All Chapters of 明日、私は誰かの妻になる: Chapter 301 - Chapter 310

311 Chapters

第301話

「私は誰も殺してなどいません。もし私が斎藤様を殺したとおっしゃるのなら、証拠を提示してください。無実の人間をこれ以上、理不尽に問い詰めるのはやめていただきたいです」茜は静かに微笑んだ。「茜!」諒助が不快げに目を細めた。「いいだろう。言い逃れができなくなって刑務所に入ってから後悔するんだな」諒助は担当刑事の理へ冷ややかな視線を移し、言い放った。「じゃあ、そのまま手続きを進めてください」理は頷き、手元の調書を開いて状況説明に入ろうとした。しかし数行目に目を通したところで、その顔からさっと血の気が引いていった。「なぜ黙っているんです?」諒助が苛立ちをぶつける。「気を使う必要はありません。どうせこいつは自白などするはずがないんですから」理は諒助をちらりと見上げ、苦しげに口を開いた。「斎藤琳果さんの供述によりますと……当時、西園寺は斎藤美香さんの救命処置を手伝っていたとのことで。斎藤琳果さん自身は恐怖のあまり母を抱き起こしていたため、西園寺が斎藤美香さんを階段から突き落とす場面は見ていないと……」そこで言葉を区切り、理は琳果へと顔を向けた。「……証言を覆すということですか?」「ええ」琳果はハンカチを取り出し、乾いた目頭をそっと押さえた。「あの日はあまりに怖くて、翌日は一日寝込んでしまって。落ち着いてよく考えてみたら、いかに見落としていた部分が多かったかに気づいたんです。母を殺した犯人を捕まえたい気持ちに嘘はありません。でも、無実の方を罪に問うわけにはいかないじゃありませんか。それで改めて、詳しくお話しさせていただきに伺ったんです」「ふざけるな!」琳果の父、斎藤伸一(さいとう しんいち)が椅子を蹴立てるように立ち上がり、娘を叱った。「死んだのはお前の母親だぞ。犯人を見逃すような真似をして、美香に化けて出られても知らんぞ!」琳果はハンカチを静かに膝に置き、父を見上げた。「……そういえばお父さん、お母さんはあなたの夢には出てこないの?昨夜ね、私の夢に来てくれたのよ。自分の人生は、まったく報われなかったって」伸一の顔がさっと蒼白になった。娘の言葉の真意を、瞬時に悟ったのだ。伸一は長年、愛人との間にできた子のために美香を苦しめてきた。離婚を切り出させようとして、あの手この手で精神的に追い詰めていたのだ。まさか美香がここまで
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第302話

その落ち着いた声を耳にした瞬間、茜は反撃の時が来たことを確信した。他の者たちと同じように、茜は扉へと目を向けた。和久が静かな足取りで入ってきた。偶然なのか意図的なのか、和久が羽織っていたのは茜とまったく同じコートだった。それまで誰も茜の服装など気にも留めていなかったが、並んだ二人を見比べた瞬間、室内の全員がすべてを悟った——茜がここまで無事でいられた理由を。諒助は一瞬固まった。茜と和久の間を視線が行き来し、テーブルの下でそっと拳を握りしめる。胸の奥で、激しい怒りが何度も燃え上がっては消えていく。もう少しで抑えられなくなりそうだった。「兄さんは最近ウォーカーヒルを離れていたんだから、こちらの事情に疎いのも無理はないだろう」「お前こそ、毎日ウォーカーヒルにいたのだから、さぞ確たる証拠でも見つけたのだろうな?」和久が静かに問い返す。諒助は両手を広げ、冷笑を浮かべた。「兄さん、茜を守ることでウォーカーヒルの評判を上げようとしているのはわかるさ。だが……」ちらりと茜に目をやる——和久が庇うのはウォーカーヒルのためであって、決して茜個人のためではないと、暗に伝えるように。「……こいつは自分の供述すら二転三転している。本当に信用に値するか?」理がそれに続けて言った。「確かに、西園寺の供述は前後で完全に食い違っています。意図的に何かを隠しているのではないかと疑わざるを得ません」和久は何も言わず、一度茜を見てから、隣の席に静かに腰を下ろした。「昨夜は、寒かったか?」「まあまあです」茜は正直に答え、余計な憶測を招かぬよう付け加えた。「柏原社長、ご心配いただきありがとうございます」この場にそぐわないやり取りに、他の者たちは一様に戸惑いの色を浮かべた。次の瞬間、別の警察官が駆け込んできた。「ウォーカーヒルから自首した者がいます!厨房の料理人です。西園寺さんに一方的に想いを寄せており、それが叶わなかったため、祖母に処方されていた向精神薬を西園寺さんの生姜湯に混入した、と。それが原因で西園寺さんは一時的に意識が朦朧して、記憶が混乱していたとのことです。こちらが西園寺さんの血液検査の結果と、本人の供述書になります」茜は微かに息を呑んだ。思わず和久に目を向ける——自分がようやく気づきかけていたことを、和久はとうの昔に準備し
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第303話

