All Chapters of 明日、私は誰かの妻になる: Chapter 241 - Chapter 250

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第241話

当時の茜は、男だ女だと意識する余裕もなく、必死で諒助のシャツを脱がせた。背中に広がる血の筋を目にした瞬間、思わず胸が締め付けられた。諒助はそんな茜を抱き寄せ、「大丈夫だ」と宥めてくれた。その時になって初めて、自分が彼の体にこれほど近く寄り添っていることに気づき、茜はひどい羞恥を覚えた。慌てて離れようとした瞬間、諒助が強引に唇を重ねてきた。そのまま、抗う間もなくソファへと押し倒された。諒助の体はよく引き締まっていたが、今目の前にいる和久が纏う、あの凄みのある冷酷な緊張感とは決定的に違うものだった。しかし、十八、九歳だった当時の茜に、男性の体を比較する基準など持ち合わせているはずもない。あの頃の彼女にとって、諒助という存在は絶対的な存在として映っていたのだ。だが、次の段階へ進もうと彼が手を伸ばした時、茜は冷や水を浴びせられたように現実に引き戻された。諒助は身を固くする茜を鼻で笑い、勿体ぶっているんじゃないかと揶揄った。そして、「素直に受け入れることを覚えろ」と吐き捨てたのだ。そのたった数言が、茜の胸の中で熱を帯びていた何かを一瞬にして凍りつかせた。その言葉がどうしても許せず、茜は諒助を突き飛ばした。最終的に、茜の手が誤って諒助の擦り傷に触れてしまったことで、その場の甘い空気は完全に霧散した。しかしあの夜以来、茜は「体の関係」というものを本能的に避けるようになった。事あるごとに、あの時の冷酷な言葉が脳裏に蘇るのだ。茜が少しずつ自分の心を開き、彼にすべてを委ねようとしていたその間、諒助はただ、絵美里が海外にいて生じていた「空白」を埋めるための、都合のいい存在を求めていただけだったのか。ぼんやりとした痛々しい回想を振り払い、茜は俯いて和久の傷口の処置に専念した。幸い、傷の状態は悪化していなかった。新しい包帯を巻き始めると、頭上から低い声が降ってきた。「さっき、否定しなかったんだな」「…………」テープを引き出す手が、ピタリと止まった。何のことだろうと一瞬考え、ようやく思い当たった。先ほど大家に「お連れ様ですか」と尋ねられた、あの場面だ。茜は、つい先ほど心の中で和久の気遣いを褒め称えた言葉を、そっと撤回した。「あの……大家さんが詮索好きなので、まともに答えたらきっとまた面倒な質問攻めに遭ったはずなんです」
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第242話

その卑劣な言葉に、茜は言葉を失った。怒りを見せていた向かいの住人でさえ、あまりの剣幕に固まっている。だが、すぐにその住人は野次馬根性に火がついたようで、スマホを構えてこちらへ向けた。茜は居たたまれなくなり、力任せにドアを閉めようとした。しかし諒助は体ごとドアに割り込み、押しつぶすような勢いで無理やり室内へ侵入しようとする。茜の腕力が限界に近づきかけたその瞬間、背後から力強い手が伸びてきた。ドアはわずか数センチの隙間まで押し戻され、茜と諒助の間には、互いの顔の半分だけがようやく見える状態になった。諒助が外からいくら力を込めても、ドアはびくともしない。彼の目に、血走ったような光が宿った。「もう一度だけ言う。開けろ!」「諒助さん、私もはっきりと申し上げます。あなたをこの部屋へ招き入れるつもりは微塵もありません。お引き取りください」茜は別の住人が新たにドアを開ける気配を視界の端に捉えながら、あえて誰にでも聞こえるよう直接的に言った。「あなたは今、一体何の立場で私に命令しているんですか?今は勤務時間外です」諒助は茜を責め立てるような目で睨みつけた。「茜、なぜそこまで自分を惨めな立場に貶めなければならないんだ?」茜の目の色が、すっと冷ややかに変わった。彼に対する未練や怒りすらも完全に消し去り、ただの他人として諒助を見据える。「私を惨めにしているのは、他でもないあなたです。私を傷つけ、貶めてきたのは、いつだってあなた一人だけでした。他に誰もいない。今さら私のためを思っているような、そんな薄っぺらい善人ぶるのはやめてください。あなたにそんな資格はありません」諒助の表情が、一瞬だけ激しく揺らいだ。ほぼ同時に、茜の背後に立つ男が一切の容赦なく力を込め、ドアを完全に閉め切った。外の煩わしい視線が遮断され、茜はゆっくりと長い息を吐き出した。顔を上げて和久を見る。茜は申し訳なさに唇を引き結んだ。「すみません、こんな騒ぎに巻き込んでしまうとは……」一瞬、茜は彼に全てを打ち明けてしまいたい衝動に駆られた。諒助との隠された過去も、あの「片思い」などという話が全て都合のいい嘘だったことも。でも、言葉が形になりかけた瞬間、自分の人生の最も惨めな汚点を掘り起こすような気がして、やはり誰にも知られたくないという防衛本能が上回った。諒助があの頃、茜という存在を公に認めようと
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第243話

