どこかで聞いたことがあると思ったのは、そのせいか。考えがぐるぐると巡るうち、若彰が送信を取り消したメッセージのことまで頭をよぎった。和久……?まさか。茜は軽く頭を振って、その考えを追い払った。一度ひどい目に遭って、過剰に臆病になっているだけだ。今の自分に、余計な詮索をする資格などない。それに、和久のすることはすべて柏原家を守るためだ。茜はニュース画面を閉じ、タイムラインをスクロールして気を紛らわせようとした。ところが、一番上に表示されたのが和久の投稿だった。一枚の、星空の写真。その美しさに思わず見惚れかけた瞬間、茜はハッと思い出した。フォローしている天文マニアのブロガーが、今夜は流星が見えると呟いていたことを。茜は即座にベッド
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第152話

バーにて。諒助が付き合いの席を切り上げて出てきたところで、友人の彼女が空を見上げ、弾けるような声を上げた。「流れ星!お願いして、早く早く!」彼女は期待に満ちた瞳で夜空を見つめている。友人は冷めた顔で言った。「今どきそんなもの信じてんの?」彼女はぎろりと彼を睨んだ。「私が信じてるんだから、あなたも信じるの。そうじゃなきゃあたしのこと愛してないってことじゃない」友人は苦笑しながら彼女の隣に立ち、大げさに目を閉じてみせた。「はいはい、信じます。流れ星は信じなくても、君のことは信じてるから」その様子を見て、諒助は小さく鼻で笑った。この女、茜に似てるな。どっちも同じように、ちょっと面倒くさい。茜も星が好きだった。宇宙だの天体だのと、いつも耳元で話しかけてきた。流れ星が出ると必ず一緒に見ようと誘い、お願いごとまでさせようとする。正直うんざりしていた。気を引くための口実だろうと思っていたから。諒助は両手をポケットに突っ込み、友人に向かって無関心を装って言った。「一回くらい嫌だって言えば、もうやらなくなるよ」この友人は大学時代の同期で、気の置けない間柄だ。ただ、家業の都合で海宮市へ移ってからというもの、なかなか顔を合わせられずにいた。友人は驚いた顔で諒助を見た。「諒助、そんなこと言うなよ。俺は彼女のことが好きなんだ、ちゃんと結婚するつもりだし。願いごとくらい一緒にやればいい、減るもんじゃないし、彼女も喜ぶし、いいことしかない。むしろ誘ってくれなくなったら寂しいよ。考えてみろ、女の子が一番大切な願いごとをする時、隣にいてほしい人って誰だと思う?」諒助は、はっとして言葉を失った。願いごとは、幸せへの祈り。だから当然、大切な人に隣にいてほしい。家族でも、恋人でも、友人でも。我に返ると、諒助は無意識にポケットからスマホを取り出していた。この瞬間まで、彼はずっとそう思い込んでいた。茜はきっと以前と同じように、「流れ星が出てるよ」とメッセージを送ってくるはずだと。たとえ断っても、彼女は写真や動画を撮って、何をお願いしたか教えてくれるはずだと。画面をつけると、茜の名前は仕事の通知に押し流されて、だいぶ下の方に沈んでいた。二度スクロールして、ようやくその名前を見つけた。最後のやりとりは、自分が彼女を責めた言葉で止ま
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第153話

その二人が手を組んだプロジェクトが失敗したとしても、金融詐欺や口封じの殺人にまで発展するなど、あり得ない話だ。何より不可解なのは、改めて資料を見返した時のことだ。書類にはほとんど父の署名しか残っていなかった。でも確かに覚えている。父も母も、いろんな人の名前を口にしていた。それなのにその人たちは、まるで消えたように誰一人として出てこない。あの頃、茜はただ遊ぶことしか頭になかった。ビジネスの話には全く興味がなかったから、名前もまるで思い出せない。考えに沈んでいると、スマホが鳴った。諒助からのメッセージだった。——また思い出した、だって?少し思い出したくらいで、こちらが感激して駆けつけるとでも思っているのだろうか。茜は資料をまとめてバッグへ入れ、明日市街地へ持ち帰ることにした。そして電気を消し、ベッドに入った。目を閉じた瞬間、気づいた。かつて諒助に向かって伸びていた心の糸が、いつの間にかぷつりと切れていたことに。一方、建物の下では。諒助は茜を待っていたが、やがて三階の部屋の明かりが消えた。聡史も思わず目を瞬かせた。おずおずと口を開く。「諒助様……西園寺さんを呼びに行きましょうか?」「ふん」諒助は苛立たしげに鼻で笑った。「甘やかしすぎたな。帰るぞ」「……かしこまりました」聡史はひそかにほっと息をついた。別荘へ戻ると、絵美里が玄関まで迎えに出てきて、諒助の上着を受け取った。「諒助さん、お帰りなさいませ。今日は体調が優れなくて、お友達とのお集まりに同行できなくてごめんなさい」「ああ」諒助は素っ気なく答えたが、殊勝にしている彼女を責める気にもなれなかった。もっとも、今日は最初から彼女を連れていくつもりなどなかった。あの動画のことを友人に触れられでもしたら、何と答えればいいかわからない。腰を下ろすと、絵美里がすぐに酔い覚ましのお茶を差し出した。「お風呂、沸かしておいたよ。お茶を飲んだらゆっくり浸かってきて。きっと楽になるから」その言葉に、諒助の胸につかえていた何かが、少しだけほぐれた。茜もこれくらい気が利いて、素直ならよかったのに。ネットで何を言われても黙って耐え、諒助に余計な心配をかけまいとする。それが愛情でなくて、何だというんだ。お茶を一口含んでから、諒助はふと思い当たった。
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第154話