伸一の額に、じわりと冷や汗が滲んだ。「誤解ですよ!あの時は、芙美さんと一緒に企画の打ち合わせをしていただけで、こぼれたお茶で足を滑らせてしまっただけです。平日のオフィスで逢瀬を重ねるなど、そんな真似をする人間がどこにいますか」茜は奥歯を強く噛みしめた。知っていたのだ、ずっと。それでもこの十年、美香に一度も弁明しなかった。美香が自分の母の名誉を貶め続けるのを、彼はただ黙って見ていたのだ。こういう男たちは、不倫の汚名など痛くも痒くもないのだろう。それどころか、二人の女が自分のために争い、傷つけ合う様を、どこか楽しんでいるのかもしれない。茜が立ち上がろうとした瞬間、テーブルの下で和久の手が静かに茜の手を包み込んだ。振り返ると、和久が淡々とした目で一瞥した——落ち着け、と。深くひとつ息を吐いて、茜は絵美里を氷のように冷ややかな目で見た。伸一が焦ったように続ける。「手塚さんが知らないとして、諒助さんはご存じないんですか?西園寺さんの両親とは親しかったでしょう。彼女の母がどんな方か、知らないはずがないでしょう?」「…………」諒助は黙ったままだったが、その表情は見る間に険しくなった。まるで人前で思いきり頬を張り飛ばされたような顔だった。絵美里はようやく形勢の不利を悟り、慌てて殊勝な面持ちを作ってみせた。「もう亡くなった方のことだもの、何とでも言えるわ。美香様がそうは思っていなかったとしたら?だから茜さんをあんな辺鄙な裏山へ呼び出したんじゃない?」諒助がゆっくりと顔を上げた。さまざまな感情が顔の上でせめぎ合い、やがてその目は底知れぬほど静かな冷たさに落ち着いた。「茜、もういい加減にしろ。どれだけ言い訳を並べても、お前の潔白を証明することにはならない。これ以上意地を張るな——本当に、親の顔に泥を塗るつもりか?」「こんな状況を招いたのは諒助さん、あなたじゃないんですか?」警察官たちの視線が集まる中、茜はコートの胸元に手を伸ばし、ブローチをそっと外した。その声は静かで、しかし揺るぎなかった。「これが、私の証拠です」何度も罠にはめられた。何の備えもしていないほど、今の茜は愚かではない。ホテルの制服は地味なものだが、ウォーカーヒルでは小物で自由にアレンジしていい決まりがある。ブローチもそのひとつだった。茜が作らせ
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第304話

