All Chapters of 明日、私は誰かの妻になる: Chapter 181 - Chapter 190

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第181話

先ほどの自分の言葉は、まるで恋い焦がれて縋りついているかのようだった。「社長、斎藤家の結婚式の件でお伺いいたしました。ぜひ来賓としてご臨席賜りたいとのことで」「私的な場には出席しない」和久はあっさりと、にべもなく言い切った。「そうですか。承知いたしました」少し残念ではあるが、心のどこかではそうなると思っていた。和久は視線を落とし、じっと茜を見つめた。「それだけか?」「…………え?」茜は戸惑いながら和久を見上げた。それ以外に、何があるというのか。そのとき、和久が静かに体を傾け、もう一方の手をデスクについた。端正な顔がすぐそこまで迫り、吐息が触れるほどの距離に迫られた瞬間、胸の奥がじわりと熱を帯びた。「俺に片想いしているというのなら、もう少し積極的になってもいいんじゃないか」茜の頬がカッと熱を帯びた。なぜ和久が「片想い」と口にするとき、どこか楽しげに笑っているように見えるのだろう。茜は意を決して尋ねた。「それで、来ていただけますか?」「行かない」「……」茜は思わず口をとがらせた。「じゃあ、積極的になれなどと、からかわないでください」和久が、唇の端をわずかに吊り上げた。「もう怖くないのか?」茜はそっと目を伏せた。すべてを見透かされそうで、視線を合わせていられない。和久が低い声で続けた。「他人にやらされているだけのことに、なぜ俺が応じなければならない」「社長、なぜそれを、ご存知なのですか……?」茜はすぐに顔を上げ、和久を見つめ返した。その瞳が動揺に激しく揺れている。和久がそっと体を傾けてきた。一瞬、このまま唇が重なるのではないかと思った。「勘だ」「…………」心臓の音が耳の奥でどんどん大きくなり、思考を白く塗りつぶしていく。茜は身をかわすことさえ忘れていた。どう切り出そうかと思案していた、そのとき。ドアの外から若彰の声がした。「諒助様、何かご用でしょうか?」諒助?茜はぱっと我に返り、弾かれたように顔を背けた。和久の目は剣呑な色を帯び、静かに手を離した。「座ってくれ」「あ……」ありがとうと言いかけた次の瞬間、空気が一変していた。和久はすでに氷のように冷徹な表情に戻り、デスクの向こうに座っている。茜は唇をきゅっと結び、ソファへと腰を下ろし
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第182話

和久が絵美里の頼みで婚礼に列席すると耳にした瞬間、茜は一瞬、呆然とした。なんだか自分が、惨めで滑稽なピエロのように思えた。諒助が茜の手を強引に引いて、ようやく我に返った。「あんな所に写真立てを放置してどうするつもりだ。ゴミと間違えて捨てられたらどうする。もう俺が修理したから、持って帰れ」写真立てが手に触れた瞬間、茜はぎゅっと拳を握り締めた。受け取りたくない、塵芥ほども。「諒助さん、写真立てはあのままで正解でした。所詮はただのゴミですから」諒助の表情が固まり、目を細めた。「茜、この写真立てがどういうものか、お前は……っ」「何ですか?」茜は冷ややかに問い返した。諒助が本当のことを言うとは、内心から思っていなかったけれど。「見覚えがあるような気がしてな。いいから、ちゃんとしまっておけ。いざというとき見つからなかったら……」「諒助さん、私たちはもう何の関係もありません」茜は静かに、はっきりと告げた。「あなたが言ったんですよ。要らないものは捨てていい、私も新しい人生を歩めって」「お前……はっ」諒助の胸の奥が重くなり、まるで何かが詰まったように息苦しかった。「じゃあ聞くが、これまでのお前の気持ちはその程度のものだったのか?こんなに早々と新しい人生だと?どこかの男に乗り換えるつもりか?いつからそんなに、男なしでは生きられなくなったのか?自分の立場をよく考えてみろ、犯罪者の娘だと素性の知れたお前を、他の男が本当に受け入れると思うか?結局はまた誰かの庇護に入るだけだろう。どうせそうなるなら、なぜ……」吐き出される言葉は次第に常軌を逸し、醜い嫉妬心によって完全にブレーキを失っていた。茜は写真立てを奪い取ると、思い切り地面に叩きつけた。がしゃん、と砕けた破片が飛び散った。二度と修復不可能なまでに。「もういい加減にしてください。あなたは私の上司で、元カレ。私の保護者でも何でもない。私の生き方に、あなたが偉そうに干渉する権利はありません。柏原家にお世話になったのは本当ですが、それは柏原の奥様に対してであって、あなたじゃない。私に指図しないでください」「茜!拾え!」諒助の目が血走り、まるで狂乱した獣のようだった。茜の腕を掴んで叫んだ。「お前に何の権利がある?頼るつもりの男か 誰だ?兄さんか?夢でも見てるんじゃな
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第183話