画面の向こうの美香は、しばらく沈黙した。和人は確かに、今回の件では法の手を逃れた。しかし彼が放った火の粉は、今や琳果と諒助にも容赦なく降りかかっている。選ばざるを得ない道は、すでに目の前に用意してある。つまり、諒助に、どちらを取るのか直接問いただせばいい。【分かったわ】その短い返信を見つめながら、茜は生まれて初めて、物事に直接自分の手を突っ込むことなく、少し引いた安全な場所から盤面を動かすという静かな快感を味わっていた。以前のように、自分が矢面に立って泥を被るより、ずっと楽で確実だ。これもすべて、和久の采配のおかげだ、と茜は思う。お茶のお湯が沸くのを待つ間、茜はネットの反応を素早く確認した。当然ながら琳果と和人も相当な批判を浴びていたが、今一番激しく炎上しているのは、他でもない諒助と絵美里だった。働く人間が最も共感し、同情するのは、同じ働く人間なのかもしれない。茜が権力者たちに囲まれ、無理やり酒を飲まされているあの映像を見た人々が、自分が接待の席で理不尽に飲み干してきた数々の夜を重ね合わせたのだろう。【諒助さんと手塚さんって、前はこっちが羨ましくなるくらいお似合いに見えたけど、今回の一件で二人のクズっぷりが露呈したわ。自分たちは仕事中に酒飲んで遊んでるくせに、部下も巻き込んで盾にしないと気が済まないの?何か問題が起きたら全部部下に押し付けるし、末端の社員を使い捨ての駒としか思ってないの?】【柏原家に生まれてないからいけないのよね。大した実力もないのに、男のコネだけで副主任なんて役職にゴリ押しで就ける人も世の中にはいるんだから】【手塚さんの留学先、親戚がちょうど同じ学年にいて聞いたんだけど、彼女って向こうじゃ有名なパーティー三昧の遊び人だったらしいわよ。優等生?笑わせないで。あの大学には二種類の学生しかいないのよ。実力で入ったガチ勢か、親の金で学歴を買う寄付金枠かよ。学校側もいいカモだよね】【諒助さんって、ずっと有能で誠実な後継者みたいに持ち上げられてきたけど、今見たら全然違うじゃない。部下への気配りはゼロ、業務上の公平さもない最低の上司。ただの無能な御曹司じゃん】諒助がこれまで慎重に積み上げてきた完璧な評判は、今夜のたった一つの騒動で、ほぼ完全に崩れ去った。でも、彼が自分の立場を棒に振るほど絵美里を愛し
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第244話

