All Chapters of 明日、私は誰かの妻になる: Chapter 191 - Chapter 200

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第191話

自分が眉をひそめて辛そうにするだけで、茜は一晩中一睡もせず、諒助の頭をずっと優しくさすり続けてくれた。なのに今は……諒助は静まり返った広すぎる部屋をぐるりと見回した。絵美里は本当にあっさりと帰ってしまっていた。枕の下からスマホを取り出し、茜のアイコンをタップした。最後にまともに言葉を交わしたのは、いつのことだろう。どう切り出そうかと考えながら、諒助は不意に額に手を当てて可笑しそうに喉を鳴らした。自分からこんなに積極的に連絡をとったことなど、かつて一度もない。茜が知ったらきっと驚いて嬉そうに笑い、すぐに機嫌を直して付き合ってくれるだろう。画面を指でタップしようとしたとき、ちょうど聡史から電話が入った。「諒助様、ウォーカーヒルに書類を取りに行った際、高橋さんのご友人から耳にしたのですが、西園寺さんが高橋さんに電話をして、明日の朝、農場で新鮮な野菜を買ってきてほしいと頼んだそうです」「農場か」諒助はほんのり得意げに口角を上げた。「わかった。明日は外を見張っておいてくれ。茜が警備に止められて、門前払いを食らっては可哀想だからな」時間を計算すると、ちょうど自分が体調不良を理由に翌日の会議の中止を通達した後だ。口では冷たく無関係だと言い放ちながら、茜は心の中でちゃんと自分のことを気にかけているのだ。意地を張りながらも、結局は健気に尽くしてしまうのが、あの子なのだ。わざわざメッセージを送る必要などない。茜は健気に口実を作って、自分から会いに来るに決まっている。そう思ったら、頭の痛みまで嘘のように引いていく気がして、諒助は電話を切るとそのまま満ち足りた優越感に浸りながら眠りについた。……翌朝。スマホの通知音で目が覚めた。星羅が頼んでおいた野菜を駅まで届けに来てくれたらしい。伸びをしながら目を開けると、向かいのソファに横たわる和久の静かな寝顔が視界に飛び込んできた。端正な横顔が、青白い肌の下でどこか幻想的なまでに美しく見えた。和久はひどく警戒心が強いのか、茜がほんの少し見つめていただけで、その整った眉がかすかに動いた。茜は慌てて視線を外した。起き上がって気づいたのだが、自分の体には温かい毛布がかけられていた。昨夜テーブルに置いておいた白粥は、いつの間にか空になっており、そのそばに小さなメモ用紙が一枚残され
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第192話

諒助は二時間近く待った。昨夜ほとんど食事をとっていない胃が、二度ほど空腹で腹の虫が鳴り、さすがの聡史も心配して見かねた。「諒助様、何か少しお腹に入れられますか?」諒助は暗い顔で、苛立ちを隠そうともせず吐き捨てた。「いらない。外に出て、茜が警備に気圧されて入れないでいるのか確認してこい」聡史は首を傾げながらも外へ出た。だが人影どころか、それらしい気配すら微塵もない。数分待ってから戻り、報告した。「諒助様、一回り確認いたしましたが、西園寺さんはこちらにはいらしていません」諒助は表情を消した。怒りで強く握り締めた拳に、青筋が浮き出ていた。そのとき、スマホが鳴った。「何だ」とぶっきらぼうに応じた。「朝から随分と血の気が多いことね」電話の向こうから、小百合の氷のような声がした。「おばあ様」諒助は慌てて声音を和らげた。「どうかされましたか?」小百合はすぐには口を開かず、静かに言った。「一人?」その一言に、諒助は立ち上がりながらバルコニーへと出た。「はい、一人です」「和久が怪我をしたわ。それも軽くなさそうよ」小百合は事務的な報告のように、冷徹に告げた。その声は極めて冷静で、孫の怪我を心配する温かな感情など微塵もなかった。諒助はすぐに意図を察した。「確かな情報ですか?」「確かよ。和久のすぐそばにいる人間から入ってきた話だから。今からそっちの別荘へ向かうわ。一緒に顔を見に行きましょう」「住所だけ教えていただければ、一人で行きます。わざわざ足を運ばれなくても」「あなた、知らなかったの?和久もあなたと同じ分譲地に越してきたのよ」その瞬間、諒助の心臓が不快な音を立てて跳ねた。理由のわからない焦燥感とともに、ある恐ろしいイメージが脳裏をよぎった。「どこの棟ですか?」「まあ、焦らないで。実際に目で確認してから公表するのよ。その後、体調不良を大義名分にして、あなたに和久の代理を任せるわ。たとえ回復したとしても、権限を取り戻すのは容易じゃなくなるから」小百合は、諒助が後継ぎの座を急いでいると勘違いしていた。だが諒助が焦っていたのは、まったく別のことだった。電話を切ると、すぐにウォーカーヒルの寮へ電話をかけた。「西園寺茜は昨夜寮にいたか?」「いえ、おりませんでした。一度戻ら
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第193話