「斎藤家については何も出てきていません。お父様の件に斎藤家は一切絡んでいませんでしたし、両者の接点も見当たりません。ただのクライアント関係に過ぎないのではないでしょうか」「クライアント……?」茜は眉を寄せた。「お母様はウォーカーヒルを管理されていましたから、読飼市の資産家と顔見知りだったとしても不思議ではありません。全員と深い付き合いがあったとは限りませんし」茜は静かに聞いていたが、やがて口を開いた。「わかりました。それで、海外でのあの一家の足取りは何か掴めましたか?」「少し情報が入り始めています。今、動向を洗っているところですが……最近、誰かに尾けられているような気がして。もし露見したら困りますから、細心の注意を払って動いています」その言葉に、茜の体が粟立った。まさか、諒助がまだ諦めていないということか。「くれぐれも用心してください。時間がかかっても構わないので、絶対に気づかれないように」「わかっています。いい知らせを待っていてください」通話を切った後、茜は遠くの景色を眺め、複雑な表情を浮かべた。一方、その頃。電話口の探偵は、抱いていた女を離し、仲間たちに向かって言った。「続けてて。ちょっと電話する」タバコを口にくわえながら立ち上がり、個室を出ると、別の番号に発信した。「斎藤家のことを聞いてきましたが、何も話していません……」「まだ諦めていないとはな。では、少しばかり、遊んでやろう」「了解です」……午後、茜は最大の宴会場へ足を運んだ。とてもではないが、絵美里のあからさまな皮肉に耐えながらオフィスに戻る気になれなかった。斎藤家のプランナーと打ち合わせを終える頃には夜の帳が下り始め、外では氷雨がしめやかに降り注いでいた。茜は貸し出し用の傘を一本借りると、タクシーには乗らず、一人で傘を差しながら山道を下り始めた。歩きながら、ずっと斎藤家のことを考えた。まだ何か、自分が見落としていることがあるのではないだろうか。そんなことを思っていると、前方で急ブレーキの音が鋭く響き、続いて不穏な衝撃音がした。茜は反射的に木の陰に身を潜め、一歩一歩慎重に近づいた。少し先で、二台の黒塗りの車が一台の行く手を完全に塞いでいる。霧雨の向こうに目を凝らし、ようやく封鎖された車のナンバーを読み取
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第184話