ファイルを読み終え、茜はふと首を傾げた。「お兄様、なぜこれを私に?」「身を守るためだ」和久は淡々と言った。「俺が常に間に合うとは限らない。いざという時、これだけあれば平野と斎藤家の間で交渉のカードになるだろう」茜は少し呆然とした。スマホが充電の熱で温かいのか、それとも自分の掌が熱を帯びているのか、判然としなかった。ただ、何か温かなものが体の奥底からじんわりと広がっていくような感覚がした。高鳴る気持ちを落ち着かせてから、茜は聞いた。「お兄様、これを使って諒助さんを追い詰めるおつもりですか?」和久がわずかに眉を寄せた。「……君がそうしたいなら構わないし、嫌ならそれでいい」諒助と四年間を共に過ごしていたのだ。いざという時に踏ん切りがつかなくても不思議ではない。これ以上言っても意味がないと、和久は言葉を飲み込んだ。「ううん、嫌じゃありません」茜は即座に否定した。「それで、どうするつもりだ?」「今の状況を考えれば、諒助さんは間違いなく自分の立場を守ることを優先するはずです。絵美里のイメージはもはや取り返しがつかない。諒助さんという最大の後ろ盾を失えば、絵美里は改めて琳果にすがりつきます」「斎藤琳果に当たって、どうなる?」「和人の本当の姿を伝えれば、いくら恋愛に盲目になっていても、斎藤家のことは考えるはずです」「茜、君は今、感情を前提にして計画を立てている」和久が静かに指摘した。「今の斎藤琳果に、果たしてまともな感情が残っているかどうか、俺には分からないぞ。本当に平野を愛しているというなら、なぜ介添え人の凄惨な件であれほど反応が薄かった?それなのに平野が罪に問われそうになると、あれほど必死になって庇う」「つまり……これほどの証拠を突きつけても、琳果は動じないということですか?」「ああ。君の持つ証拠は、平野が底知れぬ悪意を持つ人間だということを証明できても、斎藤琳果自身の利害には直接触れない。諒助と同じだ。自分の利益が傷つかない限り、トカゲの尻尾切りなど何とも思わない人間たちだ」和久の言葉は淡々としていたが、確かに核心を突いていた。茜の脳裏に、これまで都合よく切り捨てられ続けてきた自分の惨めな姿がふっと浮かんだ。その時、和久のスマホが短く鳴った。電話を取った彼は、茜をちらりと一瞥してから、冷え切った声で短く答
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第245話

諒助に何度電話をかけても、すべて拒否された。あの人が今、茜のところへ行っているのは、火を見るより明らかだった。屈辱と悔しさを抑え込みながら病室を出ると、聡史が担当医の部屋に入っていくのが見えた。絵美里は足早に近づき、少し開いた扉越しに耳を傾けた。「先生、手塚さんに脳への影響はないと、はっきりと確認できますか?」「ええ、ありませんよ。当院の記録に残っている唯一の手術歴は、過去の虫垂炎の腹腔鏡手術だけです」と医師が答えた。「時間が経てば、当時の傷跡が完全に消えて残らないこともあり得ますか?」「いいえ、必ず医療記録が残りますし、よほど微細な傷でない限り、体に痕跡は残ります」聡史は黙り込んだ。彼の心の中では、すでに答えが出ていたのだ。医師と別れて歩きながら電話をかけようとした聡史は、背後に迫る絵美里の存在に気づいていなかった。「諒助様、先生に確認を取りました。手塚さんのことなんですが……」パン、と硬い音が響いた。聡史が油断した隙を突き、絵美里がスマホを奪い取って床に叩きつけたのだ。聡史は瞬時に絵美里の腕を掴み、人目のある廊下から空き部屋へと引きずり込んだ。「手塚さん、一体どういうおつもりですか?」「諒助さんに何を吹き込もうとしたの!」絵美里は夜叉のような形相で、聡史の目の前で激しく声を荒らげた。「決まっています。あなたが彼の探している『本人』ではないという事実を、お伝えしようとしていました」聡史は一切の容赦なく単刀直入に告げた。「ダメ!絶対に言わないで!」絵美里は必死の形相で聡史の前に立ちはだかり、その瞳には明らかな混乱と恐怖が浮かんでいた。「なるほど、認めたということですね。ところで、諒助様の苛烈な気性は、ご存知のはずです。無駄な抵抗はおやめください」聡史は絵美里を冷たく押しのけ、ドアへ向かおうとした。絵美里はよろけ、ベッドの端に力なく腰を落とした。そして、背を向ける聡史を射殺すように睨みつけた。「綾辻さん、もし私が全てを失って終わるとして、あなただけは無傷で済むと思っているの?忘れてないわよね、あなたも私と結託して、茜を追い詰めた共犯者よ」「西園寺さん?……どういう意味ですか」聡史の声が、微かに強張った。「教えてあげるわ。当時の条件に合致する少女を密かに調べたら、私以外に
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第246話