「困ったものね、もうすぐ結婚するというのに、まだこんなに落ち着きがありませんわね。記理子が今週戻ってくるそうだから、絵美里を連れて一緒に食事をなさいな」「わかりました。それより兄さんのところに行くのでしょう。行きましょう」諒助はネクタイを苛立たしげに乱暴に整え直し、小百合の言葉などほとんど右から左へと聞き流していた。小百合は、諒助が和久の怪我を確認するために急いでいるのだとばかり思っていた。「そんなに焦らなくてよくてよ。今回の話は確かです。和久は逃げられはしないわ」諒助はうなずき、小百合の手を引き、和久の別荘へと歩みを進めた。しばらく歩いて、諒助はやっとおかしな点に気づいた。二人の別荘が、これほどまでに近いのか。理由のわからぬ黒い不安がみるみる膨らんで、今この瞬間、茜が和久の腕の中にいるような気さえした。……そう。茜は確かに、和久の腕の中にいた。配達員から新鮮な野菜を受け取るや否や、茜はすぐにキッチンへと篭もった。ところが農場の野菜には朝露と泥がついたままで、洗っているうちに床には泥がいくらか散らばってしまった。茜は洗い終えた自分の手を見て、後で拭けばいいかと後回しにし、急いで野菜粥を煮込み始めた。工程を一つ一つこなしていくうちに、床に落ちた水を含んだ泥は、いつしか油断ならないほど滑りやすくなっており、危険な状態になっていた。仕上げの煮込みに差し掛かったとき、そのことをすっかり忘れていた茜は、その上を踏んでしまい、盛大に体勢を崩した。頭が棚の角に激突する一瞬前、一本の力強い腕が茜をさっと引き戻した。男の温もりに包まれるように抱きとめられ、消毒液のツンとした匂いと、どこか冷たく澄んだ香りが鼻先を掠めた。「ぶつけたか……っ!?」和久の声には、珍しく焦燥の色が混じっていた。茜は慌てて首を振った。「大丈夫、です」それきり周囲は静まり返り、火にかけた鍋の音だけが響いていた。ぐつぐつ、ぐつぐつ……茜は自分の心臓も、泡立つ湯気と一緒に激しく高鳴っているような気がした。和久が鍋に一瞥をくれた。「俺のために?」「はい」茜の耳がほんのり熱を帯びた。なぜだか、和久の低い声がやけに甘く響く。照れ隠しに何か言おうと口を開きかけたとき、若彰が血相を変えてキッチンに飛び込んできた。抱き合う二人
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第194話