翌朝。身支度を済ませ、寮を出ようとした茜のもとへ、今日は寮の抜き打ち検査があるという連絡が入った。はあ。茜は思わずため息をついた。とはいえ、どんな理不尽に見えるルールにも、大抵は理由がある。以前、こっそり彼氏を連れ込んで半月も住まわせていた女性スタッフがいたという。その男が深夜に他の女性社員の部屋を覗こうとしたことで発覚し、警察まで来る騒ぎになった。騒動が収まるまで何日もかかり、最終的にウォーカーヒルが表に立ってようやく話をまとめたらしい。それ以来、総務部が通達を出し、定期的に寮の「衛生抜き打ち検査」を実施することになった。表向きの名目はあくまで衛生環境の確認だが、もう一つの目的は言わずもがな——部外者が無断で住み込んでいないかの厳格な確認だ。茜は普段からここに私物をほとんど置いていないので、五分もかからず片づけを終えた。腕時計で時間を確認してから、慌ただしく階段を下り、外で待っていた星羅と一緒に従業員用の送迎バスへと向かった。茜が出ていった直後、別の階段から二人の女性が姿を現した。一人は今回の検査を担当する総務の女性スタッフ。そしてもう一人は——千代だった。「千代ちゃん、本当にありがとうね。あなたがいなかったら、私、あのまま階段から転げ落ちてたわ」「水臭いこと言わないで。それより足、結構ひどく捻っちゃったみたいだから……検査、私が一緒に手伝うわ」千代は心配そうな顔を作り、さりげなく彼女の腕を支えた。「でも……千代ちゃん、出勤のバスに間に合わなくなるんじゃ?」「大丈夫。今日は近くのお客様のご案内からだから、まだ時間に余裕があるの」千代は腕時計に視線を落とした。女性スタッフは、その親切心に深く頷いた。今日はとことんついていない日だ。誰かが薄暗い階段にビーズをばら撒いていて、危うく踏んで転びそうになったのだ。偶然通りかかった千代がとっさに体を支えてくれなければ、打ちどころが悪ければ本当に大怪我をしていたかもしれない。大怪我は免れたものの、それでも足首を少し捻ってしまった。十数分後、二人はようやく茜の部屋へと入った。担当スタッフは部屋をさっと見回し、チェックリストに丸をつけた。「問題なさそうね。次の部屋に行きましょうか」「…………」しかし、千代は眉をひそめ、その場から動かなかっ
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第155話