聡史から「検査の結果、彼女が本人で間違いない」という報告を受けると、諒助はすぐさま病院へと駆けつけた。その報告を前にして、絵美里こそが自分が長年探し求め続けてきた少女だという確信を、彼は改めて深めていた。一瞬でも彼女を疑った己を恥じ、そのままベッドの絵美里を強く抱き寄せた。「頭は、もう痛まないか?」「大丈夫よ。ただ……目が覚めた時にあなたがそばにいなくて、少し怖かった。どこに行っていたの?」絵美里が潤んだ瞳で見上げた。「あ…………」諒助は答えなかった。自分でもよく分からなかったのだ。警察署で茜と和久が並んで座っているあの光景が頭から離れず、ただ無性に腹が立った。その上、大家から「茜が男を連れて部屋へ帰った」という報告を受けたのだ。気づけば、絵美里を置いて衝動的に飛び出していた。男の顔は確認できなかったが、茜が完全に自分の手の届かない場所へ行こうとしている——その得体の知れない喪失感が、じわじわと諒助の心を苛んでいた。そこへ、絵美里こそが件の少女であるという報せが届き、感情が複雑に絡み合ったのだ。絵美里は諒助が沈黙しているのを見て、殊勝に頭を下げた。「ごめんなさい、諒助さん。私、本当に間違っていたわ。平野和人がそこまで酷い人だとは思っていなかったし、私はただ……茜さんがあなたのそばにいるのが、どうしても嫌だっただけなの」その言葉に、諒助の中で張り詰めていた何かが微かに和らいだ。「お前の件は俺がきちんと処理する。だが今は、ウォーカーヒルで兄さんが仕切っている状態だ。和人の件はまだ終わっていない。お前はもう、斎藤家の結婚式にはこれ以上関わるな」「諒助さん、結婚式自体がなくなるということなの?でも、契約書はすでに交わしているわ。もしこちらから破棄すれば、施設にとっても、あなたにとっても多大な損害が……」絵美里が心配そうに言った。せっかくの莫大な商機が、全て茜のせいで台無しになってしまったのだ。諒助は少し考え込んだ。頭の中に、茜が別の男と一緒にいる光景が忌々しくちらつく。今や茜は、世間からは完全な被害者として同情を集めている。このまま放っておけば、茜は二度と自分の思い通りにはならなくなるだろう。しばらく思案してから、諒助は目を細めて冷徹に告げた。「式の全責任を、茜に持たせろ」要するに、全ての重荷とリス
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第247話

写真に映る人物を見た瞬間、諒助は全てを察した。茜の母親、西園寺芙美だ。しかし彼の知る限り、美香は西園寺家の人間とは面識がないと言っていたはずだ。それなのに、なぜ茜の母親と親しげに写真に収まっているのか。茜が斎藤家の件に首を突っ込んでいた理由が、ようやく腑に落ちた。諒助は気を取り直し、絵美里を横にさせて休ませた。「今日は遅い。ゆっくり休め。明日には全部うまくいく」「……はい」絵美里は素直に頷きながらも、視界の端で聡史を確認した。聡史は黙って諒助の後に続いて病室を出た。「綾辻、全て確認できたんだな?」「はい」聡史は目を伏せた。「よし。絵美里に万が一のことがあってはならない。桜井千代には何を言うべきで何を言うべきでないか、きつく念を押しておけ。それと……斎藤家の過去の記録を調べてくれ。特に十数年前のことを」「諒助様、それはどういった意図で……?」諒助は足を止め、訝しげに聡史を見た。「綾辻、最近やけに詮索が過ぎるぞ。一々説明してやらなければならないのか?」「……失礼しました。すぐに取りかかります」……翌朝。茜はひと晩ろくに眠れなかった。常に誰かに見られているような、漠然とした不安が抜けなかった。スマホを手に取ると、不動産会社から連絡が入っていた。【西園寺様、ご希望の条件に合う物件が二件あります。まずご覧ください】一件目は今の部屋と間取りも家賃もほぼ同じ。二件目は広めで家賃も上がるが、環境はずっと良かった。【一件目は立地も家賃もお手頃で、大家さんが階下に居住しているので、何かあればすぐに相談できます】それを読んだ瞬間、茜の興味は失せた。諒助は今の大家を抱き込んだのだ。別の大家が階下にいようものなら、同じことをする可能性は十分ある。改めて二件目を見ると、細部に自分の好みと合うものが多かった。広めのダイニングと収納棚。気心の知れた友達が数人集まって、食べたり飲んだりできる空間。今の部屋はあまりにも手狭で、テーブルを置いたら台所に横向きで入るしかない。とはいえ、家を空けがちな身が大きな部屋を一人で借りるのも勿体ない気がした。考えているうちに、また連絡が届いた。【二件目は大家さんが海外赴任中で、年に二、三度しか戻られません。女性の入居者に丁寧に使ってほしいと希望されています
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第248話