突然の問いに、茜は一瞬頭が真っ白になった。だが腰に添えられた手の温もりを感じた瞬間、茜は思考を介さず口を開いていた。「……っ、お兄様。私はどうすればいいですか?」何と言われようと、和久は茜を命懸けで助けてくれた。それだけは揺るぎない事実だ。答えを聞いた和久が、わずかに目を瞠り、茜の手を引いて足早に階段を上がっていった。「後は玉城に任せる」「わかりましたっ」茜は急いでついていき、寝室に入った。辺りを見回す暇もなく、広いベッドの上に押し倒されるように促された。和久は背を向けて言った。「服を脱いで、布団に潜り込め」「…………」茜は一瞬戸惑ったが、すぐに状況を察し、上着とセーターを急いで脱ぐと素直に布団へと滑り込んだ。どう切り出そうか考えているうちに、和久は血の滲んだ服を無造作に脱いでクローゼットの中へ放り込み、そのまま布団に滑り込んできた。熱い肌が触れ合った瞬間、茜はあやうく声を上げそうになった。和久が茜の上に体を覆い被せ、片手でその口を封じた。「静かに」「……これで本当に、大丈夫なのですか?」茜はその手をそっと外して尋ねた。「おそらく」「おそらく?」茜は目を見開いた。こういう事柄は男性のほうが詳しいのではないのか。なのに和久の口から、これほど曖昧な言葉が出るとは。まさか……経験がない、とか?探るような視線を感じたのか、和久はすっと目を逸らした。以前の彼とは、何かが決定的に違う。茜は笑いたい気持ちをぐっと堪えて、布団越しに和久の体を軽く押し戻した。「それだけじゃ足りません。お酒は置いてありますか?」「枕元の酒棚にある」和久は壁一面をなしているガラス張りの戸棚を指した。そこには多種多様な高級酒がずらりと並び、照明を反射した色とりどりのガラスが、妖しく美しい光を放っていた。茜は毛布を体に巻き付けてベッドを下りると、棚から酒瓶を二本取り出した。まずテーブルに少し垂らし、グラスに一口分ほど注ぐ。もう一つのグラスにも同じように注いだ。続いて、ポケットから口紅を取り出して唇を彩ると、グラスの縁にいくつか艶やかな口紅の跡を刻んだ。これで部屋にアルコールの香りが立ち込めた。だが、まだ何かが足りない。茜はひらめいて振り返り、和久を見た。「お兄様、タバコに火を点
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第195話

和久は低い声で囁いた。「経験がない、と言ったか?」「…………」別に、証明してほしかったわけではない。どうしていいかわからなくなった次の瞬間、二人の間に毛布がそっと滑り込まされた。「包帯に血がついている。君の肌を汚すわけにはいかない」和久の声は低く、静かだった。その一言で、茜の気恥ずかしさがすとんと消えた。体の周りに、やわらかな何かが生まれたような気がした。礼を言おうとした矢先、外から慌ただしい足音と話し声が聞こえてきた。扉の外。若彰が階段の入り口に立ちはだかり、口を開いた。「小百合様、諒助様、ただいまボスは少々お取り込み中ですので……」「兄さんが今日会社に来ないから、おばあ様が心配されてわざわざお越しくださったんだ。何が不都合だというんだ」諒助が不快そうに、尊大に言い放った。「諸事情により、立て込んでおりまして」「退け」揉み合うような音が響いた。諒助が力ずくで押し通ろうとしているのは明らかだ。諒助という人間は、一度やると決めたら一歩も引かない。それでも若彰は立ちふさがり続けた。「申し訳ありませんが、お通しすることは叶いません」すると、鋭く冷徹な失笑が漏れ聞こえた。「戻ってきてから随分と不遜になったものね。目上の者の前で偉そうにして、二、三日権限を与えられたからといって何でもできると思ったら大間違いよ」この声は、茜にとって一生忘れられない。小百合だ。茜に対しては、言葉を交わすことさえ惜しんだ。代わりに返ってくるのは冷たい鼻鳴らしと、人を虫けらのように見下す蔑みの眼差しだけだった。今も、小百合の冷酷な表情が脳裏にありありと浮かんだ。だが、この部屋にいるのは和久だ。小百合の実の孫である。それなのに、なぜこれほどまでに冷淡に扱うのか。柏原家にいた頃、小百合が諒助を異常なまでに溺愛していたことを、茜はよく知っていた。諒助が欲しがるものは何でも与えられ、海外出張のたびに食事が合わぬだろうと専属料理人を同行させ、会議を欠席したいときには小百合が口を利いて、諒助自身が何も言わずとも済むよう便宜を図っていた。だからこそ、諒助と交際を始めた当初、茜は二人の仲を公にさえすれば、柏原家も認めてくれると信じていた。諒助を皆が愛しているのなら、彼が選んだ相手も、いつかは受け入れてもら
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第196話