千代は寮を飛び出し、後ろ手でドアを閉めながらさりげなく言った。「大丈夫、逃げていったみたい」担当スタッフはほっと胸を撫で下ろすと、すぐにスマホを取り出した。「主任に報告しないと。ここの衛生管理が甘いからネズミなんて出るのよ」千代は慌てて彼女を引き止め、にこやかに言った。「ちょっと待って。小さなネズミだったみたいだし、ここは山のすぐそばだから、たまに出ることもあるじゃない。それに住んでいるのは女の子ばかりだから、今騒ぎ立てたら怖がらせるだけよ。様子を見て、また誰かから報告があったら、その時に主任に言えばいいんじゃないかしら」担当スタッフは少し考え、確かにその通りだと納得した。余計な混乱を招く必要はない。二人は残りの部屋を足早に確認し終えると、連れ立って寮をあとにした。……そんなことが起きていたとは露も知らぬ茜は、ちょうど古くからのお客様と契約を済ませてオフィスへ戻ってきたところで、絵美里の部屋から出てくる千代の姿を目にした。千代はすれ違いざま、にこりと笑顔を向けてきた。茜も礼儀上微笑み返したが、内心では首をかしげていた。主任の座を争って敗れて以来、千代がまともに口を利いてくれたことなど一度もない。それどころか、絵美里の側について茜に嫌がらせをしてきたことも一度や二度ではなかった。そんな彼女が、笑顔で?考えを巡らせていると、絵美里がオフィスから出てきてパンパンと手を叩いて、フロアの視線を集めた。チラリと茜を見てから、殊勝な面持ちで言う。「ネットのニュース、みんなも見たと思います。私と茜さんの件でお騒がせして、本当に申し訳ありませんでした」……ん?茜は眉をひそめた。私と茜さんのことで、って何?この騒動を起こしたのは絵美里一人ではないか。諒助といい彼女といい、どちらも責任を人に押しつけるのが上手い。身に覚えのない汚名まで一緒に背負わされるのは、さすがに納得できない。茜が口を開く間もなく、絵美里は続けた。「この誤解を解くために、私と茜さんで力を合わせて一つの大きなプロジェクトを成功させようと思っています。和恒商事のご令嬢の結婚式です」オフィスにどよめきが広がった。「和恒商事の社長令嬢って、あの方ですか?すごい、ネットで一番話題のお嬢様じゃないですか。婚約者も相当な資産家で、プロポーズだ
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第156話

茜が承諾したのを聞いて、諒助は内心ほっとした。昨夜、茜が会いに来なかったせいで一晩中眠れなかった。今こうして素直に応じる姿を見ると、やはり父親の件で当てつけをしているだけだという確信がさらに強まった。だが、茜の内側では全く別のことが動いていた。諒助に圧力をかけられるより前に、茜はすでに引き受けるつもりでいたのだ。聞き覚えのある名前が、耳に引っかかっていたからだ。和恒商事。両親がその名を口にしていた記憶は曖昧だったが、その言葉を耳にした瞬間、胸の中で何かが確かに反応した。あの頃のプロジェクトに、和恒商事の斎藤家は関わっていた——茜にはそれがほぼ確信に近かった。しかし同僚たちの話を聞く限り、斎藤家は今や確固たる地位を築いている。つまり、あの事件が彼らに何の影響も及ぼさなかったということになる。そんなはずがない。あれだけ多くの人が巻き込まれたのに、斎藤家だけが無傷で逃げおおせたなんて。結婚式の担当になれれば、何か探りを入れることができるかもしれない。考えがまとまったところで、絵美里が茜の前へ手を差し伸べてきた。「茜さん、よろしくお願いします」「こちらこそ」茜は握手に応じたが、絵美里はすぐに手を引いた。そのまま諒助の隣へ寄り添い、甘えるように言う。「ほら、諒助さん。茜さんはそんな心の狭い人じゃないって言ったじゃないですか。それでもわざわざ足を運んでくださったんですね」諒助は茜をちらりと一瞥してから、絵美里の手をさりげなく握り、淡々と返した。「昨日退院したばかりで無理して出社しているんだ。心配して当然だろ」その一言で、諒助がここへ来た理由は絵美里のためだと、その場の誰の目にも明らかになった。羨ましいこと、この上ない。茜には何の感慨もなく、くるりと踵を返して自分の席へ向かった。諒助の目に翳りが差した。「茜、どこへ行く」「斎藤様のご準備をと思いまして。私に何か?」諒助は一瞬言葉に詰まり、わずかに眉をひそめた。「それはあとでいい。先に会議の準備をしろ」「はい」茜はうなずいた。どこからどう見ても、模範的な社員の鑑だ。諒助は小さく鼻を鳴らし、絵美里を連れてオフィスを出た。廊下に出るなり、絵美里の手を離して振り返った。「俺も少し準備がある。先に会議室へ行ってろ」絵美里が何か
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第157話