その日のうちに、茜は警察署を後にした。書類にサインをしながら、ふと目に入ったのは、あの生姜湯を淹れた料理人だった。どこか歩き方がおかしかった。茜の視線に気づいて彼が振り向いた瞬間、その目に露骨な恐怖の色が浮かんだ。茜は少し首を傾げた。自分は、それほどまでに恐れられているのだろうか。「何を見ている」声に驚いて振り返ると、いつの間にか和久が背後に立っていた。なるほど、料理人が怯えていたのは自分ではなく和久の方だったらしい。茜がもう一度料理人に目を向けると、ズボンの裾のあたりに水染みが広がっていた。……屈強な若い男を失禁させるほど、和久は恐ろしいのだろうか。茜が思わず息を呑んだ次の瞬間、視界がふっと遮られた。「よそ見をするな。通用口から出る。正面には記者がいる」「……わかりました」茜は素直に頷き、星羅とともに和久に従い、通用口へと向かった。二人の間の空気を察した星羅が、さりげなく口を開く。「あの、私ちょっとお腹空いちゃったから、何か買ってくる。あとで部屋で合流しようね、茜ちゃん」茜が返事をする前に、星羅はもう駆け出していた。若彰が車を横付けし、素早くドアを開ける。「ボス、西園寺さん、早くどうぞ。記者がこちらへ向かっています」されるがままに、茜は車に乗り込んだ。帰りの車中、張り詰めていた緊張がほどけてどっと疲労が押し寄せてくる。しかし頭の中は、疑問でいっぱいだった。「お兄様、あの料理人に会いに行かれたんですか?」「ああ」和久はさらりと言った。「何をおっしゃったんですか?どうしていきなり自首を……」「大したことは言っていない。少しほのめかしただけだ」運転席の若彰は、危うく吹き出しそうになった。——ほのめかした、ね。腱を一本、一瞬で断ち切ったうえ、あわや男として大事な部分まで切り落とされるところだったじゃないか。ボスが口で説明してやる相手なんて、西園寺さんくらいのものだ。茜は素直には信じなかった。和久が人の手を断ち切る場面を、かつて自分の目で見たことがあるからだ。でも、あの料理人は手足は無事なようだった。「お兄様、まさか彼の内臓をやったりしたんですか……?」「ドラマの見すぎだ」「……そうですね」茜は口元を引き結び、少しばかり恥ずかしくなった。だが、あの料理人が「片思いをこ
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第305話

和久がちらりと茜を見た。「何か問題でも?」「実は少し懸念がありまして」茜は正直に打ち明けた。「以前の告白動画の件で世間を騒がせましたから、私のような立場の者をそういった場にお連れになれば、何かとあらぬ憶測を呼ぶのではないでしょうか」「尻込みしているのか?」茜は口の中で呟いた。「私は別に構いませんが、お兄様にご迷惑が……」「あくまでも俺たちのことだ。他人は関係ない」「……そうですね」茜はふと我に返った。気がつけば、頷いてしまっていた。いつから「俺たち」という言葉が、こんなにすんなりと胸に落ちるようになったのだろう。視界の端で、和久がずっとこちらを見ていることに気づいていた。しかし茜はどうしても目を合わせられなくて、視線を逸らしたまま顔だけがじわじわと熱くなっていくのを感じた。しばらく経ってから、茜はやっと平静を装って話題を変えた。「それにしても、どうやってあんなに早く琳果さんを動かしたんですか?まさか翌朝まで待つことになるかと思っていました」「斎藤美香が君に協力したのは、平野を排除するためではなく、娘を守るためだった。自分の母親がそこまで心を砕いてくれていたと理解した時、琳果が選ぶべき道はひとつしかない。君を刑務所に送るか、斎藤家の財産と実権をしっかり握るか、それくらいの損得勘定はできるはずだ」琳果と茜の間に深い遺恨があったわけではない。そんな茜を陥れるために他人に加担して骨を折るくらいなら、母親の遺志を受け入れ、斎藤家での立場を盤石にした方がはるかに賢明だ。少なくともあの裏切り者の伸一に制裁を加えることになり、美香の霊も慰められるというものだ。茜は、何と評価していいかわからなかった。琳果はこれで、残りの生涯を食うに困ることなく過ごせる。伸一の愛人の子に財産を奪われることも防いだ。美香も、きっと喜んでいるだろう。それでも——あの人は、こんなかたちで逝ってしまっていいのだろうか。「私が……斎藤様を巻き込んでしまったのかもしれません。本当は、母のことなど話したくなかったはずなのに」茜は静かに俯いた。「裏山を指定したのは彼女自身だ。そこへ入る前に、彼女はわざと防犯カメラを一瞥した。なぜそうしたと思う?」茜はしばらく考えた。思い当たる可能性は、ひとつしかない。「……自分の身に何かが起きることを
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第306話