布団が引き剥がされる寸前、和久が強引に茜を引き寄せ、布団をしっかりと押さえ込んだ。そのまま茜の頭を自らの胸に抱え込み、視界から完全に隠しおおせた。和久の熱い体に触れた茜は思わず息を飲んだが、今はそれどころではない。体をぴたりと寄せたまま、それが和久の体温なのか自分の頬の熱なのか、境目すら曖昧になっていた。茜の見えないところで、和久がゆっくりと顔を上げた。漆黒の瞳が凍りついたように冷酷な光を放ち、部屋の空気を一瞬にして凍てつかせた。口を開く前から、肌を刺すような緊張感が走った。「諒助、俺の私事に、お前が口を挟む必要があるのか?」「ちがっ……素性の知れない女に近づかれないか心配で」諒助はまだ布団の端を掴んだまま、和久の腕の中の頭部を憎々しげに睨みつけていた。布団ごと射抜くような眼差しだった。「お前こそ、自分の女の躾をしっかりしろ。まだ柏原家に籍も置いていない女が、柏原の名を笠に着て好き勝手振る舞っている。それをまず正せ」「絵美里は若いだけです、悪気なんてない!」諒助は反射的に声を荒らげた。諒助という男は我執が強い。自分が選んだ女は、誰にも侮辱されることなど許さない。たとえ相手が実の兄であってもだ。「そこまで必死に庇うということは、俺の指摘が図星だということだろう?」「……っ」諒助は言葉に詰まった。それを見た小百合が前に歩み出て、声を尖らせた。「和久!弟に向かって何という物言いですか。あの子だってあなたの身を案じているのよ!」「本当に案じているなら、他人の寝室に土足で踏み入り、布団を剥がすような真似はしないはずだ。それとも、別の思惑でもあったのか?」和久は小百合に対しても、一切の容赦を見せなかった。小百合はぐっと拳を握り締めた。「無礼者!誰がそのような口のきき方を許しました!」諒助が小百合を支えるように寄り添い、眉を寄せて言った。「兄さん、おばあ様はわざわざ心配して来てくださったのに、そこまで悪意に取るのは行き過ぎじゃないか。それとも、よほど後ろめたいことでもあるのか?」その言葉を聞いた瞬間、茜は思わず身を固くした。子供の頃から抱いていた男の子への美しい思い込みが、長い間、茜を盲目にしていたのかもしれない。茜の心の中で、諒助はずっと頼れる優しい兄のような存在だった。彼から受ける
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第197話

だが諒助はひるまなかった。ベッドの端に立ったまま、冷たく言い放った。「和久、怪我をしているなら、なぜ隠した?」言い争っていた長老たちが、水を打ったように静まり返り、驚いた顔で和久を見た。「和久、怪我をしているのか?」「していません」和久はきっぱりと否定した。「ふん」小百合が忌々しげに鼻を鳴らした。「和久、心配してあげているのに隠し立てをして、いったいどういうつもりなの?」「隠すに決まっています。それとも、衆人環視の中で見世物にした方がよろしいですか?」長老の一人が呆れたように言った。「本当に大怪我をしているなら、女を侍らせる余裕などあるはずがないだろう」「女を呼べば、怪我を隠蔽できるじゃないですか」諒助が食い下がった。そして布団の中の頭部を上から見下ろし、命令するような傲慢な口調で続けた。「今すぐ布団から出てきなさい。怒りはしない。だが、出てこないというなら、それなりの手段をとる」茜は肩を震わせた。思わず反射的に身をよじりそうになった。もしかして、諒助は自分だと気づいているのか。だが和久がさらにきつく茜を抱き寄せ、軽く鼻で笑って言った。「諒助、俺の抱く女にまで、お前が指図するつもりか?」諒助と和久の視線が激しくぶつかった。茜には見えないが、二人の間に火花が散っているのが肌感覚でわかった。「兄さん、いつからそんなに臆病風に吹かれたんだ?それとも、そこにいる女に見られたら困る理由でもあるのか?」「疚しい人間などここにいない。見せるかどうかは、俺が決める」和久の声音は氷のように冷えきっていた。目を細めてさらに続ける。「さんざん俺を刺激するようなことを言ってきたが、どこから何を耳に入れた?」「どういう意味だ?」諒助が一瞬詰まった。和久は腕の中の茜をしっかりと抱いたまま、泰然とした様子で扉の方へ視線を向けた。「あの男に聞けばわかるだろう」全員が振り返ると、若彰がひとりの男を締め上げ、引きずり出してきた。ドサリという鈍い音とともに、男が床に這いつくばって懇願した。「和久様、申し訳ありませんでした!虚偽の報告をいたしました。最近ツキに見放されて借金を作ってしまい、それで……和久様が怪我をされたと吹き込んでしまいました!」茜はその声に聞き覚えがあった。昨夜、和久を診察した
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第198話