恐怖で全身が硬直し、身動き一つとれなかった。刃が茜の肩をかすめ、背後の暗がりに深々と突き刺さった。背後からくぐもった呻き声が漏れ、茜はようやく気づいた。いつの間にか、すぐ後ろに男が立っていたのだ。男は痛みに怯む様子もなく、肩から刀を引き抜くと、手にした短刀を茜へと向けた。茜は無我夢中で握りしめた傘の先端を、男の傷口めがけて力いっぱい突き込んだ。男はぐらりと体を揺らし、その場に崩れ落ちた。茜は恐怖のあまり傘を取り落とし、後ずさりしながら数歩下がった。耳に届くのは冷たい雨音と、自分の荒い息遣いだけだった。殺してしまった……?反射的に、雨の中の和久へと目を向けた。全身を黒で固めた和久の顔には、返り血の赤い飛沫が散っていたが、雨にすぐ流されていく。その全身から滲み出る底知れぬ危険な気配が、見る者を本能的に竦ませた。和久が振り返り、茜に背を向けたまま、静かに言った。「……乗れ。送っていく」茜が戸惑い、その場に立ちすくんでいると、若彰が歩み寄ってきた。「命に別状はありません。後始末はこちらでします。巻き込まれたくないなら、早く」茜は頷き、急いで車に乗り込んだ。座った途端、タオルが一枚差し出された。震える手でしっかり握り締めると、微かなタバコの匂いがふわりと漂ってきた。視線を向けると、和久がタバコをくわえ、車の脇に立っていた。刀からは何かが滴り落ちていて、血なのか雨水なのか判別がつかない。和久は窓の外を見たまま、静かに言った。「……見なかったことにしてくれ」茜はそっと頷いた。寮に戻って車を降りるまで、二人の間に言葉は交わされなかった。……車内。茜が振り返りもせず去っていく後ろ姿を見送りながら、若彰は苛立たしげに歯噛みした。「しばらく穏やかだったのに、まさかまた連中が来るとは」和久はタバコを深く燻らせた。白い煙が揺れ、表情は見えない。「俺への懸賞金がこれだけ高ければ、誰だって一発狙いたくなるだろう」若彰は和久を見た。「でも、西園寺さんに見られてしまいました。彼女、もしかして……」和久は何も言わなかったが、声音が急に冷えきった。「後始末は済んだか?」「はい、連絡済みです。すぐに痕跡は消させます」「そうか」言い終わるやいなや、和久の旧友たちからグループ通話
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第185話

それに、諒助が傲慢に吐き捨てた言葉も頭から離れない。「……奴は誰よりも残酷だ!」あの冷たい雨の中で容赦なく刀を振るう和久の姿は、かつて誰かの指を切り落とす場面を偶然目にしたときより、何倍も恐ろしく、そして凄惨で血生臭かった。そんなことを思い巡らせていると、不意にドアをノックする音がした。茜はびくっと体を震わせ、しばらく固まってからようやくベッドを下りておそるおそるドアを開けた。外に立っていたのは、温かい夜食を手にした星羅だった。サプライズのつもりだったらしいが、茜の尋常ならざる顔色の悪さを見た途端、そんな浮かれた気分など吹き飛んで、慌てて茜を部屋へ引っ張り込み、ベッドの隣に腰を下ろした。「茜ちゃん、どうしたの?顔面蒼白じゃない。どこか具合でも悪いの?」聞き慣れた優しい声にほっと力が抜けて、茜は星羅にぎゅっとしがみついた。「私……」あまり多くは話せなかったが、和久が危険な目に遭ったということだけ、手短に打ち明けた。和久がほとんど一人で、それも刀一本で相手を制圧したことは、あえて伏せておいた。読飼市の名家の令嬢として十数年を過ごしてきたとはいえ、幼い頃の茜はあまりにも大切に守られて育った。愛する母を亡くし、尊敬する父が収監されなければ、世の残酷な裏面を知ることも、醜悪な騙し合いを目の当たりにすることも、一生なかったかもしれない。今の自分は、星羅と同じ、ごく普通の無力な人間だ。人が殺し合うということは、まだ茜にとっては遠い世界の話のはずだった。どう説明すべきか言葉を探していると、星羅がぐっと茜の両肩を掴んで、なぜか得意げな顔をした。「もしかして危ない目に遭ったとき、傘の先端で相手の男を刺したの?」「うん」茜はぼんやりと頷いた。「すごい!普通なら恐怖で腰を抜かしてるよ、私なら絶対そうなってた」「えっ?あのね、怖くなかった?あの状況、かなり怖かったんだけど……」地面に血が滲む雨水のことも、動けなくなって倒れている何人もの男たちのことも、茜はまだ口にできていなかった。星羅は向かいに座り、頬杖をついて言った。「でも、どうしろって言うのさ?無抵抗のまま殺されればよかったとでも?茜ちゃんってそういう人じゃないと思うけど。それに、怖い目に遭いたい人なんて誰もいないよ。あなただって、和久さんだって同じ
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第186話