昼に星羅が到着した時、茜はすでに部屋の半分以上の荷物をまとめ終えていた。「こんな小さい部屋にこれだけの荷物が入ってたの」星羅は部屋に入るなり、足元の段ボールにつまずきかけた。「これ、すごく重いけど何が入ってるの?」「諒助にもらったものだけど、棚に押し込んだまま存在を忘れていたの。さっき出てきたから、全部捨てるわ」茜は無表情で他の荷物を詰めた。諒助に関するものに対しては、もう一切の気力が湧かない。星羅は鞄を置いてさっそく箱を開けた。「捨てるなんてもったいないよ、諒助さんがくれたものだし——」中身を見て目を丸くした。「柏原家の次男坊ともあろう人が、こんな安物であなたを懐柔しようとしたの?絵美里の時みたいに、宝飾品やら何やらを山ほど贈らせて、それであなたを丸め込んだのかと思ってたけど……よくもまあ、これだけガラクタばかり集めたものね。駄菓子のおまけのようなマグカップに、露店の叩き売りワゴンに並んでそうなアクセサリー?それにこの百均レベルのヘアクリップ……こんなの、場所を取るだけで時間の無駄だわ。諒助さんも、逆に尊敬するわ。彼の住む世界で、ここまで価値のないゴミを探し出すほうが、よっぽど難しかったんじゃないかな?」星羅が小さなプラスチックのクリップを手に取って眺めた。カチッと音がして、上についていた小さなイチゴが外れ落ちた。茜はそれを拾い上げて、しばらく静かに見つめた。当時の思いが、少しだけ遠くへと向かった。「最初に記理子さんと一緒に柏原家へご挨拶に行った時、周りの空気が怖くてたまらなかった。自分の誕生日も忘れるくらい、ずっとびくびくしてたの。その時、諒助が小さなケーキを買ってきてくれて、このクリップをプレゼントしてくれた。あの環境でずっとそばにいてくれたから、好きになれた。今思えば、あの頃の私になら、誰が優しくしてくれても同じように好きになっていたと思う。浮気したのは彼が悪いけど、私にも彼に寄りかかりすぎていたという問題はあったのよ」「あなたは何も悪くないよ!」星羅は力強く言い切った。「少なくとも好きな時は一途に尽くしたじゃない。その想いを大切にしなかったのは向こうの方よ……それより、なんで急に引っ越すの?まだ契約期間内でしょ?」茜は昨夜のことをざっと話して聞かせた。星羅は目を見開いて茜の手を掴んだ。「つ
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第249話