会議の内容は、茜の頭には半分も入ってこなかった。大まかに言えば、一部の社員の目に余る振る舞いがウォーカーヒルのイメージに悪影響を与えているという話だ。「一部の社員」が誰を指すのかは、周囲の視線がすでに雄弁に物語っていた。茜と絵美里の二人だ。最後に和久が締めくくった。「今後、この種の事案は査定に反映する。規定に基づき、厳正に対処する」茜のペンが一瞬止まった。公私混同を許さないとはまさにこのことだ。ただ、和久のその冷徹さは、少なくとも特定の人間に肩入れするような隙はない。よく考えれば、この規定はむしろ自分に有利かもしれない。問題を起こしてきたのはいつも絵美里の方なのだから。案の定、あれほど柔和な顔をしていた絵美里が、今にも余裕の仮面が剥がれ落ちそうになっていた。彼女にはもう一つ、諒助の恋人という立場がある。和久は柏原家の代表として、その場で公然と規定を言い渡した。絵美里への配慮など、微塵もなかった。これは彼女にとって、手痛い一撃だ。会議が終わった。席を立とうとしたところで、栞に呼び止められた。「主任、何でしょうか?」栞は書類を一枚差し出した。「柏原社長にサインをもらってきてくれる?ちょっとお腹を下しちゃって、先にお手洗いに行かせてもらうわ」「えっ、でも……」断る間もなく、栞はそそくさと小走りで去っていった。茜はしばらく立ち尽くしてから、やむなく和久の席へ歩み寄った。「柏原社長、サインをお願いします」「ああ」和久は書類を受け取り、念入りに目を通し始めた。茜は内心首をかしげた。車の中で書類を見るとき、あの人は斜め読みするような尋常ではない速さだったはずなのに。今日はどうしてこんなに丁寧なんだろう。その時、和久の傍らに立っていた若彰が茜に目配せをしてきた。茜には……意味がわからなかった。若彰はあからさまに呆れた顔で天を仰ぐと、「車の中に書類を忘れてきました。取ってまいります」と言い残し、さっさと出ていった。会議室に残されたのは、茜と和久の二人だけ。幸い、和久はすでにペンを手に取り、サインをしようとしていた。手元に視線を落としたまま、静かに言った。「何か言いたいことはないか?」茜はほぼ即座に意図を察した。理性が余計なことを言うなと告げている。それでも、気づけば口が動いてい
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第158話

星羅が話していたスタッフのことは、茜も顔を知っていた。決して悪い人ではないのだが、少しばかり騒ぎ立てるきらいがある。ネズミどころか、小さなハエを見ただけでも大騒ぎするようなタイプだ。そんな彼女が、ネズミを目撃した経緯をあそこまで具体的に話せるものだろうか。何かがおかしい——茜はじわりと嫌な予感を覚え、星羅の腕を引いて人気のない場所へ移動した。「ねえ星羅ちゃん、お願いがあるんだけど。どの部屋で騒ぎがあったのか、こっそり調べてきてくれない?できるだけ早く」客室部の星羅なら、お客様への届け物や用事を口実に、あちこちの部署を自然に行き来できる。茜が動くより、よほど目立たないはずだ。「わかった」星羅は余計なことは何も聞かず、ただ茜を信じてそっとその場を離れた。茜は緊張の糸がピンと張り詰めるのを感じながら、足早に廊下を歩いた。ところが建物を出たとたん、誰かに強く腕を引かれ、中庭の死角へと強引に引きずり込まれた。振り返ると諒助だった。茜は力いっぱい腕を振り払おうとしたが、ギリギリと締め付ける力は強まるばかりだ。これ以上もみ合うのは無駄だと判断して、茜は作戦を変えた。「痛い!手首が折れる!」諒助は茜の赤くなった手首をちらりと見てから、渋々といった様子で手を離した。「いつからそんなにか弱くなったんだ?」彼は笑った。まるで昔のままの気安さで。茜は手首をさすりながら、冷ややかに答えた。「私がただ大人しく泣き寝入りするような女じゃなかったこと、覚えていらっしゃるんですね」「……勘だ」諒助は咄嗟に言い繕った。記憶喪失という設定が崩れないように。茜はその見え透いた答えに驚きもしなかった。最初から期待などしていない。「諒助さん、何かご用ですか?まだ仕事が残っていますので」自分では落ち着いているつもりだったが、諒助の耳には明らかな不機嫌なトーンとして伝わった。この数日の出来事と、茜の冷え切った視線が頭をよぎる。諒助は何かを証明したくなっていた。だからわざわざ、茜が仕立てたあのスーツに着替えてきたのだ。茜は、諒助がオーダーメイドやハイブランドしか身に着けないことを知っているはずだ。それでも人前で堂々と着ているということは、彼女からの贈り物を認めているということ——そのくらい察してほしかった。なのに、彼女の顔には期待していた喜びの色がまるでなかった。
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第159話