取調室を出た絵美里が目をやると、見覚えのある姿があった。最初は見間違いだと思った。今回の件に成美は何の関係もないはずなのに、なぜここにいるのか。しかし目を凝らして見つめ、確信した。指に嵌まったあの鮮やかな指輪。先日の斎藤家の宴会で、成美が誇らしげに皆に見せて回っていたものだ。成美は通用口からこっそりと姿を消した。明らかに人目を避けていた。まさか——美香の死に、あの人が絡んでいる?その時、車が急ブレーキを踏んだ。絵美里の体が大きく前のめりになる。我に返ると、諒助がすでに怒りを爆発させていた。「どういうことだッ!」普段は飄々として余裕のある男が、今は声を荒げている。その低く押し殺した怒号に車内の全員が息を潜めた。恋人として黙ってはいられない。絵美里は口を開いた。「諒助さん、この辺り混んでいるかもしれないわ。綾辻さんに回り道してもらえば……」諒助がゆっくりと振り向いた。その目があまりに冷たくて、絵美里はそれ以上何も言えなかった。しばらくの沈黙の後、諒助はこめかみを押さえた。「斎藤美香の死には不審な点がある。どんな結論が出ようと、世間を納得させるためのポーズに過ぎない。ウォーカーヒルで起きた以上、二人とも注意を払っておけ。年の瀬だ、人事が大きく動くかもしれない」絵美里の前でこれを話したのは、信頼しているからではない。和久がウォーカーヒルの管理権を完全に掌握すれば、お前の副主任の座も長くはない。和久に切られた人間を、この街で雇う会社はない。俺の女ならこれ以上みっともない真似はするな。そういう警告だ。絵美里もすぐにその意図を読み取った。「わかったわ。諒助さん、何があっても私は、あなたの味方だから」「わかったなら、しばらくは目立つな」その夜、諒助は絵美里を送り届けた後、柏原家の本邸へ戻った。執事が出迎えた。「諒助様、大奥様がお呼びです」諒助は頷き、祖母の部屋へ向かった。小百合はカウチに腰掛け、目を閉じていた。足音を聞いてわずかに目を開ける。「西園寺茜というのは本当に運が強いわね。何度やっても始末できないとは」諒助はぴたりと足を止めた。茜が警察署に連行されたあの日、彼女の顔色は蒼白だった。あの時は茜を屈服させることしか考えておらず、それ以上気が回らなかった。「おばあ様、それはどう
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第307話

「いいえ、茜は必ず未練を残しています。四年間、誰にも知られないように俺のそばにいましたし、幼い頃からの依存心だってありますから、今さら俺を手放せるはずがありません。今は俺と絵美里のことで当てつけに意地を張っているだけです」諒助は揺るぎない口調で言った。小百合はそれ以上は反論せず、淡々と続けた。「そうね、でも今はまだその時ではないわ。あなたは最近、少し調子に乗っているわね。ウォーカーヒルの管理権を和久に持っていかれたことも、今後の足かせになりかねないわ。まず周りを落ち着かせなさい。とりあえず年内に、絵美里との婚約を発表しなさい。そうすれば、茜のことはしばらく問わないでおいてあげる」「……わかりました」諒助は茶を一口すすり、自嘲気味に口元を歪めた。まさか自分が茜のために折れる日が来るとは。知ったら、彼女はさぞ喜ぶだろう。話を戻す。「おばあ様、斎藤美香の件はどのようにお考えですか?」「斎藤家にしたって、清廉潔白な一族でもないわよ。琳果があの和人のせいで、この数年どれだけ敵を作ってきたか。今回うまく抜け出せたからといって、周りがそう簡単に引き下がるとは思えないわね」小百合は冷ややかに言った。斎藤家と旧知の間柄とは、とても思えない口ぶりだ。これ以上探りを入れても何も引き出せないと悟った諒助は、この話はここで切り上げるべきだと察した。「わかりました」そこに、小百合が新たに招待状を一枚差し出した。「今回のオークション、和久も来るわ。公の場では仲のいい兄弟に見せなさい。不仲を悟られるのは最悪よ。ついでに絵美里を連れて顔を出して、彼女が気に入りそうな品を買ってあげなさい。少なくとも、二人の関係が盤石だと世間にアピールすること」「承知しました。では、先に失礼します」諒助は立ち上がり、部屋を後にした。部屋を辞すると、彼は悪友たちに連絡を入れ、バーへと向かった。小百合はその背中を見送りながら、表情を緩めることはなかった。「入りなさい」と、扉の方へ声をかける。執事が恭しく頭を下げて入ってきた。「大奥様」「今度のオークションで、密かに手を下す人間を手配しなさい」「ですが、諒助様が……」「口ではああ言っても、あの目は私が一番よく知っている。あの子は茜に惚れている。必ずなんとかして手に入れようとするでし
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第308話