「……茜?」諒助の鋭い声が空気を裂き、茜は背筋が凍る思いがした。以前の自分なら、彼が声を聞き分けてくれたことを素直に喜べただろう。だが今は、ただ恐ろしい。茜は反射的に顔を和久の胸に深く押し当てた。和久は一瞬固まったが、茜を強く抱き寄せたまま微動だにしなかった。諒助が振り返り、手を伸ばした瞬間、和久がその手首を万力のように掴み取った。「諒助、度が過ぎるぞ」「兄さん、たかが女ひとりじゃないか。兄さんがこんなに執着するはずがない」諒助は引かなかった。二人の男が、無言のまま恐ろしい力で牽制し合った。しばらくすると、二人の手の甲にどくどくと青筋が浮き上がってきた。茜はしばらく息を潜めていたが、腰の辺りにぬるりとした生温かい感触を覚え、視線を落とした。和久の傷口から、新しい血がにじみ出していた。力を込めたことで、傷がまた開いてしまったのだ。このままでは怪我を隠蔽しきれない。茜は一瞬の逡巡の後、覚悟を決めた。和久の首に腕を絡ませ、声を極限まで高く絞り、あざとく甘えた嬌声を上げた。「んぁっ……和久様ぁ、怖いですぅ……」自分で口にしながら、鳥肌が立つような台詞だった。だがその媚びを含んだ嬌声を聞き、諒助は握られていた手をすっと引き抜いた。これは絶対に茜じゃない。あれほど気が強く、プライドの高い女が、こんな三文芝居のような媚びた声を出すはずがない。諒助は赤くなった手首を揉みながら、冷笑を浮かべてみせた。「すまない、聞き間違えたようだな。では、邪魔をした、兄さん」「ああ」和久の腰からは血が流れ続けていたが、その表情には一片の苦痛も浮かんでいなかった。眉一つ動かさなかった。諒助はようやく部屋を出て、足早に小百合の後を追った。階段を下りながら、小百合が声を潜めて言った。「何かおかしいわね」諒助は首を横に振り、確信を持って答えた。「怪我はしていません。俺が八、九割の力で手首を押さえ込んでいたのに、怪我人ならあんな力は出せないはずです。それに部屋の様子も観察していましたが、二人で酒を飲んでいた痕跡がありました」小百合は手すりを掴みながら言った。「これ以上は追及しないわ。あなたと和久が対立しているという噂が立てられれば、あなたの立場が危うくなる」「わかっています」「記理子もじきに戻っ
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第199話