「諒助さん、まだオフィスに戻っていなかったの?」「どうした?そんなに急いで」「斎藤さんのことをもう少し聞いておきたくて。諒助さんのお友達だから、あなたの顔に泥を塗るような真似はしたくないの」絵美里は目をぱちりとさせた。言葉の端々に、諒助への健気な気遣いが滲んでいる。諒助は満足げにうなずいた。「そこまで心配しなくていい。向こうにも専属のウェディングプランナーがついている。うまく連携すれば問題ない」「そうよね。でも、これから何度もお会いすることになるから、結婚式を素敵に仕上げられれば、ご両家のお付き合いも円滑になるかと思って。茜さんと一緒に残業する覚悟もできているわよ」「茜と一緒に残業?」絵美里がそこまで茜に歩み寄るとは、諒助にとっても意外だった。絵美里は諒助の腕に自分の腕を絡め、甘えるように言った。「あなたに面倒をかけたくないし、茜さんとの距離を縮めるいい機会だと思って。茜さんが一緒に残業してくれるといいんだけど」諒助は彼女へ称賛の眼差しを向けた。何事も諒助と柏原家を優先して考えられる女こそ、柏原家に相応しい。茜はといえば、身分の問題は置いておくとしても、長年の苦労のせいか、どこか貧乏くさい庶民の価値観が染みついてしまっていた。ちょうどいい機会だ。絵美里を見習うよう、遠回しに教えてやろう。どちらにせよ、いずれは二人とも俺の女になる運命なのだから。「俺も一緒に残業する。茜も断れないはずだ」絵美里は背伸びして諒助の頬にキスをした。「ふふ……諒助さん、大好き」……電話を終えた茜は足早にオフィスへ戻り、自席に着いた。どこかからじっとりとした視線を感じて顔を上げても、周囲に特に変わった様子はない。そのまま上の空で午後を過ごすうちに、星羅からメッセージが届いた。【茜ちゃん!あなたの部屋だったの!しかも今日、検査に来たのは一人じゃなかったみたい。でももう一人が誰かは誰も見ていないって。みんなバスの時間が迫っていたから】やはり、誰かが自室に入り込んでいた。今から犯人を探しても時間の無駄だし、相手を警戒させてしまうだけだ。茜は深く息を吸い、無理やり動悸を鎮めた。しばらく考えてから、星羅に手短なメッセージを送る。すぐに星羅から【了解】の返信が来た。用件を伝えて顔を上げると、ちょうど千代
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第160話

まさか絵美里からのプレゼントだと言い張るとは、茜も予想外だった。「絵美里が贈ったことにする」というその発想は、茜の想像の斜め上をいっていた。絵美里は微笑みながら諒助の腕にぴたりと寄り添い、勝ち誇ったような目でちらりと茜を見下した。それはもう、あからさまな勝利宣言だった。周囲の同僚には、それが絵に描いたようなセレブカップルの優雅な恋愛に映っているのだろうが。茜は眉をわずかにひそめた。腹立たしいといえば腹立たしい。あの時、うっかり袋から手を離してしまったせいで、諒助にスーツを奪われてしまった。フリマアプリに出していれば、二割引きでも十万円以上の値はついたのに。……まあ、いい。今は斎藤家のことの方がずっと大事だ。茜は気持ちを切り替えて席へ戻ろうとした。ところが、周囲が絵美里をちやほやしている隙に、諒助が茜のそばへやってきた。「茜、お前の分の食事も持ってきた」飴と鞭というわけか。またその手で来るつもりらしい。茜は静かに答えた。「結構です。あとで社員食堂で食べます」諒助は軽く笑った。「怒ってるのか?絵美里は正式な彼女だ、人前では顔を立てなきゃいけない。俺自身は、お前が仕立ててくれたとわかっている。それで十分だろう。くだらない見栄を張るな、お前には俺が……」「はい」茜は彼を見てうなずいた。内心、その身勝手さに鼻で笑いそうになっていた。いったい何のつもりだろう。自分を何様だと思っているのか。都合よく二股でもかけようとしているのか。スーツ代を損してでも、これ以上この男と曖昧な関係を続けたくない。諒助は、茜があっさりと引くとは思っていなかったらしい。まるでスーツなど最初から気にしていないような、それとも——俺の気持ちがどこに向いていようと、どうでもいいような態度だ。「なんだその態度は?こっちはわざわざ説明してやってるのに」諒助は不満と困惑が入り混じった顔をした。彼の立場で、誰かに言い訳をする必要など本来ない。まして茜に彼を責める権利などないはずだ。それでも絵美里の前で、真っ先に茜に向かって弁解した。それなのに、なぜこれほど冷めた態度をとれるのか。茜は再びうなずいた。「聞こえました、はいと言いました。どう答えれば満足なんですか?」「たかがスーツ一着で、いつまで意地を張るつもり
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