星羅は、男二人が何も乗っていない棚を見つめてひそひそと言い合っているのを、不思議そうに眺めた。若彰は知らん顔で続けた。「何でもないですよ。あ、そういえば高橋さん。西園寺さんの親友なら、彼女のこと、よく知ってますよね?」星羅が頷きかけた瞬間、和久がいることを思い出した。普段はぽわっとしているように見えて、肝心な場面では頭の回転が速い。「まあね」星羅はさりげなく続けた。「茜ちゃんは卒業してすぐウォーカーヒルに入って、ずっと仕事ばかり。生活もシンプルな子だよ」若彰がわざとらしく舌を打った。「本当ですかね」「ふふ、恋愛以外はね」星羅がにこっと笑った。「茜ちゃんの育ちは、みんなも知ってるでしょ。十代で柏原家に預けられて、立派なお家だけど、やっぱり自分の本当の家じゃない。小さい頃から不安定な環境にいたから、拠り所を求めやすいの。そこに優しくしてくれる人が現れたら、やっと幸せを見つけたって思っちゃう。でも相手がろくでなしで。茜ちゃんは弱い子じゃないから、きっぱり切ったけど、何年も一緒にいた相手に騙されたって感覚は、やっぱりずっと残るよ」少し間を置いて、星羅はそっと付け加えた。「しかも、一番つらかった時に傍にいてくれたと思ってた人の優しさが、全部嘘だったって知ったんだから。それを自分の中で整理して乗り越えるには、どうしても時間がかかるよ」言い終えてから、星羅はちらりと和久を盗み見た。しかし数々の修羅場を踏んできた男には、この手の話はさほど響かないようで、その黒い瞳は静かなままだった。何を考えているのか、星羅には到底読めなかった。若彰が気になって尋ねた。「で、彼女はどのくらいで立ち直ると思います?」星羅はぱちっと目を瞬かせ、わざとらしく言った。「あれ、もしかして玉城さん、茜ちゃんのことが好きなの?」「ちちちち違います!そんな、勘弁してくださいよ!ただ気になっただけで!」若彰が慌てて手を振った。「好きでもいいけど、順番待ちだよ。ウォーカーヒルに茜ちゃんのこと気になってる人、けっこういるんだから。前は彼氏がいたから諦めてた人たちが、今は独身ってわかって、私のところにこぞって探りを入れてくるのよ、もう大変なんだから」星羅がやれやれとため息をついた。若彰は和久がすっと目を細めたのを察知し、慌てて話をそらした。「高
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第309話