星羅は袋から飲み物を出して、茜と並んで腰を下ろした。スマホでネットの反応を確認すると、星羅が顔を上げた。「ほら、諒助さんがコメントを出してる」茜は飲み物を置いて画面を覗き込んだ。諒助の声明は簡潔で、いかにも彼らしい計算が働いていた。絵美里との関係を職務上として切り離し、琳果については「パーティーを楽しんで酔った拍子に、担当スタッフの茜に一杯勧めただけ」と庇った。肝心の和人への言及は一切なかった。星羅が首をかしげた。「諒助さん、警察署では和人を助けたって言ってたのに、なぜ声明では触れないの?」「斎藤美香が裏で動いたんだと思う。自分の娘だけを守りたいなら、あの人たちは必ず固まって動く。和久さんが言っていた通りよ」「ということは、和人は完全に終わりってこと?」「まだよ。全部終わったわけじゃない」茜が言い終わった直後、スマホが鳴った。諒助からだ。茜は落ち着いて電話に出た。「諒助さん、何かご用ですか?」昨夜の怒りが嘘のように、今日の諒助の声は穏やかだった。「茜、昨夜は済まなかった。俺も少し焦りすぎた。お前は俺の母親が見守って育てた子だ。別れたからといって、誰とでも軽々しく一緒にいてほしくないと思ってな」気にかけているように聞こえる。でも茜はもう引っかからない。「諒助さん、そういうお芝居は結構です。用件を直接おっしゃってください」少し間を置いてから、諒助は落ち着いた声で本題を切り出した。「俺の声明に賛同してくれ。和人の件はそれで不問にする。十分な慰謝料を支払わせるよう平野和人に言っとくから、手配してやる」「お断りします」茜は穏やかに、しかし迷いなく言った。「拡散に加担するつもりもありません。和人を助けるかどうかはあなたの選択です。私は一切妥協しません」「今はまだ頭に血が上っているんだろう。少し経ったら俺が迎えに行く。落ち着いて二人で話し合おう」あの諒助がここまで譲歩を見せるのは珍しい。しかし表向きは歩み寄っているように見えて、実際は茜を折らせようとしているだけだ。「諒助さん、恩着せがましい脅しはやめてください」茜は冷ややかに笑った。「迎えに行く」しかし、茜の話など聞こえていないかのようだ。一方的に電話が切れた。「本当に相手の都合なんてお構いなしね。こちらの言葉が何も届かない人」星羅が
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第250話

「茜!もう一度言い直せ!」スマホから激しい怒りが溢れ出した。目の前にいたら、首を絞められかねない勢いだ。茜は深く息を吸った。「諒助さん、手塚さんとお幸せに。末永く、お二人で」「俺のことが怖くないのか?」諒助の声に、どこか奇妙で歪んだ色を帯びていた。「だから何だというんですか?社会的に抹殺するとでも?」今度は茜の方から言葉を突きつけた。「諒助さん、以前あなたと記理子さんに助けていただいたことは感謝しています。だから過去の恩をこれ以上汚さないでください。私は誰の愛人にもなるつもりはありません。そうなってしまったら、過去のあなたにも、必死に生きてきた過去の私にも申し訳が立たない」諒助は冷たく鼻を鳴らし、少し息をついた。「愛人はごめんだ、か?ならば和久と一緒になるつもりか!昨夜お前の部屋にいたのはあいつだろう」「…………」「ふん、少し親切にされたからって、すぐ他人に寄るのか?自分の立場を考えたことがあるのか?あいつの女になる資格さえ、お前にはないんだぞ」以前の茜なら、この言葉に傷ついていた。誰かに気に入られようと全てを捧げ、それで誠意が返ってくると信じていた頃の話だ。今は違う。諒助の言葉は何も刺さらなかった。「つまり、あなたは私を小さな親切で釣っていたと認めるんですね。記憶が戻っていなくても、耳も口もある。私がどう尽くしてきたか、聞けばすぐに分かることでした。そうやって四年間、尽くしてきた私を、都合のいい人形だとでも思っていたんですか」「…………っ!」電話越しに沈黙が流れた。諒助には痛いほど分かっていたのだ。茜がいかに得難い存在であったか、理解していた。賢くて美しくて、時に愛らしく、時に芯が強い。問題が起きればほとんどを自分で解決して、手がかからない。もし西園寺家がまだあれば、茜は西園寺家のお嬢様のままでいられた。全てが完璧だ。誰もが羨む理想の夫婦になれたはずだ。しかし現実は違った。諒助が言い訳を口にしようとした瞬間、茜が先に言った。「私は今、ただの一般人です。他の人の人生を決める力はない。でも自分の人生をどう生きるか、それだけは自分で決めることができます。もう二度と連絡してこないでください」迷いなく電話を切った。星羅が心配そうに見上げた。「大丈夫?あんなこと言って」茜は笑っ
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