記憶を思い返すうちに、茜は無意識に痛む頭をさすっていた。さするたびに、諒助の笑顔が少しずつ後景へと退いていく。そしてついに、その人の顔がはっきりと見えた。和久だ。けれど、そこから先へ思考を進めようとすると、頭が割れるように痛くなってきた。茜は頭を振り、気づいた。自分は和久のことを、本当のところ、何も知らないのだ。柏原家にいた数年間、和久に関することはすべて、諒助や記理子、それに小百合から聞いた一方的なものばかりだ。諒助は表向き和久と仲良く振る舞っていた。記理子は、和久については何も語らなかった。小百合はわりと直接的だった。要するに、和久のことが好きではない、ということだ。「茜ちゃん?もしもーし?何考えてるの?揚げ物の油が服に垂れてるよ」茜は我に返り、慌ててティッシュを引き抜いて衣服の油染みを拭こうとした。だが、染みはすでに生地の奥まで沁み込んでいて、なかなか落ちない。星羅も最後の一切れを食べ終えてから、ティッシュを取って茜の代わりに丁寧に拭いてやった。茜が怖い思いをして心ここにあらずなのだと、優しく思ってくれていた。「今日はもう早く寝なよ。きっと怖かったんだから」拭いていた手が止まった。茜は少し意外そうに言った。「なんか……怖いって感じでもないかも」「え?じゃあ何であんなにぼうっとしてたの?まさか、恐怖で頭が真っ白になったとか?」と星羅が聞く。「そういうわけでもないけど」言葉にできない奇妙な感情が、胸の中でじわりと広がっていた。星羅がにやっと笑う。「まさか、柏原社長のことを考えてた?」茜は答えなかった。でも確かに、さっきまで和久のことを考えていた。星羅は一瞬きょとんとした後、声を出して笑った。「ふふ……まあ、違うなら違うでいいけどね」その言い方で、また面白おかしく誤解されたとわかった。茜は真面目な話を戻すことにした。「それより、斎藤の母娘のほうはどうだった?」その名前を聞いた途端、星羅の眉が不快そうに寄った。「もう、本当に大変だったんだから。今日シフトを代わってスイートルームに高級なガウンをお届けしたら、よりによって琳果様の婚約者に鉢合わせてしまって。変なことをあれこれ言ってくるし、それを琳果様に見られるし、結局また理不尽に怒られてしまって、琳果様が納
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第187話

茜はこくりと頷いた。「そうよ。最初からそのつもりだったみたい。しかも、私に対して恩着せがましい態度を取っているから、厄介なことこの上ないの。だから今、あの人と表立って波風を立てるわけにはいかないの。皮肉なことに、私のほうが諒助と付き合っていたことを知られたくないくらいよ。下手をすれば愛人扱いされかねないから」星羅がうんざりしたように眉をひそめた。「おかしいよね。諒助さんのご両親も、穏やかで優しい人たちだって言ってたじゃない。なんであんな傲慢な息子が生まれてくるんだか」茜は肩をすくめた。星羅が茜に少し顔を寄せ、からかうように言った。「でも私、茜ちゃんと柏原社長って意外とお似合いなんじゃないかなって思うんだよね。あの人、確かに無口だけど、茜ちゃんには全然冷たくないでしょ」「またそんなこと言って」茜は苦笑いしながら立ち上がり、星羅と軽くじゃれ合った。ひとしきり笑った後、茜はふっと真顔に戻って言った。「ねえ、星羅ちゃん。あの斎藤家の母娘のこと、少し動向を探ってもらえないかな?でも、絶対に無理はしないでね」「わかった」星羅は頼もしく頷き、宿舎を出た。歯を磨こうと洗面台に向かった矢先、スマホが震えた。【西園寺さん、市内の邸宅までお越しいただけますか?】なんと若彰からだった。時計を見ると、もう九時半を過ぎている。茜は返信せず、このまま寝たふりをするのも手かな、とぼんやり思った。するとすぐ続いて、焦ったようなメッセージが来た。【ボスがお怪我をされまして、私が少し出なければならない用件がありまして。他の方に任せるのは不安で……ボスが怪我をされることなど、ここ何年もなかったことで、これは……】そこで文章が途切れていた。途切れた文面が、茜を名指しで頼りにしているも同然だった。事件が起きたとき、和久は茜にメッセージを送っていた。あの直後に不意討ちを受けたのだろうか。あれこれ思い悩んだ末、茜はスマホに打ち込んだ。【わかりました。でもこの時間はタクシーを拾うのが難しくて】【既に車を寮の前に待機させております】メッセージを読んで、茜はやっと気づいた。最初から仕組まれていたのだ。小さく溜息を吐き、着替えると階段を下りた。しばらく車に揺られると、閑静な高級邸宅街へと入っていった。茜は顔
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第188話