「ちょっとお兄様……」「っ……」和久は喉の奥で痛みを噛み殺し、そのままベッドに倒れ込んだ。茜は腰の辺りで赤く染まった包帯を見て、文句をすべて飲み込んだ。床に落ちた服を拾い、着替えてからベッドを下りると、膝をついて和久の傷口を覗き込んだ。包帯をほどいてみて、茜は息を飲んだ。あれほど身のこなしが鋭い人だから、怪我といっても大したことはないと思い込んでいた。それが、刃物による傷はずいぶんと深く、縫合の痕も痛々しいほど雑だ。高い診察料を取るくせに、あの悪徳医師の所業はどういうことか。「……やっぱり病院に行ったほうが」「大丈夫だ。それより先に下へ行っていてくれ」和久は感情を交えず、顎で外を促した。茜は立ち上がろうとしたが、和久が引き出しを開け、中から薬の包みを取り出すのが目に入った。その澱みない手つきが、茜の胸に引っかかった。慣れている。この痛みに、この孤独な処置に。茜は再び膝をついて、包帯に手を伸ばした。「私がやります」和久がその手を押さえた。「恩返しのつもりなら、気にしなくていい」「お礼じゃありません」茜の声は穏やかだったが、手はもう動き始めていた。西園寺家が没落したばかりの頃、後ろ盾を失うや否や、借金取りや悪意ある者たちが追い詰めてきた。十四歳の茜は何度も逃げ回るうちに体を傷つけ、歯を食いしばりながら自分で薬を塗っていたのだ。あの一瞬、茜の頭に浮かんだのは、和久の境遇だった。莫大な権力という装甲を剥ぎ取れば、この人も両親を失っている。記理子はどれほど良くしてくれても、血を分けた母親ではない。小百合は徹底して諒助に肩入れする。母方の家族は、聞いたところでは関係が複雑で頼りにならないらしい。どちらを向いても身内のはずなのに、どこにも安らげる居場所がない。その骨の髄まで冷えるような孤独を、茜はよく知っている。丁寧に包帯を巻き直すと、傷口の血も止まった。茜は布団を引き寄せ、和久にそっとかけた。顔を上げると、和久はもう静かに目を閉じた。茜は静かに立ち上がろうとした。その手が、温かく握り止められた。「茜」「はい?」茜はその場に立ったまま、動けなかった。三秒後、温もりが手首から指先へと滑るように離れ、ふっと消えた。何かを言いかけて、言わなかった。あるいは、言葉に
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第200話

電話を切ると、向かいに立つ若彰が、痛ましげな眼差しで茜を見ていた。「諒助様ですか?」「はい」茜はかつての関係を知られたくなくて、さらりと答えた。「仕事の話みたいで」若彰は何か言いかけて、やめた。茜は「では失礼します」と言ってドアへ向かいかけたが、諒助の別荘が目と鼻の先にあることを思い出し、足が止まった。突然呼び出したのは、先ほどの嫌疑を確かめるためではないか。もし和久の部屋にいた正体を見破られていたなら、さっきの命懸けの芝居がすべて水の泡になる。そう考えていると、目の前に紙袋が差し出された。「これに着替えてから出てください。脱出の手立ては私が考えます」「ありがとうございます」茜が受け取ると、若彰が付け加えた。「ボスの意向です。あなたに迷惑をかけたくないと」「お兄様が……」茜は反射的に二階へ目を向け、すぐに気持ちを切り替えて、真剣な顔で言った。「では、彼にお伝えください。秘密は必ず守ると」若彰はぽかんとして、茜が着替えに消えた後もしばらく動けなかった。「あれほど密着しておいて、色気の一つもないのか……」茜が再び現れたとき、若彰と同じ男物の作業着に着替え、髪を帽子の中に収め、マスクをつけていた。「これで本当に大丈夫でしょうか」「諒助様の手先はあまり近づけません。私の車ですり抜ければ、誰の目にも留まりません。車は近くの駐車場に止めておいてください。退勤後に私が取りに行きます。鍵は預けておいてもらえれば」「わかりました」茜は帽子を深く被り、俯き加減に車に乗り込み出発した。ほぼ同時に、和久が二階から下りてきた。指の間でタバコを燻らせながら、茜の去っていく後ろ姿を静かに見つめていた。若彰がすぐに口を開いた。「ボス、ご安心ください。監視の目を誤まかす細工は済ませてあります。ただ……西園寺さんはまた諒助様のもとへ行かれたようです」「そうか」和久はダイニングテーブルの前に腰を下ろした。若彰が野菜粥を一椀運んできた。和久はひとくち啜り、静かに言った。「あいつの胃の腑に収めるには惜しいな」若彰はあやうく笑いそうになった。普段は味に口うるさいボスが、よくわかるものだ。だがいくらわかっていても、それ以上前に進もうとしない。若彰は気を取り直して言った。「ボス、小百合様がお帰り
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