和久は頷いた。たかが串焼きじゃないか、他人に食べられるものが自分に食べられないはずがない――そんな風に考えたのだろう。イエスの答えをもらったところで、茜は皿をテーブルに並べ、それぞれにビールを一缶ずつ配った。星羅が缶を掲げた。「さあさあ、今日は上司も社長もなし、友達だけ。茜ちゃん、大難を乗り越えた先には、きっといいことが待ってるよ。乾杯!」茜は笑いながら缶を持ち上げ、ふと顔を上げると、和久と目が合った。「ありがとうございます」和久は短く応え、ビールを一口飲んだ。その瞬間、眉が微かに寄った——普段は絶対に見せないような、素のままの表情だ。思わず可笑しくなったが、茜にはカメラを向ける勇気はなかった。もし撮れたなら、かなりの高値がつくに違いない。いざ串焼きを食べる段になって、和久と若彰はやたらとよそ行きの、上品な食べ方をしようとした。しかしそんな食べ方で、串焼きがまともに食べられるわけもない。二人は串を手に持ったまま、どう手を着けていいかわからず困惑している。星羅がくくっと笑い出した。「あははは、玉城さん、その食べ方じゃ串から外れないよ。こうするの、ほら」若彰が半信半疑で串の肉に噛みつくと、星羅は彼の手と頭をがっしり掴んで、思い切り引っ張った。「あははっ、玉城さんって意外と可愛い顔するね!」星羅が指さすと、若彰の口の周りに二本のタレの跡がくっきり残っていた。若彰は口を拭いながら言った。「でもこれはこれで、けっこう爽快ですね」そう言いながら、和久の方を見やる。茜も同じ方向に目を向けた。和久は静かに串を置き、細めた目でこちらを見返した。やってみろ、と言わんばかりの目だ。もちろん、茜にその度胸はなかった。そっと和久の串を受け取り、箸で肉を外して皿に移した。「どうぞ、お兄様」向かいの二人は、口の周りをぐるりと汚しながらため息をついた。「私たち、道化みたいですよね」「あ〜本当だ!」茜が少し口を尖らせた。「じゃあ、私が外してあげましょうか?」「こほんっ」和久が低く咳払いをした。若彰が急いで首を振った。「いやいやいや、結構です!ええと、このまま食べる方が楽しいんで!」茜も無理には勧めなかった。他愛のない話をしながら食べているうちに時間はあっという間に過ぎていき、意外にも和久は
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第310話

スラックスの折り目は鋭く一直線に通り、その上には白い煙がほのかに漂っていた。煙の向こうで、和久は目を細め、禁欲的なまでに静かで冷ややかな表情を浮かべていた。「すまない、弁償する」しかしその声に、謝罪の色は微塵もなかった。むしろ——わざとではないかと思えるほどだ。そう考えていた瞬間、煙がさっと散り、和久が不意に身を屈めて顔を近づけてきた。茜が反応する間もなく、頬に温もりを感じた。和久の長い指の腹が、そっと茜の口元を拭った。「ついていたぞ」「つ……」茜はそこでようやく思い出した——自分も串焼きに直接かぶりついて食べていたことを。慌てて立ち上がろうとしたはずみに、危うく和久の顔にぶつかりそうになった。避けようとして、後ろに倒れそうになった。和久の腕が、すっと茜の腰を抱き留めた。微かなタバコの香りが鼻先をかすめる。ちょうどその時、物音を聞きつけた星羅と若彰が覗きに来て、二人が抱き合っている姿を見た瞬間、そそくさと後退していった。「何も見てませんからーっ!」「私も何も見てません、何も」茜は慌てて体勢を立て直し、気まずさを誤魔化すように口を開いた。「お兄様、私のスマホ、十万円です」「ああ」和久はすかさずペイペイで送金した。星羅:「…………」若彰:「…………」お金の話をすると、一瞬で雰囲気が壊れる。それは万国共通らしい。後片付けを済ませ、和久と若彰は帰っていった。茜と星羅も早々に休むことにした。布団の中で、星羅がぼそりと言った。「茜ちゃん、さっき誰から電話来てたの?」茜はありのままを話した。「え?」星羅がばっと起き上がった。「だから言ったじゃん、諒助さんが黙って引き下がるわけないよ。茜ちゃんがすがりつくタイプなら逆に避けたかもしれないけど、今みたいに相手にしないでいると、あの人の闘争心に火をつけてるだけだよ」「好きにすればいいわ。あの人の行動を私がどうにかできるわけじゃないし、今の私は両親のことを調べることしか頭にないもの」茜はベッドに寄りかかり、天井を見上げた。美香が亡くなった。それは茜の調べている方向が間違っていないことを意味していた。つまり誰かが、美香が茜に何かを話すのを恐れたのだ。星羅が小首を傾げた。「当時って、何があったの?」「父の事件は、私が思っていたよりず
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