茜は名門の跡目争いを身をもって経験したことはないが、人から噂話を聞いたことはあった。巨大な一族の頂点に立つ者は、いわば一族の要石だ。彼らが怪我をすれば、怪我の程度に関わらず、すぐさま翌日の株価に悪影響が出る。場合によっては、その座さえも揺らぎかねない。若彰が和久の怪我を隠蔽しようと立ち回っているのは明白であり、あの医師を見る目にも、どこか鋭い牽制の色が滲んでいた。それなのに、わざわざ茜を呼び立てたのだ。若彰は茜をまっすぐ見て、真剣な声で言った。「西園寺さん、ボスがあなたを助けたということは、ボスがあなたを信頼しておられるという証です。そして私は、ボスを信頼しています」「…………っ」茜の胸が大きく高鳴った。ふと、あの尊大な聡史のことが頭をよぎった。人を見下すような、あの傲岸不遜な態度。彼の態度は、諒助の茜に対する軽薄な扱いを如実に表していた。秘書というのは、主の器を映す鏡なのだ。若彰も同じだ。つまり……和久が、茜を心から信頼していることの左証ではないか。そんなことを考えていると、若彰のスマホが鳴った。画面を確認した若彰の眉がぐっと険しく寄った。「西園寺さん、申し訳ありませんが、すぐに出なければならない急用が入りました。ボスがまだお食事をされていませんので、さっき手配した食事がキッチンにあります。あとはよろしくお願いします」「わかりました」引き留めるわけにもいかず、茜は慌ててキッチンへと向かった。用意されていた食事の蓋を開けると、どれもすっかり冷めきっており、しかも油っこくて胃に負担のかかりそうなものばかりだった。熱があるときは、消化に良く胃に優しいものが一番だ。茜は蓋を閉じ、袖をまくって冷蔵庫を開けた。と、その瞬間、冷蔵庫の中の小型防犯カメラのレンズと目が合った。茜は足を止めたまま、完全に凍りついてしまった。冷蔵庫の中に防犯カメラなんて、いったい谁が設置するというのか。しかも食材はカメラの映る範囲に不自然に集中していて、それ以外の棚はほぼ空だった。異常な光景に思えたが、なぜか今夜の恐ろしい出来事が頭をよぎった。あれが初めてではないのだろう。冷蔵庫の中にカメラを仕込むのも、幾度となく命を狙われてきた末の、異常なまでの自衛手段なのだろう。和久が今までどんな過酷な経験をしてきたの
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第189話

なのに和久は、いつの間にか茜のためにすべてを処理してくれていたのだ。その言葉を聞いて、和久はゆっくりと目を開いた。漆黒の瞳が、茜を真っ直ぐに射抜いた。「後悔しないか?」「後悔しません」茜はまっすぐに首を横に振った。和久は拘束していた手を離した。「少し眠る。好きにしてていい」そう言って静かに目を閉じた。茜は少し驚いたが、和久の手のひらに残る強い指の跡を見て、先ほどの冷酷なまでの平静さが、精神力だけで辛うじて保たれていたのだと悟った。しばらく、その端正な寝顔をただ見つめていた。ふと我に返って時間を確認し、気づけば十数分もの間、食い入るように見つめ続けていたことに気づいた。茜は慌てて立ち上がり、もう一つのソファから毛布を取ってきて和久にそっとかけると、急いでキッチンへと取って返した。作業台の上には、先ほど取り出した野菜が放置されたままだ。茜はとりあえず冷たいトマトを二個手に取り、ほてった自分の頬に当てた。「美しいものに見惚れるのは、人間の性よ」胸の内で必死に言い訳をし、注意を逸らすように、消化のいいものを作り始めた。ところが野菜を洗おうとして、食材がかなり時間の経ったものばかりだと気づいた。水にさらしても、しんなりとしたままだった。仕方なく白粥だけ火にかけ、宿舎の星羅に電話をかけた。「星羅ちゃん、明日の朝、来るとき農場に寄って新鮮な野菜を少し買ってきてもらえないかな?」星羅は少し寝ぼけていたようだったが、その一言でばっちり目が覚めたようだった。「農場?野菜?また恋愛ボケ?正気なの?また諒助さんのお世話をしに行ったの?」「え?諒助のお世話って、何のこと?」茜は不思議そうに首を傾げた。「さっき客室部のグループに連絡が来てたの。明日の朝礼が急に中止になったって。同僚の話だと、諒助さんが体調を崩されたらしくて」そう言われて、茜はようやく思い出した。今のウォーカーヒルには副社長が二人いる。一人は柏原グループが外から招いたホテル経営の専門家・中野、もう一人が諒助だ。役割分担の関係で、諒助は主に客室部門を統括している。ただし、諒助には柏原グループの本業があるため、客室部門は毎日見る必要はなく、部門の支配人も柏原グループの人間だ。だから諒助は必要なときの会議以外、頻繁にウォーカーヒルへ来るわけ
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第190話

野菜粥。その一言を聞いた瞬間、絵美里の完璧な仮面がひび割れ、その場に立ち尽くした。手にはまだ薬を飲ませるためのカップが握られている。それが耐え難いほどの惨めな気持ちにさせた。勝者であるはずの自分が、またしても敗北を突きつけられた気がした。諒助はふとしたときに、無意識に茜の話を持ち出す。まるで彼の生活のあらゆる細部に、茜の存在が深く染み込んでいるかのようだった。絵美里は内心の怒りを押し殺し、あくまで柔らかく微笑んだ。「分かったわ。少し休んでいてね。家政婦さんとキッチンで準備してくるから」「ああ」諒助は痛む眉間を押さえたまま、目を閉じた。部屋を出ると、絵美里は家政婦の腕を強引に掴んでキッチンへ引きずり込んだ。「茜さんってよくここに料理しに来ていたでしょ?少しは作り方を知っているはずよね?今すぐあの粥を再現して」家政婦は困り果てたように首を振った。「最初は横で拝見していたのですが、工程が異常なほど多くて、とても根気のいる作業で……とても最後まで見届ける余裕はございませんでした。あの野菜粥、想像以上に手間をかけておられましたし、諒助様のお口に合わせて味も細かく調整なさっていましたので、私には到底……」そもそも、そんな簡単に作れるものなら、諒助だってここまで執着しはしないだろう。絵美里は苛立たしげに唇を引き結んだ。「どこかの店で買えないはずがないでしょ。今から外へ行って、一番似ているものを買ってきて。私がうまく言い訳を考えておくから。諒助さんの不興を買えば、あなたのクビが飛ぶわよ」家政婦もためらっている場合ではなく、慌てて頷いてすぐに出かけた。一時間以上経って、家政婦は記憶を頼りに、できる限り近いものを街で買って戻ってきた。絵美里はそれを高価な器に移し替え、少し手を加えてそれらしく盛りつけると、わざと額の生え際を水で濡らして汗を偽装し、階段を上がり部屋に入った。「諒助さん、野菜粥、作ってきたわよ」諒助は薬を飲んでもまだ頭が重く、わずかな足音すら頭に響いて不快なほどだった。それでも野菜粥と聞けば、気力を振り絞って体を起こした。「お前が作ったのか?」「そう、家政婦さんと一緒に作ったのよ。さあ、どうぞ」絵美里が優しくスプーンを差し出した。諒助の気分は少し持ち直した。茜がいなくたっ
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